「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

東北関東大震災情報まとめサイト―SAVE JAPAN

2011-03-13 10:08:51 | 多喜二の手紙

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下記の病院で軽症の方を受け入れしています。  

仙台オープン病院、JR仙台病院、仙台赤十字病院、厚生年金病院、長町病院、自衛隊仙台病院、中嶋病院、東北労災病院、仙台市急患センター(同センターは13日9時45分~23時)

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北海道の「俊寛」(小林多喜二)

2010-11-21 10:59:04 | 多喜二の手紙

 十一月の半ば過ぎると、もう北海道には雪が降る。(私は北海道にいる。)乾いた、細かい、ギリギリと寒い雪だ。
 ――チヤツプリンの「黄金狂時代(ゴールド・ラツシユ)」を見た人は、あのアラスカの大吹雪を思い出すことが出来る、あれとそのまゝが北海道の冬である。北海道へ「出稼」に来た人達は冬になると、「内地」の正月に間に合うように帰つて行く。しかし帰ろうにも、帰れない人達は、北海道で「越年(おつねん)」しなければならなくなるわけである。
 冬になると、北海道の奥地にいる労働者は島流しにされた俊寛のように、せめて内地の陸の見えるところへまでゞも行きたいと、海のある小樽、函館へ出てくるのだ。もう一度チヤツプリンを引き合いに出すが、「黄金狂」で、チヤツプリンは片方の靴を燃やしてしまつたので、藁か布切れかでトテモ大(で)ツかく足を包んでいた。今いうその出てくる者達が、どれもそれとそつくり同じ「足」をしているのだ。
 夏の間彼等は棒頭にたゝきのめされながら「北海道拓殖のために!」山を崩した。熊のいる原始林を伐り開いて鉄道を敷設した。――だが、雪が降ると、それ等の仕事が出来なくなる。彼等は用がなくなるのだ。そうなると、汽車賃もくれないで、オツぽり出される。小樽や函館へ出てくるのはこういう人達なのだ。
 雪の国の停車場は人の心を何か暗くする。中央にはストーヴがある。それには木の柵がまわされている。それを朝から来ていて、終列車の出る頃まで、赤い帽子をかぶつた駅員が何度追ツ払おうが、又すぐしがみついてくる「浮浪者」の群れがある。雪が足駄の歯の下で、ギユンギユンなり、硝子が花模様に凍てつき、鉄物が指に吸いつくとき、彼等は真黒になつたメリヤスに半纏一枚しか着ていない。
 そして彼等の足は、あのチヤツプリンの足なのだ。――北海道の俊寛は海岸に一日中立つて、内地へ行く船を呼んでいることは出来ない。寒いのだ! しかし何故彼等は停車場へ行くのだ。ストーヴがあるからだ。――だが、そればかりではなくて、彼等は「青森」とか、「秋田」とか、「盛岡」とか――自分達の国の言葉をきゝたいのだ、自分ではしかし行けないところの。そしてまたそれだけの金を持つており、自由に切符が買えて、そこへ帰つて行く人達の顔を見たいからなのだ。――私は、その人達が改札を出たり、入つたりする人達を見ている不思議にも深い色をもつた眼差しを決して見落すことは出来ない。
 これはしかしこれだけではない。冬近くなつて、奥地(やま)から続々と「俊寛」が流れ込んでくると、「友喰い」が始まるのだ。
 小樽や函館にいる自由労働者は、この俊寛達を敵(かたき)よりもひどくにめつける。冬になつて仕事が減る。そこへもつてきて、こやつらは、そうでなくても少ない分前を、更に横取りしようとする。
 この「友喰い」は労働者を雇わなければならない「資本家」を喜ばせる。――北海道の冬は暗いのだ。




北海道新聞が『多喜二の手紙』紹介

2009-11-22 09:31:51 | 多喜二の手紙

荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』(岩波文庫)を、11月19日付『北海道新聞』小樽版が紹介している。

「若き多喜二の魂に触れて―恋愛、獄中…心境たどる」と題したこの記事は、編者である荻野富士夫・小樽商科大学教授へのインタビューで、「青年多喜二の人間性を、いま同世代を生きる青年たちに」という思いがあふれる記事となっている。                  

                    ◇

2年後の2011年に、多喜二の母校・小樽商科大学は創立100周年を迎えるが、この『手紙』は、第一に小樽商科大学の後輩へのかけがいのない多喜二からのプレゼントだ。

そればかりではなく、いまの時代を生きる10-30代の青年にとっては、現在を生きる糧として読まれることが期待される内容である。

また、現在の『小林多喜二全集』未収録書簡のほとんどを収録したうえで、歴史学を専門とする編者の手によって実証的なデータにもとづいて丁寧に関係事項をひろい集めた本書は、歴史学の手法で関連付けて解説されているので、多喜二の評伝研究にとっては新しい座右の書だろう。 それだけに多喜二ファンだけではなく、近代文学に興味を抱く人々に待望の一書である。

本書は、『小林多喜二全集』(新装版 1991 新日本出版社)未収録や、初公開書簡をはじめとするの159通を収録している。

手紙は、1921年、小樽商業学校(庁商)の同窓生・石本武明宛の6通をはじめとする。石本宛の1通目は屈託ない中学生の葉書で修学旅行先のスケッチ入り。

本書では年代順とした五章からなり、

Ⅰ章は「投稿少年多喜二」の小説投稿や雑誌仲間とのやりとりなど文学への模索を跡づけ。

Ⅱ章はタキへの恋文。

Ⅲ章は「改造」「中央公論」「新潮」などの文芸担当編集者への手紙。

Ⅳ章は獄中書簡。

 Ⅴ章は出獄後の地下活動時代、と彼の関心事・社会状況を映す構成になっている。  

解説は、獄中書簡を中心として多喜二の文学と人間像の全体像を探る荻野富士夫氏の論と、恋文に焦点をあてタキとの関係を探るノーマ・フィールド氏(岩波新書『小林多喜二』著者)の論との二本立て。

魯迅、ロマン・ロラン、郁達夫などからの追悼文などや関係図版資料も豊富で、年譜も網羅している。

 ■緑88-2

■体裁=文庫判・並製・カバー・526頁

■定価 987円(本体 940円 + 税5%)

 ■2009年11月13日

■ISBN978-4-00-310882-6

http://www.iwanami.co.jp/shinkan/index.html


多喜二書簡集を読む

2009-11-16 10:59:00 | 多喜二の手紙
手塚英孝『小林多喜二全集』解題には、「本巻は、保存書簡で校訂し、その他はナウカ社版を底本とした」とある。

また、現存は60通程度、保存されている書簡は注に宛名、差出人を記載した――とある。
・獄中書簡以外のものにはほとんど日付が記されていない。
・獄中書簡を除いては消印日付のように推定される。
・書簡はペン字で書かれているが、獄中書簡の大部分は毛筆が使われている。

ナウカ版『書簡集』(『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=田口滝子への手紙,蔵原惟人への手紙,志賀直哉への手紙,出京前の手紙,獄中からの手紙,一九三一年の手紙,一九三二年の手紙,北海道の同志に送る手紙, 年譜)と『多喜二日記』(『小林多喜二日記』(ナウカ社 36年)= 日記1926年-1928年初. 小林多喜二書簡集(補遺) 斎藤次郎への手紙,雨宮庸蔵への手紙,佐藤績への手紙. 小説人を殺す犬
)の補遺には129通が収められ、『小林多喜二全集. 第11巻』1954年青木文庫版で志賀直哉、新井紀一、伊藤つとむ、織田勝恵、勝本清一郎、斎藤次郎、酒匂親幸、蒔田栄一、山下秀之介、田口タキ、小林家宛25通が加えられ、抜粋されていた斎藤次郎、村山かず子、中野鈴子あてが復元された。
・定本版多喜二全集では、葉山嘉樹、寺田行雄宛計2通が追加され、定本版補遺の酒匂親幸、雨宮庸蔵、志賀直哉宛が追加された。

・1983年新日本版全集には阿部次郎、楢崎勤、『新潮』編集部、板垣鷹穂宛の4通が追加、1993年版には石本武明の6通が追加され、計171通が収録されている。



※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)

●志賀直哉『萬暦赤絵』(多喜二への手紙収録)

●手塚英孝『文学』1953年12月(第27号)「小林多喜二より志賀直哉への手紙」
●『新日本文学』(51年6月号)=「小林多喜二未発表書簡-16通-」

●『国文学』(関西大学 68/3) 浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」

●『民主文学』(77.2) =箭内 登「小林多喜二の未発表書簡と評論について」

●『民主文学』(84/2)=大田努「小林多喜二未発表書簡」

●『菜の花通信』(93/1月)=小川重明「中野重治の書簡―多喜二全集との関わりから」

●『資料と研究』(97/1)=小笠原克「板垣鷹穂と小林多喜二―一通の書簡をめぐって」

●『国文学』(2003)=松澤信祐「小林多喜二の大熊信行宛書簡」

●『解釈と鑑賞 別冊 小林多喜二』(05/9 )=竹内栄美子「獄窓から見る空はなぜ青いか―小林多喜二獄中書簡を読む」

10代の多喜二から志賀直哉への手紙

2009-05-21 14:55:06 | 多喜二の手紙
3 (志賀直哉宛  1924.1)
※『特別展 中野重治と北海道の人びと』 2000 年7 月22 日 編集:市立小樽文学館 収録:小林多喜二書簡一九二四年一月志賀直哉 多喜二没後50年展に写真

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岩波書店『文庫』の1953/12 第27号 には神戸市湊川神社内の吉田智朗所有の志賀直哉宛の多喜二書簡が初公開され、関係者に小さくない波紋を呼んだ。

※湊川神社
兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
TEL:(078)371-0001 FAX :(078)371-1920
http://www.minatogawajinja.or.jp/index2.html

※吉田 智朗氏(よしだ・ちろう=神社本庁長老、湊川神社名誉宮司)
2003年5月13日午後2時50分、老衰のため鎌倉市の病院で死去、94歳。山口県出身。自宅は神奈川県茅ケ崎市汐見台3の28の213。葬儀・告別式は5月13日午後1時から神戸市兵庫区新開地3の2の15、平安祭典神戸会館で。葬儀委員長は栃尾泰治郎湊川神社宮司。喪主は長男茂穂(しげほ)氏。

 
なぜなら小林多喜二文学のファンといえども、皇族の教育機関・学習院を母校とし小説の神様とも呼ばれた 志賀直哉とプロレタリア文学運動の雄のひとりで「一九二八・三・一五」「蟹工船」「党生活者」の作者で知られる多喜二との関係を問われてすぐ答えられる人は数少ないだろう。

その書簡は、まだプロレタリア文学とは無縁の多喜二と志賀直哉との交流を示すものだったからである。

それにしても、多喜二と直哉は奇妙な縁で結ばれている。
よく知られている「二月二十日」は多喜二の命日であるが、その日がまた、志賀直哉が誕生したその日である。

 志賀は1883年(明治16)2月20日、宮城県石巻父直温、母銀の次男として生まれた。1903年10月生まれの小林多喜二のちょうど20歳年長だった。

 直哉は、泉鏡花、夏目漱石らの影響下に若くして作家を志し、1910(明治43)年、27歳で木下利玄、武者小路実篤などと同人誌『白樺』を創刊、後に「白樺派」と呼ばれる人道主義的立場からの文芸潮流を形成したことでしられる。

なかでも直哉は対象に透徹したリアリズムで小動物をとらえてた小説、「黒犬」など犬が登場する作が目に付く(直哉の「黒犬」は大正14年(1925)1月1日発行の『女性』第7巻第1号新年特別号に発表された)。多喜二の小説にも、犬が対象となっている作がある。「人を殺す犬である」。








1921年多喜二から石本武明宛書簡6通

2008-12-21 21:13:53 | 多喜二の手紙
一九二一年六月十四日 (消印) 石本武明宛

(はがき表) 小樽区中之町相田方 石本武明様。
登別にて 多喜二。裏面に、自筆の挿絵がある。

 俺ハ十一日から修学旅行に出ているのだ。君へ知らそうと思ったが遂々忘れてしまって済まない。
今登別で此ノ葉書を書いている。初めの日は旭川、次の日は夕張、だ。今日は、室蘭へ行く。
                  登別にて



一九二一年七月二十日 (消印) 石本武明宛
(封絨はがき表) 小樽辧天町 石本武明様。インチメイト 多。
           (同裏) ―多―
二日も誘って済まなかったねえ。
二日目の晩は歌を唱いながら夜の町を帰って来た。が家へ帰ればあまり愉快なこともないのを思い出して、危く、……不幸にも君の真似をやる処であったよ。幸福だかも知れぬが……まあそんな気分にならずには居なかったねえ。実際良い景色で何か俺を誘っているらしく見えたよ。
 朝は毎日働くことに決心した。勉強はあまりしない積りだ。たゞ小説を少しばかり研究してみたい。昼過ぎなら或は居るかも知れぬ。若し暇であったら来給え。が、二十四五六日はみそかで帳面だから駄目だ。三十日頃は又出るによいだろう。その時は又あそばう。まあ二三日中は俺は駄目だ。
 君の運命が残酷だと云う。が俺の立場は恐らく誰れにももらした事がない、又俺の生来の陽気なのに誰れも影を思い出したことがないのだ。嬉しいやら、悲しいやら……が君にも勿論他の誰れにも今は打ち明けまい。事情がある。常に笑い笑談を云うものは、必しも心の平和な人とは限らない。
この云葉を俺に考えてくれ。


一九二一年七月二十六日 (消印) 石本武明宛
(はがき表)小樽辧天町九 石本武明様。多。
 
 近頃どうしている。さっぱり手紙を寄さないねえ。何かあるか。僕は今日ようやく帳面も終って楽くになっているよ。そして日曜日には、片岡と斎藤、向井、善公と蘭島と忍路へ行った。相当に面白かったねえ。途中Mountain LOW(山下)に会ったよ。何しろ大した人出で、それに皆着装っていると来るからねえ、随分華かで、にぎやかであった。斎藤たちは三十日頃から下宿すると云っているが、それを出来ない俺たちはうらやましい。それでも日曜々々には蘭島にでも行って気ばらしをする積りだ。手紙をくれ。



一九二一年八月一日 (消印) 石本武明宛
 (封絨はがき表) 小樽区辧天町 石本武明君。
From yuor T.K.
(同裏) レコードには行くよ。善公も行くと云っているよ。 I will go to
the meeting of "RecOrd". Mr Zeoko is said to go to will me.

 手紙を戴いた。そして第一にお喜びを申しあげる幸福を有することを亦喜ばぬばならぬ。とうとう君が何故にNの家へ行ったかという理由が確定的に鮮明された今、君ハあぶなく相田家のさびしさをなぐさめる一種の人形となる処であった。男の違った意味に於けるノラになるところであったのだ。明に君の幸福を俺は讃美すると共に悩み長さ君の過去を二度繰り返さぬように祈りたい。Nは君にとってプラトニックな永久にわすることの出来ぬ想い出の一つにならんとしている――或はもうなってしまったかも知れぬ。否なってしまったのだ。ノラは意識的に人形であることを知って家出した。君はそれを無意識に知って、そして忍従した。そして……とう/\家出した。――無意識に。何んとなくあゝした制度に対する皮肉な反抗な様に思われてうれしい気がする。今の場合君は何を捨て々も、何事をがまんしても勉強せねばならぬ。そして安国な地位を獲得する階段を求めなければならぬ。君は勉強せよ。たゝ゛これをすゝめる。
 三十日と三十日は泊りがけで蘭島へ行った。片岡、次郎……百十三銀行の舎宿で御馳走になった。
俺たちは随分さわいだ。女を追いかけたりして。他の人が見たれば、実際何んと云うか、あまりに明瞭なだけよく騒いだ。そして二日間海から出ると砂に腹ばえ、真黒になって騒いだ。そのお影で昨晩は皮がピリ/\して苦んだ。が、蘭島から帰って一人になったとき、俺は淋しさに涙がこぼれた。(この涙は二つの意味からだ。一つは、俺もあゝして女と騒がぬばならぬのか。まあ恋人のない者のなげきが、これだ。もう一つはこれは今の所云いたくないから、いずれ機会があるとき云う)
こう云う淋しい反省があるのも不拘、また蘭島へ行かねばならない、心になる俺は全くみじめだ。そして後には決まったように淋しさに捕えられれる。……
 明日(二日)はことによったら蘭島へ行くかも知れぬ(次郎と土田と善公が蘭島へ合宿しているよ)、がどうなるかも知れぬ。行くとすれば十時半南小樽から。君も明日行ったらどうだ。蘭島には彼等が常に居るから、俺は一日置き位に行きたいのだ。がこの手紙がおそく着くかも知れぬ。

一九二一年八月十五日 (消印) 石本武明宛
(封緘はがき表) 小樽区辧天町 石本武明様。
(同裏) いつも笑談を云う人は必ずしも人生に対する
不平者でないと云うことはない。――再び繰り返す。


 相変らず銀行に行っていることだろう。良いことだとも、或ハ悪いことだとも云い得る。が、今の場合あんまりそうしたことは云いたくない。
とにかく、一生懸命であることが、いずれの場合を問わず良いことなのだ。
 高商の方の試験は是非受け給え。片岡は九月から銀行の方をやめて準備するとの事だ。が君の境遇上それは仕方がないとして、今の場合、その境遇を超越することが必要なことだ。
 俺は平凡だ。平凡なことを好む。が、その平凡さの中に含まれている人生を好むのだよ。君も今まで随分のことをしてきた。その内から、普遍的な人生の真理をさとり得たら幸福なのだ。その真理はやがて君の境遇を救うものになるだろう。
(君の眼に映じた俺は恐らく浮はくに映るだろう。俺は、うわべは、成るたけ陽気にしたい性格だから仕方がないよ)
 が、君と会って笑談を云って笑う間にも何かしら考えていることは事実なのだ。君の事なども。が、到底君に何等かを打ち明くべくあまりに俺はpoorなのだ。まあ左様なら。


一九二二年三月五日 (消印) 石本武明宛
(はがき表) 小樽区辧天町 石本武明兄―多―
天狗山おろしもあまり寒くないと思う。
今試験だから、十七八日に終ると思うから、そのあとに遊びに来てくれ。今度築港停車場のすぐ側に移ったから、汽車の都合もいゝと思う。
俺も試験が了ったら、遊びに行って、何か話したいとは思っているが。
銀行の方は忙がしいか。
俺は試験の準備でくるしめられている。呪わしい試験よ。ともでも云いたいのだ。
ほんとうに、暇があったら遊びに来てくれ。――休みになれば、自由だから。

○片岡 片岡亮一。小樽商業時代の同窓生。卒業後、百十三銀行小樽支店に就職。
○ 斎藤 斎藤次郎。同右。
○向井 向井才一。小樽商業の同窓生。卒業後、自家業。
○善公 渡辺善之助。小樽商業の同窓生。卒業後、北海道銀行小樽本店に就職。
○ 蘭島と忍路 小樽郊外の海水浴場。百十三銀行の寮があった。
○ 土田 土田正五郎。小樽商業の同窓生だが、このとき在学中。


 石本武明宛書簡六通は、『民主文学』一九八四年二月号に発表された。
 石本武明は、多喜二と小樽商業の同窓生で、この年三月に卒業し北海道銀行に就職したばかりであった。
この書簡の公開にさいし、石本は次のような多喜二の回想を寄せている。

「僕の彼に対する思い出、青春に満ちた邪気のない異性を語った楽しさ、気の優しい、人なつこい明るい人柄、そんな思い出が僕の心に満ちている。彼の死に対してたまらない愛しさが今でも胸にこみ上げてくる。没後五十年改めて深く深く冥福を祈りたい」 (市立小樽文学館パンフ「多喜二の青春」、一九八四年)


※以上は、新装版『小林多喜二全集』第7巻を参照し、再構成した。6通はともに、石本武明氏かに市立小樽文学館に寄贈された。83年当時石本氏81歳。小樽在。


特別展「志賀直哉をめぐる人々」

2008-12-07 00:00:13 | 多喜二の手紙
多喜二の、志賀直哉宛獄中書簡公開!!
日本近代文学館(東京・駒場)で、特別展「志賀直哉をめぐる人々」が9月27日~11月29日の間開催された。同展は、志賀直哉の息、志賀直吉氏が同館に寄託した志賀直哉宛書簡のお披露目で、紅野敏郎著『志賀直哉宛書簡集 白樺の時代』刊行の記念展でもある。


出品されたのは「白樺」同人たちをはじめとする同時代の人々からの直哉宛書簡。小樽から10代から虐殺される20代までの約10年文通し、奈良の志賀直哉宅を訪ねたエピソードが有名な小林多喜二からの書簡も以下の3通。

(1)1930年12月13日多喜二が獄中から、志賀直哉に宛てて送った獄中書簡。


(2)1931年月6月8日付、「蟹工船」などを送り、作品の批評を求めた封書。

(3)共産党に入党後の1931年11月のはじめに、奈良・上高畑の志賀直哉邸を訪ね、一泊させてもらった後の御礼のはがき。

その前後の多喜二と志賀直哉の交渉を年譜的に追うと以下の通り。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1930年 (昭和5年)
1月 「プロレタリア文学の新しい文章に就いて」を書く。
2月
24日、「工場細胞」を完成、『改造』4、5、6月号に発表。
3月 末に小樽から上京し、中野区上町に下宿。
4月 「プロレタリア文学の『新しい課題』を『読売新聞』に発表。
『蟹工船』中国語訳(渚念之)が上海で出版、国民党政府により発売禁止された。
5月 中旬、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪をまわる。
23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕。
6月 7日、いったん釈放されたが、24日、帰京後、立野信之方でふたたび逮捕された。
7月 『蟹工船』の件で不敬罪の追起訴をうける。
『工場細胞」を出版。
8月 治安維持法で起訴、豊多摩刑務所に収容された。
12月 ★多喜二は獄中から、志賀直哉に宛てて手紙を出す。(12/13)

1931年 (昭和6年)
1月 志賀直哉は多喜二を念頭において「リズム」(『讀賣新聞』1/13-14付に執筆掲載)。
22日、保釈出獄。
2月 上旬、「オルグ」を起稿。
3月 『東倶知安行』を出版。田口タキとの結婚を断念する。
4月 6日、「オルグ」を完成し、『改造』5月号に発表。同月、「文芸時評」を発表。
6月 ★多喜二は志賀直哉に『蟹工船』を送り、批評を求める書簡。(6/8)
「独房」を書き、『中央公論』7月号に発表。「四つの関心」、「テガミ」(掌編)を発表。
作家同盟第4回臨時大会が開かれた。第1回執行委員会で常任中央委員、書記長にえらばれた。同月末、杉並区馬橋に一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟と暮す。
★志賀直哉から多喜二宛て書簡「お手紙も『蟹工船』もちゃんと頂いてゐます。…」(7/15)




多喜二の手紙は何通現在まで伝えられているのだろうか?

2008-12-04 08:43:01 | 多喜二の手紙
手塚英孝の『多喜二全集』解題には、「本巻は、保存書簡で校訂し、その他はナウカ社版を底本とした」とある。

また、現存は60通程度、保存されている書簡は注に宛名、差出人を記載した――とある。

・獄中書簡以外のものにはほとんど日付が記されていない。
・獄中書簡を除いては消印日付のように推定される。
・書簡はペン字で書かれているが、獄中書簡の大部分は毛筆が使われている。

との特徴が紹介されてもいる。
多喜二の書簡の専集としては『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=田口滝子への手紙,蔵原惟人への手紙,志賀直哉への手紙,出京前の手紙,獄中からの手紙,一九三一年の手紙,一九三二年の手紙,北海道の同志に送る手紙, 年譜=がある。

・ナウカ版は、『書簡集』と『多喜二日記』(書簡補遺)に129通が収められ、

・『小林多喜二全集. 第11巻』(1954年青木文庫)で志賀直哉、新井紀一(扶桑書房で売られたクラルテとともに売られたもの―曽根先生購入か)、伊藤つとむ、織田勝恵、勝本清一郎、斎藤次郎、酒匂親幸、蒔田栄一、山下秀之介、田口タキ、小林家宛25通が加えられ、ナウカ版で抜粋されていた斎藤次郎、村山かず子、中野鈴子宛が復元された。

・定本版では、葉山嘉樹、寺田行雄宛計2通が追加され、定本版補遺の酒匂親幸、雨宮庸蔵、志賀直哉宛が追加。
・1983年新日本版には阿部次郎、楢崎勤、『新潮』編集部、板垣鷹穂宛の4通が追加、
・1993年版には石本武明の6通が追加され、計171通が収録されている。



※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)