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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

小林多喜二は「12月1日」生まれ 除籍謄本で親族確認

2012-03-18 18:12:13 | 多喜二のあゆみー秋田
小林多喜二は「12月1日」生まれ 除籍謄本で親族確認



除籍謄本のコピー(一部)。多喜二の生年月日欄には「明治参拾六年拾弐月壱日生」とある
 



「蟹工船」で知られる大館市生まれのプロレタリア作家・小林多喜二(1903~33年)の誕生日が、一般に定着している「10月13日」ではなく、「12月1日」であることが、除籍謄本によって確認された。

 確認したのは、多喜二のいとこの孫に当たる小林信義さん(56)=札幌市、医師。苫小牧市の実家に保管されていた除籍謄本(1951年交付)を調べたところ「12月1日生」と明記されていた。

 多喜二に関する著作物の多くが、母セキの記憶する「旧暦8月23日(新暦10月13日)生まれ」を根拠としている。一方、多喜二は「蟹工船」の草稿ノートの最後のページに、自分の生年月日が明治36(1903)年12月1日で、「両親は新暦を知らない人...続きを読む
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秋田魁webニュースより。。。。

http://www.sakigake.jp/p/akita/news.jsp?kc=20120318h



小林多喜二は「12月1日」生まれ という事実確認に、多喜二全集編纂に携わった人々はどう回答できるのだろうか? 貴司山治が、三吾の名で出版のナウカ版『小林多喜二書簡集』年譜で「役場の帳面には十二月一日」と書いてある。これを無視して「十月十三日」としたのは手塚英孝である。


多喜二のプロフィール

2008-12-18 13:43:58 | 多喜二のあゆみー秋田
【Profile】 小林 多喜二(KOBAYASHI・Takiji)は、1903(明治36)年10月13日、秋田・大館生まれ。父・末松、母・セキの次 男。4歳の時、一家は小樽に移住。伯父のパン工場で働きながら小樽高等商 業学校、現在の小樽商科大学に進学した。同校は全国5番目の官立高等商業学校として開校、実業界のみならず芸術界、学界、官界に非常に幅広く活躍する卒業生を送り出してきたことで知られる。在学当時から志賀直哉と文通し、文豪になることを志 して、同校卒業後は北海道拓殖銀行に勤務するかたわら 同人雑誌『クラルテ』を主宰して文学修行に励み、同誌に当時のプロレタリア文学をリードした『種蒔く人』同人の小牧近江、新井紀一などに寄稿を依頼して親交を深めた。同誌後継誌の『文芸戦線』に掲載の戯曲「女囚徒」でプロレタリア文壇にデビュー。その後は『戦旗』に発表の 「一九二八年三月十五日」(1928年)、「蟹工船」(29年)でプロレタリア文学の金字塔を築いたものの、「不在地主」(『中央公論』)発表を機に拓銀を解雇されて上京。 以後は作家として一意専心し、「安子」(『都新聞』現『東京新聞』)、「党生活者」 (『中央公論』)などの代表作で面貌を新たにし、つねに新しい風を起こして注目をあびた。31年秋には満州事変後の日本の侵略戦争の拡大に反対し、当時非合法におかれていた日本共産党に入党。32年春のプロレタリア文化運動に対する大弾圧で地下活動に入り、1933年2月20日、特高に検挙・拷問死させられた。当局はその死因を心臓マヒと発表、遺体の解剖も妨害し、その作品は戦後まで国禁の書とされてきました。

多喜二年譜1903-1907

2008-12-13 23:30:45 | 多喜二のあゆみー秋田
小林多喜二-その歩みと作品<年譜>

小林多喜二(こばやし・たきじ 1903(明治36)年12月1日~1933年2月20日、秋田生まれ。) 

【学歴】小樽区立潮見台小学校、北海道庁立小樽商業学校、小樽高等商業学校卒。

【別名】、小林田木治、田奇二、郷利基、郷利樹、辻君子、田口生、古川大助、伊東継、堀英之助、清水賢一郎、山野次郎ほか。

【職歴】北海道拓殖銀行に、192年~1930年。以後は著述業。

多喜二の年譜は、多喜二自筆の「年譜」(1931)、多喜二追悼特集『赤旗』年譜(1933)、ナウカ社『小林多喜二全集』『書簡集』(1935)に付されたもの、当時の各雑誌・新聞の多喜二追悼特集に、主要な年譜にみることができる。

戦後は手塚英孝編の手によるものが基本とされた。それは評伝『小林多喜二』(筑摩版1958初版 新日本版1973で定稿)さらに『定本小林多喜二』(全15巻 69)に結実され、その成果は『小林多喜二全集』(全7巻 新日本出版社 1983 追補新装版1993)に引き継がれている。以後は、小笠原克『新潮日本文学アルバム 小林多喜二』(新潮社 1985)「年譜」(『作家の自伝(51)小林多喜二』 日本図書センター 1997) が、澤地久枝「小林多喜二への愛」などで明らかになった地下活動期の情報を織り込み、倉田稔『小林多喜二伝』(2003)は、小樽時代を豊富な資料を猟保して充実させている。

その後も、森熊猛『マンガ100年 見て聞いて』(2004)などが注目される。
また、テキスト関係の発見も、「大熊信行宛書簡2通」(白樺文学館多喜二ライブラリー蔵)、「工場細胞」直筆原稿の発見(薩摩川内まごころ文学館蔵)、など、また大田努「未発掘の『赤旗』短編小説のこと」『民主文学』(83年2月号)で指摘されるように、当時非合法で発行されていた機関紙掲載のものは全集未収となっている。

全集編集時掲載誌紙が確認できず、原稿帳から全集に収録されたものも多い。また、小林多喜二の作品は、発表当時、大量の削除・伏字で発表せざるを得なかった事情にあり、その復元のためには自筆原稿との校合を必要とするという課題もあり、今後の研究が期待される。(※「 」作品名『 』書名< >は筆名 執筆日)


1903(明治36)年
10月13日、秋田県北秋田郡下川沿(しもかわぞい)村川口(現在の大館(大館)市川口)の農家に次男として生まれた。父・未松(すえまつ)、母・セキ、兄・多喜郎(たきろう)、姉・チマ、継祖母・ツネがいた。戸籍上は12月1日。小林家は8反歩(約80アール)の自作兼小作。

1904(明治37)年 1歳
11月11日、継祖母・ツネ死去。

1905(明治38)年 2歳
1月22日、第一次ロシア革命。日本は日露戦争で勝利、ポーツマスで講和。

1907(明治40)年 4歳
1月4日、妹・ツギが生まれる。
10月5日、小樽区新富町51番地の伯父・慶義(1859.10.10~1931.6.20)方で兄・多喜郎が病死。12月下旬、慶義にすすめられて一家は小樽へ移住。