「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「一九二八年三月十五日」第3章

2010-03-29 16:15:08 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む

 お恵は夫があんな風にして連れて行かれてから、どこかガランとした家の中にいる事が、たまらなかった。自家(うち)へ時々やって来る組合の書記の工藤の家へ行ってみようと思った。それに、組合の人達の様子や、今度のことの内容や、その範囲なども知りたかった。しかし工藤もやっぱり検束されていた。
 ――工藤の家へ警官が踏みこんだ時は、家の中は真暗だった。警官は、「オイ、起きろッ!」といいながら、電灯のつる下っているあたりを、手さぐりした。三人いる子供が眼をさまして、大きな声で一度に泣き出した。電灯の位置をさがしている警官は「保名」でも躍る時のような手付きをして、空を探していた。と、闇の中でパチン、パチンとスウイッチをひねる音がした。
 「どうしたんだ、ええ?」
 「電灯はつかんよ。」
 それまで何もいわないでいた工藤は、警官のあわてているのとは反対に、憎いほど落付いた声でいった。
 工藤の家は電灯料が滞って、二ヵ月も前から電灯のスウイッチが切られてしまっていた。しかし、といって、ローソクを買う金も、ランプにする金もなかった。夜になると、子供を隣の家に遊ばせにやったり、妻のお由(よし)は組合に出かけたりして、六十日も暗闇の中で過していた。「明るい電灯、明るい家庭。」暗い電灯さえ無い彼等には、そんなものは糞くらえだった。
 「逃げないから大丈夫」そういって、工藤が笑った。
 お由は泣いている子供に、「誰でもないよ。いつも来る人さ。なんでもない、さ、泣くんでない」といっていた。子供は一人ずつ泣きやんで行った。工藤の子供達は巡査などに馴れてさえいた。組合の人達は、冗談半分だけれども、お由が自分の子供等に正しい「階級教育」をほどこしているというので、評判をたてていた。が、お由は勿論自分では何か理窟があって、そうしているのではなかった。――お由は秋田のドン百姓の末娘に生れた。彼女は小学校を二年でやめると、十四の春ま地主の家へ子守にやられた。そこでお由は意地の悪い気むずかしい背中(せなか)の子供と、所嫌わずなぐりつける男の主人と、その主人よりもっと残忍な女主人にいじめられ、こづき廻された。五年の間、一日の休みもなくコキ使われた。そして、ようやくそこから自家へ帰ってくると、畑へ出された。一日中エビの様に腰を二つに折り、そのために血が頭に下って来て、頬とまぶたが充血して腫れ上った。十七の時、隣村の工藤に嫁入した。が、その次の次の日から(!)――ちょうど秋の穫り入れが終った頃なので――工藤と二人で近所の土工部屋のトロッコ押しに出かけて行かなければならなかった。雑巾切れのように疲れきって掃ってくると、家の仕事は、そして山のように溜っていた。お由は打ちのめされた人のように、クラックラッする身体でトロッコと台所の間を往き来した。ジリジリ焼けつく日中に、トロッコを押しながら、始めての夫婦生活の疲労と月経から気を失って、仰向けにひッ倒れた事があった。
 子供が生れてから、生活は尻上りに、やけに苦しくなってきた。そんな時になって、どうすればいいか分らくなった工藤は、自分とお由とで行李(こうり)を一つずつ背負って、暗くなってから村を出てしまった。暗い、吹雪いた、山の鳴る夜だった。そして北海道へ渡ってきた。
 小樽で二人はある鉄工場に入った。が、北海道と内地とは、人がいうほどの大したちがいはなかった。ここもやっぱりお由達には住みいいところではなかった。では、どこへ行けばよかったろう。だが、どこへ行くところがある! プロレタリアはどこへ行ったって、締木(しめぎ)で鰊粕(にしんかす)か大豆粕のように搾(しぼり)り取られるのだ。――お由の手は、自分の身体には不釣合に大きく蟹のはさみのように、両肩にブラ下っていた。皮膚は樹の根のようにザラザラして、汚れが真黒に染み込んでいた。それは、もう、一生とれッこが無い程しみていた。子供が背中をかゆがると、お由は爪でなくて、そのザラザラした掌でいつも掻いてやった。子供はそれでそうされるのを、非常に気持よがった。
 お由はその長い間の自分の生涯で、身をもって「憎くて、憎くてたまらない人間」を、ハッキリと知っていた。ことに夫が組合に入り、運動をするようになってから、それ等のことが、もっとはっきりした形でお由の頭に入ってきた。
 工藤はそれから仕事には無論つけなくなった。組合の仕事で一週間も家へ帰れない事が何度もある。お由は自分で――自分一人で働いて、子供のことまでしてゆかなければならなかった。が、今までとは異った気持で、お由は仕事が出来た。お由は浜へ出て石炭かつぎや、倉庫で澱粉や雑穀の袋縫いをしたり、輸出青豌豆の手撰工場へ行ったり、どんな仕事もした。末の子が腹にいた時、十ヶ月の大きな腹をして、炭俵を皆に交って、艀(はしけ)から倉庫へかついだ。見廻りに来た巡査も、それには驚いて、親方が叱られた事さえあった。
 家の障子は骨ばかりになった。寒い風が吹き込むようになっても、しかし障子紙など買う金がなかったので、組合から「無産者新聞」や「労働農民新聞」の古いのを貰ってきて、それを貼った。煽動的なストライキの記事とか、大きな「火」のような見出しが斜めになったり、倒さになったり、半分隠れたりして貼られた。お由は暇な時、ボツリボツリそれを読んでいた。子供の「これ何アに、あれ何アに」を利用して、それを読んできかせた。家の壁には選挙の時に使い余ったポスター、ビラ、雑誌の広告などをべたべた貼りつけた。渡や鈴本が工藤の家にやってくると、「ほオ!」と何度もグルグル見廻って歩いて「我等の家」だなんていって、喜んだ。
 …………工藤は起き上ると、身仕度をした。身仕度をしながら、工藤は今度は長くなると思った。そうなれば、一銭も残っていない一家がその間、どうして暮して行くか、それが重く、じめじめと心にのしかかってきた。これは、こんな場合、いつでも同じように感ずる心持だった。しかし何度感じようが、鬼のようなプロレタリア解放運動の闘士だとしても、この事だけはどこまで行こうが慣れッこになれるものでは断じてない、陰鬱な気持だった。組合で皆と一緒に興奮している時はいい、しかしそうでない時、子供や妻の生活を思い、やり切れなく胸をしめつけられた。プロレタリアの運動は笑談にも呑気(のんき)なものではなかった。全く!
 お由は手伝って、用意をしてやると、
 「じや、行っといで」といった。
 「ウム。」
 「今度は何んだの。当てがある?」
 彼は黙っていた。が、
 「どうだ、やって行けるか。長くなるかも知れないど。」
 「後?――大丈夫。」
 お由はいつもの明るい、元気のいい調子でいった。
 漠然ではあるが、何んのことか分っている一番上の子供が、
 「お父(どう)、行(え)ってお出(え)で」といった。
 「こんな家へ来ると、とてもたまったもんでない。」警官が驚いた「まるで当りまえのことみたいに、一家そろって行ってお出で、だと!」
 「こんな事で一々泣いたりほえたりしていた日にゃ、俺達の運動なんか出来るもんでないよ。」
 工藤は暗い、ジメジメさを取り除くために、毒ッぽく いい返した。
 「この野郎、要らねえ事をしゃべると、たたきのめすぞ。」
 警官が変に息をはずませて、どなった。
 「気をつけて。」
 「ウム。」
 彼は妻に何かいい残して行きたいと思った。しかし口の重い彼は、どういっていいかちょっと分らなかった。妻がまた苦労するのか、と思うと、(勿論それは自分の妻だけではないが)、膝のあたりから、妙に力の抜ける感じがした。
 「本当、どうにかやって行けるから。」
 お由は夫の顔を見て、もう一度そういった。夫はだまって、うなずいた。
 戸がしまった。お由は皆の外を歩く足音を、しばらく立って聞いていた。
 自分達の社会が来るまで、こんな事が何百遍あったとしても、足りない事をお由は知っていた。そういう社会を来させるために、自分達は次に来る者達の「踏台」になって、さらし首にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシドシ川に入って、重なり合って溺死し、後から来る者をその自分達の屍を橋に渡してやる、ということを聞いた事があった。その先頭の蟻こそ自分達でなければならない、組合の若い人達がよくその話をした。そしてそれこそ必要なことだった。
 「まだ、まだねえ!」
 そうお由はお恵にいった。
 お恵はなかば暗い顔をしながら、しかし興奮してお由にうなずいてみせた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿