「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

井上ひさし「一週間」――そして多喜二「地区の人々」を読む(1)

2024-01-03 10:06:18 | つぶやきサブロー

井上ひさし「一週間」――そして多喜二「地区の人々」を読む

 

 

 

 井上ひさしの晩年の仕事に、「組曲虐殺」と「一週間」がある。

「組曲虐殺」は、プロレタリア作家・小林多喜二の生涯、特にその最期を劇化したものだ。そして「一週間」には、井上ひさしの父につながる主人公〈小松修吉〉が、多喜二たちを裏切り虐殺した者たちを追い詰める物語が含まれている。

 私にはこの二作はコインの表裏のような関係にある作におもえる。そして、この二作をつなぐものは“警視庁スパイ〈M〉”だとおもえる。

一人は、〈松村昇〉こと本名=飯塚盈延いいづか みつのぶ)、もう一人は〈水原、香川、武田〉こと三船留吉、そして――。

 本論では、革命家・多喜二のたたかいの場としての「赤旗 (せっき) 」とスパイ〈M〉をたどり、「赤旗」をめぐる多喜二晩年のたたかいを記録する「地区の人々」の背景を明らかにし、その火を継ぐ者として「一週間」の主人公〈小松修吉〉の役割を明らかにしようとするものである。

            ◇

「組曲虐殺」では、満州事変以後の反戦活動の拡大のなかで、当時の治安維持法・特高警察による弾圧で非合法とされた、潜伏しながらの抵抗活動に入った共産党員作家・小林多喜二(一九〇三~三三)の晩年をとりあげている。とくに多喜二「党生活者」の作品にそって、そのたたかいと虐殺にいたるまでを「心の映写機」を通じて「絶望から希望へ」の思いを描いた。

 多喜二が地下活動に入る時代は、戦争とファシズム台頭の時代だった。

 時は一九三二年の春、プロレタリア文化運動へ帝国政府は大弾圧の鉄槌を下した。蔵原惟人をはじめとしたプロレタリア文化活動家の大半は投獄された。逮捕をまぬがれた多喜二は、作家同盟書記長として中国東北部への日本帝国主義軍の侵略「満洲事変」以後の反戦運動を指導していた。

 すでに一九三一年秋に入党していた多喜二は、地下から文化運動の指導だけではなく、共産党中央の宣伝・扇動部を担い、活版印刷で大衆的普及をひろげていた「赤旗」文化面の編集を担当していた。さらに大衆運動部の一員として、反帝同盟執行役員として下からの反戦統一戦線運動――上海極東反戦大会の成功のために奔走していた。

 弾圧は警察の暴力装置としての発動から、組織の奥に潜入させたスパイを使っての謀略機関としてその牙を研いでいた。警視庁からたくみに共産党中央部に潜入し、その中央委員になりすまして、裏切りと弾圧の手引きをしたスパイ〈M〉はそれを象徴している。

 

 井上ひさしは「一週間」のなかで、スパイ〈M〉を追い求め、その正体を明かそうとする〈小松〉を描き、多喜二のたたかいの火を継ぐ者の意味を明らかにした。

「一週間」でとりあげられているスパイ〈M〉とは、この日本共産党に潜入した警視庁のスパイであり、あろうことか共産党の組織部、家屋資金局の責任者となり、事実上、委員長に次ぐナンバー2になりおおせたのだ。彼が仲間を裏切り、同志を売りさばいて姿を消したことに気づく者は少なく、スパイ〈M〉のその正体と罪状の全体が明らかになるのは、一九七六年十月五日から八日まで、共産党機関紙「赤旗」紙上に、「スパイ〈M〉こと飯塚盈延(みつのぶ)とその末路」が発表されてからだった。

 

1.井上ひさし「一週間」が描くもの

 

 井上ひさし「一週間」の主人公〈小松修吉〉は、東北の農村出身、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業し、エリートコースをあゆんでいた。しかし『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党紙「赤旗(せっき)」配布活動に関係する。中央委員〈M〉に指示されて、コミンテルンとの連絡役もさせられた。

 実は警視庁のスパイだった〈M〉は、中央を潰滅させるとともに〈小松〉を検挙させる。〈小松〉は獄にとらえられる出獄後の〈小松〉は、わずかに開かれていた新天地である中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その一方でかれには、満洲に逃れたとされる〈M〉の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やすだがその途上、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなるのだった
 シベリア・ハバロフスクの日本人捕虜収容所にある日本新聞社に配置された〈小松〉は、満洲皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ〈M〉らしき人物をつきとめ対決する――。

 

 同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結し、没後一冊にまとめられた。

 大江健三郎は「小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(二〇一〇年七月号)で、私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。

 同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上そこに持ち込んだ大き仕掛けが、〈小松〉を日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞で働かせ過程である。

 捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨がハーグ陸戦法規の俘虜条項に違反していることについて日本軍無知であったこと旧軍幹部の秩序がその悲惨さを拡大させていること井上は批判の筆を走らせる

 さらに〈小松〉を日本人捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属することで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実の告白したレーニンの手紙を手に入れさせ、レーニンが社会主義思想を裏切ったことを批判させる。井上は、〈小松〉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの滑稽で悲しい争闘をくりひろげさせている。

 


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