井上ひさし「一週間」――そして多喜二「地区の人々」を読む
井上ひさしの晩年の仕事に、「組曲虐殺」と「一週間」がある。
「組曲虐殺」は、プロレタリア作家・小林多喜二の生涯、特にその最期を劇化したものだ。そして「一週間」には、井上ひさしの父につながる主人公〈小松修吉〉が、多喜二たちを裏切り虐殺した者たちを追い詰める物語が含まれている。
私にはこの二作はコインの表裏のような関係にある作におもえる。そして、この二作をつなぐものは“警視庁スパイ〈M〉”だとおもえる。
一人は、〈松村昇〉こと本名=飯塚盈延(いいづか みつのぶ)、もう一人は〈水原、香川、武田〉こと三船留吉、そして――。
本論では、革命家・多喜二のたたかいの場としての「赤旗 (せっき) 」とスパイ〈M〉をたどり、「赤旗」をめぐる多喜二晩年のたたかいを記録する「地区の人々」の背景を明らかにし、その火を継ぐ者として「一週間」の主人公〈小松修吉〉の役割を明らかにしようとするものである。
◇
「組曲虐殺」では、満州事変以後の反戦活動の拡大のなかで、当時の治安維持法・特高警察による弾圧で非合法とされた、潜伏しながらの抵抗活動に入った共産党員作家・小林多喜二(一九〇三~三三)の晩年をとりあげている。とくに多喜二「党生活者」の作品にそって、そのたたかいと虐殺にいたるまでを「心の映写機」を通じて「絶望から希望へ」の思いを描いた。
多喜二が地下活動に入る時代は、戦争とファシズム台頭の時代だった。
時は一九三二年の春、プロレタリア文化運動へ帝国政府は大弾圧の鉄槌を下した。蔵原惟人をはじめとしたプロレタリア文化活動家の大半は投獄された。逮捕をまぬがれた多喜二は、作家同盟書記長として中国東北部への日本帝国主義軍の侵略「満洲事変」以後の反戦運動を指導していた。
すでに一九三一年秋に入党していた多喜二は、地下から文化運動の指導だけではなく、共産党中央の宣伝・扇動部を担い、活版印刷で大衆的普及をひろげていた「赤旗」文化面の編集を担当していた。さらに大衆運動部の一員として、反帝同盟執行役員として下からの反戦統一戦線運動――上海極東反戦大会の成功のために奔走していた。
弾圧は警察の暴力装置としての発動から、組織の奥に潜入させたスパイを使っての謀略機関としてその牙を研いでいた。警視庁からたくみに共産党中央部に潜入し、その中央委員になりすまして、裏切りと弾圧の手引きをしたスパイ〈M〉はそれを象徴している。
井上ひさしは「一週間」のなかで、スパイ〈M〉を追い求め、その正体を明かそうとする〈小松〉を描き、多喜二のたたかいの火を継ぐ者の意味を明らかにした。
「一週間」でとりあげられているスパイ〈M〉とは、この日本共産党に潜入した警視庁のスパイであり、あろうことか共産党の組織部、家屋資金局の責任者となり、事実上、委員長に次ぐナンバー2になりおおせたのだ。彼が仲間を裏切り、同志を売りさばいて姿を消したことに気づく者は少なく、スパイ〈M〉のその正体と罪状の全体が明らかになるのは、一九七六年十月五日から八日まで、共産党機関紙「赤旗」紙上に、「スパイ〈M〉こと飯塚盈延(みつのぶ)とその末路」が発表されてからだった。
1.井上ひさし「一週間」が描くもの
井上ひさし「一週間」の主人公〈小松修吉〉は、東北の農村出身で、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業し、エリートコースをあゆんでいた。しかし『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党紙「赤旗(せっき)」配布活動に関係する。中央委員〈M〉に指示されて、コミンテルンとの連絡役もさせられた。
実は警視庁のスパイだった〈M〉は、党中央を潰滅させるとともに〈小松〉を検挙させる。〈小松〉は獄にとらえられる。出獄後の〈小松〉は、わずかに開かれていた新天地である中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その一方でかれには、満洲に逃れたとされる〈M〉の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やす。だがその途上、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなるのだった。
シベリア・ハバロフスクの日本人捕虜収容所にある日本新聞社に配置された〈小松〉は、満洲皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ〈M〉らしき人物をつきとめ対決する――。
同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結し、没後一冊にまとめられた。
大江健三郎は「小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(二〇一〇年七月号)で、「私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。
同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上がそこに持ち込んだ大きな仕掛けが、〈小松〉を日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞社で働かせた過程である。
捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨がハーグ陸戦法規の俘虜条項に違反していることについて日本軍は無知であったこと。旧軍幹部の秩序がその悲惨さを拡大させていることと井上は批判の筆を走らせる。
さらに〈小松〉を日本人捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属することで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実の告白したレーニンの手紙を手に入れさせ、レーニンが社会主義思想を裏切ったことを批判させる。井上は、〈小松〉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの滑稽で悲しい争闘をくりひろげさせている。
【マリウポリ(ウクライナ南東部)AP】砲撃が絶え間なく続く中、マリウポリの凍土に急いで掘られた狭いざんごうに、投げ込まれた子どもたちの遺体が横たわっていた。
生後18カ月のキリル君は、よちよち歩きの小さな体の頭部に砲弾の破片による致命傷を負っていた。16歳のイリヤ君の足は、学校の運動場でのサッカー中に爆発で吹き飛ばされた。6歳以下にしか見えない女の子は、一角獣の絵柄のパジャマを着ていた。ロシアの砲弾で死んだマリウポリの最初の子どもたちだ。
子どもらの遺体は他の何十体とともに市外縁部にあるこの集団墓地に積み上げられていた。道ばたの男性の遺体には明るい青の防水シートがかけられ、石の押さえが置かれていた。赤と金のシーツでくるまれた女性の両くるぶしは、白い端切れできちんと結ばれていた。作業員は次々と可能な限り素早く遺体を墓穴に投げ込んでいった。この隠れる場所のない空き地での作業時間が少ないほど、自分たちの生存のチャンスも上がるからだ。
「とにかく、早く終わってほしいよ」。作業員のボロディミル・ブイコウスキさんは、トラックから黒い遺体袋を引き出しながら怒りを込めて言う。「これを始めたやつらはくそだ!」
遺体は、まだまだやってくる。そこら中に散らばる路上から。病院の地下室から。病院には大人も子どもも並べられ、誰かが迎えに来るのを待っている。一番若い遺体は、まだへその緒がついたままだ。
抵抗の象徴マリウポリ
空爆や砲撃が時に毎分のように、容赦なくマリウポリをたたく。この市がロシア軍によるウクライナ制圧作戦の真正面に位置する地理上の呪いをたたき込むかのように。この人口43万人の南東部の港町は、プーチン露大統領によるウクライナ民主主義粉砕の、そして、それに対する激しい地上での抵抗の、象徴となった。
ロシア軍侵攻開始後の約3週間、AP通信のジャーナリスト2人は、マリウポリにいる唯一の国際報道機関の要員であり、混沌と絶望への転落を記録してきた。市は今やロシア軍兵士に囲まれ、砲弾の一発ごとに、命を押しつぶされつつある。
民間人退避のための人道回廊設置の呼びかけは無視され続け、3月16日にようやく約3万人が車列を組んで脱出したとウクライナ当局者が明らかにした。空爆と砲撃は産科病院、消防署、民家、教会、学校付近の運動場に着弾した。市民数十万人がまだ残るとみられるが、彼らに逃れる場所はない。
市の周囲の道には地雷が埋設され、港は封鎖されている。食料が不足しつつあるが、人道支援はロシア軍が止めた。電力供給はほぼなくなり、水も足らず、住民は雪を溶かして飲んでいる。新生児を病院に残す親もいるが、なんとか電力と水がある場所で子らに生き延びるチャンスを与えたいのだろう。
人々は壊れた家具を即席のかまどで燃やして、寒気の中で手を温め残りわずかな食料を調理する。手作りかまどの材料だけは豊富だ。破壊されたビルから路上に散らばるれんがや金属片だ。
包囲戦での住民死者「2500人超」
死が街を満たしている。露軍による包囲作戦開始後の死者数は地元当局によると2500人を超えたが、絶え間ない砲撃のため全ての遺体を数えられていない。当局者は遺族に、危険すぎて葬儀はできないから路上の遺体は放置してと伝えている。
APが記録した死者の多くは、子どもと母親だが、ロシアは民間人は攻撃されていないと主張している。
「彼らはマリウポリを人質にとり、あざ笑い、爆撃し砲撃し続けている」。ウクライナのゼレンスキー大統領は10日、そう話した。
ほんの数週間前、マリウポリの先行きは明るく見えた。場所が都市の命運を決めるのなら、マリウポリは成功に向かっていた。高い国際需要に支えられ、地元の鉄鋼工場や深水港湾は活気づいていた。2014年、親露分離派との市街戦が起きた暗い日々も記憶の彼方に薄れつつあった。
今回ロシア軍の侵攻が始まった当初の数日間、多くの住民は奇妙な慣れを感じていた。セリ・オルロフ副市長によると、脱出が可能だった初期には約10万人の住民が退避した。だが、多くはこれからもやり過ごせる、いずれ西に逃げられると考えて、後に残ったのだという。
「2014年の方が怖かった。今回は同じパニックは感じない」。2月24日、市場で買い物中のアナ・エフィモワさんはそう話していた。「パニックは起きていない。だいたい、逃げる場所がない。どこに逃げればいいの?」
同じ日、ウクライナ軍のレーダー施設と空港がロシア軍の砲撃の最初の標的となった。砲撃と空爆はいつ来てもおかしくはない状態で、実際にやってきて、住民は退避壕(ごう)にこもることになった。生活は平常とはほど遠かったが、まだ生きることはできた。
増える子どもの犠牲
それも、2月27日には変わっていた。救急車が6歳にもならない身じろぎしない女の子を市の病院に救急搬送してきた。茶色の髪がゴムバンドでまとめられ蒼白な顔をしたその子のパジャマはズボンが血だらけだった。ロシア軍の砲撃で負傷したのだ。
自らもけがをして頭に包帯を巻いた父親が付き添っていた。母親は救急車の外に立ち泣いていた。
医師と看護師が彼女を囲み、注射をし、除細動器で電気ショックを与えた。青い手術着を着て酸素吸入を行っていた医師が、AP記者のカメラを真っすぐにのぞき込んで室内に招き入れると毒づいた。
「これをプーチンに見せてやれ」。激高した医師は罵言とともに叫んだ。「この子の瞳と、泣いている医者の姿を、見せてやれ」
彼女は助けられなかった。医師らはその小さな体をピンクのジャケットで覆い、丁寧に彼女のまぶたを閉じた。彼女は今、集団墓地に眠っている。
長年、マリウポリに有利に働いてきた地理的環境は、今や、その足を引っ張っていた。同市は、ロシアが支援する分離主義者が支配する地域から最短で10キロほどしか離れておらず、同地域と、ロシアが14年に併合したクリミア半島の間に位置している。マリウポリを制圧すれば、ロシアは両地域の間のアゾフ海沿岸全域を押さえることができる。
2月が終わり、包囲戦が始まった。危険を無視したのか、じっとしていられなかったのか、あるいは10代の若者が往々にしてそうであるように無敵だと感じていたのか、少年の一群が3月2日、学校のそばの運動場に集まり、サッカーを始めた。爆発が起き、イリヤの足は吹き飛んだ。
イリヤに運はなく、マリウポリの運も急速に下降していた。停電が起き、携帯電話もほとんど使えなくなっていた。連絡ができないため、救急隊員はどの病院でまだ治療が可能なのか、そこに到達できる道路はどこに残っているのか推理しなければならなくなっていた。
イリヤは救えなかった。父のセルヒは、死んだ息子の頭を抱いて嘆いた。(翻訳・和田浩明/デジタル報道センター)
WHO、武漢ウイルス研究所流出説の排除の圧力認める…姿勢一転、中国で再調査の方針、追及強める
藤 和彦
コンサルティングフェロー
世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は7月15日の記者会見で「中国にパンデミック初期の情報やデータについて透明性を高め、オープンかつ協力的になるよう求める。中国の武漢ウイルス研究所から新型ウイルスが流出した説を排除できるのは十分な情報が得られた後である」と主張した。
「中国寄り」とみられていたテドロス氏が、今年3月に自らの組織が公表した中国での新型コロナウイルスの起源に関する報告書の内容(武漢ウイルス研究所からの流出の可能性は極めて低い)を否定する発言を行ったのである。
テドロス氏はさらに「私自身は免疫学者であり研究所で働いた経験があるが、研究所での事故は起こりうる。普通に起きることだ。私は事故を見たことがあるし、私自身ミスをしたことがある」と述べ、「武漢ウイルス研究所からの流出説」を早い段階から外そうとする圧力があったことも認めた。
WHOは翌16日、新型コロナウイルスの起源に関する中国での調査の第2弾を実施することを提案した。第2弾の調査では、人、野生動物、武漢の海鮮卸売市場などの調査に加え、2019年12月に人の感染が確認された地域で運営されていた武漢ウイルス研究所などの監査も実施したい考えである。
WHOは「新型コロナウイルスの起源に関する調査は科学的な探求であり、政治の影響を受けることなく実施される必要がある」と強調しているが、中国側は「第2弾の調査計画は将来の研究の基盤となるものではない」と猛反発しているとされている。
「研究所流出説」を裏づける論文相次ぐ
中国側の顔色を伺ってきたとされるWHOが、ここにきて中国の神経を逆なでするような行動に出た背景には、米国の動向が大いに関係していることだろう。トランプ前政権は「武漢ウイルス研究所からの流出説」を喧伝していたが、当時科学者たちは「トランプ支持者」と思われることを恐れて口をつぐんでいた。だがバイデン大統領が5月下旬に情報機関に対して「新型コロナウイルスの起源に関する再調査を90日以内に実施せよ」と命じると米国内の雰囲気が一変、「研究所流出説」を裏づける論文が学術誌や主要メデイアなどで伝えられるようになっている。
口火を切ったのは、英ロンドン大学のダルグリッシュ教授とノルウェーのウイルス学者のソレンセン氏である。5月下旬に「新型コロナウイルスは実験室の操作でしか得られないユニークな痕跡を発見していた」ことを明らかにした。「ウイルスのスパイクに正電荷のアミノ酸が4つ並ぶ」という自然界には存在しない配列が見つかったのだが、これにより、磁石が鉄を引きつけるようにウイルスが人の細胞に結合しやすくなっていることから、人為的に感染力を高める「機能獲得実験」が行われたのではないかという主張である。
6月6日付ウォール・ストリート・ジャーナルは「米カリフォルニア州のローレンス・リバモア国立研究所は、新型コロナウイルスの起源について『中国の武漢ウイルス研究所から流出した』とする仮説は妥当だと判断し、さらなる調査が実施されるべきだと結論付けていた」と報じた。同研究所は生物学に関する専門知識が豊富なことで知られ、新型コロナウイルスのゲノム解析などを行い20年5月に報告書を作成していた。新型コロナウイルスからCGG-CGGという組み合わせの塩基配列が発見されたが、このような塩基配列は自然界では存在せず、ウイルスの感染力を高めるなどの実験を行う際に人為的に注入されることが多いとされている。
研究所からの流出に関しては、豪紙オーストラリアンは6月27日、「中国当局はかつて国連に提出した文書で『自国の研究所から人口ウイルスが漏洩するリスクがある』と認めていた」と報じたが、現在の中国の安全管理はさらに悪化している可能性が高い。
北京五輪への反発
武漢ウイルス研究所と人民解放軍の関係にも注目が集まっている。米下院の共和党議員が6月29日に開いた公聴会では、「人民解放軍が19年に武漢ウイルス研究所を接収した」などの証言が相次いだ。武漢ウイルス研究所でコウモリに由来するコロナウイルス研究を主導する石正麗氏は人民解放軍との協力関係を一貫して否定しているが、米NBCニュースは6月30日「石氏が人民解放軍の研究者とともにコロナウイルスの研究を行っていた証拠を掴んだ」と報じた。
このような状況から、過半数の米国人が「研究所流出説」を信じるようになっている。米ニュースサイト「ポリテイコ」などが6月下旬に実施した世論調査によれば、52%が「新型コロナウイルスは中国の研究所から漏洩した」と回答した。49%が「中国の研究所が新型コロナウイルスを開発した」との見方を示し、25%が「中国当局が故意に新型コロナウイルスを作り、意図的にウイルスを放出した」と回答したという。米ピュー・リサーチ・センターが昨年3月に実施した世論調査の結果(「新型コロナウイルスは中国の研究室で発生した」と回答した米国人は29%のみ)とは様変わりである。
バイデン政権の高官たちも「研究所流出説は野生動物から自然に発生した可能性と同程度である」と認識していることが明らかになっている(7月18日付CNN)。さらに米シンクタンク「セキュリティー・ポリシー・センター」が7月初めに実施した世論調査によれば、63%が「中国当局に損害賠償を請求すべきだ」と回答している。
ペンス前副大統領は14日「新型コロナウイルスの起源に関する調査に中国が全面協力しないなら、米国は22年の冬季五輪の開催地変更を明確に要求すべきだ」と主張した。中国政府が今後協力的になる可能性は極めて低いが、これにより国際的な孤立は深まり、北京五輪への反発は一層強まることだけは間違いないだろう。
ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2021/07/post_239150.html
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2021年7月19日 Business Journalに掲載
このブログには以前投稿いただき、
奈良での多喜二顕彰に力を尽くしていただいた
御影暢雄さんが亡くなられたと連絡がありました。
詳細は不明です。
ただただ悲しいです。
武漢にあるウィルス研究所の研究員である石正麗(Shi Zhengli)が家族と共に、フランスのアメリカ大使館に亡命していたことがわかった。
研究員は1000近くもの極秘書類を持って保護を要請。
これ本当だとしたら、中国がこんな重要人物を逃すか?
新型コロナウィルスの発症が研究所だと判明したら、中国はヤバイだろうに。
石正麗は1990年から武漢ウィルス研究所で
研究実習員助手として働いており、
2000年以降は研究員に就任している。
新型ウイルス最初の感染者といわれる、
武漢病毒研究所の黄燕珍さんの行方も不明だと。。
2年前、研究所に対し米大使館員が警告していた
《コウモリのコロナウイルスを研究する武漢研究所 「安全性を懸念」国務省が外交電で警告》
そんな見出しの記事が米国の有力紙ワシントン・ポストに載ったのは4月14日のことだ。
米国発の国際ニュースチャンネルCNNなどは、同紙の記事を引用しながら、トランプ大統領が新型コロナウイルス拡大を防げなかった責任論を避けるため、荒唐無稽な陰謀論を主張し始めた、というようなトーンで報道。日本メディアもその見方に相次いで追随したが、それは、読み込み不足だろう。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>4月17日撮影 武漢ウイルス研究所 ©時事通信社</figcaption> </figure>ワシントン・ポストの記事の内容はこうだ。
新型コロナウイルスによるパンデミック発生の2年前、米大使館員が中国中部・湖北省武漢市にある中国科学院武漢病毒研究所を何回も訪れ、2回にわたって不適切な安全管理について警告を発した。BSL-4(生物学的安全レベル4)に準拠した中国最先端の研究所はコウモリのコロナウイルスに関する危険な研究をしていた。
コウモリのウイルスは人間にも感染する可能性がある構造をしており、SARS(重症急性呼吸器症候群)のようなパンデミックを新たに起こす可能性がある、とホワイトハウスへの報告は警告していた。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>武漢の研究所でコウモリのコロナウイルスを研究していた ©AFLO</figcaption> </figure>しかも、研究所の所員らはこの大使館の専門家に対し、「研究所の安全性を保つための技術者や査察官が不足している」と訴えたという。記事はウイルスが「開発された」という証拠はなく、動物に由来することに多くの科学者が同意していることにも触れながら、動物由来のウイルスが研究所から漏出した可能性を否定するものではないことも研究者の発言を引用しながら伝えている。
数カ月前に囁かれた陰謀論と決定的に異なる点
研究所はSARSがコウモリに由来するウイルスであることをいち早く遺伝子解析などで明らかにした後も中国内の洞窟を回ってコウモリを探し、ウイルスを採取しては研究を続けてきた。今年に入り、新型コロナウイルスの遺伝子がコウモリから採取された別のコロナウイルスの遺伝子に酷似していると指摘したのもこの研究所だ。そんな研究所などがウイルスの発生源ではないか、と疑う記事なのだ。
では、なぜ、CNNなどが陰謀論で片付けようとするのか。それは数カ月前に似たような話が陰謀論として片付けられたことに由来するのだろう。2020年の1~2月、まだ新型コロナウイルスの感染者の大半が中国にとどまっていたころ、ウイルスが「この研究所で作られた中国の兵器だった」という言説がネット上で広がったことがある。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>中国で新型ウイルス肺炎拡大 感染源と疑われていた武漢の海鮮市場 ©AFLO</figcaption> </figure>同じ研究所に同じような説では陰謀論と混同されるのも仕方ないかもしれないが、この従前の陰謀論と、トランプ政権が調査するとしている中国研究所起源説とには決定的な違いがある。
陰謀論ではウイルスは「兵器」として「開発」された、としているが、新たにトランプ政権が主張し始めたのは「研究」中に「ミスで漏洩」した、可能性だ。
陰謀論が提起する説に従えば、味方にも敵にも平等に移るウイルスというのは、(ワクチンが開発されていなければ)兵器としてはいかにも使い勝手が悪い。そこが陰謀論たるゆえんなのだが、研究中のミスとなれば、話は違ってくる。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption></figcaption> </figure>「ウイルス漏出の可能性」について言及した「幻の論文」
この「研究中ミス説」を2月16日の時点で披露した米上院議員は「良質な科学と悪質な安全性」が今回のパンデミックを招いた、と表現する。
武漢の研究所でコウモリのコロナウイルスを研究していたことは、当の研究所自体が認める事実だ。問題は、そのウイルスが研究所の外に漏出したのかどうか。
実は、この問いに答えを出そうと試みた「幻の論文」がある。中国在住の研究者が、査読前の論文などを研究者が共有するサイトに掲載したのだが、間もなく執筆者が撤回してしまったいわくつきの論文で、ワシントン・ポストも別の記事で好意的に紹介している。
その論文の内容は衝撃的
「グレー」だと明言できるだけの状況証拠は揃っている
《我々は(2つの)研究所の歴史を簡単に振り返り、この(新型)コロナウイルスがおそらく研究所から漏れ出たであろうことを提起した》
そんな導入から始まる論文は、まず、当初広まっていた武漢市の海鮮市場が発生源とする説について、この海鮮市場で感染が広がる前に感染者が確認されていることに触れ、否定する。さらに、話題になっている武漢の病毒研究所のほかに、武漢市にもう一つある研究所の名前を挙げる。それが「武漢疾病予防管理センター」だ。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>武漢 ©iStock.com</figcaption> </figure>実はこの第2の研究所はコウモリのコロナウイルスを研究している点では武漢ウイルス研究所と同じだが、安全性のレベルが2段階低い。しかも、当初発生源とされた海鮮市場からわずか280メートルしか離れていないのだ。
それに加え、この研究所の研究員は採取してきたコウモリにかまれたり、尿をかけられたりしながらも研究を継続していることが、武勇伝のように2017年と2019年に現地報道で報じられているという。研究者は、こうした事故が起こるたびに感染を懸念して自主的に2週間隔離措置を取っていたという。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>武漢の研究所でコウモリのコロナウイルスを研究していた ©iStock.com</figcaption> </figure>決定的な証拠はまだないが、「クロ」とはいえないまでも、グレーであるとは明言できるだけの状況証拠は揃っているといえる。
陰謀論が飛び交う段階を超え、真実は明らかになりつつある
こうした言説が流れる中、ウイルスの発生源に関しては固く口を閉ざしてきた中国も反撃を試みてはいる。最初の反撃は中国外務省報道官が明らかにした「ウイルスは米軍の研究所から漏れたという説もある」というものだ。
実は、これは冷戦時代のソ連のやり口の真似だ。1980年代にエイズを引き起こすHIVウイルスが確認されたとき、ソ連は米軍の細菌戦研究所から漏れたという説を広めた。嘘だったことが確定しているが、実際に米軍研究所がウイルスの不適切な取り扱いで処分されたこともあるから、陰謀論としての魅力は色あせていないということなのだろう。
<figure class="image-area figure-none"> <figcaption>成都のファーマーズマーケット。多くの住民があらゆる種類の野菜や食品を購入するために出掛ける ©iStock.com</figcaption> </figure>
だが、そんな手垢のついた陰謀論を返してみても、これだけ証拠が集まってきた今では、信じることは難しい。発生源を突き止める作業は陰謀論が飛び交う段階を超え、天は中国側に不都合な方の説を真実として指し示しているようにみえる。
現時点で、ウイルスの封じ込めに関しては統制主義の中国の方が欧米の自由主義国群に勝っているようにみえる。だが、陰謀論の花の下には、これまでみてきたように真実の根っ子が隠されている。その真実が根こそぎ白日の下にさらされたとき、それは自由主義が統制主義に反撃の狼煙を上げるときなのかもしれない。
2 生物・化学兵器
生物・化学兵器は、比較的安価で製造が容易であるほか、製造に必要な物資・機材・技術の多くが軍民両用であるため偽装が容易である。例えば、海水の淡水化に使用されるろ過器は生物兵器の製造を目的とした細菌の抽出に、金属メッキ工程に使用されるシアン化ナトリウムは化学兵器製造に悪用される可能性がある10。生物・化学兵器は、非対称的な攻撃手段11を求める国家やテロリストなどの非国家主体にとって魅力のある兵器となっている。
生物兵器は、①製造が容易で安価、②暴露から発症までに通常数日間の潜伏期間が存在、③使用されたことの認知が困難、④実際に使用しなくても強い心理的効果を与える、⑤種類及び使用される状況によっては、膨大な死傷者を生じさせるといった特性を有している12。
生物兵器については、生命科学の進歩が誤用又は悪用される可能性なども指摘されており、こうした懸念も踏まえ、例えば、米国では09(平成21)年11月、生物兵器の拡散やテロリストによる同兵器の使用に対応するための指針を策定し13、病原菌や毒素の管理を徹底させる措置14をとることとした。
化学兵器については、イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン15などを繰り返し使用したほか、1980年代後半には自国民であるクルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器を使用した16。また、さらに毒性の強い神経剤であるVXや、管理が容易なバイナリー弾17などが存在していたとされる18。また、13(平成25)年8月、軍と反政府派が衝突していたシリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された19。シリア政府は化学兵器の使用を否定したが、米露合意を受けて化学兵器禁止条約(CWC:Chemical Weapons Convention)に加入した。その後、化学兵器禁止機関(OPCW:Organization for the Prohibition of Chemical Weapons)の決定20及び安保理決議21に従い、化学剤の国外搬出など国際的な努力が行われ、15(平成27)年6月、米海軍輸送船「ケープ・レイ」で実施されていたサリンやVXなどの廃棄作業が完了した22。また、シリア内戦における化学兵器の使用者を特定するため、15(平成27)年8月、国連安保理は国連とOPCWの合同調査メカニズムを設立する決議が採択され、同調査メカニズムによる捜査が進められた。16(平成28)年11月には、同調査メカニズムの活動任期が、1年間延長され、化学兵器の使用責任の特定による化学兵器の再使用阻止の努力が続けられた。同調査メカニズムは、シリアにおける6件の化学兵器使用事案の責任者を特定し、そのうち4件がシリア政府軍によるもの、残りの2件がISIL23によるものとされている24。特に、17(平成29)年10月の報告書で、同年4月にシリアのハーン・シェイフーンにおいて再びサリンが使用された件について、シリア政府に責任があると結論づけた。同調査メカニズムについては、17(平成29)年11月、活動任期更新の安保理決議が否決され活動を終了した。
一方、その後もシリアにおける化学兵器の使用事案は継続しており、18(平成30)年4月には、シリアの東グータ地区で化学兵器が使用された疑いが指摘されていた25。同月、米英仏3か国はアサド政権が化学兵器を使用したと判断し、シリアの化学兵器関連施設に対して攻撃を行った26。
CWCに加盟せず、現在もこうした化学兵器を保有しているとされる国家として、例えば、北朝鮮がある。また、1995(平成7)年のわが国における地下鉄サリン事件は、米国における01(平成13)年の炭疽菌入り郵便物事案や04(平成16)年2月のリシン入り郵便物事案とともに、テロリストによる大量破壊兵器の使用の脅威が現実のものであり、都市における大量破壊兵器によるテロが深刻な影響をもたらすことを示した。さらに、17(平成29)年2月に発生した金正男氏の殺害事件において、マレーシア警察は、遺体からCWCにおいて生産・使用などが禁止されたVXが検出されたと発表した。18(平成30)年3月に起きた英国での元ロシア情報機関員襲撃事件をめぐっては、ロシアが開発した軍用の化学兵器「ノビチョク」が使用されたとして、英国はロシアが関わった可能性が極めて高いなどと非難したほか、対抗措置として欧米諸国がロシア外交官を追放した。
10 これらの生物・化学兵器の開発・製造に使用しうる関連汎用品・技術は、国際的な輸出管理を行う枠組み(オーストラリア・グループ)の合意に基づき、わが国を含む加盟国の国内法令によって輸出が管理されている。
11 相手の弱点をつくための攻撃手段であって、在来型の手段以外のもの。大量破壊兵器、弾道ミサイル、テロ、サイバー攻撃など
12 防衛庁(当時)「生物兵器対処に係る基本的考え方」(02(平成14)年1月)
13 09(平成21)年11月、生物兵器の拡散やテロリストによる同兵器の使用に対応するための指針である「生物学上の脅威に対する国家戦略」が発表された。オバマ米大統領(当時)は10(平成22)年1月の一般教書演説で、生物テロや感染症に迅速かつ効果的に対応するための新たなイニシアティブを立ち上げていると述べた。
14 米大統領令(10(平成22)年7月2日)
15 マスタードは、遅効性のびらん剤。タブン、サリンは、即効性の神経剤
16 特に1988(昭和63)年にクルド人の村に対して行われた化学兵器による攻撃では、一度に数千人の死者が出たとされる。
17 化学剤の原料となる比較的有害ではない2種類の化学物質を別々に充填した兵器で、発射の衝撃などでこれらが弾頭内で混合され、化学反応が起き、化学剤が合成されるように考案されたもの。当初から化学剤を充填したものに比較して貯蔵、取扱が容易である。
18 09(平成21)年2月、イラクは化学兵器禁止条約(CWC:Chemical Weapons Convention)の締約国となった。
19 「国連シリア化学兵器使用疑惑調査団最終報告書」(13(平成25)年12月12日)
20 OPCW執行理事会特別会合(第33回及び34回)
21 国連安保理決議第2118号
22 OPCWによるとサリンやVXガスなど毒性が極めて強い「カテゴリーI」に分類された化学物質600トンが廃棄されたと報告されている(14(平成26)年8月19日、OPCW事務局長声明)。16(平成28年)1月、シリア政府が申告した全ての化学兵器の廃棄が完了したとOPCWは報告している。
23 ISILについては3章1節2参照
24 国連とOPCWの共同調査メカニズム(JIM)は報告書において、シリア政府軍がティルメナス(14(平成26)年4月)、サルミーン(15(平成27)年3月)、クミーナース(15(平成27)年3月)において塩素ガス、ハーン・シュイフーン(17(平成29年)4月)においてサリンを使用したことを断定している。また、ISILが、マーレア(15(平成27)年8月)、ウンム・ホーシュ(16(平成28)年9月)においてマスタードガスを使用したと断定している。16(平成28)年2月の米国家情報長官「世界脅威評価」は、本事案へのISILの関与を指摘するとともに、シリアにおいて非国家主体が化学物質を戦闘に使用していると評価した。
25 本件につき、18(平成30)年4月10日、米国が提案した、化学兵器使用者を特定する国連独立調査メカニズムを設置する決議案が国連安保理で採決されたが、ロシアの拒否権行使により否決された。
26 米英仏3か国による軍事行動を含むシリア情勢全般については、3章1節3参照
青楓は、作家の夏目漱石と親しく交流していた。
ある時、漱石に誘われ出かけた「良寛展」で、
自らも「ああゆう風な字をかいてみたい」と、手習いを始めたことから、
画家・津田青楓の新たな「書の世界」が始まった。
●近代日本を代表する詩人にして経済学者、河上肇の全遺墨を初集成!(いっかい・ともよし/神戸大学名誉教授)
「琴棋書画」
「琴棋書画」という言葉がある。
過去の中国では、7絃の琴を弾じ、囲碁を楽しみ、書を書き、画を描くという4つの事は、文人と呼ばれる人々の必須の教養であり、また資格でもあった。とりわけ書をよくすることは、学者、文人の風格を表わすものとして、尊重された。
唐以前の文人の書は、あまり残っておらず、たとえば李白、杜甫の書を、現代は見ることができない。しかし宋以後の書、たとえば蘇東坡や黄山谷、陸放翁などの、文字通り墨痕淋漓たる書を、われわれは直接鑑賞することができる。
学者、文人が書をよくするという中国の伝統は、わが国にも受けつがれた。江戸時代の知識人たちの必須の要件は、漢詩漢文が自由に読め、また自ら作れることだった。しかしそれだけでは、文人として尊重されない。「琴棋」は別として、「書画」をよくすることが、江戸の知識人たちのステータス・シンボルであった。その伝統は、時代の流れとともに徐々に稀薄になるものの、明治期の知識人にも受けつがれた。
たとえば、江戸末期、慶応3年に生まれた夏目漱石(1867-1916)は、英文学者、作家として多くの論文や小説を書き残したが、同時にわれわれは彼の少なからぬ書画を、鑑賞することができる。
河上肇と書画
漱石よりひと回り年下の河上肇(1879-1946)は、わが国にマルクス主義を紹介した経済学者として知られるが、彼もまた「文人」と呼ばれるのにふさわしい人物であった。
河上肇は少年時代、友人たちと語らって手書きの同人雑誌を作り、自ら挿絵を描き、文字を墨書して、すでに書画の才の萌芽を見せていた。
山口県の高校から東京帝国大学に進学して、経済学を専攻した彼は、やがて京都帝国大学に教職を得る。きわめて真摯で精力的な河上肇は、積み上げると自らの身長を越すと言われる多くの著書を刊行し、大学教授として多忙な生活を送っていた。そのため、書画の才を発揮する機会には、ほとんど恵まれなかった。ただ、ごく短い期間(大正末期)、風流を好む大学教授たちが、学部の枠をこえて集まり、画家津田青楓を囲んで、それぞれ書を書き画を描いて楽しむ「翰墨会」を、毎月開いたことがあった。
それは当時の河上肇にとって、忙中閑を味わうオアシスであった。しかしそれも長くはつづかず、彼はやがて書斎から出て、社会活動に踏み込むようになり、生活は一層多忙となった。
折りにふれて労働組合などに頼まれ、マルクスやジョルジュ・サンドの言葉を揮毫することはあったが、書画を楽しむ余裕などない、厳しい毎日がつづいた。
獄中期以降
河上肇がようやく書画に親しむ機会を得たのは、皮肉にも彼が官憲に捕えられて自由を奪われ、獄中の人となった昭和8年(54歳)以後のことであった。
彼は獄中で中国の詩人たちの多くの作品を読み、気に入った詩句を選んで、短冊や半截に墨書して楽しんだ。また自ら和語の詩や短歌を作り、これも墨書して残している。
足かけ五年の刑期を終えて出獄したあとも、学者としての研究生活を禁ぜられ、やがて自らも漢詩を作るようになる。そしてそれらの作品を、色紙や条幅に書いて、知人から頼まれれば、これを頒った。
本書はそれら河上肇の墨蹟を蒐めて、これに解説を加えたものである。
私たちは、以前から河上肇の詩と書に傾倒し、03年、雑誌『環』(藤原書店刊)に、「河上肇の『詩』と『書』」と題して、彼の漢詩作品や和語の詩とその墨蹟を紹介する連載をはじめた。連載は6回で一応終えたが、読者の要望にこたえて、さらに多くの墨蹟を紹介すべく、本書の刊行を企画した。
本書によって、河上肇の墨蹟をゆっくりと鑑賞していただきたい。
人間は人情を食べる動物である。少くとも私は、人から饗応を受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味うことを免れ得ない人間である。で、相手が自分の住んでいる環境の中で、能う限りの才覚を働かせて献げて呉れた物であるなら、たといそれが舌にはまずく感覚されようとも、私の魂はそれを有り難く頂く。それと逆に、たといどんな結構な御馳走であろうとも、犬にでも遣るような気持で出された物は、食べても実際うまくない。折角御馳走を頂きながら、私は少しも感謝の情を起さず、むしろ反感を残す。場合によっては、その反感がいつまでも消えず、時々思い出しては反芻するうちに、次第に苦味を増しさえすることがある。
私のこうした傾向は人並より強いらしく思われる。京都にいる娘から羊羹など送って呉れると、同じ店の同じ種類の製品ても、友人に貰った物より娘の呉れた物の方を、私は遥にうまく食べる。格段に味が違うので、私は客観的に品質が違うのだと主張することがあるが、妻などは笑って相手にしないから、これは私の味覚が感情によって左右されるのかも知れない。(この一文を書いて四ヶ月ばかり経ってから、私はふと高青邱の「呉中の新旧、遠く新酒を寄す」と題する詩に、「双壷遠く寄せて碧香新たに、酒内情多くして人を酔はしめ易し。上国豈に千日の醸なからむや、独り憐む此は是れ故郷の春。」というのがあるのに邂逅して、古人已に早く我が情を賦せりの感を深くした。)
とにかく私はそういう人間だから、もう半世紀近くも昔になる私の少年時代に食べたおはぎの味を、未だに忘れることが出来ずに居り、その記憶は、叔母の姿をいつまでも懐しいものに思わせてくれ、今も私を駆って、この思い出を書かしめて居るのである。
感謝する姿はしおらしくて上品だが、不平がましい面を曝すのは醜くて卑しい。しかし此の思い出も亦自画像のためのスケッチの一つだと考えている私は、序に醜い側をも書き添えて置かねばなるまい。――書こうと思うことは、自分の事ばかりでなく、他人の事にも関係するので、心の中で思っているのはまだしも、物にまで書き残すのはどんなものかと、私はいくたびもためらったが、やはり書いて見ようという気になって、ここに筆を続ける。
大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかで委しく書かれている筈である。)その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓に集って翰墨の遊びをするようになった。その常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんやという素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨を磨ったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々のかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷を結っていた此の女は、美しくもなく粋でもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
私はこの翰墨会で初めて画箋紙に日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈の上に展げて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇したものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くと硯の墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割を有っていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした清遊は、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の閑日月であって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
後年囹圄の身となるに及び、私は獄窓の下で屡々この昔日の清夢を想い起した。幸に生命があって再び家に帰ることがあったならば、今度こそは一切の世縁を抛たねばならぬ身の上であるから、ゆったりした気持で時折青楓氏の書房を訪い、たとい昔のような集りは出来なくとも、青楓氏と二人で、絵を描き字を書いて半日を過すことが出来たならば、どんなに嬉しいことであろう。出獄の日がやがて近づくにつれ、私は頻りにこうした空想に耽り、とうとうそんな意味のことを書いて、一度は獄中から青楓氏に手紙まで出したのであった。(その手紙は青楓氏により表装されているのを、後に見せて貰ったことがある。)
昭和十二年の六月、私は刑期が満ちて自分の家庭へ帰ることが出来た。僅か二十二円の家賃で借りたという小さな借家は、私の不在中に結婚した芳子の家と並んで、東京市の――数年前までは市外になっていた――西の郊外、杉並区天沼という所にあった。偶然にもそれは青楓氏の邸宅と、歩いて十数分の近距離にあった。何年か前に京都を引払って東京に移り、一時はプロレタリア芸術を標榜して洋画塾を開いていた青楓氏は、その頃もはや日本画専門となられ、以前からのアトリエも売ってしまい、新たに日本式の家屋を買い取って、住んで居られた。それは宏荘とまでは行かずとも、相当の構えの家であり、もちろん私の借家とは雲泥の差があった。
出獄後半年たつと、昭和十三年になり、私は久振りに自分の家庭で新春を迎える喜びを有ち得たが、丁度その時、正月七日の朝のことである、青楓氏が自分のうちで書初めをしないかと誘いに来られた。私はかねてからの獄中での空想が漸く実現されるのを喜んで、すぐに附いて行った。
二階の二間つづきの座敷が青楓氏の画室になっていた。二人はそこで絵を描いたり字を書いたりして見た。しかしそれは、私の予期に反し、獄中で空想していたほど楽しいものではなかった。何と云うことなしに索然たるものがあって、二人とも興に乗ることが出来なかった。時は過ぎ人は老いた、あの時の夢はやはり二度とは見られませんね、私は思わずそんなことを言って見たりした。
昼食時になると、私たちは階下の食堂に下りた。この室は最近に青楓氏が自分の好みで建て増しされたもりで、別号を雑炊子と称する同氏の絵に、どこか似通ったものが感じられた。同氏は油絵に日本絵具の金粉などを混用されたこともあり、日本画専門になってからも筆は総て油絵用のものを用いて居られるが、この室も、純白の壁や腰板などは洋風趣味であり、屋根裏へじかに板張りをした天井や、竹の格子子の附いた丸窓などは、茶室か書院かを想わす日本趣味であった。炬燵も蒲団へ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火があった。障子の硝子越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
炬燵の櫓を卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
私は出獄匆々にも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応を受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時に襖をしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度も頗る之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣を感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝を味った。
私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の裡に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸を取って、供された七種粥を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
人は落ち目になると僻み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条たる落魄の一老爺、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰天地に愧ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる袍を衣、狐貉を衣る者と、与に立って恥じざる」位の自負心は、窃に肚の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話して纏めたもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事を、それほどまで恩に感じていられるのかと、頗る青楓氏の人柄に感心するようになっていた。私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとって復た甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、漸く疑惑を有ち始めたもののようである。
その後の十一月の末、私はまた河田博士と共に青楓氏の画房を訪うた。今度上京するのを機会に、昔のように翰墨会を今一度やって見たいというのが博士の希望であり、私も喜んで之に賛成したのであった。吾々は青楓氏の画房で絵を描いたり字を書いたりして一日遊び、昼食は青楓氏の宅の近所にあるという精進料理の桃山亭で済まし、その費用は河田博士が弁ぜられる。そういうことに、予ねて打合せがしてあった。
その日私は当日の清興を空想しながら、
十余年前翰墨の間、
洛東相会送春還
洛東相会して春の還るを送る。
今日復逢都府北
今日復た逢ふ都府の北、
画楼秋影似東山
画楼の秋影東山に似たり。
という詩を用意して行った。画楼というのは元来彩色を施した楼閣の意味だろうが、ここでは青楓氏の画室を指したつもりであり、東山というのは京のひがしやまを指したのである。
漢詩の真似事を始めて間もない頃のこととて、詩は甚だ幼稚だが、実際のところ私はまだそんな期待を抱いていたのである。しかし後に書くように、画楼の秋影は私のため残念ながらその昔の東山に似ることを得なかった。
雑談を済まして吾々が筆を執り始めると、間もなく昼食時になった。ところがその時青楓氏から、桃山亭の方は夕刻そこで食事して別れることにし、昼は簡単な食事をうちで済ませてくれ、と申出があった。で、私は思い掛けなく再びここの家庭で饗応にあずかる機会を有ったが、今度はその御馳走が余りにも立派なので、その立派さに比例する不快を感ぜざるを得なかった。私は正月の七種粥を思い出し、それと著しい対照を呈している今日の饗応ぶりを見て、簡素な待遇が必ずしもここの家風でないことを知った。そして私は、お前一人ならどうでもいいのだが、今日は河田博士に御馳走がしたいので、という意味の無言の挨拶を、その場の雰囲気や夫人の態度から、耳に聞えるほどに感じた。結構な御馳走が次から次へ運ばれるにつれて、私の心は益々不快になった。人間は人情を食べる動物である。折角御馳走になりながら、私の舌に長えに苦味を残した。それはその後反芻される毎に、次第に苦味を増すかに覚える。――こういうのが恐らく落目になった老人の僻み根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記に拠ったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿の稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装をして居たのだろうか、紋服を着であの竹藪の間を歩いたものだろうかなどと、当時の様子を想像しかねて居たが、母の話のおかげでこうした疑問がすっかり解けた。結婚披露の宴が済んでから、私たちは人力車に乗って帰ったが、車夫がふるまい酒に酔っぱらって、喧嘩など始めたため、吾々はみな途中から俥を下りて、歩いて帰った。これも母の思い出話である。
序に書き加えておくが、私が以上の本文の清書を了えたのは、昭和十六年十二月十日のことであるが、私はそれから十日目の十二月二十日、満十二年ぶりに、東海道線の汽車に乗って、居を東京から京都に移した。その際、東京を引上げるについては、私は名残りを措しんでくれる一二の友人から思い掛けなき厚意を受け、忘れがたき思い出の種子を残すことが出来たが、ただ一つ心に寂しく思ったことは、世間からは無二の親交を続けて居るように思われている青楓氏と、まことにあっけない簡単な別れ方をしたことである。私は早くから同氏に転居の意思あることを話しておいた。そして、或日私は、北京土産に貰った玉版箋を携えて、暇乞いかたがた同氏を訪問した。これまで私は何遍か同氏を訪問しているが、不思議なほどいつも不在であり、この時も亦た不在であった。ところがその後夫人から手紙が来て、立つ時が決まったら知らしてくれ、送別の宴を張ると云えばよろしいが、それは出来ないので、お餞別を上げるつもりだから、とのことであった。そして今居る女中は京都へ連れて行くつもりなのか、もしそうでなければ、こちらへ譲って呉れまいか、などと書いてあった。私は、立つなら物をやるから時日を知らせ、などという手紙の書き方を、不快に感じないわけに行かなかったが、しかし愈々立とうという時にその事を知らせた。すると、丁度運送屋が来ていて混雑している最中に、青楓氏が玄関先きまで来られて、家内が食事を上げたいと云うから今晩二人で来てくれないか、との話があったが、取込んでいる最中そんなことは到底不可能だから断ると、それではと云うことで、玄関先きで別れてしまった。私は到底再び東京などへ遣って来られる人間ではなし、これで最早や一生の別れになるかも知れないと思ったが、同氏との多年にわたる交友の最後は、遂に斯様な切れ目を見せたのてある。餞別をやるとのことであったが、――そして紙一枚でも好意の籠った贈物なら人並み以上に喜ぶ今の私であるけれども、――とうとう約束の餞別も受けずに済んだ。こんなことまで書き残しておくと、後で見る人はさもしくも思うであろうが、私は今「七種粥」の追記として、以上のことを書いておかねば気が済まないのである。