「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

志賀直哉の「主人持ちの文学」とは?

2009-02-01 10:58:32 | 仲間たちから多喜二への手紙

志賀直哉の多喜二宛書簡中の「主人持ちの文学」について、小山さんから問題提起いただき、神奈備、ねこばんだ、めい、takahashiさんにコメントをいただきました。ありがとうございました。まだまだ語り尽くせないところかと思いますが、とりあえずのまとめとして以下に紹介します。

 

文学にも文学運動にも (神奈備 幸葉) 2009-01-27 22:27:09

「主人持ち」なんて生易しいもんじゃなくて「茶坊主」や「使用人」果ては「奴隷」になり下がっちまってるもんが、確かにある。右にも、左にも。 分けてみる (ねこぱんだ) 2009-01-27 23:34:32 書き手の立場と、読み手の立場とを分けて考えることが可能なのではないかと思います。客観的に、書くことが自分の表現であるならば、その人の内面化した思想が、どこかに反映されるのではないでしょうか。それが、読み手に「主人もち」と受けとめられるのならば、そこは人をうつ力が弱いということになるのかもしれません。

「下僕持ちの文学」とは? (佐藤三郎) 2009-01-28 00:09:31

「主人」とはなんだろう?

神奈備さん いつも厳しい叱咤ですね。さて、小山さん指摘のノーマさんの着目としての志賀直哉の変化――限定つきの「肯定」を視野に置きながら考える必要がありますね。「要は人をうつ力があるもの、人を一段と高いところへ引き揚げる力がある作品であればいいのだ。そういう作品が現われてくるならば、反対にはっきり主人持ちの文学として現われてきた来たからといって一向差し支えあるまい」(志賀直哉) ここでは「主人」とは何かということを考えてみたいと思います。志賀直哉が対象としている「主人」とは、「政党」という狭い概念でしょうか? 多喜二に送った志賀直哉書巻の一節は以下のとおりです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「プロレタリア運動の意識」です。しかし、その「プロレタリア運動意識」の失敗作として指摘されているのは、金子洋文「魚河岸」、津田青楓からもらった貴司山治「ゴーストップ」です。志賀直哉はこれまでプロレタリア文学はこの二つしか読んでいないといっています。 その二つの作を見たきりのプロレタリア文学に比べ、多喜二の作は

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました。「 三・一五」は一つの事件のいろいろな人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と評価しています。その上で「オルグ」は感心しないといっています。 この文脈のなかで、志賀直哉は

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。大衆を教へると云ふ事が多少でも目的になってゐる所は芸術としては弱身になってゐるやうに思へます。さういふ所は矢張り一種の小児病のやうに思はれました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

と述べています。 これに続けて里見の「今年竹」を批判的に検証してのち、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

フイリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰れでもがその境遇に置かれればさう感じるだらうと思はれる主観なので素直にうけいれられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思ひます。絵の方でいへばキュビズムは兎に角純粋の絵の上の運動なるが故に生命があり、未来派は不純な要素が多く、その為め、更に物が生ずる事なしに亡んだやうに思ひます。トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばってゐたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合」という限定的な「肯定」はすでにここに明かにされています。 志賀直哉にとっての「主人」は、芸術の頭を押さえる「主観」だということではないでしょうか? ここで私は思う、芸術思想なき文学は批評の対象に値するのだろうか。批評する際に、作者の芸術思想は対象にできない批評が、批評として成立できるのだろうか?  ギリシア美術や、キリスト教美術、仏教美術もその思想を去勢して批評しうるのかと。           

                                                              ◇

ここまで来て、私は「主人持ちの文学」の反対語はなんだろうかと考えます。それは「下僕持ちの文学」ではないかと――。 下僕=奴隷の犠牲の上に胡坐をかいている、寄生者、寄食者の文学。 しかし、プロレタリア文学以前に刊行・流布された文学世界は、この「下僕者持ちの文学」の歴史ではなかったかと。※もちろんすべてではないにしろ。

「主人持ち」は嫌だが「主人」になるのは構わないやつ (神奈備 幸葉)

2009-01-28 01:12:01 志賀は現実生活で自分が「主人」であることにはなんの疑いも抱かないようなやつだ。小説にもそう書いてある。 読み手と書き手 (ねこぱんだ) 2009-01-28 22:16:50 志賀直哉が、最初に手紙で書いた「主人持ち」とは、読者の立場からの発言ではないでしょうか。読み手の側から、作者の内面から出てこないものを指しているのではと思います。一方、貴司山治との対話の中で出てきた「主人持ち」とは、書き手の立場から、よい作品を創造することができるのならば、その人がどんな思想や世界観をもっていても、同じ書き手としてつきあうことができるということなのではないでしょうか。

レーニンの「党の組織と党の文学」 (takahashi)2009-01-29 08:17:46

志賀直哉と小林多喜二のなかで「主人持ちの文学」論議は、二人の私信でのやりとりであり、多喜二にとってはそれは、例の色紙「我々の芸術は・・・」に示された文学観――我々の文学は飯を食えない人々のためのものだ、に示されている。これは多喜二が1931年11月に奈良の志賀直哉と対談して直後のもので、プレてはいない。逆にノーマ教授がいうように、志賀直哉の認識が深まって、条件的肯定へとすすんでいることは明らかだ。しかし、ここに別な問題がある。志賀直哉のこの私信が「文学案内」に掲載されてからのプロレタリア文学運動の反応だ。その前に、多喜二にとっての「主人持ちの文学」とは別に、当時の文学運動―党フラクの「読み手」、批評の「書き手」には別な事情があったのではないか。とりあえず、レーニンがロシア社会民主労働党の機関紙『ノーヴァヤ・ジーズ二』紙上に発表した「党の組織と党の文学」で何を主張したのかが検討されなくてはならないと思う。

主人とは? (小山) 2009-01-29 23:44:47

 主人とは? など、考えることがたくさんあります。この論議をもっと深めたいし、考えてみたいこと、考えていることもあるのですが、少々ハードスケジュールで余裕がないので、後日発言したいと思います。 私から問題提起しながら、申し訳ありません。明日・明後日は一泊の討論集会があります。帰ってきたら、この議論に参加したいと思います。

志賀の言葉 (めい) 2009-01-30 20:58:50

主人持ちである点好みません。。。という言葉、トルストイを引き合いに出しての例、そして、巻頭言の、「夢殿の救世観音をみていると、その作者ということはまったく浮かんでこない・・」という言葉を考え合わせると、志賀は、芸術至上主義的なところが幾分かあったのかなと思いました。 作り手の匂いがない、誰のためのものでもない、純粋な芸術それだけで成り立ってるものに価値を感じるのではないかと思いました。

激励だったのでは (ねこぱんだ) 2009-01-31 00:14:57

志賀直哉の発言で、「トルストイ」にしても、「観音像」にしても、ある種の思想・宗教の持ち主の作品であるわけです。それでも、すぐれた芸術は作者を越えるといっているのですから、「主人持ち」であっても、いいものを書けば評価されるんだよ、と多喜二を励ましたのではないでしょうか。それを、後世の人が曲解して、「主人持ち」ということばを、誹謗や罵倒のために使っているのが現実なわけで(昨年の佐高氏もそうでしょう)、そこを分けて考えることも必要だと思います。

志賀直哉が示した「主人」 (小山) 2009-01-31 18:11:31

佐藤さんから、"「主人」とは何かということを考えてみたい"ということで、志賀直哉の書簡が示され、"志賀直哉にとっての「主人」は、芸術の頭を押さえる「主観」だということではないでしょうか?"との意見が示されています。 ここは志賀直哉の文章を素直に読めばいいと思います。

志賀直哉は「プロレタリア運動の意識」と言っています。ここまでは佐藤さんと同じなのですが、私は、ここでは、これだけで十分だと思います。

 志賀直哉がいう「主人持ち」とは、「プロレタリア運動の意識」が先行しているという位置づけだと思います。そのうえで、志賀直哉が考えるプロレタリア運動の意識がどうなのかということは、考える必要があります。

当時のプロレタリア運動の意識とは、やはりマルクス主義、共産主義も含まれていると思います。志賀直哉の中にもそうした認識はあったと思います。そのうえで、そうした意識が小説に反映することを志賀直哉は"好まない"し、"作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました"とあるように、志賀直哉のあくまでも「思い」を語ったのが、最初の書簡です。

そして、そう思っていた志賀直哉が、多喜二が「社会」と個々の人間を描くうえでどう向き合っていたかということにまでは思いが至らなかったのだと思いますし、その「社会」に対する認識に隔たりがあったのだと思います。そのことに気がついたのは、多喜二の虐殺を知った時だったのではないでしょうか。 「不図彼らの意図ものになるべしといふ気する」 この言葉に志賀直哉の、それまでの発言になかった変化が読み取れます。 ここで、ノーマさんが、「戦略的な「嘘」としてのプロパガンダではけっしてないのです」(P14)という指摘が、的をついていると思うのです。

志賀直哉の頭の中には「戦略的」という意識があったのではないでしょうか。「プロレタリア運動の意識」が「戦略的」な小説を書かせてしまっていると思い込んでいたのが、どうも違うぞと思ったのではないでしょうか。「嘘」でなければ、それが社会の真実の現れならば、社会の真実とそれに取り組む真実の人間の姿が描かれるのであれば、"主人持ち"="プロレタリア運動の意識"があってもいいし、反対に積極的に描いてもいいという風に考えたのではないでしょうか。

 「救いを出そうとすると、それが、こんな生活の場合うそのように思われる」と真剣に考え創作に臨んだ多喜二の精神を、志賀直哉はいつのまにか逆の立場から考えたのではないでしょうか。 整理せずに綴りましたので、わかりにくいですが、ノーマさんの視点から思ったことです。また、時間のある時に考えてみます。

 


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
多喜二と会う前の、志賀の「左翼観」 (御影暢雄)
2009-02-02 20:01:30
 志賀直哉が多喜二へ「高畑からの手紙」を書いた頃は、志賀は左翼に対して良い印象を持っておらず、「主人持ち」と言う言葉の背景には、高飛車で無礼な一部の自称「左翼=プロレタリア運動家」を意識していたのではないでしょうか。貴司山治とのインタビューで(あるいは阿川宏之「志賀直哉」)、多喜二に初めて会って、”(多喜二は)人柄がいいと思ったし、すっかり大人だと思って、それまで抱いていたプロレタリア作家というものに対する僕の考えを直してくれたような人だ”と語っており、同インタビューでも「手紙」を書いた時とは「主人持ち」の論理建てが変化しているようですね。
返信する
変化 (小山)
2009-02-04 21:20:50
この変化を考えることは重要だと思います。
「思い込み」から解放される時代的背景があったことも見過ごせないでしょう。
今日の「蟹工船」ブームと日本共産党への注目。その根本に何があるのか。そのことを考えると、なんらかのヒントがあるかもしれません。
返信する
欠落の段落があるが、何だったか (ひんひん)
2012-03-14 12:05:18
その上で「オルグ」は感心しないといっています。 この文脈のなかで、志賀直哉は

この語の文章が間違いました、何でしたか。
加筆をお願いします。
返信する
ひんひん様 志賀直哉の多喜二宛書簡の全文を掲載します。 (佐藤)
2012-03-14 22:07:00
手紙大変遅れました。
君の小説、「オルグ」「蟹工船」最近の小品、「三・一五」といふ順で拝見しました。
「オルグ」は私はそれ程に感心しませんでした。「蟹工船」が中で一番念入ってよく書けてゐると思ひ、描写の生々と新しい点感心しました。
「 三・一五」は一つの事件のいろいろな人の場合をよく集め、よく書いてあると思いました。
私の気持から云へば、プロレタリア運動の意識の出て来る所が気になりました。小説が主人持ちである点好みません。プロレタリア運動にたづさはる人として止むを得ぬことのやうに思はれますが、作品として不純になり、不純になるが為めに効果も弱くなると思ひました。大衆を教へると云ふ事が多少でも目的になってゐる所は芸術としては弱身になってゐるやうに思へます。さういふ所は矢張り一種の小児病のやうに思はれました。里見の「今年竹」といふ小説を見て、ある男がある女の手紙を見て感激する事が書いてあり、私は里見にその部分の不服をいった事がありますが、その女の手紙を見て読者として別に感激させられないのに主人公の男が切に感激するのは馬鹿々々しく、下手な書き方だと思ふといったのです。力を入れるのは女の手紙で、その手紙それ自身が直接読者を感動させれば、男の主人公の感動する事は書かなくていいと思ふと云ったのです。
君の「蟹工船」の場合にさういふ風に感じたわけではありませんが、プロレタリア小説も大体に於てさういふ行き方の方が芸術作品になり、効果からいっても強いものになると思ひます。
プロレタリア芸術の理論は何も知りませんが、イデオロギーを意識的に持つ事は如何なる意味でも弱くなり、悪いと思ひます。
作家の血となり肉となったものが自然に作品の中で主張する場合は兎も角、何かある考へを作品の中で主張する事は芸術としては困難な事で、よくない事だと思ひます。運動の意識から全く独立したプロレタリア芸術が本統のプロレタリア芸術になるものだと思ひます。
フイリップにしろ、マイケル・ゴールドにしろ、かなり主観的な所はあっても誰れでもがその境遇に置かれればさう感じるだらうと思はれる主観なので素直にうけいれられます。つまり作者はどういう傾向にしろ兎に角純粋に作者である事が第一条件だと思ひます。絵の方でいへばキュビズムは兎に角純粋の絵の上の運動なるが故に生命があり、未来派は不純な要素が多く、その為め、更に物が生ずる事なしに亡んだやうに思ひます。
トルストイは芸術家であると同時に思想家であるとして、然し作品を見れば完全に芸術家が思想家の頭をおさへて仕事されてある点、矢張り大きい感じがして偉いと思ひます。トルストイの作品でトルストイの思想家が若しもっとのさばってゐたら作品はもっと薄っぺらになり弱くなると思ひます。
主人持ちの芸術はどうしても希薄になると思ひます。文学の理論は一切見てゐないといっていい位なので、プロレタリア文学論も知りませんが、運動意識から独立したプロレタリア小説が本当のプロレタリア小説で、その方が結果からいっても強い働きをするやうに私は考へます。
前に洋文から「魚河岸」といふ本を貰い、その前、津田青楓にすすめられて「ゴー・ストップ」といふ本を見たきりで所謂プロレタリア小説といふものは他に知らないのですが、前の二つとも作品としては兎に角運動が目的なら、もう少し熱があってもよささうなものだと感じましたが、その点君のものには熱が感じられ愉快でした。それに「ゴー・ストップ」(比較は失礼かもしれませんが)などに出て来る女の関係変に下品に甘ったるいのがいやでしたが、君のものではさういふ甘ったるさなくこれも気持よく思はれました。
色々な事露骨に書いてある所も不思議に不快な感じがなく大変よく思ひました。態度の真面目さから来るのだと思ひました。
それからこれは余計な事かも知れませんが、ある一つの出来事を知らせたい場合は、却って一つの記事として会話などなしに、小説の形をとらずに書かれた方が強くなると思ひました。かういふ事は削除されて或ひは駄目なのかと思ひますが、さういふ性質の材料のものは会話だけで読んでゐてまどろっこしくなります。
それから「蟹工船」でも「三・一五」でも正視できないやうなザンギャクな事が書いてある、それが資本主義の産物だといへばいへるやうなものの、又さういっただけではかたづかない問題だと思ひました。
作品の運動意識がない方がいいと云ふのは私は純粋作品本位でいった事で君が運動を離れて純粋に小説家として生活される事を望むといふやうな老婆心からではありません。
八月七日 志賀直哉

 小林多喜二様
返信する

コメントを投稿