●貴司 山治 (きし・やまじ、1899・12・22-1973・11・20) 山治は、明治32年(1899)徳島県板野郡鳴門村大字高島村字南
162番地生まれ。本名・伊藤好市(こういち)。板野郡鳴門村立尋常小学校卒(本人は中退という)。
162番地生まれ。本名・伊藤好市(こういち)。板野郡鳴門村立尋常小学校卒(本人は中退という)。
1920(大正9)年『大阪時事新報』の懸賞小説に応募「紫の袍」(選外佳作三等)したのを機に同社の記者になり、25年、「新恋愛行」が
『東京時事新報』の懸賞小説に入選。翌年、『東京朝日新聞』の懸賞映画小説に「霊の審判」が入選し、作家生活に入る。
『東京時事新報』の懸賞小説に入選。翌年、『東京朝日新聞』の懸賞映画小説に「霊の審判」が入選し、作家生活に入る。
大衆文学の新人作家として、『富士』『講談倶楽部』『新青年』などに小説を発表していたが、28(昭和3)年、8月『東京毎夕新聞』に「止
まれ、進め」(後に「ゴー・
まれ、進め」(後に「ゴー・
ストップ」に改題)連載。「舞踏会事件」を『無産者新聞』に発表したのを契機に、翌年、日本プロレタリア作家同盟が創立されると同時に参
加した。
加した。
作家同盟の運動のなかでプロレタリア文学の大衆化をとなえ、その総括として「芸術大衆化に関する決議」を発表。「忍術武勇伝」「同志
愛」「敵の娘」などをたてつづけに発表し、プロレタリア文学のなかに、大衆小説の位置づけとジャンルを切りひらき、一貫して大衆化の問
題を追求した。
愛」「敵の娘」などをたてつづけに発表し、プロレタリア文学のなかに、大衆小説の位置づけとジャンルを切りひらき、一貫して大衆化の問
題を追求した。
30年5月 中旬、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、小林多喜二、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪をまわる。
31年プロレタリア写真家同盟を結成、委員長となる。
●江口渙,貴司山治編『ナップ傑作集』 (改造社 31)は、小林多喜二の「壁にはられた写真」を選ぶ。
32年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)にたいする大弾圧で、中野重治、蔵原惟人らとともに検挙される。治安維持法違反で検挙さ
れ、年末まで拘留される。
れ、年末まで拘留される。
翌年、小林多喜二が築地警察署で虐殺され、プロレタリア作家同盟の機能はほぼ壊滅状態になり、転向者が続出した。
●『プロレタリア文学』(33年3月号 2巻4号 33年5月1日発行 編集・発行人:猪野省三:日本プロレタリア作家同盟 編集出版部)=「闘争
者・小林多喜二」 貴司山治
者・小林多喜二」 貴司山治
4月、『小林多喜二全集』(プロレタリア作家同盟編)編集に参画、同書は発禁処分となる。
宮本百合子は、『プロレタリア文化』(日本プロレタリア文化連盟機関誌 33/4)の「同志小林の業績の評価に寄せて――誤れる評価との闘
争を通じて――」で、山治の多喜二観を批判した。
争を通じて――」で、山治の多喜二観を批判した。
さらに百合子は、「国民新聞』(33/4/6、8~10)「同志小林の業績の評価によせて――四月の二三の作品――」で、
同志貴司山治は『改造』四月号の「人及び作家としての小林多喜二」で人間の「完成」「未完成」「性格」というようなものを何か固定
的なもののようにもち出している。同志貴司は同志小林の性格における宿命的特徴のように「偏狭であった」ということを強調し、さながら
同志小林の日和見主義との妥協ない闘争は、その「偏狭さ」の現れであったかのような印象を読者に与えている。
的なもののようにもち出している。同志貴司は同志小林の性格における宿命的特徴のように「偏狭であった」ということを強調し、さながら
同志小林の日和見主義との妥協ない闘争は、その「偏狭さ」の現れであったかのような印象を読者に与えている。
と具体的にその同意できない内容を指摘した。
34年、1月杉並署に再検挙拘留され、3月釈放。この間の2月、プロレタリア作家同盟(鹿地亘書記長)は、貴司の留守宅で委員会をひら
き、解散を決議。6月、転向声明を『朝日新聞』に発表。
き、解散を決議。6月、転向声明を『朝日新聞』に発表。
35年、貴司は文学案内社をおこして雑誌『文学案内』『詩人』『実録文学』を拠点に執筆をつづけた。
山治は、百合子からの批判を受ける一方、地下活動中の宮本顕治・日本共産党中央委員に『小林多喜二全集』の編纂を委託される。
1935年 (昭和10年)には、山治は志賀直哉にインタビューし、多喜二の文学と人間を語らせた(「志賀直哉氏の文学縦横談」『文学案内』
35年11月)。
35年11月)。
※貴司山治の回想=1933年の初夏、私は共産党中央部の幹部として活動としていた宮本顕治から「小林多喜二全集の発行は党中央
委員会の仕事として行うことにきめた。自分が中央委員会から委任をうけて処置することになったので、君が合法面でのその仕事の責任
者となってやってもらいたい」との相談を受けた。(中略)私は、六十何人のプロレタリア文化人やその他の自由主義的、進歩的文化人を集
めた独立の、大衆的な小林多喜二全集刊行会を設立して、1933年の夏から秋へかけて、前金と基金の募集を行い、『党生活者』の伏字
なし、原文どおりの組版を終えた。」「プロレタリア文化団体は、その時もはや四分五列の状態で、基金、前金合わせて三百円余り集まっ
たが、刊行は不可能であった。刊行会が党中央(宮本)に直結した合法活動だと気づいている者は幸いに一人もなかった・・・」(「『小林多
喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))
委員会の仕事として行うことにきめた。自分が中央委員会から委任をうけて処置することになったので、君が合法面でのその仕事の責任
者となってやってもらいたい」との相談を受けた。(中略)私は、六十何人のプロレタリア文化人やその他の自由主義的、進歩的文化人を集
めた独立の、大衆的な小林多喜二全集刊行会を設立して、1933年の夏から秋へかけて、前金と基金の募集を行い、『党生活者』の伏字
なし、原文どおりの組版を終えた。」「プロレタリア文化団体は、その時もはや四分五列の状態で、基金、前金合わせて三百円余り集まっ
たが、刊行は不可能であった。刊行会が党中央(宮本)に直結した合法活動だと気づいている者は幸いに一人もなかった・・・」(「『小林多
喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))
※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウ
カ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さ
んして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))
カ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さ
んして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))
●『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者.地区の人々.沼尻村.転形期の人々.一九二八年三月十五日
●『小林多喜二全集』(第1巻 ナウカ社) =第1巻 蟹工船 他25篇
●『小林多喜二全集』(第2巻 ナウカ社) =不在地主,工場細胞,オルグ,安子 第3巻×生活者,地区の人々,沼尻村,転形期の人々,一九二八
年三月十五日
年三月十五日
●『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=田口滝子への手紙,蔵原惟人への手紙,志賀直哉への手紙,出京前の手紙,獄中からの手紙,一
九三一年の手紙,一九三二年の手紙,北海道の同志に送る手紙, 年譜
九三一年の手紙,一九三二年の手紙,北海道の同志に送る手紙, 年譜
34~35年にかけての「転向論争」で、「文学者に就て」(『東京朝日新聞』12月12~15日)を発表。良心の苦悩と再建への手さぐりを模索
しようとしたが、中野重治は、「『文学者に就て』について」(『行動』34年2月号)で、これを批判した。
しようとしたが、中野重治は、「『文学者に就て』について」(『行動』34年2月号)で、これを批判した。
この頃、木村毅らと実践文学研究会を組織し、歴史戯曲「石田三成」「洋学年代記」などの風刺的作品を執筆する。のち、満州生活をへ
て丹波で開墾を始め、敗戦後は農民運動に入り、文芸通信社を経営した。代表作には「ゴー・ストップ」「東京零時」「維新前夜」などがあ
る。
て丹波で開墾を始め、敗戦後は農民運動に入り、文芸通信社を経営した。代表作には「ゴー・ストップ」「東京零時」「維新前夜」などがあ
る。
37年1月 治安維持法違反で、3度目の検挙され、年末まで一年間拘留。4月1日『文学案内』終刊。名実ともに「プロレタリア文学時代」の
幕ひきとなる。
幕ひきとなる。
41年 1月 妻恵津肺結核のため死亡。
「維新前夜」読売新聞に連載。後に映画化。
この頃から昭和19年にかけて「木像奇譚」「大扶桑国」「戦国英雄伝」「博多の刀鍛冶」など多数の歴史大衆小説を発表公刊した。
43年2月 日野原孝子と再婚。
45年4月 京都府船井郡胡麻(現日吉町)に疎開。開墾に従事。
46年3月 京都府農地委員となり未墾地解放を担当。4月 文学雑誌「東西」を京都で創刊。(一年継続)10月 全日本開拓者連盟創立、
中央常任委員となる。
中央常任委員となる。
48年 京都から焼け残った東京の自宅に帰る。
●『小林多喜二全集. 第9巻』(新日本文学会 日本評論社49)= 評論集 第2
※編纂委員=蔵原惟人、宮本顕治、江口渙、壺井繁治、窪川鶴次郎、勝本清一郎、
貴司山治、手塚英孝
53年 新聞通信社「作家クラブ」設立。後に「文芸社」と改名、昭和39年まで存続。この十年に徳島新聞、東京タイムスなど多くの地方新
聞に「愛の高原」「浪人絵巻」「美女千人城」(映画化)「武道はじめ」「禁断片手打ち」など連載小説多数執筆。社会新報(社会党機関紙)
に「東京零時」連載。
聞に「愛の高原」「浪人絵巻」「美女千人城」(映画化)「武道はじめ」「禁断片手打ち」など連載小説多数執筆。社会新報(社会党機関紙)
に「東京零時」連載。
61年 徳島の作家のための雑誌「暖流」を創刊。(昭和48年没年まで続く)
64年 戦前非合法時代から秘匿していた高知の詩人・槇村浩の原稿を中心に「間島バルチザンの歌-槇村浩詩集-」を公刊
69年 藤沢市辻堂に転居。
73年11月20日、脳梗塞で死去。74歳だった。
中野重治は「貴司山治への弔文」(原稿は 徳島県立書道文学館蔵)で、
――われわれは今、小林多喜二のほぼ完全な姿で読むことができる。けれどもそれがどれほど君の力によっていたかは、充分に記録さ
れていない。「党生活者」の伏字ナシ校正刷りが、長い戦争期間を通してどこにどう保存されてきたか、それを責任者として記録できるもの
は君以外になかった。
れていない。「党生活者」の伏字ナシ校正刷りが、長い戦争期間を通してどこにどう保存されてきたか、それを責任者として記録できるもの
は君以外になかった。
とその功績をたたえた。
『ゴー・ストップ 労働大衆版』(貴司山治 中央公論社 1930年)
昭和5年初版 B6 軽装判 函付 417P ■「止まれ・進め」をタイトルに新聞に連載した小説を全面的に書き直し、“親愛なる現代労働
大衆読者の娯楽読み物として捧げんがために一冊の本にした”(序)。教師・参平を軸にその元教え子とともに織り成す諸相を都市を舞台
に描く。
大衆読者の娯楽読み物として捧げんがために一冊の本にした”(序)。教師・参平を軸にその元教え子とともに織り成す諸相を都市を舞台
に描く。
霊の審判 * 貴司山治 * 阪東妻三郎の幻の映画作品
大扶桑国☆貴司山治☆全国書房☆昭和17年発行
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