「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

プロレタリア文学の人々―貴司山治

2010-09-19 22:20:36 | 「党生活者」論 序曲
貴司山治


●貴司 山治 (きし・やまじ、1899・12・22-1973・11・20) 山治は、明治32年(1899)徳島県板野郡鳴門村大字高島村字南
162番地生まれ。本名・伊藤好市(こういち)。板野郡鳴門村立尋常小学校卒(本人は中退という)。

 1920(大正9)年『大阪時事新報』の懸賞小説に応募「紫の袍」(選外佳作三等)したのを機に同社の記者になり、25年、「新恋愛行」が
『東京時事新報』の懸賞小説に入選。翌年、『東京朝日新聞』の懸賞映画小説に「霊の審判」が入選し、作家生活に入る。
 大衆文学の新人作家として、『富士』『講談倶楽部』『新青年』などに小説を発表していたが、28(昭和3)年、8月『東京毎夕新聞』に「止
まれ、進め」(後に「ゴー・
ストップ」に改題)連載。「舞踏会事件」を『無産者新聞』に発表したのを契機に、翌年、日本プロレタリア作家同盟が創立されると同時に参
加した。
 
作家同盟の運動のなかでプロレタリア文学の大衆化をとなえ、その総括として「芸術大衆化に関する決議」を発表。「忍術武勇伝」「同志
愛」「敵の娘」などをたてつづけに発表し、プロレタリア文学のなかに、大衆小説の位置づけとジャンルを切りひらき、一貫して大衆化の問
題を追求した。

30年5月 中旬、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、小林多喜二、片岡鉄兵らと京都、大阪、山田、松阪をまわる。
31年プロレタリア写真家同盟を結成、委員長となる。
●江口渙,貴司山治編『ナップ傑作集』 (改造社 31)は、小林多喜二の「壁にはられた写真」を選ぶ。
 32年、日本プロレタリア文化連盟(コップ)にたいする大弾圧で、中野重治、蔵原惟人らとともに検挙される。治安維持法違反で検挙さ
れ、年末まで拘留される。
翌年、小林多喜二が築地警察署で虐殺され、プロレタリア作家同盟の機能はほぼ壊滅状態になり、転向者が続出した。
●『プロレタリア文学』(33年3月号 2巻4号 33年5月1日発行 編集・発行人:猪野省三:日本プロレタリア作家同盟 編集出版部)=「闘争
者・小林多喜二」 貴司山治
4月、『小林多喜二全集』(プロレタリア作家同盟編)編集に参画、同書は発禁処分となる。

宮本百合子は、『プロレタリア文化』(日本プロレタリア文化連盟機関誌 33/4)の「同志小林の業績の評価に寄せて――誤れる評価との闘
争を通じて――」で、山治の多喜二観を批判した。
 

さらに百合子は、「国民新聞』(33/4/6、8~10)「同志小林の業績の評価によせて――四月の二三の作品――」で、

   同志貴司山治は『改造』四月号の「人及び作家としての小林多喜二」で人間の「完成」「未完成」「性格」というようなものを何か固定
的なもののようにもち出している。同志貴司は同志小林の性格における宿命的特徴のように「偏狭であった」ということを強調し、さながら
同志小林の日和見主義との妥協ない闘争は、その「偏狭さ」の現れであったかのような印象を読者に与えている。

と具体的にその同意できない内容を指摘した。
34年、1月杉並署に再検挙拘留され、3月釈放。この間の2月、プロレタリア作家同盟(鹿地亘書記長)は、貴司の留守宅で委員会をひら
き、解散を決議。6月、転向声明を『朝日新聞』に発表。
35年、貴司は文学案内社をおこして雑誌『文学案内』『詩人』『実録文学』を拠点に執筆をつづけた。
 山治は、百合子からの批判を受ける一方、地下活動中の宮本顕治・日本共産党中央委員に『小林多喜二全集』の編纂を委託される。
1935年 (昭和10年)には、山治は志賀直哉にインタビューし、多喜二の文学と人間を語らせた(「志賀直哉氏の文学縦横談」『文学案内』 
35年11月)。

 ※貴司山治の回想=1933年の初夏、私は共産党中央部の幹部として活動としていた宮本顕治から「小林多喜二全集の発行は党中央
委員会の仕事として行うことにきめた。自分が中央委員会から委任をうけて処置することになったので、君が合法面でのその仕事の責任
者となってやってもらいたい」との相談を受けた。(中略)私は、六十何人のプロレタリア文化人やその他の自由主義的、進歩的文化人を集
めた独立の、大衆的な小林多喜二全集刊行会を設立して、1933年の夏から秋へかけて、前金と基金の募集を行い、『党生活者』の伏字
なし、原文どおりの組版を終えた。」「プロレタリア文化団体は、その時もはや四分五列の状態で、基金、前金合わせて三百円余り集まっ
たが、刊行は不可能であった。刊行会が党中央(宮本)に直結した合法活動だと気づいている者は幸いに一人もなかった・・・」(「『小林多
喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))
 
※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウ
カ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さ
んして、合計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(49/6))

●『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者.地区の人々.沼尻村.転形期の人々.一九二八年三月十五日
●『小林多喜二全集』(第1巻 ナウカ社) =第1巻 蟹工船 他25篇
●『小林多喜二全集』(第2巻 ナウカ社) =不在地主,工場細胞,オルグ,安子 第3巻×生活者,地区の人々,沼尻村,転形期の人々,一九二八
年三月十五日
●『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=田口滝子への手紙,蔵原惟人への手紙,志賀直哉への手紙,出京前の手紙,獄中からの手紙,一
九三一年の手紙,一九三二年の手紙,北海道の同志に送る手紙, 年譜

34~35年にかけての「転向論争」で、「文学者に就て」(『東京朝日新聞』12月12~15日)を発表。良心の苦悩と再建への手さぐりを模索
しようとしたが、中野重治は、「『文学者に就て』について」(『行動』34年2月号)で、これを批判した。
この頃、木村毅らと実践文学研究会を組織し、歴史戯曲「石田三成」「洋学年代記」などの風刺的作品を執筆する。のち、満州生活をへ
て丹波で開墾を始め、敗戦後は農民運動に入り、文芸通信社を経営した。代表作には「ゴー・ストップ」「東京零時」「維新前夜」などがあ
る。
37年1月 治安維持法違反で、3度目の検挙され、年末まで一年間拘留。4月1日『文学案内』終刊。名実ともに「プロレタリア文学時代」の
幕ひきとなる。
41年 1月 妻恵津肺結核のため死亡。
「維新前夜」読売新聞に連載。後に映画化。
この頃から昭和19年にかけて「木像奇譚」「大扶桑国」「戦国英雄伝」「博多の刀鍛冶」など多数の歴史大衆小説を発表公刊した。
43年2月 日野原孝子と再婚。
45年4月 京都府船井郡胡麻(現日吉町)に疎開。開墾に従事。
46年3月 京都府農地委員となり未墾地解放を担当。4月 文学雑誌「東西」を京都で創刊。(一年継続)10月 全日本開拓者連盟創立、
中央常任委員となる。
48年 京都から焼け残った東京の自宅に帰る。
●『小林多喜二全集. 第9巻』(新日本文学会 日本評論社49)= 評論集 第2
※編纂委員=蔵原惟人、宮本顕治、江口渙、壺井繁治、窪川鶴次郎、勝本清一郎、
貴司山治、手塚英孝
53年 新聞通信社「作家クラブ」設立。後に「文芸社」と改名、昭和39年まで存続。この十年に徳島新聞、東京タイムスなど多くの地方新
聞に「愛の高原」「浪人絵巻」「美女千人城」(映画化)「武道はじめ」「禁断片手打ち」など連載小説多数執筆。社会新報(社会党機関紙)
に「東京零時」連載。
61年 徳島の作家のための雑誌「暖流」を創刊。(昭和48年没年まで続く)
64年 戦前非合法時代から秘匿していた高知の詩人・槇村浩の原稿を中心に「間島バルチザンの歌-槇村浩詩集-」を公刊
69年 藤沢市辻堂に転居。
73年11月20日、脳梗塞で死去。74歳だった。

中野重治は「貴司山治への弔文」(原稿は 徳島県立書道文学館蔵)で、
――われわれは今、小林多喜二のほぼ完全な姿で読むことができる。けれどもそれがどれほど君の力によっていたかは、充分に記録さ
れていない。「党生活者」の伏字ナシ校正刷りが、長い戦争期間を通してどこにどう保存されてきたか、それを責任者として記録できるもの
は君以外になかった。

とその功績をたたえた。

『ゴー・ストップ 労働大衆版』(貴司山治 中央公論社 1930年)
昭和5年初版 B6 軽装判 函付 417P  ■「止まれ・進め」をタイトルに新聞に連載した小説を全面的に書き直し、“親愛なる現代労働
大衆読者の娯楽読み物として捧げんがために一冊の本にした”(序)。教師・参平を軸にその元教え子とともに織り成す諸相を都市を舞台
に描く。


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1 コメント

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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-05-23 06:50:03
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような完全理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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