「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

宮川寅雄談話に多喜二がアジ・プロ部所属の情報があった

2015-08-20 22:09:51 | takiji_1932

『三田学会雑誌』vol.104 No.1(2011.4)p131-142

寺出道夫 「31テーゼ草案」と「32年テーゼ」に関する談話

※これは宮川寅雄の談話を記録した資料だ。

 

党は「三二テーゼ」に基いて党の意思を統一し組織を確立すべく全国協議会の開催を決定、九月にその召集を通知した。各専門部毎に「テーゼ」を作成、持参することになった。

予定は十月三十日熱海。所が党内に松村のようなスパイがいたために挑発に乗ぜられ、十月、川崎銀行ギャング事件を仕出かし、さらにスパイの手引きにより、各国(各県または全国か)の主要メンバーが一堂に会する熱海には警察の網の目がはられていた。

十月三十日には主脳部の大半が検挙され、残ったのは宮川、児玉、源五郎丸、田井で、宮川が担当したいた専門部組織である『赤旗』編集局、農民部、AP部(宮本、野呂、渡辺多恵子、秋笹政之輔、辻(小林多喜二))い゛あった。この四人からなる中央部も、十二月一日、牛込で再建のための会合をする時に一斉検挙にあった。以後AP部に所属した人々を中心にして、中央部が再建されたのであった。

 

 

アジプロ部での多喜二のパーティネームは「辻」であった。このペンネームには覚えがある。「辻君子」だ。


大阪朝日新聞 1932.4.10(昭和7)のプロレタリア文学運動の報道のされかた

2011-09-04 09:44:15 | takiji_1932

大阪朝日新聞 1932.4.10(昭和7)


大衆の底まで党の精神を浸潤

 

文筆を通じて巧みな宣伝

 

再建共産党の全貌


再建共産党組織の全貌は蔵原一味の取調べによって漸次明かとなった、プロレタリア文化連盟の組織は蔵原が中心で、蔵原は四・一六に続いて五・二二事件に連坐直後ロシヤに逃亡、同年八月モスクワに開催されたコミンテルン大会に出席しその席上で議決された文化運動に対する決議に本づき日本に新運動を展開すべく昨年春帰国し当時の左翼文化団体の機関雑誌「コップ」六月号、八月号に古川荘一郎のペンネームで分散しているプロレタリア文化団体を結合せしめ強力な指導部を設けねばならぬと理論的展開を試み八月号よりかねて親交のあった中野重治、村山知義、小野宮吉、大河内信威らを語らいプロレタリア文化連盟の組織運動にとりかかり同年十一月実質的にこれを結成せしめた

 加盟団体は日本プロレタリア作家同盟、同演劇、同美術家、同映画、同音楽家、同写真家、同プロレタリア科学研究所、新興教育研究所、日本戦闘的無神論着同盟、日本プロエスペランチスト同盟、無産者産児制限同盟、プロレタリア図書館の十二□□
 で事務所を神田区美土代町四の五小川ビル内に設けて活動に入り、書記局は大河内信威、牧島五郎、小野官吉、窪川鶴次郎、大森詮夫(弁護士)、磯野復が担当△出版部は壷井繁治、山内賢吾、戸台俊一、井汲花子が受持ち十二月に非合法に中央協議会を組織した、メンバーは

 作家中野重治、壷井繁治、中条百合子、川口浩、演劇村田知義、土方与志、小野宮吉、(写真)土井茂治、貴志山治、(映画)佐々元十、岩崎昶、(音楽)福田上一、山本正夫、(美術)岡本唐貴、大月源二、(エス)牧島五郎、武藤丸楠、(ブロ科)小川信一、寺島一夫、(産労)風早八十二、(無神)石川湧、佐野袈裟美、永田広志(教育)野田荘吉、新鳥繋、(産児)山本琴子、中根孝助

 でこのうち中野、壷井、村山、小野、小川、寺島、窪川らは検挙されており目下取調べ中であるが共産党員および党のフラクションと見られ、文化連盟はこれらの人物に牛耳られていたもので、福田上一は故福田徳三博士の息、牧島五郎は往年赤化防止団長に射殺された高尾平兵衛の実弟である

 なお文化連盟は中央協議会の下に青年協議会(牧島五郎ら)、農民協議会(黒島伝治ら)婦人協議会(中条百合子ら)、少年協議会(猪野省三ら)などの各専門部協議会を持ち、プロレタリア文化、大衆の友、働く婦人、小さい同志、われらのグラフなどを大衆的宣伝の機関雑誌として発行し更に文学、演劇、映画などの各新聞をもって各サークルを結成せしめ共産党を大衆の底まで浸潤せしめたもので

まだ党は三・一五、四・一六の党の如く強固に組織されなかったが、文化運動の組織網を通じて党結成の猛運動を行っていた、なおプロレタリ文化連盟(コップ)の運動は第三インターナショナルと同様国際的な共産文化運動で、名誉協議員としてはロシヤからゴルキー、クルプスカヤ、ププノフ、ヤロスラウスキー、ドイツからシュンツェンベルグ(ウイットフォーゲル)、イギリスからマイケル・ゴールド、フランスからバルピュス、支那から魯迅、日本から片山潜が推されている(東京電話)

モツブルも検挙 インテリや女性が多い

警視庁特高課では東京日本橋区旅篭町堀越商店員磯貝照(二十七年)ほか数名を数日前から検挙し取調中であるが、同人らは赤色救援会の東京地方中部地区責任者で工場、学校、銀行等の各職場をめざしてモップル運動を指導していたもので
 昨年の革命記念日には突撃隊を組織してアジ・ビラ等散布のため街頭進出を行いその後日銀、三菱、第一徴兵等から続々この一味は検挙されていたがメンバーはインテリ及び若い女性が多く活動にあたっては左翼弁護士団や保釈被告と連絡をちっていたものである(東京電話)

 殊に山田元京大教授の夫人とく子(三十二年)は一旦夫とともに検挙の憂目を見たくらい左翼運動には交渉がある、即ち同女はサウェート友の会書記局記長の肩書を持ち反宗運動の戦線に立って活躍していた、また大河内信威夫人は元帝劇の女優であり、現在河原崎長十郎一派の左翼劇団前進座のスター山岸静江(二十六年)で、時々マイクロフォンの前にも立っている、彼女は大河内の愛妻で夫が検挙されたのに心痛し警視庁特高課の中川警部へしきりに解放方を嘆願し係官をホロリとさせている、小野宮吉の愛妻は人も知る音楽家関鑑子さんである
なお富田方に身を寄せていた蔵原惟人は毎月八十円の生活費を払っていた、検挙された時は睡眠剤をのんで熟睡に入らんとしたところであった、彼女らは彼を先生々々と呼んで仕えていたようだ(東京電話)

 

中条百合子女史も重大関係で検挙

[写真(中条百合子)あり 省略]

プロ文壇の女流作家として重きをなす中条百合子女史も今回の再建共産党事件の重大な関係者として九日午後二時東京市外某署に連行留置され警視庁特高課の中川警部の厳重な取調べをうけている

 百合子さんは昭和五年サウェート・ロシヤより帰ってからナップに加盟し現にプロ作家同盟婦人部長、コップ婦人部長、「働く婦人」編輯長として重要な地歩を占めていた、サウェート・ロシヤ留学当時から同性愛とまでいわれた湯浅芳子さんとの間をこの程清算して作家同盟の理論的指導者である宮本顕治氏と輝けるローマンスをつくって結婚したことも有名である

 

女優、声楽家―赤いタイピスト 党首脳を繞る女性

共産党にはいつも若い女性がつきものだ、今度の再建共産党最高首脳部者としてプロレタリア文化連盟を牛耳っていた党中央委員長蔵原惟人(三十二年)にもうら若い女性が彼の身辺護衛者として活躍していた、その女は蔵原の隠れ家小石川区原町二の四十三号の戸主東京市土木局工手富田潔(二十六年)の妹秋田高女出身富田伊勢(二十二年)である、同女のほかに富田潔の愛人磯崎はな(二十六年)も蔵原らとともに検挙された

 はなは蔵原がプロレタリア科学講演を開催する時聴講者の一人として参加したのが縁で来往し後に富田と内縁関係を結んだ、ロシヤから帰った蔵原は彼女らの庇護をうけつつ昨年八月小石川区原町に富田が一戸を構えるや翌九月彼の許に身を寄せ同家をアジトとしてプロ文化連盟の結成を指導した、富田の妹伊勢との恋愛関係はこの時からはじまりここに二人の女性は准党員の立場で彼の身辺防衛とレポの役目をつとめていた

 磯崎はなは小石川湯浅女学校卒業後某タイピスト学校で教育を受けたことがあり、その関係で赤い職業婦人のリーダーとしてタイピスト部長なる肩書を持っている
このほか今回の検挙に引っかかった主要人物大河内信威(三十年)京大元助教授山田勝次郎(三十六年)小野宮吉(三十三年)らをめぐる女性は党とは直接関係なくとも左翼運動には理解を持ち

 


データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071412&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

 


1933年3月15日 多喜二追悼の歌

2010-03-16 19:08:13 | takiji_1932
 

小林多喜二追悼の歌

【作詞】佐野獄夫
【作曲】吉田隆子


道暗く敵の嵐つのるとも
もし屍の山築くとも
自由の国の
あの太陽は

明るい
希望に
輝いているぞ

 サァ 春のはんらんをもって
 敵の嵐を

流された同志の
血は無駄にするものか

兄弟よ
世界中の
プロレタリヤよ

明日は勝利
明日は勝利
明日は勝利だ
(旗を)高くあげろ



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小林多喜二を追悼を特集した歌曲集「前哨の歌」第1集~第4集が1933年に刊行されてその中にこの曲は収載さ
れております。


http://utagoekissa.web.infoseek.co.jp/kobayashitakijitsuitounouta.html



1933年3月15日 多喜二労農葬

2010-03-15 19:05:42 | takiji_1932
3月15日、労農葬が築地小劇場で開催するよう取り組まれたが、弾圧で実施できなかった。

労農葬を記念して『日和見主義に対する闘争(小林多喜二論文集)』(日本プロレタリア文化連盟出版部 4月 岩松淳装丁)が出版される。

『赤旗』『無産青年』『大衆の友』『文学新聞』『演劇新開』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』は追悼と抗議の特集号を発行した。

国の内外で内外から多数の抗議と弔文がよせられた。

3月、新築地劇団により築地小劇場で追悼公演「沼尻村」が上演された。

『中央公論』は、「党生活者」を、貴司山治、立野信之と協議し、多喜二の遺作として「転換時代」の仮題で4、5月号に発表。削除・伏字は758ヶ所、約14,000字の多さで、痛々しい姿だった。(「党生活者」原稿は焼失とつたえられる)


・板垣鷹穂「古い手紙―小林多喜二氏のこと―」(『新潮』4月号)

・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて-四月の二三の作品―」(『文学新聞』3月15日)

・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて」(『プロレタリア文化』4月号)

細田源吉「トップをきつて進んだ作家」 1933年5月

2010-03-08 00:33:10 | takiji_1932
小林君の印象で、今も一つ思ひ出せるのは、拡大委員会の席上でのことであつた。会議も済んで江口君が山梨(?)農民組合の依頼だといふのでみんなに短冊を廻はし、いろ/\書かせたことがあつた。私はふとローザ・ルクセンブルグの言葉を見出して、
「踏みつけられた蛙のやうに生きてはならぬ……」といふ文句を書いた。するとすぐ傍にゐた小林君がその短冊をとつてしばらくながめ乍ら、その文句をバツトの空箱の白い空地へ鉛筆で書きつけ、
「これアいゝな!……ね、これアいゝ」と、二三度言つたものであつた。
 それから数日後、彼が丁度執筆してゐた「都新聞」の小説を当日私は愛読してゐたがふと見ると、ローザのその言葉を村の農婦がもう一人の農婦に話してゐるのだ。私は彼の作家としての絶え間なき探い熱のある注意力に頭を下げすにゐられなかつた。私は一度も作品の上でそのローザの言葉を生かし得なかつたのに、彼は立派に生かしてゐたからだつた。

1933年3月10日 手塚英孝

2010-03-05 19:02:52 | takiji_1932
当時26歳の手塚英孝「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(1933・3・10)に
「同志小林多喜二を憶う」。

――「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ぶ。


手塚英孝の『新装版 小林多喜二』が刊行されてほぼ一年経つ。
親交の深かった詩人の土井大助氏は、刊行当時以下の書評を掲げた。




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小林多喜二と手塚英孝/新装版『小林多喜二』刊行を喜ぶ/土井大助



●弾圧と戦禍の無二の盟友/戦後の全集編さんが今に生きる

 小林多喜二虐殺の直後、彼より三歳若くなお地下活動中の手塚英孝が「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(一九三三・三・一○)に寄せた「同志小林多喜二を憶う」はこう書き出されている。
 「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」

 当時二十六歳の手塚さんは、三一年四月『ナップ』に処女作「虱」を発表してプロレタリア文学運動に参加、多喜二最晩年の懸命の活動をともにしていた。この追悼文は、「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ばれている。


●禁書・資料散逸困難のなか献身

 戦中、多喜二の文学はすべて禁書。資料も散逸を免れず、関係物故者もあいついだ。手塚さんが「小林多喜二の編纂に専心することになった」のは、敗戦翌年の八月ころ、宮本百合子に全集の仕事をうけもつようにいわれてからだ、という。「小林多喜二は、ふかく心にきざまれている私には師友のようななつかしい間柄だった。長年の弾圧と戦禍の直後ではあったし、容易なことではないとは思ったが、数年間、私はこの仕事に心身をうちこもうと決心した。そのときには、その後半生の仕事になろうとは思いもしなかった」(「二人のお母さん」)。こうして、各地を回っての資料収集・整理・照合から編集・刊行まで、実務とその指導に手塚さんは献身し、多喜二全著作の復元を果たした。加えて綿密な評伝「小林多喜二」の執筆。手塚英孝なしに、今日の「蟹工船」ブームはありえなかっただろう。
 
新資料の発見、新事実の発掘があれば、その確認と伝記の改訂も喜んで重ねた。作品でも、「蟹工船」の原稿(全編十章中四章まで)発見のとき、たまたまぼくは赤旗文化部記者として、それが全集刊行委員会の壷井繁治宅に届けられるときき、提供者に取材した。原稿の筆跡鑑定は、数多いノート稿まで幾度も通読してきた手塚さんの確認によった。結果多喜二直筆と確認され、定本全集のその巻は原稿通り改訂のうえ刊行されたのである。

 評伝でも「党生活者」のモデル工場名、奈良の志賀直哉訪問の時期、「オルグ」執筆の温泉宿の地名など、新日本新書版中で誤記とされた部分はその都度厳密に補訂された。



●学習と社会活動「ぼくの北極星」
 
「『定本・小林多喜二全集』発刊にあたって」、手塚さんはこう書いた。「弾圧と、戦争による荒廃の二重の困難をうけながら、戦後、全集編纂の事業がうけつがれた。資料集成の仕事をつうじて、なによりもつよく感銘をうけたことは、小林多喜二の業績にたいする日本人民の支持と共感がいかに深く、根づよいものであるかということであった」と。そういう気運の後押しがあったからこそ、数年どころか八一年末急逝されるまでの三十数年、多喜二全集編纂と評伝「小林多喜二」執筆・補訂に精魂を傾けられたのである。
 
珠玉の短編を遺しつつ寡作の人と惜しまれた手塚英孝は、無二の盟友の評伝を、生き残ったわが仕事として引き受け、文学史上稀有の伝記文学を成立させた作家である。とりわけ、巻末の「回想」は一編の実話小説とも読める。そこには当時の青年革命家たちの不屈な奮闘ぶり、元気で陽気に互いを愛称で呼びあう若々しい人間関係が活写されている。

 遅まきでなお初歩的なぼくの多喜二研究は、手塚さんから直接頂戴した新書判『小林多喜二(上下)』に徹頭徹尾依拠しつつ今日に至った。その本はぼろぼろに傷んでいるが、手放せない。評伝『小林多喜二』は、ぼくの多喜二学習と社会活動の「北極星」である。その新装版の刊行は嬉しい限りである。
 (どい・だいすけ 詩人)( 2008年09月23日,『赤旗』)

田辺耕一郎「レーニン的作家としての同志小林多喜二」 1933年5月

2010-02-28 00:32:11 | takiji_1932
一九三二年あらゆる消息を絶つて地下に潜入する前まで彼はタンネンに下書をして更に二度も稿をあらためずには満足しない作家であつた。執筆してゐるとき彼は油が乗つてくるとペンを擱くのだと語つてゐた。油が乗つてきてペンが上辷りすることを惧れるほどの鋭い芸術家的良心であつた。(中略)
 消息を絶つて地下潜入のまへ同志小林は文化・文学運動のあの歴史的な方向転換の渦中に書記長として多端な活動をしながら小さな時間をみつけては時計を机の上に置いて一枚かき二枚かきしてゐた。
 しかし、運動の進展は、指導者としての彼から、つひにその小さな時間と書斎をも奪つてしまつた。そこで彼はペンと原稿用紙と一冊のレーニン主義の本とを小さな風呂敷包みにしてそれを懐に入れて駆け廻りどこでも取り出して書いた。一九三一年から三二年の春へかけてのことである。
「努力だよ。俺達にとつてこれ以外になにがある! レーニンの努力を見ろ。バルザツクの努力を見ろ!」
 かつて同志小林多喜二は私にかう語つたことがあつた。

武田麟太郎「告別」 1933年5月

2010-02-26 00:29:51 | takiji_1932
僕は彼の演説が大好きであつた。――
 少く背延びするやうな格構で、はじめのうちは、あのう、あのう、と云ふ間投詞がはさまつて口ごもり勝ちであるが、次第に熱を持ちはじめると、北海道訛りのとれぬ言葉がいつやむとも知れず流れ出す。すると、僕は――聴衆たちは稍酔ひ心地でそれに耳をすます。よくきくと、同じ事を二度も三度も繰りかへしてゐるのであるが、それは、聴衆がなつとく行くまでは、しやベると云ふ意味からであつたらしい。彼自身大に昂奮して了つてゐる。その昂奮が聴衆にうつつて了ひ誰も彼も顔がほてる思ひで、彼の演説が終ると、何故とはなしに、あつい息を吐くのであつた。所謂演説の上手でもなくまた煽動家によくあるその場限り燃え立つて、冷めれば何ともない口調を弄するでもない。それでゐて、恐ろしく腕の中に動くものを、彼の演説は伝へた。僕は彼の演説に接したあとは、頭がよくなつたやうな気のするのも、妙であつた。このことは、単なる雑談の間にも云へる。その時、不思議に、彼の処女性(と云ふとあたらぬかも知れぬが、ういういしい飾らぬ正直さ、乃至田舎ものゝ持つ魅力、そんなもの)が、こちらに反映し、それによつて、彼が肩をあげて書いてゐる感想や論文からよりは、平易に教訓されアヂられるのであつた。純一さの持つ力、確信と彼特有の精力。時には、それがよい意味にも悪い意味にもヒロイズムとなつて現れてゐたやうである。

須山計一「作家・共産主義者として」 1933年5月

2010-02-26 00:28:49 | takiji_1932
その後彼が去年の春もぐる迄、小林とはちよい/\顔を合した。彼が阿佐ヶ谷の家へ移つてから時々尋ねる機会があつたが、それ以外は何かの大会だとか演説会だとか又は停車場のホームなどだつた。
 阿佐ヶ谷の家で会つた彼は八畳の部屋の西側のヘリに一杯本を並べ真中へ小さい机を持ち出してしきりに小説や文章を書いてゐた。この殺風景な部屋で目立つたのは五十号程の港の風景を描いた油絵がかゝつてゐた事だ。
「この絵は二科を落選した絵だが船があるから好きなんだよ」と彼は非常に気に入つたやうだ。
「この頃はあんまり忙しいんでつい忙がしいのが面白くなるネ。」とか「昨日は三十人近くの人に合つてその序に小説を五枚程事き上げたんだよ」などゝ喋つて元気一杯で笑ひ乍らニユースや雑誌を風呂敷へつめ込み時計と見て飛び出して行つた。作家同盟の書記長としての彼は文字通り席の暖まる暇もなかつたのだ。
 その頃の事であるがヤツプで出した「反戦絵本」の出版費のヤリクリの為に彼から十円だけ借りた事があつた。その後二三週間立つて五円だけ返へしに行つた。
 彼は不思議さうに
「ほんとうに借りたんだね」と笑つて受とつた。

1933年2月20日の後―村山籌子

2010-02-25 21:15:33 | takiji_1932
1933年(昭和8)のある日、村山籌子が長男亜土を連れて、村山知義が服役している豊多摩刑務所(のちの中野刑務所)へ面会にやってきた。

当たりさわりのない会話の最中に、息子の亜土が父親へキャラメルを渡そうとする。

刑務官が怒声をあげて静止する中、村山籌子はドサクサにまぎれてバックの裏側を、夫が見える位置にかざした。

そこには、チョークで書かれたカタカナの文字が並んでいた。

村山亜土は『母と歩くとき』にその時の情景を描いている。

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看守が立ち上がり、「だめだ、だめだ!」と手を振った。
私が立ちすくむと、母が私をうしろ抱きにして、ハンドバッグを私の胸に押しあてて、じっと静止した。

そのイギリス製のハンドバッグは、母が自由学園の学生の頃からのもので、やわらかい黒皮、縦二十センチ、横三十センチほどであった。

それを見て、父の目がカッと大きくなり、宙を泳ぎ、暗く沈んだ。

母はわざと、本や、下着や、弁当の差し入れについて早口に話していたが、ハンドバッグには白墨でこう書いてあったという。
 「タキジ コロサレタ」


小林多喜二――「八木義徳(1911生)の上京物語」(草野 大二)

2010-02-25 00:48:00 | takiji_1932
北海道大学時代の八木(19歳)は、ドストエフスキー全集を読破し、ドストエフスキー
の魔力に取り憑かれた。これを契機としてロシア語を学習し始める。「日本語の翻訳で読
んでさえこんなにおもしろいのだから、それを原語でよめたらどんなにすばらしいだろう
と思ったのだ」(出典:「私の文学」北苑社)。ロシア語の講習会にも出席し、簡単な文
章なら、日本語のルビなしで読めるようになっている。そんな折、八木は昔下宿が同じた
った李元成氏(朝鮮人の留学生)と偶然再会する。李元成氏は左翼運動の活動家であり、
八木は影響を受け、社会科学に目を向けることになる。

 しかし左翼思想を「現実の社会の具体的事実として、いわば肉体的に理解」したのは、級
友の酒井悠氏との樺太の旅が大きなきっかけとなっている。八木が20歳の時である。八木
と酒井氏は新問(ニイトイ)で一文無しになり、宿代弁済のために約1ヵ月間鮭鱒缶詰工場
に売られてしまう。この時に、東北から出稼ぎにやってきた貧しい農民の生活を知ることに
なり、この八木の体験が、説明する必要はないと思うが、師匠の横光利一氏に初めて認めら
れた「海豹」のベースになっている。その後、八木は李元成氏との交遊を特高刑事に嗅ぎつ
けられ、政府の左翼弾圧の強化とともに退学処分となる。4ヵ月後に満州事変が勃発してい
る。

 放校になった八木は進路も決めないまま上京し、偶然逍遥していた神田の喫茶店で『ロ
シヤ語講習会』のポスターを目にする。「その下に、課外講座として『プロレタリア文学講
座』と書かれている。そして、その講師として『小林多喜二、中條百合子、窪川いね子その
他』という活字が眼にとびこんできた。思わず、はっとした。中條百合子、窪川いね子は名
前だけは知っていたが、作品はまだ読んだことがない。しかし小林多喜二となれば、あの
『蟹工船』も、『一九二八年三月十五日』、『東倶知安行』も、『不在地主』も、『工場細
胞』も、『オルグ』も、みな読んでいる。ことに『一九二八年三月十五日』のあのすさまじ
い拷問の描写は、私をひと晩じゅう眠らせなかったほどの恐怖と興奮をあたえたものだ。小
林多喜二という名前は、おなじ北海道人である私にはとくべつ親しいものだった。即座に私
の心は決まった。『よし、この講習会に入ってやろう』」(出典:「私の文学」北苑社)。

 そして、八木はロシア語講習会の初級に週3回通い始め、課外講座としての『プロレタリア
文学講座』において、小林多喜二を目の当りにすることになる。「小林多喜二は、茶色の大
島の着物に対の羽織という姿で壇上に立った。小さな人だった。すこしカン高い調子でもの
を言う人だった。額にたれさがる髪をいちいち神経質にかき上げる人だった。そして、とき
どき恥ずかしそうな微笑をみせる人だった。『これがあの“蟹工船”の作者なのか?これが
あの怖しい“一九二八年三月十五日”を書いた人なのか』 信じられなかった。作品と作者
の印象があまりにちがっていた。私は小林多喜二の顔ばかり眺めていた。-彼のあの悲劇的
な死は、それから二年後、昭和八年二月二十日のことであった。」(出典:「私の文学」北
苑社)

 小林多喜二との邂逅後、八木の運命は大きく変わっていくことになる。八木の人生に大き
な影響を与えた人物の一人といってよいのかもしれない。しかし有島武郎によって文学に開
眼し、ドストエフスキーによって文学に魂を揺さぶられたからこそ、小林多喜二との出会いが意味を
持ったのだと推測される。

 だが、そこに到るまでに八木に何らかの深慮があったとは考えづらい。無目的のアクションあって、
八木は変容していったと換言してもよいだろう。生前八木は「私は軽薄な人間だ」と、ことある
ごとにいっていた。筆者がそう思わないといい張ったとしても、八木はそういう自己認識を
持っていたことは事実だろう。だが、損得勘定のない「軽薄」なアクションが後々無駄なく
悉く意味を持つことになる。この事実は驚嘆に値すると筆者は思う。

 小林多喜二は、いわずと知れたプロレタリア文学戦旗派を代表する作家の一人であり、八
木と同じように有島武郎(特に「カインの末裔」)、ドストエフスキーに影響を受けている。ド
ストエフスキーに関しては、日記の中で「自分は、極く自然に、理論からも、好みからでもなく、地の
まゝに、フィリップに近く、ニーチェに近い。だから自分としてはドストエフスキーが好きでならないん
だ」と書いているほどだ。小林多喜二は八木と同時代を共有した、あるいは、生きた作家とい
うことも出来る。ロシア語講習会が開かれたお茶の水の「文化学院」の教室という空間に
全く同時に間違いなく二人は「いた」のである。だが八木は唯物論と弁証法に基づく思想
としての左翼理論に傾倒していたとはいい難い。それに近いことを八木は生前、筆者らに
語ったことがある。むしろ八木は小林多喜二のようなプロレタリア文学の作家たちの命を
懸けた生きざまにシンパジーを覚えたのではなかろうか。そんな気がしてならない。

 補足しておきたいが、フィリップは八木の推薦する作家の一人であった。


                  (了)                  


斎藤利雄「同志小林多喜二を想ふ」 1933年5月

2010-02-25 00:27:43 | takiji_1932
彼の印象から豺の感じを受けたと書いたが、彼の顔は、智的な近代的な強い魅力をもつてゐたことを思ひ出す。真に男性的な顔をしてゐた。頬からあごにかけての引緊つた顔面筋肉の肉付きは、攻撃性が漲つてゐた。それでも女性的な眉をもつてゐた。その眉の下に東洋人的な切れ長の、美しく澄んだ眼がキラ/\光つてゐた。この澄んだ聡明な瞳をもつて彼は、このブルジヨア社会の事物、現象のすべてを、唯物弁証的に見抜くことができたのだらう。本部書記長であつた頃の彼は、彼に課せられた責任を階級的熱意をもつてよく果してゐた。
 いつも忙しさうに事務所にやつてきて、居合せた同志達に快活に微笑を向けて入つてきた。どこか民族的に大陸的な風貌をもつた、書記の金君と、小柄で精力的な小林の対照は愉快なものだつた。
「通信費が無くなつたんです。」よく、金君はあのおとなしい性質から、遠慮勝ちにそんなことを彼に訴へてゐた。
 今でもさうだらうが、其頃も同盟の本部費さへも事欠いてゐた。
「そうか、困るなあ。」と小林は、何時も幾らかの自腹を切つては、金君に渡してゐるのを見た。いゝ書記長だつた。

村山亜土「多喜二の思い出」(『母と歩く時』201年より)

2010-02-24 00:45:00 | takiji_1932
多喜二は、子供の私にとってもまことに忘れがたい人であった。痩せて小柄、色白で頬が赤く、むしろ女性的な感じであったが、夏の日、我が家での作家同盟の会議に、彼は浴衣にカンカン帽という姿で、肩を振り振り、下駄音高くあらわれた。そして、私を見つけると、「ケケケ」と笑い声をたてながらすばやくつかまえて、アグラの中に抱き込んで、誰よりも盛んに発言し、時々「異議なし!」などと叫んだりした。頭の上のあのキンキンと甲高い声は、私の耳になまなましく残っているし、突き出した喉仏のコリコリと動く、くすぐったいような感触を、私の後頭部がはっきりおぼえている。その幼い思い出は、なつかしく、誇らしく、痛く、悲しく、今も私の胸をしめつける。

窪川いね子「私たち働く婦人と小林多喜二」1933年4月

2010-02-24 00:25:24 | takiji_1932
小林多喜二は、あの有名な「蟹工船」を書いて、それが勤めてゐた銀行の内情をバクロしたといふことで馘首された。その後小樽から一人上京してゐたが、その後、小樽に残して来た母親を思つて、友達と道を歩いてゐる時ふと立ち止つて、
「今頃、おつ母さんは何をしてゐるだらう。」
といふ人だつた。然しこの母親や姉弟に対して深い愛情を持つてゐた彼が、一度その深い愛情を階級的に高めた時、それは最後まで、労働者農民婦人の利益のために闘つた真の英雄的な前衛として、兇暴の資本家地主の手先きの前に一歩もゆづらなかつたのであつた。
「党生活者」といふ題で書かれ、四月中央公論に「転換時代」と改題されて発表になつた小林の作品に、非合法生活をしてゐる一人の党員が、別れて来た母親に遇ふところがある。昨年三月末コツプ弾圧の際に、敵の追及の手を逃れ非合法の生活に入つた小林のお母さんへの気持ちを思はせるこの作品で小林は、老ひた母親に対して、息子が何故もぐらねばならぬか、その生活は何故正しいか、を理解させようとしてゐる。たゞ単に、階級のためには親をも捨てるといふ公式的にでなく、また、たゞ諦めさせたり、慰めたりでなく、老ひた母親をも一緒に自分の生活に理解させようとしてゐるところに小林多喜二が真に階級的に一生懸命であつた一面をもの語つてゐる。