日々通信 第287号 若者たちへの期待
差出人: 伊豆利彦 (xyztizmk@nifty.com)
送信日時: 2008年12月20日 8:22:15
宛先:
>>日々通信 いまを生きる 第287号 2008年12月20日
発行者 伊豆利彦 ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
若者たちへの期待
今年の暮れから来年春にかけて3万人のクビキリが、トヨタや日産など日本経済を牽引してきた自動車産業、日本を代表するキャノンやソニーなどで強行される。大部分が派遣や期間工などの非正規社員だ。多くは派遣先の寮で暮らしている日本各地からの集められた労働者である。年の暮れに突然解雇を言い渡され、住居も奪われて早急に立ち退きを求められる。いま、その残酷さが各メディアで取り上げられ、多くの人々の熱い関心を集めている。
御手洗経団連会長(キャノン会長)など経営者側は、国際競争に生き残るためのぎりぎりの「苦渋の選択」、契約に基づく正当な処置だと主張するが、好景気のときは正社員よりはるかに低賃金で働かせ、不況になれば、もうけを確保するために、まだ余裕があるうちに、退職金その他の保障もなしに、まっさきにクビをきるというのはあまりに理不尽ではないか。資本の論理としては当然なのかも知れないが、血も涙もないという思いがするのは避けられない。
『女工哀史』や『蟹工船』にまざまざと描かれたこのような苛酷な搾取は、明治以来の日本の急速な資本主義的発展の土台だった。日本だけではない、欧米の先進国もいずれもこのような苛酷な搾取に支えられ、アジアやアフリカの諸国を無慈悲に侵略し、植民地化することによって、その近代化を実現してきたのだった。
この資本の論理に対して世界の労働者は労働時間の短縮、人間らしい生活を求めてたたかいつづけた。労働基準法に定められた1日8時間1週間40時間を超えて労働をさせてはならないという「法定労働時間」その他の労働者の権利はこの世界人民のたたかいによって獲得されたものである。この労働者の権利は「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と宣言した日本国憲法第二十五条によって保障されている。
しかし、たたかいなければ自由なし。いわゆる高度経済成長で、日本の企業は繁栄を謳歌し、労働組合は戦闘力を失った。派遣労働の自由化は、戦後になってようやく獲得した労働者の権利を奪い、苛酷な労働条件を生み出すものだったが、労働組合も野党やマスコミも抵抗らしい抵抗をしなかった。
事実上は派遣先企業に支配されて働いているのに、名目的には派遣会社の社員であって、派遣先は社会保険その他の身分保障に関与せず、派遣元会社も責任を負わないという奇妙な無権利状態が発生した。キャノン大分工場で、来年一月までの契約なのに、十二月二十日にクビを切られた期間工の抗議に、御手洗経団連会長(キャノン会長で)は、キャノンの子会社が請負会社に委託し、その請負会社がクビキリをしているのだから、キャノンには責任はないなどと言っていた。キャノンは好況で大儲けしていたころにも、派遣社員や期間工の制度、請負制度などを利用して意識的に法網を潜り、低賃金の無権利状態で労働者を働かせてきた。
派遣工や期間工、請負労働など、働くものの身分を曖昧にして法の規制を免れ、儲けるためには法網を潜って恥じないのはキャノンだけではないだろう。偽装請負が問題になったが、派遣社員は三年が期限で、それ以上は正規社員にしなければならないのに、三年で名目上は3カ月と一日だけ期限工にきりかえ、それからまた期限工に切り換えるというようなごまかしで、派遣労働の期限を限りなく延長し、いまや労働者の三分の一が期限社員だという異常事態になっている。
蟹工船が工船であって航船でないために航海法の適用を受けず、それが船舶であって工場でないゆえに工場法の適用をうけず、まったく無権利状態で搾取されるというのと同じだと、若い『蟹工船』の読者たちは口をそろえて言う。この派遣労働者の無権利状態が、これまでも若い労働者たちを苦しめてきたが、今のように激烈な不況に陥ってクビキリが強行されるときになると,その苛酷さが全面的に露出することになった。
派遣労働の自由化は、戦後憲法を軽視し、戦争を美化する動きと呼応している。今年のはじめにはこのような底無しの不況は想像することが出来なかった。状況は急速に変化して、すべての希望を奪われた若者たちの間に、戦争を待ち望む声さえ起こっている。いまは日本の戦時と戦後、昭和の歴史が徹底的に検討し直されなければならないときだ。戦争を美化する言説を自衛隊の最高幹部が公表した事件が話題になったが、底抜けの不況に陥って、戦後憲法を否定し、戦争を美化する動きが強まっている。ひたすら企業の利益のために労働者の権利を否定し、犠牲にする動きは、この戦後憲法否定の動向と重なり合っている。
小林多喜二は失業者が氾濫する恐慌の時代に、戦争を待望する動きが民衆の間に強まり、満州事変へと突入していった。『蟹工船』は底辺の労働者の悲惨な姿を描いただけでなく、この時代の日本人の生活と思想を描いた。今年になって俄かに『蟹工船』が大量に売れて話題となったのは、派遣労働その他、苛酷な労働を強いられ、職をうしない、前途に絶望した若い世代が、いまの現実と『蟹工船』の悲惨な現実がそっくりだと思い始めたからだという。
『蟹工船』ブームのきっかけは『毎日新聞』今年(2008年)1月9日の高橋源一郎との対談だいわれるが、雨宮処凜は「たまたま昨日、『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました。」と言っている。雨宮も今年の初めまでは『蟹工船』を読んでいなかったのだ。多喜二の母校小樽商大と白樺文学館多喜二ライブラリー共催の若者たちを対象とする「『蟹工船』読書エッセーコンテスト」の応募者たちはみな一様に初めて読んで、『蟹工船』描かれた世界はいまの日本だと驚き、それをモチーフに論を展開している。
しかし、この一年で状況は変わった。その変化の速度に驚く。今年の初めに民主文学会の山の文学学校で、多喜二の作品が読まれないことを話題にして、今年は『蟹工船』が読まれる年になるかも知れないなどと話していたが、あっと言う間に大変なブームになり、さらに状況が発展をして、世界大恐慌の問題、戦争の問題、臨時工のクビキリ反対闘争の問題などが多喜二に対する関心の中心になる時が来てしまった。 絶望のどん底から多喜二にひきつけられた若者たちも、『蟹工船』の「死にたくないものは集まれ」いう言葉に共感し、「ロストジェネレーション集まれ」のスローガンの下に右も左もない『超左翼雑誌 ロスジェネ』を創刊して、「自由と生存のためのメーデー」を全国各地で展開するなど、これまで想像もできなかった連帯と共同の新しい運動を切り開いて行った。
1975年生まれの雨宮処凜は、大学受験に失敗してフリーターとなり、職を転々する、失意と絶望の日々にリストカットを繰り返したという。愛国バンド「維新赤誠塾」でボーカルとして活動し、まともな職業につけない若者の問題と取り組んで、ルポルタージュその他の執筆活動をつづけるうちに、1970年生まれの浅尾大輔らと知り合い、右も左もない若者たちの実際運動に参加していった。 『蟹工船』の「死にたくないものは集まれ」という言葉は労働運動の原点だと思う。
この言葉から出発した右も左もない若者たちの運動は、ますます強まる生活破壊の現実に抗して思いがけない発展をすることになるのではないか。破滅の危機に追い詰められた若者たちが、いまはじめて立ち上がり、団結を求めて行動し始めた。この運動がどこへ行くか。このたたかいの中で、小林多喜二の作品はどう読まれるか。生きるか死ぬかの瀬戸際で立ち上がった若者たちのたたかいはどう発展するか。新しい年はアメリカ中心の世界資本主義体制崩壊の年になるのだろうが、そこに新しい生命の芽生えが生まれるのではないかと期待する。