「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

獄につながれた多喜二

2015-12-31 09:58:49 | 小林多喜二ーロンギヌスの槍 

豊多摩刑務所へ

 多喜二は大阪・島之内警察署で二週間勾留されるがそこで、「竹刀で殴ぐられた。柔道でなげられた。髪の毛が何日もぬけた」(84、 斎藤次郎宛、三〇年六月九日付)という拷問を経験するが、不起訴となり、東京に戻る。

ところが、六月二四日、警視庁の特高警察に再び検挙され、さらに手ひどい拷問を受ける。のちの新聞の報道によれば、多喜二に対する「当局の取調べはもつともしゆん烈であつたため、出所後顔面筋肉の一部が硬直してしまったといはれてゐる」(『東京朝日新聞』三一年五月二一日付号外)。

小説「一九二八年三月十五日」で特高警察の残虐な拷問の実態を暴露し、その後も「蟹工船」「不在地主」「工場細胞」などでプロレタリア文学の第一人者に躍り出ただけに、多喜二に対する特高警察の特別視と狙い撃ちが始まったといえる。この拷問は多喜二に強権への憤怒を再燃させたはずで、それは獄中を通じて持続された。警察署の留置場にいる間は、面会も書信の往復も禁じられていた。

 多喜二が三つの警察署をたらい回しされていた七月一九日、かつての『戦旗』掲載の「蟹工船」に対する不敬罪・新聞紙法違反事件で、東京区裁判所検事局により戦旗・編集長山田清三郎(    )とともに起訴された。

 八月二一日、起訴された多喜二は、中野にある豊多摩刑務所の未決監に収容され、被告人として予審(戦前の刑事裁判では、本公判に付すかどうかを予審で審理した)を受けることになった。

 豊多摩刑務所(東京・中野区新井)は、もともと市谷にあった「市谷監獄」が「豊多摩監獄」として中野に移転したもの。終戦まで主に治安維持法違反の政治、思想犯が収容された。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の接収を経て「中野刑務所」となった。八三年に廃止され、平和の森公園になっている。

予審のために霞ヶ関の東京地方裁判所との間を往復する様子は、出獄後、小説「独房」(『中央公論』三一年七月号、『全集』第三巻所収)に描かれる。

 

島村輝「小林多喜二『蟹工船』と地下活動化する社会主義運動」より

多喜二の最初の逮捕に先立つ1930年五月二〇日には、戦旗社に対する一斉検挙が行なわれていた。当日出勤していた編集局・事務局関係者のすべて、出入りする関係団体の人々から、広告取次店の店員や印刷所の従業員までが否応なしに検束された。この日戦旗社関係で検束されたのは百名以上にのぼると推定されている。

 事態は一作家の検挙、戦旗社の捜索ということのみにはとどまらなかった。五月末から六月にかけて、治安維持法違反(共産党への資金援助など)で検挙された文化関係者は三十六人。起訴された学者として平野義太郎、山田盛太郎、三木清などがおり、ナップ(日本プロレタリア作家同盟)関係者としては多喜二をはじめとして、中野重治、片岡鉄兵、村山知義、立野信之、壷井繁治、山田清三郎ら十二人が起訴された。蔵原惟人はすでに地下活動に移っていたためこの検挙を逃れ、六月三〇日ひそかに日本を離れてソビエトへと向かった。

すでに同刑務所には、五・二〇シンパ事件で中野重治や村山知義らも入っていた。中野重治・壺井繁治を担当した予審判事は石坂修一であったので、多喜二もこの人物であった可能性がある。

 多喜二は、一九三〇年八月二一日、治安維持法違反容疑で起訴され、豊多摩刑務所に入ったとき、長期に亘ることを覚悟していた。郷里・小樽の恋人田口タキ宛の三〇年九月四日付の第一信(86)には、「どの位長くなるか知れませんが、裁判になるまで、前例をみると二年以上もかゝるらしいとのことです」と書く。小説「独房」では、豊多摩刑務所に移送される際、特高から「二年も前に入っている三・一五の連中さえ未だ公判になっていないんだから、順押しに行くと随分長くなるぜ」と告げられたとする。 さらに治安維持法違反容疑とは別に、『戦旗』発行・編集責任者の山田清三郎とともに、「蟹工船」の作中表現に対する不敬罪・新聞紙法違反事件の裁判が加わっていた。七月四日、多喜二は山田清三郎(『戦旗』編集長・発行名義人)とともに、東京区裁判所検事局によって「天皇の尊厳を冒涜すべき辞(ママ)句ある小説「蟹工船」を執筆著作の上、其の原稿を戦旗社に宛て送付し、前記の如く之を出版せしめ、以て 天皇に対し、不敬の言動を為し」(平出禾「プロレタリア文化運動に就て」、司法省調査部『司法研究』第二八輯九、一九四〇年三月)として、不敬罪・新聞紙法違反で起訴された。

 多喜二のこの入獄に関する治安維持法事件については、不明なことが多い。担当の思想検事や予審判事は誰だったのか、また弁護士は誰だったのか。中野や壺井繁治の予審を担当した石坂修一判事が、多喜二も担当したかもしれない。「蟹工船」の不敬罪・新聞紙法違反事件の裁判の弁護を担当する布施辰治が、この治安維持法違反事件も担当した可能性が高い。  

予審終結の日時や終結決定書の内容も不明であるが、本公判に付す、という決定がなされたことは確実である。すなわち、保釈出獄となった多喜二は被告人として本公判を待つ身であった。保釈中にまた検挙されると保釈は取消しとなり、保証金は没収されたうえで、再び未決監に収監されることになる。(※三〇年一二月二六日に保釈出獄した中野重治は、三二年四月四日、コップ弾圧により検挙され、五月三一日、豊多摩刑務所に収容された(三四年五月、東京控訴院で懲役二年執行猶予五年の判決を受け服罪)。

出獄後に描かれた「独房」では、「俺はとうとう起訴されてしまった。Y署の二十九日が終ると、裁判所へ呼び出されて、予審判事から検事の起訴理由を読みきかされた。それから簡単な調書をとられた。「じゃ、T刑務所へ廻っていてもらいます。いずれ又そこでお目にかかりましょう」」と描いている。

 

 三〇年秋、五・二〇シンパ事件関係者の予審終結の目途がたつころ、保釈出獄の予測が流れた。中野鈴子が保釈の近そうなことを書いてきたことに対して、一二月一八日付の手紙(120)で多喜二は「噂でしょう」と応答する。一足早く予審の終結した中野重治や村山知義が一二月末までに保釈出獄しても、多喜二はそれが自らに及ぶことは期待していない。翌三一年一月二二日夜に保釈出獄となるが、その前日に中野鈴子村山籌子(128)に宛てた手紙にはそれへの言及はない。

 つまり、多喜二の保釈の決定と出獄は、本人にもかなり唐突なものだった。特高の拷問を暴露したことを恨まれ、「ナップの重鎮」とみなされている、という認識は、多喜二に保釈出獄への期待をあまり抱かせなかったのだろう。

 保釈出獄の手続きとしては、まず予審の終結が第一であるが、その前後に本人および保証人からの「保釈請求書」の提出が必要となる。予審判事は、担当の検事の意見を聞いたうえで許可するかどうか判断する。許可となった場合は、保証金を納入したうえで、出獄となる。多喜二の場合もこれらの手続きがあったはずだが、手紙には何も書かれていない(中野重治や西田信春の手紙には、保釈請求や保証金などについての言及がみられる)。 現在残されていない家族宛の手紙に書かれていた可能性があるが。

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八月二一日、治安維持法違反容疑で起訴され、豊多摩刑務所の未決監に収容された。東京地方裁判所で予審を受ける被告人となった。

前例を見ると二年以上もかゝる 三・一五事件や四・一六事件の各地の裁判では、起訴処分を経て、予審・本公判に入るのに時間がかかっていた。小説「独房」では、T刑務所に向う際の、「二年も前に入っている三・一五の連中さえ未だ公判になっていないんだから、順押しに行くと随分長くなるぜ」という係の特高の言葉を記している。

以上は、おもに岩波文庫の荻野富士夫編『小林多喜二の手紙』「解説」を総合しての情報である。


小林多喜二の罪

2015-12-31 09:57:26 | 小林多喜二ーロンギヌスの槍 

小説「不在地主」を書いたことが決定打となり、北海道拓殖銀行を解職された小林多喜二は、一九三〇年三月末、小樽から東京に出た。

その年の五月、発売禁止が続き経営難に直面する雑誌『戦旗』防衛巡回講演で関西方面を旅行中、日本共産党への資金援助を理由に治安維持法違反容疑で大阪の島之内警察署に検挙される。二週間の勾留後、不起訴となり、東京に戻るが、六月二十四日、再び特高警察に検挙され、手ひどい拷問を受ける。

さらに七月十九日、かつて「蟹工船」(『戦旗』)に対する不敬罪・新聞紙法違反事件で山田清三郎(『戦旗』編集長・発行名義人)とともに起訴された。八月二十一日起訴された多喜二は、中野にある豊多摩刑務所の未決監に収容され、被告人として予審を受けることになっていた。

予審終結の日時や終結決定書の内容は不明だが、「本公判に付す」という決定がなされたことは確実である。

多喜二の罪状容疑の第一は、共産党への資金提供だった。

平出禾検事作成の極秘報告「プロレタリア文化運動に就て」(司法省調査部編『司法研究』第二八輯九(一九四〇年三月 四四二ページ)によると田中清玄(    )を中心とする党中央部は1929年「四・一六検挙」の後、運動資金に窮し、八月ごろから党技術部に「金策係」を設け、曽木克彦(中央委員長田中清玄のもとにあつて、技術部の下の金策係、住宅係、倉庫係などを兼任し、すでに一九三〇年二月二十三日に検挙された)を責任者とした。曽木は、1930年(昭和五)一月頃から文芸評論家・蔵原惟人を通じ、ナップ、作家同盟内に資金網をひろげさせ、戦旗社、戦旗社読者会からも活動資金を収集した。この金策網の一端に多喜二がいたというのである。

同年八月、曽木は蔵原惟人に党活動資金募集をナップに月額五百円を依頼し、多喜二はこれに五十円を提供した。これを共産党への資金援助の治安維持法違反(目的遂行罪)容疑で起訴されたのだった。

平出禾(ひらいで ひいず、1906年-1980年)は、元検事、翻訳家。 弁護士・作家の平出修の長男として東京に生まれる。少年時代に父を亡くし、1930年東京帝国大学法学部卒業、検事となる。最高検察庁公判部長を最後に66年定年退官、専修大学法学部教授、77年定年退任。E・S・ガードナーの法廷もの小説の翻訳もある。

 


『小林多喜二最後のたたかい-共産党非合法機関誌「赤旗」紙面にたどる』目次

2015-12-05 16:52:38 | 小林多喜二ーロンギヌスの槍 

『小林多喜二最後のたたかい-共産党非合法機関誌「赤旗」紙面にたどる』目次

―― 5つの問題意識――

(1)31テーゼ草案――プロフィンテルン大会参加者たち

(2)共産党非合法機関誌「赤旗」紙面にたどる婦人部の線

(3)共産党非合法機関誌「赤旗」紙面にたどる文化運動

(4)多喜二の党組織での立ち位置、資金部、アジ・プロ部、大衆運動部

(5)「党生活者」のたたかい―闘士養成の問題

(6)反戦と文学の統一戦線をめぐって―上海反戦会議の文学運動の位置

 

 

序―多喜二出獄

1 プロフィンテルン大会の人々ー松村、風間、蔵原、紺野、飯島、児玉

「31政治テーゼ」草案の具体化から「32年テーゼ」へ

 

2 満州事変前後

国際青年デー

反戦デー

婦人デー

多喜二入党、

党員の資格と義務

 

3「赤旗」活版化・大衆的普及、―文化欄―

婦人部 婦人党員の目覚ましい活躍

1931年3月25日「赤旗」第37号 ××紡績工場細胞×子「労働婦人代表者会議開催について」

1931年8月5日「赤旗」第48号 「即時婦人部を設置せよ!」

1931年8月12日「赤旗」第49号 「「婦人欄」に就いて」

1931年8月22日「赤旗」第50号 「ソヴェート同盟への労働者使節に婦人労働者代表を必ず参加させよ!」

1931年9月6日「赤旗」第52号 「反動的婦人運動への闘争」

1931年9月6日「赤旗」第52号 「革命的婦人運動の発展に就いて」

1931年9月6日「赤旗」第52号 「赤旗」印刷局マル子「「婦人欄」問題」

1931年9月15日「赤旗」第53号日本共産党中央婦人部 「各地方・地区委員会婦人部御中」

1931年9月15日「赤旗」第53号 「「婦人欄」確立の革命的競争を組織せよ!」

1931年9月15日「赤旗」第53号 ××製作所×子「絵付録はすばらしい」

1931年12月23日「赤旗」第61号 「赤旗」印刷局 マル子「婦人新聞、婦人間の活動」

1932年3月2日「赤旗」第63号 本田マル子 「三月八日国際婦人デーを 革命的大衆闘争の日としよう」

1932年6月5日「赤旗」第77 号 山下豊子 「婦人労働者、労働者農民、兵士の妻を 帝国主義戦争反対の旗の下に! ――第×回婦人部討論より――」

 1932年7月15日「赤旗」第84号付録「婦人欄」  「戦争が拡がる 婦人は起って反対せねばならぬ」

1932年7月15日「赤旗」第84号  「八月一日の反戦デー ―全国の兄妹! 世界中の兄妹と一緒になって 戦争反対とでもで押しかけよう。」

1932年7月15日「赤旗」第84号付録  「農村 -娘を売り小作料を納めたが」

1932年7月15日「赤旗」第84号付録  「都会でも―三河島千軒長屋に娘はなくなる」

1932年7月15日「赤旗」第84号  「私達の先頭に闘った共産党の同志を返せ! ー七月十四―廿三日最後の陳述公判廷へ同志釈放に押しかけよ」

1932年7月15日「赤旗」第84号  「婦人欄に通信を送れ」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」  「軍需品製造で婦人は奴隷状態」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」  「働いてゐる市バス青バスの姉妹に 首切りがせまってゐる」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」  「家族迄結束したストを準備しよう -運転手車掌の御内儀さん子供も」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」  「物価は騰貴 -「救済議会」は何をしてゐる」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」 婦人読者 「赤旗の読めぬ読者から―××町長屋から代筆をして貰って」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」 高橋とし子 「夜中まで強制残業一日十七時間」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」 一女工 「「主婦の友」の代りに 『赤旗』婦人欄を全女工の手 」

1932年8月30日「赤旗」第93号付録「婦人欄」  「婦人欄を敵の手から守ろう」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「私達の解放のために闘へる 同志岩田を殺した天皇に抗議しろ!」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「スト弾圧法の強制調停に引かけられ―百八十万の削減を強制された市電の姉妹よ起て!」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「北部地区婦人工代会議市電スト応援決議」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「米券を闘ひとった朝鮮失業婦人」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」 千代子 「××鉄における反戦活動の経験」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「プロレタリアの小供は 母さんがやられても泣かない―本所アキ子ちゃんの涙」

1932年11月15日「赤旗」第105号付録「婦人欄」  「なぜ天皇制を倒すのか!」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「十二月四日日曜日同志岩田の労農葬―みんなデモで押しかけよう! 本所公会堂へ」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「ブル共やつ起に婦人を戦争へ動員」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「 東京市電の闘争は続けられてゐる―検束者を釈放しろ! オカミさん警察に押しかく」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「 婦人を戦争に賛成させる為に―大東京に婦人公民権」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「 戦争のための企業統制―まず首きり賃下げだ!」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」 婦人版編集部 「 婦人版二面拡大月三回刊に就いて―全読者の姉妹へ!」

1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「 天皇を倒さねばならぬ訳があるーなぜ天皇制を倒すのか? との女工さんの質問への答(二)」

1933年3月5日「赤旗」第123号 「 戦争、飢餓、テロルに反対して 全勤労 1932年11月30日「赤旗」第108号付録「婦人欄」  「 戦争のための企業統制―まず首きり賃下げだ!」 婦人は闘争に起て! ―三月八日国際婦人デー」

1932年7月16日「赤旗」第148号 「 東京北部のおきみさん達 米ヨコセ闘争の先頭を切る -全ての居住にの米ヨコセ会を作れ!」

1933年7月16日「赤旗」第148号  「 東京レビュー、映画  続々ストに起つ! ―盆興業を期しゼネストを決行せよ」

1933年7月16日「赤旗」第148号 ―紡×一女工 ちえ子 「 仲間を獲得した経験」

1934年3月22日「赤旗」第174号  「 奴隷的酷使と無権利とに反抗して 勤労婦人大衆の闘争を激発せよ! ―国際婦人デーを迎へて」

 

ある老職工、戦場から帰ってきた職工、ふんどし通信、村の事件

 

 

 

4 「文学の党派性」

プロレタリア文化連盟をめぐって

結成、展開、弾圧

 

5「党生活者」のたたかい

黙秘

藤倉争議―反戦・解雇撤回闘争

 

 

6 右翼日和見主義との闘争

 

7 「地区の人々」

 

8 上海反戦会議

 

9「前進のために」

 

 


ロンギヌスの槍ー出所

2014-12-23 18:50:35 | 小林多喜二ーロンギヌスの槍 

●出所

 

1931(昭和6)年1月22日午後9時半、東京都下豊多摩刑務所の重い扉を明けて、一人の男が出獄した。

身長百五十センチ、細身で色白の優男、出迎えたのは弟三吾、友人の斎藤次郎、壺井栄たち。

弟も斎藤も刑務所から出てくるこの男をどうようにしたらいいか皆目わからなかった。ところが栄は香川、小豆島の出身で1925年に同郷の壺井繁治と結婚。繁治は戦旗社のメンバーで何度も投獄されていたひとから、妻の栄はこうしたことにはのでてきぱきと対応した。

この男は、昨年5月に検挙されて213日をこの刑務所で過ごしたのだった。

 男が入れられたのは赤レンガ建ての南房の階上の独房で、このなかでは「六十三番」と呼ばれていた。

独房には、鉄格子のはまった高い窓があり、すりガラスの回転窓がついていた。そこから見える小さな空がわずかな慰めだった。

独男の罪状は、当初は共産党への資金援助だったが、さらに「不敬罪」の追起訴を受け、8月には治安維持法で起訴され、豊多摩刑務所に収容され、裁判を待つ身だった。

ところが年が明けると、保護観察を受ける保釈となったのだった。

男は以前から「保釈願い」を出してていたものの、この保釈は突然の出来事だった。

 

壺井たちに付き添われて、その男は一旦、友人の斎藤ところに身をよせた。