「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二が投獄されていた豊多摩刑務所跡「毎日新聞」2/6付

2013-02-07 23:17:08 | 多喜二と地域ー北海道、東北、東京、関西

遊覧・もうひとつの現代史
東京都「中野」周辺
   苅部直

「学校」と住宅地
消される記憶 残る地名
 近代史の研究をしていれば何度も名前に接しているのに、改めて考えると場所を知らない施設がいくつかある。豊多摩監獄(のちの刑務所)もその一つである。大戦中は中野刑務所と呼ばれているから、JR中野駅(東京都中野区)のそばだろうというくらいにしか思っていなかった。
 

これは、大杉栄、河上肇、小林多喜二といった思想犯が多く囚われていた場所としても有名である。終戦直後に三木清が悲惨な獄死をとげたのもここであった。中野という名前に中途半端ななじみがあったために、改めて所在地をたしかめようともしなかったのである。

 刑務所それ事態は、府中刑務所に引き継がれたため、いまはない。広大な敷地も平和の森公園・中野水再生センター・法務省矯正研修所に変わっているが、矯正研修所の北端に、刑務所のかつての門が保存されていて、外からその姿を見ることができる。

 一九一五(大正四)年に建てられた豊多摩監獄の最初の建物は、監獄らしからぬ優美なデザインで注目を集めた作品であった。この門も、説明がなければ教会堂の一部かとも思ってしまうような、赤煉瓦のしゃれた造りである。見えるのは門の裏側なので、ちょうど収容者たちと同じ角度から、これを眺めているわけである。
 刑務所といえばお次は軍隊、と連想が働いてしまうのも何だか不思議ではあるのだが、中野の名を関した有名な施設としてはもう一つ、陸軍中野学校がある。後方勤務要員つまりはスパイの養成所として一九三八(昭和十三)年に設立されている。これもまた、不勉強にして場所をよく知らなかったのだが、中野駅のすぐ北にある中野区役所の西に広がる一帯がその跡地であった。

 ここはつい最近、大規模な再開発が行われている地帯であり、三つの大学が新たなキャンパスを開設準備中。とても軍関係の施設があった空間には見えないのだが、やはり新築された東京警察病院の敷地の隅に、「陸軍中野学校址」と刻まれた小さな石碑がある。よく整備された植え込みのなかに建っているので、かえって見落としてしまいそうであった。

 このように、刑務所や軍関係の施設は、建物がほかの用途に転用されないかぎり壊されても、それに伴いあたりの風景も一変してしまう。駅から刑務所へ向かう道ぞいも、かちてはにぎやかな商店街だった気配を感じさせるのだが、いまや店はまばら。刑務所跡が「平和の森公園」となり、中野学校跡に設けられた新しい公園も「中野四季の森公園」と過去の記憶をやっきになって消そうとするかのような命名である。

 これに対して駅の南側、中野三丁目あたりには、かえって古い歴史を感じさせるたたずまいが残っている。かつては桃園町と呼ばれた一帯で、高台の高級住宅地として戦前に開発・分譲された地域であった。いまでも当時の区画をそのまま残しているような大邸宅や、古い屋敷がそこかしこに並んでいる。現在は社宅になっているが、二・二六事件に連座して処刑された北一輝が最後の半年間住んでいたのも、この地域の南端であった。

 旧桃園町の高台から南へと下り、古い地名を残す桃園川緑道へ。すでに川それ自体は暗渠と化しているが、道路と交差する地点には古い橋の石造りの欄干が残っていて、橋の名前も刻まれている。その一つ、宮園橋は一九三二(昭和七)年に造られた古いもので、橋のアーチを模した欄干の形がかわいらしい。

 小さな構造物であるし、再開発のしようもない、すきまのような空間だから、かえって古いものが残ったのだろう。こういう細部にだけ、かつての優雅な地名が残っているのは皮肉とも思えるのだが、変化の激しい東京では、むしろ保存されているのを多とすべきなのかもしれない。(かるべ・ただし=東京大学教授、日本政治思想史)
    --「遊覧・もうひとつの現代史」、『毎日新聞』2013年02月06日(水)付。


団塊世代向け講座で「多喜二」

2010-09-08 00:03:52 | 多喜二と地域ー北海道、東北、東京、関西

小樽の歴史じっくり 団塊世代向け講座に22人

(09/03 14:07)

市立小樽文学館で、小林多喜二コーナーを鑑賞するシニアアカデミーの参加者

市立小樽文学館で、小林多喜二コーナーを鑑賞するシニアアカデミーの参加者

 小樽市と小樽商科大(山本真樹夫学長)による団塊世代向け集中講座「シニアアカデミー2010」が開講し、道内外からの参加者が、市内各所を巡り小樽の歴史や文化について学んでいる。

 昨年に続き2回目の開催で、8月31日から9月3日までの4日間の日程。遠くは東京都や兵庫県などから商大OB6人を含む22人が参加した。

 講師は商大教授や地元経済人が担当する。2日は、同大の荻野富士夫教授が「小樽の文学散歩」をテーマに講義。同大前身の小樽高等商業学校出身の小説家、小林多喜二と伊藤整の資料を展示している市立小樽文学館や文学碑を案内した。

 東京都から参加した無職、小川光子さん(63)は「テーマの選び方が良く、講師の話も面白いので時間が足りないくらい。もっとじっくり学びたい」と話していた。シニアアカデミーは3日に「小樽のまちづくりと小樽観光」について講義をした後、修了式を行う。(山中いずみ)


小林多喜二の小樽(多喜二文学碑)

2010-03-18 00:09:54 | 多喜二と地域ー北海道、東北、東京、関西
小林多喜二の小樽(多喜二文学碑)


旭展望台にある「小林多喜二文学碑」。

最初に行った時は、夜も更けていたこともあってタクシーでいった。


そこには若者たちがたむろしていた。
私は固唾をのんで様子をうかがった。

かれらは明らかに暴走族だった。



反社会的な存在とされる彼らの集会の場が、
文学碑の前とは・・・・驚いたものだった。

小林多喜二の小樽(多喜二文学碑)


このビデオはそれから数年後、自転車にビデオカメラを積んで、
小樽市内のあちらこちらを訪ねた時のものだ。


初夏だった。
そして、小さな動物たちの生命の営みの場だった。


小林多喜二の南小樽

2010-03-14 10:02:11 | 多喜二と地域ー北海道、東北、東京、関西
小林多喜二の小樽


小樽は都会だと思う。
多喜二が生きていた時代のことだ。

新興都市空間として、東京・阿佐ヶ谷などより都市空間としてはモダンな空間だっただろう。

だから、多喜二が上京して目にした東京の景色は、それほどのインパクトをもたなかったのではないかと思う。

多喜二は時代の先端に、つぎはぎだらけのスーツを着て立っていたと思う。