「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

プロレタリア(革命)演劇・映画

2010-09-18 14:39:56 | 「党生活者」論 序曲
プロレタリア(革命)演劇・映画

以下工事中!!



 


朝の風/映画「蟹工船」の結末

 社会現象化している小林多喜二の「蟹工船」ブームとあわせて、映画「蟹工船」の再上映がすすんでいる。
 この映画は、山村聰氏の第一回監督作品として一九五三年に製作された。この映画をつくるにあたっては、コミュ
ニストでない山村氏にとって俳優として監督として誤解を受けるのではないか、当時とは違って「蟹工船」には芸術的
価値はないなどの反対論があったという。
 多喜二・百合子研究会の機関誌『多喜二と百合子』№1(一九五四年)をひもとくと、蔵原惟人(評論家)、山田典吾
(映画「蟹工船」製作者)、壺井繁治(詩人)、間宮茂輔(作家)による「映画〝蟹工船〟をめぐって」という座談会が企
画されていて興味深い。
 原作と映画の決定的違いは、結末である。映画を見ていない人のために紹介は避けるが、公開当時から議論があ
ったようだ。
 この座談会でも山田氏が原作の付記をどう生かすかで監督と論争したこと、その上で戦争反対、再軍備反対という
太い線で貫きたいという監督の意向によって結末を変えたことを紹介している。
 蔵原氏が「不成功だとはおもわない」といいながら、歴史的・芸術的真実からいってどうなのかという問題を提起し
ているのも考えさせる。 (聳) ( 2008年11月04日,「赤旗」)


映画「蟹工船」へ思いを馳せて/嵐圭史
 世の〝蟹工船ブーム〟をみるにつけ、それを呼び起こした現今の社会状況への憤りと共に、一方で言い難き嬉しさ
もあって、何やら複雑な心境です。
 小林多喜二の『蟹工船』が多くの人々に読まれている! 当然の喜びです。しかし私にはもう一つ、私自身の、映
画『蟹工船』撮影時の微かな追憶も重なって、ブームに付随した形でのその上映活動がいま全国に拡がって、やは
り多くの人々にこの秀作を見ていただける機会を得たことへの喜びがあります。

三本の映画
 映画『蟹工船』は一九五三年に公開されましたから、撮影はその前年、私の中学一年生の時でした。当時劇団前
進座の子供部(座員の子弟)は、独立プロダクション系の映画では〝子役〟の供給源として結構重宝された存在で
した。もっとも子役といっても様々で、演技感鋭く名子役といわれた子(例えば松山政路『にごりえ』『どぶ』『狼』、河
原崎建三『足摺岬』『しいのみ学園』)がいる一方、さして目立たぬ普通の〝その他大勢〟子役もいて、私はもちろん
後者だったのですが……。
 そんな私でも中学生時には三本の映画に出ています。利根川沿いの貧村で、農業の未来に夢を托す中学生の群
像を描いた、慈父のように優しかった家城巳代治監督の『ともしび』。下手なヴァイオリンをギーコと鳴らしながらも、や
がて交響楽団の一員に加わっていく少年役の、今井正監督『ここに泉あり』。いまも旺盛に演奏活動を続けている〝
群馬交響楽団〟創成期をモデルとした映画です。

雑夫役で出演
 そして『蟹工船』。座の男児(十代)ほとんどが、船底の缶詰工場で働く雑夫・少年工役で出演、私もその中の一人
でした。缶詰作業のシーンは静岡県清水港の、本当の缶詰工場を使っての撮影で、実際に動くベルトコンベアーに
目を丸くしたものです。
 何よりもびっくりしたのは〝蟹工船〟の巨大なオープンセットで、千葉県勝浦の港にそれは組まれていました。暴
風雨のシーンでは激しい放水のなか、出演者もスタッフもずぶ濡れになっての撮影、メガホンを手に奮闘していた山
村聡監督の姿が忘れられません。
 ちなみに、船のすべてを支配する監督・浅川役を見事な存在感で、冷酷かつ荒っぽく演じたのは、実は素人さんで
現地勝山漁協の組合長さんだったとか。花沢徳衛、河野秋武、浜村純といった、独立プロ作品には欠かせなかった
名脇役が雲霞の如く揃った労働者群像に対峙して、一歩もひけをとらぬまことに堂々たる演技でした。
 この映画には私の兄(故・六代目嵐芳三郎)も出演しています。子役では唯一人目立った役の、作業現場を逃げ出
して捕えられる宮口少年を演じていました。閉じこめられた便所を俯瞰した映像が、未だ私の眼に焼きついて離れま
せん。名ショットでした。

原作の本質
 それにしても名優山村聡が何故『蟹工船』を撮る決意をしたのか。その動機、プロセスも定かではないように思われ
ます。独立プロ映画史上からも非常に興味のあるテーマで是非とも知りたいところです。
 「そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!」このとても重要な原作のメッセージは、当然ですが映画にはありま
せん。明らかに活字と映像の機能、その特性によるところであることは言をまたないでしょう。
 しかし原作の本質が、それによって少しも損なわれていないところに、山村聡監督の凄さを私はいま、あらためて感
じています。 (あらし・けいし 俳優)( 2009年02月03日,「赤旗」)




<演劇・映画思潮・理論>
 
土方与志

新築地劇団(築地小劇場より分裂)
「海戦」





「戦艦ポチョムキン」
The Baker Street Bakeryで映画がネット無料公開されています。

 日本語字幕版= http://www.alz.jp/221b/archives/000682.html

英語版字幕版=http://www.archive.org/details/BattleshipPotemkin
"Броненосец ≪Потёмкин≫ / Battleship Potemkin" (1925)

監督:セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン
脚本:ニーナ・アガジャノヴァ・シュトコ
撮影:エドゥアルド・ティッセ
美術:ワリシー・ラハリス
助監督:グリゴーリ・アレクサンドロフ

[登場人物(キャスト)]/ワクリンチュク(アレクサンドル・アントノーフ)/ゴリコフ船長(ウラジミール・バルスキー)
リャロフスキィ(グリゴーリ・アレクサンドロフ)/眠りを邪魔される水兵(イワン・ボブロフ)/衛兵(ミハイル・ゴモロフ)
軍曹(アレクサンドル・リョーフシン)/鼻眼鏡の女(N・パルターヴァ)/扇動する学生(コンスタンティン・フェルドマン)
子どもを抱える母親(プラコペンコ)/撃たれた子ども(A・グラウバマン)/乳母車の女(ビアトリス・ヴィトルディ)
神父(セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュテイン)/

フォント:しねきゃぷしょん

日本語字幕:大久保ゆう(ssa:Sub Station Alphaファイル/zip圧縮)
2009年1月3日翻訳
2008年1月5日動画作成
2008年1月6日アップロード

動画サイト:Google Video
動画ソース:Internet Archive: Battleship Potemkin (1925) - Feature Film



 

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1 コメント

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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-04-16 09:37:34
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム、人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさもしくは東洋らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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