「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「一九二八年三月十五日」第7章

2010-04-02 16:22:12 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む

 十五日一日のうちに、また五、六人の労働者が連れられて来た。その室が狭くなると、皆は演武場の広場に移された。室の半分は畳で、半分は板敷だった。室の三方が殆んど全部ガラス窓なので、明るい外光が、薄暗い所から出て来た皆の目を、初めまばゆくさした。中央には大きなストーヴが据えつけられていた。お互に顔を見知っている者も多かったので、ストーヴを囲むと、色々な話が出た。監視の巡査は四人程ついた。巡査も股を広げて、ストーヴに寄った。
 初め、それでも皆は巡査に気兼ねをして、だまっていた。が退屈してくると、巡査の方を見ながら、話が切れ、切れに出た。叱られたらいつでも直ぐ止められる心構えをしながら。巡査はしかし、かえってそういう話に同意をしたり、うながしたりした。巡査も退屈していた。
 日暮れになると、皆表に出された。裏口から一列に並んで外へ出ると、警察構内を半廻りして、表口からまた入れられた。「盥(たらい)廻し」をされてしまったのだった。急に皆の顔が不安になった。どやどやと演武場に入ってくると、お互に顔を寄せて、どうしたんだといい合った。今度の検束が何か別な原因からだ、という直感が皆にきた。実(み)の入っていない塩っ辛い汁で、粘気がなくてボロボロした真黒い麦飯を食ってしまってから、皆はまたストーヴに寄った。が、ちっとも話がはずんでゆかなかった。
 八時過ぎに、工藤が呼ばれて出て行った。皆はギョッとして、工藤の後姿を見送った。
 夜が更けてくると、ブスブス煙っているような安石炭のストーヴでは、背の方にゾクゾクと寒さが滲みこんできた。龍吉は丹前(たんぜん)を持ち出しに、薄暗い隅の方へ行った。あとから石田がついてきた。
 「小川さん、俺こんな事皆の前でいってええか分らないので、黙っていたんだけど。」と低い声でいった。
 龍吉は胃がまた痛み出してきたのを、眉のあたりに力を入れて、我慢しながら、
 「うん?」と、ききかえした。
 演武場の外を、誰かが足音をカリッ、カリッとさせて歩いていた。
 ――少し前だった。石田が洗面所に行った。別々の室に入れられている皆が、お互に顔だけでも見合わされ――また運よく行って、話でも出来るのは、実は一つしかないために共同に使われていた洗面所だった。皆がそこへ行くときは、それでその機会をうまくつかめるように、心で望んでいた。石田が入ってゆくと、正面の板壁に下げてある横に長い鏡の前で、こっちへは後を向けた肩巾の広い、厚い男が顔を洗っていた。その時は、石田は何かうっかりほかのことを考えていたかも知れなかった。その男の側まで行って、彼は――と、その時ひょいと、その男が顔をあげた。石田が何気なく投げていた視線と、それがかっちり合った。「あッ!」石田はたしかに声をあげた。頭から足へ、何か目にもとまらない速さで、スウッと走った。彼は、自分の体が紙ッ片(きれ)のように軽くなったのを感じた。彼は片手を洗面所の枠に支えると、反射的に片手で自分の眠から頬をなでた。顔!?――それが顔だろうか? 腐れた茄子(なす)のようにブシ色にはれ上った、文字通り「お岩」の顔、そして、それが渡ではないか!
 「やられたよ。」自分で自分の顔を指さすような恰好で、笑ってみせた。笑顔!
 石田は一言もいえず、そのままでいた。心臓の下あたりがくすぐったくなるように、ふるえてきた。
 「しかし、ちっとも参らない。」
 「うん……。」
 「皆に恐怖病にとッつかれないようにって頼むでえ。」
 その時は、それだけしかいえる機会がなかった。
 「キット大きな事だって思うんだ。」石田が怒ったように、低い声でいった。
 「うむ。……心当りがない事もないが。しかし、大切なことはやっぱり恐怖病だ。」龍吉はストーヴの廻りにいる仲間や巡査の方に眼をやりながらいった。
 「それアそうだ。しかし警察へ来てまで空元気を出して、乱暴を働かなけア闘士でないなんて考えも、やめさせなけア駄目だ。警察に来ておとなしくしているというのは、何も恐怖病にとッつかれているという事ではないんだと思う。」
 「そうだ。うん。」
 「斎藤なんぞ、」そういって、ストーヴのそばで何か手振りをしながらしゃべっている斎藤を見ながら、「此前だ、警察へ引っぱられてきて、一番罪が軽かったら、それを恥しく思って首でも吊らなかったら、そんな奴は無産階級の闘士でないなんていい出したもんだ!」
 「……うん、いや、その気持も運動をしている者がキット幾分はもつ……何んていうか、センチメンタリズムだよ。同志に済まないって気がするもんだからな、そんな場合。しかし、勿論それア機会ある毎に直して行かなけアならない事だよ。」
 石田は相手を見て、何か言葉をはさもうとした、しかしやめると、考える顔をした。
 「それはしかし、案外面倒な方法だと思うんだ。そいつをあまり真正面から小児病だとか、なんとかいい出すと、ところが肝心要めの情熱そのものを根っからプッつり引っこ抜いてしまう事にならないとも限らないからなあ。勿論それア、その二つのものは別物だけどさ。」
 石田は自分の爪先を見ながら、その辺を歩き出した。
 「大切なことは、その情熱をそのまま正しい道の方へ流し込んでやるッて事らしいよ。――情熱は何んといったって、やっぱり一番大きな、根本的なものだと思うんだ。」龍吉は何かを考えて、フト言葉を切った。「革命的理論なくして、革命的行動はあり得ないッて言葉があるさ、君も知ってる有名な奴さ。けれども、それはそれだけじゃ本当は足りないと、俺は思ってるんだ。その言葉の底に当然のものとして省略されてる大物は、何んといったって情熱だよ。」
 「線香花火の情熱はあやまるよ。牛が、何がなんであろうと、しかし決してやめる事なく、のそりのそり歩いていく、それがとくに俺達の執拗な長い間の努力の要る運動に必要な情熱じゃないか、と思うんだ。」
 「そうだ。情熱はしかし、人によって色々異った形で出るものだよ。俺だちの運動は二、三人の気の合った仲間ばかりで出来るものじゃないのだから、その点、大きな気持――それ等をグッと引きしめる一段と高い気持に、それを結びつけることによって、それ等の差異をなるべく溶合するように気をつけなければならない、と思うんだ。――それア、どうしたって個人的にいって不愉快なこともあるさ。だが勿論そんなことに拘わるのは嘘だよ。俺だって渡のある方面では嫌なところがある。渡ばかりじゃない。しかし、決してそれで分離することはしないよ。それじゃ組織体としての俺達の運動は出来ないんだから。」
 「うん、うん。」
 「これから色々困難な事に打ち当るさ。そうすればキットこんな事で、案外重大な裂目を引き起さないとも限らないんだ。俺だちはもっともっとこういう隠れている、何んでもないような事に本気で、気をつけて行かなければならないと思ってるよ。」
 「うん、うん。」石田は口の中で何遍もうなずいた。
 二人がストーヴに寄ってゆくと、皆は巡査と一緒に猥談(わいだん)をやっていた。どういうわけで引張られてきたか、ちっとも分らないといっていた労働者は二、三人いた。それ等は始めからオドオドして、側から見ていられない程くしゃんとしていた。が、時々その猥談に口をはさんだり、笑っていた。話がとぎれて、ちょっと皆がだまる事があると、走り雲の落してゆく影のように、彼等の顔が瞬間暗くなった。
 斎藤が手振りで話していたのは、女の陰部のことだった。それが口達者なので、皆を引きつけていた。話し終ると、
 「ねえ、石山さん、煙草一本。」
 一生懸命に聞いていた頭の毛の薄い、肥った巡査に手を出した。
 石山巡査は、下品にえへ、えへへへと笑いながら、上着の内隠しから、くしゃくしゃにもまれて折れそうになっているバットを一本出して、斎藤に渡してくれた。
 「ありがてえ、ありがたえ。もう一席もッと微細なところをやるかな。」
 こすい眼付きで、相手をちらっと見て笑った。斎藤はそれを掌の上で丹念に直して、それからそれに唾を塗って、なるべく遅くまで残るように濡らした。
 「いや、勿体ない。これは後でゆっくりとやる。」そして耳に煙草をはさんだ。
 「……早く何んとかしてくれないかな。」
 片隅で誰か独言した。
 「う。」皆はその言葉でひょいとまた、自分の心に懐中電燈でもつきつけられたように思った。
 「浜の現場から引っぱられて来たんで、家でどッたらに心配してるかッて思ってよ。俺働かねば嬶(かかあ)も餓鬼(がき)も食っていけねえんだ。」
 「俺らもよ。」
 「……こんな運動こりこりした。おッかねえ。」――変に実感をこめて、そういったのは相当前から組合にいる労働者だった。
 「どうしてよ!」斎藤が口を入れた。
 斎藤にいわれて、その労働者は口をつむんでしまった。斎藤は怒った調子を明から様に出して、
 「うん?」と、うながした。
 「いいいい。」石田が巡査の方を眼くばせして、斎藤の後を突ッついた。
 その木村という労働者は長く組合にいたが、表立っては別に何もしてきていなかった。彼はいつでもいっていた。――それは、あまり彼の出ている倉庫の仕事が苦しかった。ところが労働組合がそういう労働者の待遇を直して呉れるためにある、という事を知った。それで彼が入ってきたのだった。が、警察に引張られなければならないようでは、とても彼は困ると思ったし、それにそんな「悪い事」まですることは、どうしても彼には分らなかった。恐ろしいとも思った。そんな事でなしに、うまくやって行くのが労働組合だと思っていた。彼は思い違いをしていた。彼は、これでは、いつかやめなければならない、と考えた。彼は結局後から押されるようにして、今まで知らず知らずの間に押されてきていた。何かものにつまずけば、すぐそれが動機になって、軌道から外へ転げ落ちる形のままだった。彼は組合の仕事も、ちっとも積極的でなしに、人形のように、割り当てられた事だけしかしなかった。
 総選挙の時だった。敵候補方のポスターをはぎ取ったという事で、労農党から誰か警察に犠牲になって行く必要が起きた。渡が木村に頼んで、色々注意を話してきかせた。
 「少しなぐられるかも知れないけれども、我慢してくれよ。」といった。
 「嫌だ!」
 一言でそういい切った。
 そんな答をちっとも予期していなかった渡が、「ええ?」と反射的にいったきり、かえって黙ったまま木村の顔を見た。
 「俺アそったら事して、一日でも二日でも警察さ引ッ張られてみれ、飯食えなくなるよ。嫌だ!」
 「君は俺達の運動という事が分らないんだな。」
 「お前(め)え達幹部みたいに、響察さ引ッ張られて行けば、それだけ名前が出て偉くなったり、名誉になったりすんのと違(ちが)んだ。」
 渡は息をグッとのんだまま、すぐ何かいえず、黙った。そこにいた龍吉は「これア悪い空気だ。」と思った。組合の幹部と平組合員が「こんな事で」にらみ合っていては困る、と思った。
 「今のところ、まア別人に行って貰うことにしてもいいさ。」
 龍吉は是非そういわなければならなかった。――この木村にとって、今度の事は、だから、「手をひく」いい動機だった。ここから出たら、きっぱりとやめようと思っていた。そう決めていた。
 「意気地のない野郎だ」
 斎藤はズウッと前にあった、その木村のことを思い出していた。彼はワザと横を向いた。
 「木村君、やっぱり組合員は組合員らしくするんだなア。とくにこういう事になれば、俺達がしっかりしなけア困る時だ、と思うんだ。」
 龍吉はストーヴの温かさで、かゆくなった前股のあたりをさすりながらいった。木村はしかし黙っていた。龍吉はフト、文字通り戦闘的だといわれている左翼組合に、案外こういうもの等が数の上ででも中枢をなしていることは、そう軽々しく考え捨てることの出来ない事だと思った。
 木村の紹介で、最近組合に入った柴田は両膝をかかえて、皆を見ていた。彼は木村と同じフトンに寝るので、彼が心底からぐしゃんと参っていることを聞かされて知っていた。柴田自身も、しかし、初め参ったとは思った。とくに組合で寝こみを襲われた時血の気がなくなった。しかし勿論こんなことはたえ切って行かなければならない事だと、普段から思っていた。自分で、そういう点ではとくに至らない、つまらないものであると思っていたから、彼は人一倍一生懸命になった。彼はだから渡や工藤や斎藤、龍吉――そういう人達の一挙一動に細かい注意を払って、自分の態度に「意識的に過ぎる」とさえ思われる程鞭を加えてきていた。今度の事件は、そして、色々な人間に対する厳重なフルイであった。ドシドシ眼の前で網の目から落ちて行く同志を見るのは、可なり淋しいことだった。しかしそれはあるいはかえって必要な過程であるかも知れなかった。――柴田は、俺はいくら後から来た若造だって、畜生、落ちてはなるまいぞ、と思った。
 ストーヴの廻りの話がこの事でちょっと渦を巻いて澱んだ、が、誰が話しだすとなく、女の話がまた出ていった。
 八時になると、畳の方へ床を敷いて、二人ずつ寝た。「眠れさえすれば」眠るのが、たった一つの自由な楽しみだった。
 何人もが一緒に帯を解いたり、足袋(たび)を脱いだりする音がゴソゴソ起った。
 「早く寝て夢を見るんだ。」口に出していうものがいる。
 「留置場の夢か、たまらない。」
 「糞。」
 相手がクスクス笑った。宿屋に着いた修学旅行の生徒のように、一しきりザワめいた。巡査が時々「シッ」「シッ」といった。
 何十人かのあかのついた鯣(するめ)のような夜具の襟が、ひんやりと気持わるく頬に触った。
 「あ――あ、極楽だ。」襟で口を抑えられたボソボソした声だった。
 「地獄の極楽か。」
 とんでもなく離れた方から、「い――い夢見たい。」
 「寝ろ 寝ろ。」
 「女でも抱いたつもりでか。」
 「こんなところで、それをいう奴があるか。」
 「ああ抱きたい。」
 「馬鹿だな、誰だい。」
 「何が馬鹿だ……。」
 「寝ろ 寝ろ。」
 そんな言葉が時々間を置いて、思い思いにあっち、こっちから起った。それがだんだん緩く、途切れ勝ちになって行った。二十分もすると、思い出したように、寝言らしい言葉が出る位になってしまった。――そして静かになった。
 演式場の外は、淋しい暗がりの多い通りだった。それであまり人通りは無かったが、時々下駄が寒気(しばれ)のひどい雪道をギュンギュンならして通って行くのが、今度は耳についてきた。署内で、誰かが遠くで呼んでいる声が、それがそれより馬鹿に遠くからという風に聞えた。
 「眠れるか。」
 龍吉は眠れないので、一緒に寝ている斉藤にそっと言葉をかけてみた。斉藤は動かなかった。眠っていた。もう眠ったのかと思うと、それが如何にも斎藤らしかったので、彼は独りで微笑ましくなった。龍吉はズキン、ズキンと底から(そうひどくはなかったが)痛んでくる胃を、片手で揉むように押しながら、色々なことを考えていた。……
 「オイオイ。」――誰だ、と思った。今こんな面倒な頁を読んでいるのにと思うと、ムラムラと癪にさわった。「オイオイ。」ぐいと肩をつかまれた。糞ッ! 振りかえろうとして、龍吉は眼をさました。非常に眠かった。その瞬間、ダブった写真のように、夢と現実の境をつけるのに、彼はしばらく眼をみはった。そうだ、すぐ眼の前に汚い、鬚だらけの大きな巡査の顔があった。
 「オイオイ、起きるんだ。取調べだ。」
 ギョッとすると、龍吉は自分でも分らずに、身体を半分起していた。
 寝ぼけたところを引張って行くいつもの彼等の手だった。ガヂャガヂャと、静かな四囲に不吉な鍵の音をさして、巡査のあとから龍吉はついて出た。
 三十分程した。凄い程すっかり顔色のなくなった工藤が巡査に連れられて帰ってきた。が、演武場に置いておいた荷物をまとめると、すぐ巡査にうながされて出て行った。彼はその時、何かいおうとするように皆の寝ている所を見廻した。が、身体を廻すと、ズングリな後を見せて出て行った。
 ――がじゃんと鍵が下りた。二人の、歩調の合っていない足音が廊下にいつまでも聞えていた。
 寝がえりを打つ音や、嘆息や、発音の分らない寝言などが、泥沼に出るメタン瓦斯(がす)のようにブツブツ起った。

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