「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

長尾桃郎文庫について

2009-02-22 08:52:27 | 小林多喜二「救援ニュース no.18」を読む
http://www.lib.osakafu-u.ac.jp/gakubu/human/domen.html から転載。

「長尾文庫」について   
-長尾桃郎氏収集の労働運動史資料-

 堂面秋芳

 戦後、労働運動史の研究は、労働運動そのものの急激な発展の潮流と、そのもとでの実践的要求もあって目覚ましい隆盛をみたが、それは研究の自由だけでなく、その土台としての実証的資料の発掘とその利用に負うところが大であった。

 ここにあげた「長尾文庫」も、兵庫県労動運動史編さん(昭30~)に際し、当時、全日本海員組合で機関誌編集に携わっておられた長尾桃郎氏所蔵の各方面にわたるコレクションのうちの社会運動・労動運動の文書を拝借できたことを機会に、それ以外の所蔵文書若干を追加し、本大学にお譲りいただいた資料につき、氏の厚意と貢献を感謝し銘記するため、かく名づけたものである。「長尾文庫」の内容は、大正末期~昭和前期(10年頃)にわたる社会・労働の両運動に関する文献、調査報告、新聞スクラップ、労働関係通信、無産政党・労働組合などの機関紙及びビラその他の印刷物など合計2,000点(大型ロッカー約2基に達し、ことに関西地方に関する資料が多く、その点で今後の実証的研究を深めるうえで役立つことであろう。

 戦後、労働運動史の研究は、労働運動そのものの急激な発展の潮流と、そのもとでの実践的要求もあって目覚ましい隆盛をみたが、それは研究の自由だけでなく、その土台としての実証的資料の発掘とその利用に負うところが大であった。

 ここにあげた「長尾文庫」も、兵庫県労動運動史編さん(昭30~)に際し、当時、全日本海員組合で機関誌編集に携わっておられた長尾桃郎氏所蔵の各方面にわたるコレクションのうちの社会運動・労動運動の文書を拝借できたことを機会に、それ以外の所蔵文書若干を追加し、本大学にお譲りいただいた資料につき、氏の厚意と貢献を感謝し銘記するため、かく名づけたものである。「長尾文庫」の内容は、大正末期~昭和前期(10年頃)にわたる社会・労働の両運動に関する文献、調査報告、新聞スクラップ、労働関係通信、無産政党・労働組合などの機関紙及びビラその他の印刷物など合計2,000点(大型ロッカー約2基に達し、ことに関西地方に関する資料が多く、その点で今後の実証的研究を深めるうえで役立つことであろう。

(以下略)

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「長尾文庫」にどんな資料が含まれているかは、その「サイトマップ」を参照すれば一目で分かる。

一例として、小林多喜二がプロレタリア文学運動で盛んに活躍していた頃のものを貼り付けておこう。「文庫」にいくつか「救援ニュース」が収録されているが、そのうちの一つ。1931年4月1日付けで、「赤救京都」(*「赤色救援会」を略して「赤救」という)が発行したものである。

映画「母(かあ)べえ」を観た人は、「父(とお)べえ」が逮捕された時に訪ねてきた教え子、浅野忠信が演じていた若者は、救援組織から派遣されて来たのではないかと思い当たるであろう。差し入れの原則をきちんと吉永小百合演ずる「母(かあ)べえ」に伝えていたから。



http://www.lib.osakafu-u.ac.jp/gakubu/human/nagao_c5/c0422.html






1面を解説する。まず時代背景から。

<時代背景>

1925年4月に弾圧立法の「治安維持法」が公布される。1928年3月15日に共産党員らを検挙した3・15事件。翌1929年3月に治安維持法改悪に反対した山本宣治代議士が暗殺される。そして4月16日に3・15事件に続いて4・16事件、多数の共産党員らが検挙される。多喜二が「蟹工船」を書いたのは1929年。こうした弾圧の嵐の中、「解放運動犠牲者救援会」(後に「赤色救援会」)が結成され、弾圧犠牲者の救援活動を始めた。

<公判闘争>

「救援会」は犠牲者への差し入れや公判傍聴などの支援活動を行った。支援活動の内容を伝えるのが「救援ニュース」である。当時は警察の検閲があったので合法性を保つために××(伏せ字)が使われている。例えば「警察に於ける××をバクロし」の××は「拷問」のこと。当然ながら多喜二の「蟹工船」も読者に届けるために××だらけで出版された。今日伏せ字なしの「蟹工船」が読めるのは、多喜二の同志であった手塚英孝氏の努力に負う。

そのほか1面で、被告や家族を励ますための「犠牲者慰安茶話会」も計画されたが、警察が許さなかった経緯等も説明している。

2面に移ると、差し入れなど支援活動の内容が載せてある。

<差し入れなど支援活動>

「一銭でも二銭でもどんどん送れ!」被告が元気に裁判闘争がたたかえるよう卵や牛乳を差し入れるためのカンパである。また獄中の同志のために「京都赤救」は300冊の書籍を集め「京都赤救文庫」として33人の同志に差し入れている。

犠牲者を勇気づけるための手紙運動の大切さが強調され、「激励の手紙の雨を売らせろ」と訴えている。

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多喜二「救援ニュース no.18」と百合子「乳房」の位相―遺す「男」、遺された「女」

2008-12-06 13:41:17 | 小林多喜二「救援ニュース no.18」を読む
宮本百合子に、1935年(昭和10年)3月に書いた「乳房」がある(『中央公論』4月号)。

この「乳房」は、発表まもなく翻訳されてソヴェト同盟から出版されている世界革命文学の選集に採録された。

わたしは、この作を、多喜二「救援ニュースno.18」系の作品がとりあつかった、革命的「前衛」が奪われた後の、「後衛」の物語として位置づけ、読み解きたいと思う。


●「乳房」成立事情

この作品がまとまるまでにはいろいろ当時としてのいきさつがあった。

そのいきさつのあらましは、1932年の3月下旬「日本プロレタリア文化連盟」にたいする弾圧があった時代にさかのぼる。

それまで公然と文筆活動をしていた小林多喜二、宮本顕治その他の人々が、1932年3月以後はこれまでの活動の形をかえて、地下的に生活し働かなければならないようになった。

百合子も1932年4月7日に検挙されて6月18日ごろまで、警察にとめられていた。

共産党の中央部が破壊を蒙った熱海事件がこの1932年10月にあり、そのころ共産党中央委員であった岩田義道が、検挙と同時に殺された。翌年の2月20日に小林多喜二が築地署で拷問のために虐殺された。

つづいて、野呂栄太郎が検挙され、拷問で殺されたような状態で死んだ。
 
1933年は、日本の権力が、共産党員でがんばっている者は殺したってかまわない、という方針を内外にはっきりさせて行動した年であった。

そして、一九二八年三月十五日、「三・一五』事件として歴史的に知られている事件のころから共産党の組織に全国的にはいりはじめていた警察のスパイが、最もあからさまに活躍して、様々の金銭問題、拐帯事件、男女問題を挑発し、共産党員を破廉恥な行為へ誘いこみながら次から次へと組織を売っては殺させていた年であった。

そういう兇猛な雰囲気のなかで、百合子の夫で、地下活動を続けていた宮本顕治だった。夫婦は別な場所にいたが、夫を思う妻・百合子はほんとに寝ても、醒めても不安な日々を暮らしていた。

その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻である百合子をとおして、宮本顕治をとらえようと計画する特高の企図も試みられた。

自分の愛を最もたえがたい方法によって悪用されまいとするだけにも、絶間ない精神と肉体の緊張を必要とした。

この時期、百合子は「前衛」ではなく、「後衛」であったといっていいと思う。



百合子は、「乳房」を書くため、1933年の夏、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。

職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。

 ところが、それは小説にならなかった。作品はまとまらなかった。そして、この小説の試みは中絶された。

 そして一九三三年の秋もおそくなってから書かれたのが、「小祝の一家」という短篇小説だった。

「乳房」の第一稿でこころみられていた作品とは題材もテーマもちがっていた。

当時文化活動に献身していた今野大力とその妻(実は、この妻は宮本顕治の地下活動をカモフラージュしていた女性であった)の健気の生活から感銘された作品である。

同じころ、創作のためには非常に厳しい条件のなかで、佐多稲子が「進路」という一篇をまとめたことは、彼女の作家的閲歴としてもプロレタリア文学史にとっても意味ふかいことであった。

「小祝の一家」が雑誌『文芸』に発表されて程なくして、1933年12月26日、宮本顕治は東京地方委員会のキャップをしていたスパイ・モモセに売られて検挙された。

その翌年の1934年12月、百合子は淀橋区上落合の、中井駅から近い崖の上の家に移った。

たった一人そこに住んでいた百合子の生活は、近所の壺井繁治同栄、窪川稲子、一田アキなどの友情で支えられた。

百合子は、上落合へ移って、やっと「乳房」をまとめることができた。

その月の20日すぎの或る夜、夕刊に、宮本顕治が一年間の留置場生活から白紙のまま市ヶ谷刑務所へ移されたというニュースが出た。

百合子はそのとき、思わず
「ああ!」 
と立ち上って、
「殺されなかった!」とつぶやいた。

一年間の留置場生活の内容は、完全に遮断されている妻・百合子には一切しらされていなかった。

顕治の母でさえも、警視庁で命ぜられたとおり、自分が息子の顕治に面会した場所や健康状態については、沈黙を守っているという有様であった。


百合子は、顕治があのように地下生活していたころ着手して、未完成のままにおかれた「乳房」を(題はまだつけられていなかった)、顕治が生きて、これから先何年もそこですごさなければならない見当さえつかない未決にまわった記念のために、ちゃんとした小説に書き上げたいと思う熱意があった。

そのために一ヵ月余、継続的に仕事をした。ある部分は数度かき直した。そして「乳房」と題をつけて「中央公論」4月号にけいさいされたのであった。

●「乳房」の内容と方法について
「乳房」は、東京南部の労働者街の無産者托児所の生活を中心として、東京交通労組の職場が各車庫別のストライキに立っていたころの動揺、地区のオルグとして働いている人物の検挙につれて、その余波が托児所にまでひろがって来る前後のいきさつを題材としている。

テーマは、革命的な労働者は次々ひっこぬかれてダラ幹ばかりのこされた東交の中にでも、いろいろなやりかたでその活動を年中警察に妨害され苦境にいる無産者托児所の中にでも人民が自分たちの生活と職場を守り、権力とたたかってゆこうとしている意欲は決して潰滅しきっているのでないことを描こうとしたものである。
※これは多喜二「地区の人々」にも通じるテーマだといえる。


主要な人物は無産者托児所の何人かのタイプのちがう女性たちである。主人公ともいうべき人物はその托児所の主任保母として働いているひろ子である。

ひろ子の良人の重吉は革命的活動家として検挙され獄中生活におかれている。この小説に描き出されている様々の情景はすべて――東交某車庫の集会、托児所生活の雰囲気、市ヶ谷刑務所面会所の風景、特高警察の乱暴そのほか、みな現実のうちから作者としての生活的実感を添えて切りとられて来ている断片である。

百合子は、当時の社会現実をみたしていたリアルな諸情景を、人民の階級的能動性に加えられる暴圧とそれへの抵抗という一つのつよい歴史的テーマに統一して表現しようとしている。

活動の安定を失いはじめている托児所へ出入するようになった臼井という、いかがわしい経歴の若い男が大衆の前に全身をあらわすことのできない党というものへの好奇心や畏怖やを利用して、未熟で正直な若い保母タミノを、意味深長なヒントで自分にひきつけようとしている過程、それに対するひろ子の不信と警戒の描写は、当時の各組織内に挑発者が侵入してゆく方法や女をひっかけてゆく方法の、小規模ながら一典型である。

いろいろな組合わせで特徴のあらわれている会話の調子も、一九二八・九年ごろからこの作品のかかれたころまでの、左翼活動家たちのもののいいかたである。

警察の特高と保母たちとの応酬も短いうちにティピカルなものを示している。

重吉対ひろ子、臼井とタミノの対照で、階級的な愛情の問題にもふれられている。

正面から階級闘争をとりあげているという意味で、この「乳房」は、正統的なプロレタリア文学の作品として、公表されることのできた最後の作品であったということができる。

プロレタリア文化、文学団体は前年に解散してしまっていて、文学の面ではもうそのころ没階級的なリアリズム論が氾濫していた。

武田麟太郎の市井的のリアリズムと、島木健作の凄みズムと亀井勝一郎その他の日本ロマン派と入りみだれていた。

この「乳房」が、百合子にとって、プロレタリア作家を志して、数年をけみしながらいわばはじめて芸術作品らしいリアリティーをもって完成された作品であった。

それと同時に、それが客観的には従来の意味でのプロレタリア文学の最後の一篇として存在したことも意味ふかいことである。

                        (つづく)