「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

渡部直己 『不敬文学論序説』

2021-09-12 16:39:06 | 多喜二研究の手引き
書評 渡部直己 『不敬文学論序説』

何が「天皇描写」を可能にするか



  渡部直己の“中上健次三部作”が完結した。『日本近代文学と〈差別〉』に始まり、『中上健次論 愛しさについて』と続き、今度の『不敬文学論序説』で締めくくられた評論集である。と言っても私が勝手にそう呼んでいるだけであって、著者自身にその意図があるかわからないし、あるいはなお“続編”が書き継がれるかもしれない。
  最初の『〈差別〉』で解き明かされたのは、乱暴に言うと、小説には穴が開いており、その穴に矛盾や差異が放り込まれ、しかもその穴を覆い隠すことによって小説は成り立つという原理である。その結果、小説は差別に荷担する。このこと自体は、小説のルーツのひとつである物語の起源と構造を考えればつきあたる原理であり、表象という制度が仕掛ける罠であり、必ずしも目新しいわけではない。だが渡部直己はこの本で、明治以降の日本近代文学の諸作品がいかにこの不問の穴を作ってきたかを暴き立てることで、歴史の感触をそこに持ち込んだ。いまだにわれわれの語りを支配する亡霊の姿を、見えるものとしたのだ。
  しかし、本当にリアルな歴史の感触がもたらされるのは、「秋幸と「路地」」と題された終章で、不問の穴を決して許さなかった中上健次の姿が描かれたときである。それは、恐らく『〈差別〉』を書き始めたきっかけと無縁ではないだろう中上が、この本が書き始められるやすぐに他界してしまったためだと思われる。その証拠に、この章を拡大するようにして、『〈差別〉』と並行しながら「中上健次論』が書き継がれていくのだ。
 「秋幸と「路地」」が形を変えて採録されてもいる『中上健次論』に私が読みとるのは、皮膚呼吸をする「テクスト」である〈秋幸〉というものに、さらには中上健次そのものに、渡部がなりかわりたいという“愛情告白”である。本論では、中上が自殺した兄の謎を解き彼のための場所と自分のいる場所をつなごうと試みるさまが何度も説かれるのだが、それは渡部自身が中上の場所と自らの場所をつなごうとして『中上健次論』というテクストを書く姿と重なる。それが副題「愛しさについて」の由縁であり、渡部が分析する中上作品の欲望やベクトルやその他すべての動きが、彼の中上に対する態度そのものだと私には映るのである。作品論・作家論である以上に、この本は中上健次に届こうとし確かに触れえたことの記録であり、その瞬間のなまなましさがこちらの胸を騒がせる。
  そして今度の『不敬文学論』に至る。近代小説における〈差別〉の穴を暴露した波部直己は、ついには日本近代文学全体の穴となっている「天皇」に目を向けた。日本で日本語で書いている限り現れる矛盾・差異が、その穴に無理なく吸い込まれていく。しかもたちの悪いことに、その穴はわざわざ隠すための手続きを踏まなくても、“自然と”隠れてくれる。すなわち、そのことについて考えなければよいのである。渡部は『〈差別〉』のときと同様の手つきで年代順に作品を追いながら、テクストに残された「穴=天皇」への恭順と欺瞞、あるいは数少ない抵抗をあぶりだしていく。森鴎外が「かのやうに」で書いたテクストの形態が大逆裁判で使われた言説の形態と酷似していること、それに対し夏目漱石の『こゝろ』がそういった言説を逆転させようと、宮内省が公示する明治天皇の病状報告を主人公の父の病状描写に転じさせていること、また、執拗に「穴」へ食い込んでいく大江健三郎の小説の分析などは、著者の面目躍如である。
  反面、〈差別〉のエクリチュールを「表象=支配」とし、天皇描写のエクリチュールを「表象=隷属」と対比させていることからもわかるように、『〈差別〉』と表裏をなした批評である分、分析の方法にはこれまでの繰り返しや変奏が多い。『〈差別〉』では「穴」という“中心”が全体の論旨を統括していたのに対し、『不敬文学論』は「不敬小説」の流れを歴史的に追うにとどまり、「天皇」は全体の論をまとめる“中心”とはならない。作品分析でも、『異族』論や村上春樹批判はいままでの繰り返しである。このため、前二作に見られたような求心力がやや影を潜めていることも否めない。
  にもかかわらず、これは異様な本である。分析の部分を除いていくと、残るのは膨大な引用とその補足説明である。そして、奇妙な精彩を放って迫ってくるのはその引用部なのだ。なぜなら、ほぼ全編が天皇の直接描写ないしは天皇に接近した言説だからだ。
  渡部直己はこの本で再三にわたり、小説家に「天皇を直接描写せよ」と囁きかける。《描写が要求する長さとは、あまりにもしばしば、対象の全体をもろもろの細部に向けて分断することによって支えられようとするからだ。すなわち、それに限りなく近づくことと、それを恣に切り裂くこと》(第一章)。そして自らその挑発に忠実に、日本近代小説史上の天皇描写をずらりと並べてみせる。この本自体が、天皇を描写したいという欲望に衝き動かされているのだ。著者自身が新たに天皇を描写し始めるまで、あと一歩だったのではないか。
  しかも、小山いと子の恋闕小説や深沢七郎『風流夢譚』など、登場する記述ほあまりにも珍妙で可笑しい。これらの描写を見慣れないという事態そのものがまず十分異様である(ただ、武田泰淳『富士』の引用がないのは残念である。自分が「宮様」になったと信じて疑わない一条実見が警官に変装し、本物の「宮様」に精神病院改革を直訴に行き、「怪しい奴が徘徊していますから、気をつけなさい……。ところで、その怪しい奴は、ぼくですがね。そのほくが宮様なんです」(略)「君は警官のように見うけられるが、われわれが警官になることは……」(略)「あなたが宮様でありうるならば、精神病患者でも宮様になりうることを、忘れないで下さい」「うん、うん、そうかね」といった会話を交わすその小説を、『不敬文学論』の志向に忠実にここでももっと引きたい気もするのだが、『不敬文学論』の引用を孫引きしたい衝動を我慢している以上、『富士』の引用も我慢しておく)。
  だがこの異様さは、より根源的には第四章で提示される中野重治の問いにかかわる。天皇を描くことは特定の人物を描くことであり、虚構化することが虚偽化することとつながってしまうのではないかという問いである。《〈描写〉の接近=分断性と、〈物語〉の激化の要請との両面において、不可避的に「不敬」なものと化してきた小説は、ここにおいて、〈物語〉のさらに根本的な原理たる虚構性そのものにおいて、またしても天皇なる存在と抵触していることになる》(第四章)のだ。妙な気分になるのは、この問いの瀬戸際にある描写をこれだけ羅列されることで、小説が小説でなくなる臨界を目の前に突きつけられたからだ。この問題を素通りして書かれた小説は、信用するに値しないとさえ言える。
  一般的に小説では、モデルを一旦抽象化し、それを再びフィクションとして具象化しているはずであり、モデルと作中人物がダイレクトにつながりはしない。だが唯一、天皇だけにはその作業が通用しない。首相でも実在の事件の犯人でもお父さんでも、ある範囲内での複数性・交換性が確保されているがゆえに虚構が成り立つが、天皇だけはどの時代のどの天皇かとうことが選択肢にあるだけで、必ず固有の人物に結びついてしまい、SFか寓話の体裁でもとらないとその限定は超えられない。代替がきかないから天皇なのだ。しかもその天皇は人間という個人なのか、不特定多数の象徴なのか、あいまいにしか位置づけられていない。まさしくその問題を扱っているはずの『富士』でも、「宮様」という漠然とした言い方をしている。『不敬文学論』によれば、その領域をもっとも深く侵犯したのは『風流夢譚』ということになるのだが(この作品では「夢」を使っている)、侵犯はしても中野の問いを解決できたわけではない。第五章では、小説の形そのものを天皇の相似形に仕立てるという方法で別の方向からのアプローチを見せた大江、中上の闘いが記されるが、私が見るにそれは天皇的というより、天皇制的な形である。強靱な天皇制批判である。だから、天皇をフィクションにおいて描写することとは少し違う。
  では、やはり著者の説くように「小説なる欲望じたいの存在が一貫した有罪性において抑圧されて」おり、「連戦連敗」するしかないのか(終章)。だが、この問いの立て方は、すでに著者の挑発に乗っているのである。なぜなら、「小説なる欲望」「描写の欲望」と言った時点で、天皇だけが見え、天皇制は視界から消えるからだ。
  先ほどの引用でわかるように、この本で焦点を当てられている「小説なる欲望」とは、「物語の激化の要請」と「描写の噴出」であり、それぞれがはらむ過剰さがむきだしとなり終わることなく自己増殖するときにこそ、小説が〈差別〉や「天皇」を食い破ると説く。これに対し、その終わりなき増殖を回避しょうとする姿勢を著者は退ける。特に、表向きは「欲望」に忠実そうに見えながらその実遠ざかる「節度」ある作品に対しては、「俗情との結託」という大西巨人の言葉を借りて断罪する。このこと自体は正しい。
  問題は、これらの「欲望」や「近接の原理」等の法則が、本書では自明のことがらとして語られていることだ。しかも、それが『不敬文学論』の根幹を支えているのだ。もちろん、渡部直己は以前の著作で何度となく小説のこの「欲望」という原理を検討している。そもそも『不敬文学論』の狙いはそこにはないのだから、割愛せざるをえないのは当然である。しかしこの本の目的のひとつが、天皇の存在によって言説空間がいかに歪み、どのような政治的力学が働いたのかを解明することにあるとなると、自らの言説の政治性にも敏感でなくてはならない。そして、これら自明のように扱われた言葉は、やけに無防備に使われているように見えるのである。政治性が歴史的文脈と切り離せない以上、これらの言い方の歴史性も問題とされなくてはならない。
  いま私がこの「小説なる欲望のかたち」といった表現を見ると、主体という幻影をいかに消そうかと躍起になっていた時代の傾向を感じる。むろん、現在でもこの表現の意図が有効な局面はいくらでもあるのだが、一方でいまはこれが反動として作用する時代でもあると思うのだ。「小説なる欲望」と言うとき、「欲望」という言葉は書き手という個人の側に置かれるのではなく、小説やテクストやエクリチュールといったモノやコトの側に置かれる。これは時代と場所の違いによって政治的文脈が変われば、危うい倒錯に陥る。いまの日本の言説を鑑みれば、文字やテクストというモノに欲望を溶解させてしまうことは、小説の成り立ちの痕を消して神秘主義や集合的無意識みたいなものを肯定する方向につながりかねない。つまり、書く主体を見えにくくすることによって、書かれたテクストが聖化されるのである。
  これは何やら『不敬文学論』が説く、天皇をめぐる言説と似てはいないだろうか。ひょっとしてこの本は図らずも天皇の擬態となろうとしているのではないか。天皇に近づきすぎるあまり、天皇と一体化しようとしていやしないか。極端に言うと、主体をあいまいにする天皇制のおかげで「小説なる欲望」という表現が可能になり、その表現が天皇制の風土を一層強化するという共謀関係を、知らずに築いているかもしれないのだ。
  この評論の魅力も意義も危険も、そこにある。私は、天皇が「穴」であることをあからさまにし、近代小説がその穴を見ないようにして成り立ってきた歴史へ異議を申し立てる渡部直己に、深く共感する。その穴の中には「近代」さえも飲み込まれていると思う。だが、あえて天皇にぎりぎりまで近づいてみようという大胆な試みを実践し、第五章では天皇に近寄ることと天皇制と格闘することの違いにまで触れながら、最終的に、あるいは接近の前提条件として「小説なる欲望」にすべてを飲み込ませてしまうことで、著者と天皇との間に挟まっていた媒介は消えていく。歴史の感触をあと一歩のところで取り逃がしてしまう。果たして現在でもこのような「恋闕」は「不敬」たりうるのか。それは相手を食い破る批判たりうるのか。
  私は、昭和天皇については制度ではなく人物としても描かれなくてはならないと思う。間違いなく歴史の闇に関わった彼を人物として書かなければ、歴史はいつまでたっても可変な抽象的構造として捉えられるだけだからだ。「死んだ天皇」であるからこそ、なおさら抽象化させてはならない。その限りでは「天皇小説」は必要である。
  しかし平成以後の天皇や皇族の人間にかんしては、「直接描く」という戦略だけではどうにもならないのではないか。「人間」でもある以上、柳美里裁判にも見られるような問題が起こりうるし、つまり中野重治の問いは解決されていないわけだし、逆に描けば描くほど「開かれた皇室」の演出に一役買うだけだという警戒感も抱かざるをえない。そして、そのような窮地に書く者を陥らせるのが天皇制であり、批判の対象とするべきは天皇制であると考える。
  このようなきわどさまで含んでもいるからこそ、『不敬文学論』を読む意味は増す。このきわどさがどこから来るのかを考えながら読むことで、初めて天皇制批判小説が可能となるはずだからだ。いま日本で小説を書くすべての人間は、『不敬文学論』に挑発されなくてはならない。

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