翻訳者 ビカートンについて詳しい情報は以下にあります。
堀邦維 著 · 2018英訳された『蟹工船』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/cac/38/1/38_21/_pdf/-char/ja
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井上ひさしの晩年の仕事に、「組曲虐殺」と「一週間」がある。
「組曲虐殺」は、プロレタリア作家・小林多喜二の生涯、特にその最期を劇化したものだ。そして「一週間」には、井上ひさしの父につながる主人公〈小松修吉〉が、多喜二たちを裏切り虐殺した者たちを追い詰める物語が含まれている。
私にはこの二作はコインの表裏のような関係にある作におもえる。そして、この二作をつなぐものは“警視庁スパイ〈M〉”だとおもえる。
一人は、〈松村昇〉こと本名=飯塚盈延(いいづか みつのぶ)、もう一人は〈水原、香川、武田〉こと三船留吉、そして――。
本論では、革命家・多喜二のたたかいの場としての「赤旗 (せっき) 」とスパイ〈M〉をたどり、「赤旗」をめぐる多喜二晩年のたたかいを記録する「地区の人々」の背景を明らかにし、その火を継ぐ者として「一週間」の主人公〈小松修吉〉の役割を明らかにしようとするものである。
◇
「組曲虐殺」では、満州事変以後の反戦活動の拡大のなかで、当時の治安維持法・特高警察による弾圧で非合法とされた、潜伏しながらの抵抗活動に入った共産党員作家・小林多喜二(一九〇三~三三)の晩年をとりあげている。とくに多喜二「党生活者」の作品にそって、そのたたかいと虐殺にいたるまでを「心の映写機」を通じて「絶望から希望へ」の思いを描いた。
多喜二が地下活動に入る時代は、戦争とファシズム台頭の時代だった。
時は一九三二年の春、プロレタリア文化運動へ帝国政府は大弾圧の鉄槌を下した。蔵原惟人をはじめとしたプロレタリア文化活動家の大半は投獄された。逮捕をまぬがれた多喜二は、作家同盟書記長として中国東北部への日本帝国主義軍の侵略「満洲事変」以後の反戦運動を指導していた。
すでに一九三一年秋に入党していた多喜二は、地下から文化運動の指導だけではなく、共産党中央の宣伝・扇動部を担い、活版印刷で大衆的普及をひろげていた「赤旗」文化面の編集を担当していた。さらに大衆運動部の一員として、反帝同盟執行役員として下からの反戦統一戦線運動――上海極東反戦大会の成功のために奔走していた。
弾圧は警察の暴力装置としての発動から、組織の奥に潜入させたスパイを使っての謀略機関としてその牙を研いでいた。警視庁からたくみに共産党中央部に潜入し、その中央委員になりすまして、裏切りと弾圧の手引きをしたスパイ〈M〉はそれを象徴している。
井上ひさしは「一週間」のなかで、スパイ〈M〉を追い求め、その正体を明かそうとする〈小松〉を描き、多喜二のたたかいの火を継ぐ者の意味を明らかにした。
「一週間」でとりあげられているスパイ〈M〉とは、この日本共産党に潜入した警視庁のスパイであり、あろうことか共産党の組織部、家屋資金局の責任者となり、事実上、委員長に次ぐナンバー2になりおおせたのだ。彼が仲間を裏切り、同志を売りさばいて姿を消したことに気づく者は少なく、スパイ〈M〉のその正体と罪状の全体が明らかになるのは、一九七六年十月五日から八日まで、共産党機関紙「赤旗」紙上に、「スパイ〈M〉こと飯塚盈延(みつのぶ)とその末路」が発表されてからだった。
井上ひさし「一週間」の主人公〈小松修吉〉は、東北の農村出身で、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業し、エリートコースをあゆんでいた。しかし『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党紙「赤旗(せっき)」配布活動に関係する。中央委員〈M〉に指示されて、コミンテルンとの連絡役もさせられた。
実は警視庁のスパイだった〈M〉は、党中央を潰滅させるとともに〈小松〉を検挙させる。〈小松〉は獄にとらえられる。出獄後の〈小松〉は、わずかに開かれていた新天地である中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その一方でかれには、満洲に逃れたとされる〈M〉の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やす。だがその途上、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなるのだった。
シベリア・ハバロフスクの日本人捕虜収容所にある日本新聞社に配置された〈小松〉は、満洲皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ〈M〉らしき人物をつきとめ対決する――。
同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結し、没後一冊にまとめられた。
大江健三郎は「小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(二〇一〇年七月号)で、「私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。
同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上がそこに持ち込んだ大きな仕掛けが、〈小松〉を日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞社で働かせた過程である。
捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨がハーグ陸戦法規の俘虜条項に違反していることについて日本軍は無知であったこと。旧軍幹部の秩序がその悲惨さを拡大させていることと井上は批判の筆を走らせる。
さらに〈小松〉を日本人捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属することで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実の告白したレーニンの手紙を手に入れさせ、レーニンが社会主義思想を裏切ったことを批判させる。井上は、〈小松〉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの滑稽で悲しい争闘をくりひろげさせている。
【マリウポリ(ウクライナ南東部)AP】砲撃が絶え間なく続く中、マリウポリの凍土に急いで掘られた狭いざんごうに、投げ込まれた子どもたちの遺体が横たわっていた。
生後18カ月のキリル君は、よちよち歩きの小さな体の頭部に砲弾の破片による致命傷を負っていた。16歳のイリヤ君の足は、学校の運動場でのサッカー中に爆発で吹き飛ばされた。6歳以下にしか見えない女の子は、一角獣の絵柄のパジャマを着ていた。ロシアの砲弾で死んだマリウポリの最初の子どもたちだ。
子どもらの遺体は他の何十体とともに市外縁部にあるこの集団墓地に積み上げられていた。道ばたの男性の遺体には明るい青の防水シートがかけられ、石の押さえが置かれていた。赤と金のシーツでくるまれた女性の両くるぶしは、白い端切れできちんと結ばれていた。作業員は次々と可能な限り素早く遺体を墓穴に投げ込んでいった。この隠れる場所のない空き地での作業時間が少ないほど、自分たちの生存のチャンスも上がるからだ。
「とにかく、早く終わってほしいよ」。作業員のボロディミル・ブイコウスキさんは、トラックから黒い遺体袋を引き出しながら怒りを込めて言う。「これを始めたやつらはくそだ!」
遺体は、まだまだやってくる。そこら中に散らばる路上から。病院の地下室から。病院には大人も子どもも並べられ、誰かが迎えに来るのを待っている。一番若い遺体は、まだへその緒がついたままだ。
抵抗の象徴マリウポリ
空爆や砲撃が時に毎分のように、容赦なくマリウポリをたたく。この市がロシア軍によるウクライナ制圧作戦の真正面に位置する地理上の呪いをたたき込むかのように。この人口43万人の南東部の港町は、プーチン露大統領によるウクライナ民主主義粉砕の、そして、それに対する激しい地上での抵抗の、象徴となった。
ロシア軍侵攻開始後の約3週間、AP通信のジャーナリスト2人は、マリウポリにいる唯一の国際報道機関の要員であり、混沌と絶望への転落を記録してきた。市は今やロシア軍兵士に囲まれ、砲弾の一発ごとに、命を押しつぶされつつある。
民間人退避のための人道回廊設置の呼びかけは無視され続け、3月16日にようやく約3万人が車列を組んで脱出したとウクライナ当局者が明らかにした。空爆と砲撃は産科病院、消防署、民家、教会、学校付近の運動場に着弾した。市民数十万人がまだ残るとみられるが、彼らに逃れる場所はない。
市の周囲の道には地雷が埋設され、港は封鎖されている。食料が不足しつつあるが、人道支援はロシア軍が止めた。電力供給はほぼなくなり、水も足らず、住民は雪を溶かして飲んでいる。新生児を病院に残す親もいるが、なんとか電力と水がある場所で子らに生き延びるチャンスを与えたいのだろう。
人々は壊れた家具を即席のかまどで燃やして、寒気の中で手を温め残りわずかな食料を調理する。手作りかまどの材料だけは豊富だ。破壊されたビルから路上に散らばるれんがや金属片だ。
包囲戦での住民死者「2500人超」
死が街を満たしている。露軍による包囲作戦開始後の死者数は地元当局によると2500人を超えたが、絶え間ない砲撃のため全ての遺体を数えられていない。当局者は遺族に、危険すぎて葬儀はできないから路上の遺体は放置してと伝えている。
APが記録した死者の多くは、子どもと母親だが、ロシアは民間人は攻撃されていないと主張している。
「彼らはマリウポリを人質にとり、あざ笑い、爆撃し砲撃し続けている」。ウクライナのゼレンスキー大統領は10日、そう話した。
ほんの数週間前、マリウポリの先行きは明るく見えた。場所が都市の命運を決めるのなら、マリウポリは成功に向かっていた。高い国際需要に支えられ、地元の鉄鋼工場や深水港湾は活気づいていた。2014年、親露分離派との市街戦が起きた暗い日々も記憶の彼方に薄れつつあった。
今回ロシア軍の侵攻が始まった当初の数日間、多くの住民は奇妙な慣れを感じていた。セリ・オルロフ副市長によると、脱出が可能だった初期には約10万人の住民が退避した。だが、多くはこれからもやり過ごせる、いずれ西に逃げられると考えて、後に残ったのだという。
「2014年の方が怖かった。今回は同じパニックは感じない」。2月24日、市場で買い物中のアナ・エフィモワさんはそう話していた。「パニックは起きていない。だいたい、逃げる場所がない。どこに逃げればいいの?」
同じ日、ウクライナ軍のレーダー施設と空港がロシア軍の砲撃の最初の標的となった。砲撃と空爆はいつ来てもおかしくはない状態で、実際にやってきて、住民は退避壕(ごう)にこもることになった。生活は平常とはほど遠かったが、まだ生きることはできた。
増える子どもの犠牲
それも、2月27日には変わっていた。救急車が6歳にもならない身じろぎしない女の子を市の病院に救急搬送してきた。茶色の髪がゴムバンドでまとめられ蒼白な顔をしたその子のパジャマはズボンが血だらけだった。ロシア軍の砲撃で負傷したのだ。
自らもけがをして頭に包帯を巻いた父親が付き添っていた。母親は救急車の外に立ち泣いていた。
医師と看護師が彼女を囲み、注射をし、除細動器で電気ショックを与えた。青い手術着を着て酸素吸入を行っていた医師が、AP記者のカメラを真っすぐにのぞき込んで室内に招き入れると毒づいた。
「これをプーチンに見せてやれ」。激高した医師は罵言とともに叫んだ。「この子の瞳と、泣いている医者の姿を、見せてやれ」
彼女は助けられなかった。医師らはその小さな体をピンクのジャケットで覆い、丁寧に彼女のまぶたを閉じた。彼女は今、集団墓地に眠っている。
長年、マリウポリに有利に働いてきた地理的環境は、今や、その足を引っ張っていた。同市は、ロシアが支援する分離主義者が支配する地域から最短で10キロほどしか離れておらず、同地域と、ロシアが14年に併合したクリミア半島の間に位置している。マリウポリを制圧すれば、ロシアは両地域の間のアゾフ海沿岸全域を押さえることができる。
2月が終わり、包囲戦が始まった。危険を無視したのか、じっとしていられなかったのか、あるいは10代の若者が往々にしてそうであるように無敵だと感じていたのか、少年の一群が3月2日、学校のそばの運動場に集まり、サッカーを始めた。爆発が起き、イリヤの足は吹き飛んだ。
イリヤに運はなく、マリウポリの運も急速に下降していた。停電が起き、携帯電話もほとんど使えなくなっていた。連絡ができないため、救急隊員はどの病院でまだ治療が可能なのか、そこに到達できる道路はどこに残っているのか推理しなければならなくなっていた。
イリヤは救えなかった。父のセルヒは、死んだ息子の頭を抱いて嘆いた。(翻訳・和田浩明/デジタル報道センター)
近代天皇制思想と文学 | 色川 大吉 |
天皇制と文学覚え書 | 西田 勝 |
デモクラット・大江健三郎の決意 | 黒古 一夫 |
中野重治「五勺の酒」再論 | 直原 弘道 |
短歌と天皇制 | 水野 昌雄 |
田宮虎彦と天皇制 | 山崎 行雄 |
日本浪曼派批判のために | 和泉 あき |
日本浪曼派は生き延びている | 神谷 忠孝 |
事実・文化類型・世界 | 中澤千磨夫 |
テレビは「昭和天皇」の死をどのように伝えたか | 梅沢 利彦 |
第三世界と大逆事件 | 小田 実 |
大岡昇平と一五年戦争 | 鈴木 斌 |
槇村浩の中国・朝鮮 | 猪野 睦 |
晶子・鉄幹・武郎 | 永畑 道子 |
[書評] | |
大滝十二郎著『近代山形の民衆と文学』 | 塩谷 郁夫 |
東栄蔵著『人権感覚を深めるために』 | 上條 宏之 |
河内光治著『戦後帝大新聞の歴史』 | 茅原 健 |
坂本育雄著『広津和郎論考』 | 布野 栄一 |
[小説]お召列車 | 向坂 唯雄 |
ポストモダン、「ゼロ記号」論、「文化概念としての天皇」制論、果ては自然消滅論にいたる天皇制に架橋する現代思潮の反民主主義、非合理主義的本質を浮き彫りにする論考16編を収録。
「昭和」終焉、一実作者の感想
天皇問題と文学者の発言
天皇歌と歌人の天皇呪縛
天皇問題を考える―プロレタリア文学との関連で
「天皇俳句」の詠法
成立しない妄言―天皇と日本文学をめぐる江藤淳の発言
絶対主義的天皇制に反対した日本共産党の立場―『朝日ジャーナル』の大岡昇平氏の談話に関連して
天皇・天皇制美化の文芸評論家たち―戦後文学再検討論の新たな〈発展〉批判
江藤淳の中野重治論をめぐって―「五勺の酒」と天皇
天皇制に架橋する現代思潮
日本的抒情の政治性―歌会始から後鳥羽院へ
三島由紀夫の亡霊
破壊願望の反動的深化―村上龍『愛と幻想のファシズム』の到達
吉本隆明の天皇制論―「産業の高度化」賛美と天皇制自然消滅論
ポスト・モダンと天皇制―柄谷行人の天皇制=ゼロ記号論批判
「昭和詩」と天皇制―詩精神のあらたな探求をめざして
内容注記 | 内容:近代天皇制の構造と本質 なぜ天皇制か(いいだもも) 北一輝ー映画「戒厳令」(別役実) 象徴天皇主義の構造(丸山照雄) 文学および民衆感覚 銭金の面(中野重治) 天皇をめぐる民衆表現史(石田郁夫) わが中国体験(長 谷川四郎) 『室町小説集』をめぐってー後南朝のこと(花田清輝) 神話と古代天皇制(長谷川竜生) 戦後文学の天皇像(中島誠) アジアから見た天皇制 アジアのなかの天皇制(田中宏) 朝鮮人にとっての天皇(安宇植) 沖縄から見た 天皇制(新里金福) |
著者標目 | 新日本文学会 |
摂政宮の来樽
小林多喜二が第二学年 になった時,1922(大正11)年に,皇太子 ・摂政宮
(せ っしょうのみや)・裕仁 (ひろひと)が,小樽高商を訪れた。そ う言えば,
明治44年 (1911年)に,高商が開校す る年の 8月,当時の皇太子つま り後の
大正天皇が高商を訪れたことがある。小林多喜二の後の好敵手,昭和天皇につ
いて少 し論 じておこう 現代 日本史で最 も重要な存在あるいは人物が,昭和天
皇である この人の思想 と強力な政治的役割を見ておかないと, 日本現代史が
分か らな くなる。
皇太子裕仁親王は,1901年 (明治34年),当時の皇太子嘉仁 (よ しひと)親
王の第一子 として生まれた。彼 は成長 し,1908(明治41)年,学習院初等科
に入学する。学習院初等科 は小学校であり,その院長 としては,軍神 と言われ
た乃木希典 1)が,わざわざ任命 された。そこでは彼 は,質実剛健で育て られ
1)乃木希典 (まれすけ),1849-1912。長州出身。戊辰戦争に出る。西南戦争で,戟
旗を失い,自決 しようとした。日清戟争にも出征 した。1896年,第 3代台湾総督
になるが,行政能力なく,同年辞任した。日露戦争で旅順攻撃ができず,更迭され
る。軍事参謀長になる。日露戦争の休戦で,ロシアのステッセル将軍と乃木大将と
が交渉し,和議がなったということで,乃木さんがあたかも日露戦争に勝った代表
的将軍とみなされ,乃木は国民的人気が出た。そして軍神といわれるようになった。
しかし軍人としては無能だった。1907年に,学習院長になる。1912年,明治天皇
が亡くなると,妻と共に自決した。
た。裕仁は少年時代か ら知力にはす ぐれていた。
1912年 (明治45年-大正 1年)に明治天皇が死に,嘉仁親王が天皇 となり,
年号は大正 とされ,裕仁親王は皇太子になった。同時に陸軍少尉 ・海軍少尉に
なった。学習院初等科を1914年に卒業 した裕仁 は,御学問所に入 り,帝王学
(-倫理)その他の教育を受けた。軍事学が特別に重視された。将来の大元帥
となるか らである。卒業とともに陸海軍中尉になった。彼は祖父や父に較べ,
しっかり教育を受けた。そしてかなり優秀な学生だった。後年,軍事に非常に
詳 しくなった。第 2次大戦中,教えた陸軍大学校の教官 も冷汗をか くほどだっ
た。また上奏 (天皇に報告すること)のさいには,軍事知識があるので,上奏
する人は大変緊張 した。
彼は少年の時か ら,「ロマンティックな好戦的人物」であった。そ して自分
のことを天照大神の子孫であると信 じ込んでいた。死ぬまでそうであった。 も
ちろん戦前の日本人 もそう信 じていたわけである。1916(大正 5)年に,彼
は陸軍大尉になった。
1921年 (大正10年) 3月か ら,皇太子は半年間のヨーロッパ旅行に出発 し
た。その時,陸軍少佐になった。イギ リスでは演説を大音声で行い,評判を高
めた。この人 は実はきわめて精力的な人であった。
彼は帰国 して同年11月に,摂政に就任 した。同時に陸軍中佐になった。大正
天皇は,幼児に脳膜炎を患い,その後,多 くの大病を した。実際は神経が集中
できなくなり,長い朗読 も出来ないのであった。つまり天皇としての勤めが出
来なくなった。大正天皇が勅語を巻いて遠眼鏡の様にした事件が,噂として全
国に流れていた。こうして実際の天皇の仕事は,摂政としての皇太子に任され
たのである 皇太子は英明であると宣伝され,国民 も期待 した。英明であるか
どうかは別として,彼はある意味で有能であった。なにしろ,後年,第 2次世
界大戟を日本の最高指導者 として軍事的に指導 したのであるか ら,彼の力量は
軽視できないのである
敗戦後,天皇制を温存するために,裕仁天皇が戦争指導ではロボットであっ
たという伝説が作 られた。 しか し 「神聖にして冒すべか らず」(明治憲法第三
条)とされ,政治的には絶対権力を握っていた天皇が,戦争の最高指導者であっ
て,これを否定する人は天皇の力量を侮辱することになる。それに戦前は,天
皇の意志には全 く逆 らえなかった。
彼は,自分と国家を一体のものと見た。そして自分が国家の脳髄であり,臣
下は自分の手足だと,考えた。朕の股肱 - 手足という意味- の臣,とい
う発言が,それを示 している その彼の思想は,個人主義反対,欧米の自由主
義 ・民主主義反対であり,天照大神以来の天皇家の強化 ・拡大を旨とし,日本
つまり天皇家によるアジアの支配が,生涯の理想であった。その考えを祖父明
治天皇からも受け継いでいた。2)
さてこの摂政宮殿下が全国を行幸することになった。皇太子 ヒロヒトは,北
海道の人情 ・風俗その他を見学するため,1922(大正11)年 7月 6日に函館
に着喜,各地を巡遊 しなが ら,11日に小樽に着き,小樽高商を見学 した。
彼は午後一時,小樽の公会堂3)を出た。随員などが三〇両の車で従 った。
元小樽商業会議所跡,稲穂小学校前を通って,高商へ向かった。当時の地獄坂
は,右側の山腹か ら正面の塩谷山道一面に,北海道特有のエゾ松が生い茂って
いた 。
摂政の宮は高商正面を通ったが,正面左側沿道には,教授 ・学生が列をなし
て迎えた。お召 し自動車は,校内の坂を登って玄関にとまった。中村和之雄教
授が,校長代理として迎え,摂政宮は仮講堂で休んだ。ここはかつて大正天皇
も休息した所だった。皇太子は,高商中を見学 し,市内各中学校長も出迎えた。
見学は 1時間足 らずであった。この時,伴校長の姿が見えないのは興味深い。
小樽市民と高商の関係者は,大歓迎をした。殿下親臨の際,親 しく学生の野試
合をご覧になったのも高商の玄関上のバルコニーからだった。 4)
1890(明治23)年に出された教育勅語以来,日本では天皇-神様論が全国
で強力に教え込まれていた。小学校は教育勅語を暗記する機関とされていた。
2)バーガ ミニ 『天皇の陰謀』全 7巻 現代書林。
3)当時は,公会堂は,今の市民会館の場所にあった。建物が後に移転した。
4)西川 『ひとす じの道』1973年。
天皇陛下の白馬のフンを有難 く持ち帰ったり,天皇の入った風呂の湯を飲みた
いと思 う国民 もいた。 7月23日,裕仁は室蘭か ら軍艦で帰った。 5)摂政の宮は,
天皇になってか らも,昭和11年 (1936年)に再び小樽を訪れることになる。
この高商訪問にときに,小林多喜二 も歓迎に動員されて,日の丸の小旗を振
る群集の中にいたであろう 皇太子の顔 もチラッと見えたはずである。多喜二
は,まさか彼が将来の好敵手になるとは,思いもしなかっただろう。なぜなら
彼は普通の学生であった。彼に殺されるとは夢にも思えなかったであろう
また皇族の行幸では,どこでもそうだが,高商生は身体検査を受け,検便を
させ られた。だか ら,有難迷惑だったという声 もあった。
その後の摂政の宮について,触れておこう。1923(大正12)年に,つまり
小樽訪問の翌年,虎ノ門事件が起きた。難波大助が仕込杖銃で摂政の宮を撃っ
た事件である 裕仁はこれに対 して堂々たる反応をしている。だから,この人
は神経の弱い人ではないことが, ここか ら分かる。1926年 (大正15年 ・昭和
元年)12月,大正天皇が亡 くなり,昭和 となった。裕仁が天皇 とな り,1927
(昭和 2)年に即位の大礼が行われた。1931(昭和 6)年に,「満州事変」が
起 きた。これは, 日本軍国主義の中国侵略の本格的な始まりである。6)裕仁天
皇はこれを聞いて,「仕方がなし」と言 っている。彼は,これが関東軍 - 荏
中国日本軍 - の謀略であることに気が付いていた。
1935年 (昭和10年)に,天皇機関説事件が起 きた。 日本を法人 と見,天皇
を機関と見る,美濃部達吉東大教授の説である。これに対 して天皇は,「日本
のような君 ・国同一の国ならばどうでもいいじゃないか。」と,見事な発言を
した。同12月に,日本はワシン トン条約を廃棄 した。 これは,1921(大正10)
年12月のワシントン会議で決まった軍縮条約である。この軍部のワシントン体
制打破路線に,天皇は同調 した。
5)『小樽商科大学史』財界評論新社 1976年。
6)第 2次世界大戦は,1939年に始まったとされる。つまりヒトラーのポーランド侵
略である。だがそれはヨーロッパ的観念である。アジア的視点からは,第2次大戦
は,この1931年から始まっている。
1936(昭和11)年に,二 ・二六 (にいにいろく)7)事件が起きた。青年将校
(主に尉官クラス)の天皇絶対ファシス ト的 クーデタだった。彼 らは北進 (ソ
連攻撃)論を持っていた。北一輝思想 (『日本改造法案』)に少 し影響されてい
た。この高官襲撃事件の結果は,こうである。岡田首相は死ななかっ・た。高橋
蔵相は殺された。斉藤内大臣,鈴木侍従長,牧野前内大臣も死ななかった。渡
辺教育総監が殺された。天皇は,その青年将校を 「あの気の狂 った暴徒ども-
-」と言い,「朕が股肱の老臣を殺 りくす・--」と怒 った。彼は,軍部がなか
なか鎮圧 しないのを見て,「朕 自ら近衛師団を率い,これが鎮定にあた らん」
と叫んだ。これをきっかけに鎮圧が進んだ。この事件以後,天皇は,政治に ・
軍事に自信を持つようになったのである。
2 徴 兵
日本の徴兵制は, 3つの時期に分けられる。1873(明治 6)年に徴兵令が
できた。1889(明治22)年に,その徴兵令が大改革された。新徴兵令である。
1927(昭和 2)年に兵役法ができた。小林多喜二は,それゆえ第 2の時代に
かかわる 第 2の時代に国民皆兵の原則が成立 した。ただし1年志願制があっ
て,それは,中等学校以上の卒業者,かつ満26歳以下 (1893(明治26)年に
は28歳以下になる)の者に認められた。こうして兵役を 1年で済ませることも
できた。
徴兵の北海道への適用は1896年 (明治29年)だったので,それ以前は本籍
地を北海道に移 して徴兵を逃れる例があった。夏目軟石が岩内へ籍を移 したの
は有名な例である。一万,1882年 (明治15年)には軍人勅諭が出され,絶対
服従の精神がたたき込まれ始めた。8)
当時,徴兵検査があった。明治22年 (1889年)に,徴兵検査制度が確立 し
7′)当時の人々は,必ず 「にいにいろく」と言 う。最近の若い研者は 「ニイテンニイロ
ク」と言 うが,我々にはピンと来ない。
8)大江志乃夫 『徴兵制』岩波新書。
ていた。昭和 2年 (1927年) 4月に,徴兵令は兵役法 となった。20才になっ
た日本人男子はすべて,この徴兵検査を受けねばならなかった。出身地で体格
検査をす るのである9)。 これによって,甲乙丙丁戊 と等級がつけられた。身
長が155cm以上,税力O.6以上,胸周 りが身長の半分,というのが甲種であり,
1927年 (昭和 2年)か らは152cm以上,0.3以上 となった。視力 と肺病が注意
された。ふんどし1本の裸で,全て見せた。親にも見せないところまで見せた。
「前近代的な制度で」(大津)あった。乙種は,一,二,三種があり,甲種 と
第一種乙とが,現役 として翌年入隊 した。第二種乙と第三種乙は,予備役 となっ
た。これ らは,召集を受けると,入隊することになる。つまり3カ月の在学中
の入隊である,または 1年志願すると卒業まで延期された。
ところが 1年志願制は,前述の徴兵令が兵役法と改められた時点で,全廃さ
れた。 したがって学生への特権-優遇は制限されることになった。 しか しなお
将校-の道はひらかれることになった。それは幹部候補生制度の新設である
学生の特権 として,徴兵は (適令をむかえても),兵役法第41条によって,
卒業まで延期することができた。在学中の適令該当者は,毎年,在学中の学校
長を経由して所轄の連隊区司令官に 「徴兵猶予の延期届」の提出の労を義務づ
け られていた。それを怠 ると在学中で も,検査 一入隊 しなければな らなか っ
た。10)1年志願を しなければ,在学中でも入隊 しなければならなかった。だか
ら在学中に 3カ月入隊する人 もいた。ll)
多喜二の徴兵については,はっきりしない。 しか しもちろん彼は徴兵検査を
受けた。秋田で受けたのではないか。だが背が低 く鉢 も小さいので,多分,甲
種合格ではなく,丙種 ぐらいで,兵士 としては失格 となったのではないか。ち
なみに彼は身長が154cmであった。
9)小樽では少なくとも太平洋戦争のころ,公民館で検査された。
10)以上の事を全て捨象 して行われたのが,後のいわゆる学徒出陣である。昭和18年
(1943年) 9月21日の特例による措置,つまり 「在学徴集延期臨時特例」が閣議
決定され,徴兵猶予 は全面停止された。3回の繰上げ卒業に引き続 く措置として,
昭和18年12月に全国一斉に該当者は検査 ・入隊となった。
ll)『坂の道』卒業50過 てママ)年記念論文集 - 緑丘大正12年会。
延期特例は,最高27才までの猶予があった。徴兵検査を受けなくてもよいも
のである。高商では25才までの猶予があった。希望者は願いを出し,それに校
長が判を押す必要があった。出生地の連隊区へ届けるのであった。 12)
学生 ・那珂 捷 (昭和 2年 (1927年)辛)は書 く 「なにしろそのころは,
在学中に出身地で徴兵検査を受けるのだが,その時には,万一にも採用されて
は大変,大体十 日ぐらい前か ら毎 日醤油を一合づっ呑み,- これで鉢がや
せ細る - 連夜深酒を無理にも呑んで,半ば徹夜を重ねる その挙げ句に,
検査当日はそうこうとして検査場へ出向 く すると検査官は,『ウン,まあ安
心 しなさい。君は丙種だよ』といって,印を押 して くれた.これで一年志願の
必要 もない」。 13) (句読点を加えた
今回は、日中戦争および太平洋戦争の時期に、日本軍によって中国で行われた人体実験についてまとめてみます。
1. いつから、どこで行われたか
(1) 石井機関と七三一部隊
日本軍による人体実験の舞台は中国でした。その中で最もよく知られている七三一部隊(関東軍防疫給水部)は、石井四郎軍医中将(階級は終戦時)によって作られ、中国東北部のハルビン郊外にありました。それは致死的な生体実験を秘密裏に行うための特別な一大研究施設でした。しかしながら最近の研究によると、七三一部隊は、中国各地からシンガポールなどの南方にまで広がる石井の防疫給水部ネットワーク(「石井機関」)の一部にすぎなかったことが明らかにされています。石井機関のかなめは七三一部隊ではなく東京の陸軍軍医学校防疫研究室にあり、その活動には当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが嘱託として大勢協力していました【詳細は、常石敬一『医学者たちの組織犯罪』、を参照】。
1931年9月18日、関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍による攻撃として、戦争を開始しました(いわゆる満州事変)。そして中国東北部を支配下におさめ、翌1932年、満州国の建国を宣言します。1930年に2年間の欧米出張から帰った石井四郎軍医はこのような状況下で、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いて回りました。説得は功を奏し、まず1932年に陸軍軍医学校防疫研究室が設立され、翌1933年には近衛騎兵連隊の敷地(現在の東京都新宿区戸山)を譲り受けて研究施設が完成しました。また、細菌兵器を開発するための本格的な実験・製造施設は満州に作ることにし、1933年にハルビン郊外の背陰河に「東郷部隊」(または「加茂部隊」)が秘密裏に発足しました。すでにこの背陰河の施設で中国人を生体実験に用いて殺すことが始められています。東郷部隊は1936年には「関東軍防疫部」として日本陸軍の正式な部隊になりました。
日本軍は1937年7月7日に北京郊外の蘆溝橋で中国軍と交戦し(蘆溝橋事件)、中国への全面的な侵略戦争を始めます。中国戦線で石井は、汚水を清澄な水にする「石井式濾水機」の性能をデモンストレーションして陸軍に正式採用してもらい、防疫だけでなく給水の仕事も行う「防疫給水部」を、北京(北支那派遣軍防疫給水部、1938年発足、後の第一八五五部隊)南京(中支那派遣軍防疫給水部、1939年発足、後の第一六四四部隊、別名「栄部隊」「多摩部隊」)広東(南支那派遣軍防疫給水部、1939年発足、後の第八六〇四部隊)シンガポール(南方軍防疫給水部、1942年発足、後の第九四二〇部隊)にも発足させました。
一方、関東軍防疫部は、ハルビン市街の南東約15kmの平房に、背陰河の施設よりも堅固で本格的な設備を備えた施設を建設し、1938年から39年にかけて移転しました。1940年には「関東軍防疫給水部」と改称し、牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに支部を持つようになります。平房の本部は1941年に「満州第七三一部隊」と改称されました(支部も合わせた関東軍防疫給水部全体は第六五九部隊)。七三一部隊は4つの支部以外に、大連にあった南満州鉄道の研究所も傘下に収めて支部とし、さらに平房の約260km北の安達には細菌兵器の実験場を持っていました。また関東軍は防疫給水部とは別に、新京(現在の長春)に「軍獣防疫廠」(1936年設立。1941年に「満州第一〇〇部隊」と改称)を持っていました。ここは軍馬や家畜に対する細菌兵器の開発を担当しており、人体実験も行っていました。
平房の七三一部隊では、約6km四方の敷地に3000人あまりの人々が細菌兵器の研究・開発・製造に従事していました。主要な施設の集まった地区は、高電圧電流が流れる有刺鉄線を張り巡らした土塀で囲まれ、外部から完全に遮断されていました。中心になる建物は「ロ」の字型をしており、その内側に「マルタ」と呼ばれた被験者を閉じこめておく特設の監獄が二つ設けられていました。背陰河では「マルタ」の脱走事件が起こったため、平房の特設監獄はきわめて厳重な構造になっており、ここから生きて出られた人は1人もいませんでした。ソ連参戦後の撤退時に生き残っていた被験者も、証拠隠滅のために全員殺されました。
七三一部隊の組織はだいたい以下のようになっていました【森村誠一『新版・悪魔の飽食』pp.21-23;『悪魔の飽食・第三部』口絵「関東軍防疫給水部本部施設全図」などによる。----は所属関係を表す】。
・部隊長----特別班(「マルタ」担当)
・総務部
・第一部(細菌研究)----笠原班(ウイルス研究)田中班(昆虫研究)吉村班(凍傷研究)高橋班(ペスト研究)江島班(のちに秋貞班、赤痢研究)太田班(脾脱疽【炭疽】研究)湊班(コレラ研究)岡本班(病理研究)石川班(病理研究)内海班(血清研究)田部班(チフス研究)二木班(結核研究)草味班(薬理研究)野口班(リケッチア・ノミ研究)在田班(X線研究)
・第二部(実戦研究)----八木沢班(植物研究)焼成班(爆弾製造)気象班
・第三部(濾水器製造)----運輸班
・第四部(細菌製造)----柄沢班(細菌製造)朝比奈班(発疹チフスおよびワクチン製造)有田班
・教育部(隊員教育)
・資材部(実験用資材)
・診療部(付属病院)
このうち生体実験を行っていたのは、細菌兵器の開発に携わっていた第一部・第二部・第四部でした。生体実験が行われた場所は、本部の特設監獄に隣接した実験室や気密室、本部内の冷凍室、安達の実験場などでした。
「マルタ」にされたのは「特移扱」と呼ばれる取り扱いで中国各地の憲兵隊から送られてきた人たちでした。彼らは「諜者」(スパイ)や「思想犯人」(民族主義者や共産主義者)の疑いをかけられて捕まった中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などで、その中にはごく普通の農民や女性・子どもも含まれていました。彼・彼女たちは七三一部隊からの要求に応じて各地の憲兵隊から汽車でハルビン駅へ護送され、ハルビン駅からは擬装された列車やトラックで平房の部隊の監獄へと送り込まれました。また、ハルビンでソ連のスパイとして捕まったロシア人は特務機関へ回されて取り調べを受け、口を割らなかったり、二重スパイになるのを拒んだり、逃げようとした者が「特移扱」になりました。こうして実験材料にされ殺された人々の数は3000人以上にのぼるといわれています(ちなみにこの3000人という数字は、背陰河の施設や、七三一部隊以外の石井機関の施設における犠牲者の数を含んでいません。これらの施設や陸軍病院での犠牲者も含めると、総数はずっと多くなります)。
七三一部隊での実験の結果は、逐一、東京の軍医学校防疫研究室に送られていました。防疫研究室は石井機関における研究の全体を統括する役割を担っており、嘱託の教授たちを集めて研究発表会を行ったり研究論文集を編集したりする一方、教授たちを通じて若手の優秀な研究者を七三一部隊に送っていました。
(2) 中国各地の陸軍病院
医師の手によって捕虜の殺害が行われたのは石井機関だけではありませんでした。そのほか中国各地に設置されていた陸軍病院で、1933年頃から、捕らえた中国の人々を、軍医教育のための「手術演習」と称して生きたまま解剖したり、人体実験をしたりして、殺すことが行われていました【詳細は、中央档案館ほか編『生体解剖』;吉開那津子『消せない記憶』、を参照】。
2. 何が行われたか
日本軍によって行われた人体実験(生体を用いた殺人的実験)には、次のようなものがあります【詳細については、テキストおよび参考図書を参照】。
(1) 手術の練習台にする
(いわゆる「手術演習」。生きた人を使って戦傷などの手術[虫垂切除、四肢切断、気管切開、弾丸摘出など]の練習をして殺す)
(2) 病気に感染させる
(ペスト、脾脱疽【炭疽】、鼻疽、チフス、コレラ、赤痢、流行性出血熱など。その目的は、未知の病原体を発見するため、病原体の感染力を測定するため、感染力の弱い菌株を淘汰し強力な菌株を得るため、細菌爆弾や空中散布の効果を調べるため、など、さまざま。被験者は死後に解剖されたり、感染確認後に生きたまま解剖されて殺されました)
(3) 確立されていない治療法を試す
(手足を人為的に凍傷にしてぬるま湯や熱湯で温める[凍傷実験]、病原体を感染させて開発中のワクチンを投与する、馬の血を輸血する、など)
(4) 極限状態における人体の変化や限界を知る
(毒ガスを吸入させる、空気を血管に注射する、気密室に入れて減圧する、食事を与えずに餓死させる、水分を与えずに脱水状態にする、食物を与えずに水や蒸留水だけを与える、血液を抜いて失血死させる、感電死させる、新兵器の殺傷力テストを行う、など)
(1) は上述のように軍医教育の一環として、各地の陸軍病院などで行われました。一方、(2) (3) (4) は七三一部隊をはじめとする石井機関で主に行われました。実験経過は記録され、映画フィルムに撮影されて、軍医および軍属(軍人ではなく、軍に所属する民間人)の医師たちによる部隊内の報告会で発表されました。
また七三一部隊は、中国大陸において実際に細菌兵器を使用していたことが明らかになっています。それは少なくとも、ノモンハン作戦(1939年)寧波作戦(1940年)常徳作戦(1941年)ズエガン作戦(1942年)の4回ありました【常石敬一『七三一部隊』p.145】。寧波作戦では、ペスト菌で汚染したノミ(「ペストノミ」)を穀物や綿にまぶして爆撃機で投下し、100人以上の住民がペストで亡くなっています。
3. なぜ行われえたのか
ところで、以上のような残虐な人体実験は、どうして行われえたのでしょうか。こうした、普通ならとても行えないような非人道的なことを、陸軍病院や石井機関の部隊で行えたのは、なぜなのでしょうか。
(1) 戦争という時代状況
まず、当時の日本は戦争を行っていた、という時代的背景があります。1931年以降、日本は中国東北部を軍事的に支配し、抵抗する中国国民党軍や八路軍(共産党軍)と散発的な戦闘を行っていました。1937年には華北以南に侵攻して、宣戦布告なきまま日中間の全面戦争に突入しました。日本本土では戦時統制経済が強化され、1938年には国家総動員法が制定されています。1939年にはノモンハンでソ連と交戦し、1941年12月には米英に宣戦布告して太平洋戦争が始まりました。こうした時代状況は、少なくとも以下の二つの点で重要と考えられます。
一つは「お国」と「天皇陛下」のために戦い勝利するということが至上目的となり、そのためにはどんなことをしても許されるように思われた、ということです。石井機関で行われた細菌兵器や前線で役に立つ治療法(凍傷、ワクチン、異種間輸血など)の研究開発、ならびに陸軍病院での「手術演習」は、「お国の勝利のため」「天皇陛下のため」という建前によって正当化されていました。
二つ目は、中国や朝鮮の軍事的支配は、中国や朝鮮の人々を日常的に虐待したり殺害することによって維持されていたので、人体実験や生体解剖による殺害を《けっしてやってはならないこと》とする倫理的判断力が失われる傾向にあった、ということです。いわゆる「南京大虐殺」や平頂山事件などの著名な事件を挙げるまでもなく、労役に駆り出した現地住民の虐待や殺害、スパイやレジスタンスないしその協力者と疑われた人々の拷問や虐殺が日常的に行われていたことは、多くの証拠によって明らかになっています。石井機関の各部隊や各地の陸軍病院で行われた人体実験・生体解剖による殺害は、そうした数多くの虐殺の一環をなしていました。また、日本軍の将校や兵隊が中国軍やレジスタンスとの戦闘で死亡することもあったので、報復感情も殺害への心理的抵抗を弱めるのに一役買っていたと考えられます。
(2) 人種差別・民族差別・思想差別
また、当時の日本人は、他の民族の人々を差別し見下していました。日本本土で生活しているかぎり他の民族の人々に接する機会がほとんどないという特殊な事情が《他の民族の人々は人道的に扱うに値しない存在なのだ》という偏見につながっていきます。
まず、ロシア人や米国人、英国人などの「白人」に対しては、劣等感の裏返しとして、まぎれもない人種差別感情がありました。前回の講義でも見た通り、ナチス・ドイツにおいては人種差別が、ユダヤ人やロマ(いわゆるジプシー)の人々やスラブ人を「人間以下の存在」とし抹殺することの背景をなしていました。同様のことが日本においても起こっていたと考えられます。
次に、身体的特徴では日本人とほとんど区別できないにもかかわらず《中国人や朝鮮人・モンゴル人は劣等な民族であり、同じ人間として扱わなくてもかまわない》という「民族差別」が当時の日本社会に遍在していました。これはたとえば関東大震災の際の朝鮮人虐殺となって表れています。民族差別は人種差別と構造的にはまったく同じであり、ただ、中国人や朝鮮人やモンゴル人が日本人と同じ「人種」であることは否定できないので、差異の根拠を「人種」ではなく「民族」に求めた、という点だけが異なっています。
さらに、スパイの疑いをかけられたロシア人や、レジスタンスの八路軍兵士には、共産主義者に対する恐怖と憎悪の眼差しも向けられました。社会主義や共産主義に対する思想差別のために、日本本土でも「アカ」とされた人々が拷問や虐殺に遭った時代ですから、まして「外地」の「筋金入りのアカ」に対しては、残虐に扱うことへの抵抗が少なかったと推測されます。しかも、捕らえられても毅然として拷問に屈しないソ連のスパイや八路軍兵士には、なおさら恐怖と憎悪の念を募らされたことでしょう。
以上のような民族差別・人種差別・思想差別は、中国人や朝鮮人・モンゴル人・ロシア人の捕虜を「同じ人間」として取り扱わなくてもいいとする主観的根拠を与えていたと考えられます。
(3)「どのみち殺される」者の「利用」
スパイやレジスタンス、あるいはその協力者という疑いをかけられて憲兵隊や特務機関に捕らえられた人々は、多くの場合、拷問を受け、正式な裁判もないままに処刑されていました。すなわち彼・彼女らは「どのみち殺される」存在とされていたのです。そこで「どうせ死ぬのなら、お国のために役立って死ね」という論理によって、人体実験や生体解剖による殺害が正当化されていました。この点でも、絶滅収容所のユダヤ人やロマの人々やポーランド人を実験に「利用」したナチスと、構造的に共通しています。
(4) 密室状況
しかしながら、さすがに関係者は、人体実験や生体解剖に用いて殺すことは人道的にはかなり問題があると、考えてはいたようです。少なくとも、そのことが国際社会に知れると、日本にとって非常にまずいことになる、という認識は共有されていました。だからこそ、それらの事実は「秘中の秘」とされ、関係者は固く口止めされ、敗戦時には徹底的に証拠隠滅されたのです。しかし、秘密を守るために密室の状況で行われたことが、外部の目を気にかけなくてすむ環境を作り出し、一般の人々の価値観から遊離して、行為の非人道性に対する感覚をますます鈍らせることになりました。
4. 医師たちはなぜ加わったのか
しかしながら、人体実験や生体解剖を行ったのは、一般に患者の苦痛を取り除き生命を救うのが使命とされる医師たちでした。軍医の中には最初から軍医になるために医学教育を受けた者もいましたが、むしろ戦時下でやむなく、一兵卒になるよりは短期的に軍医になることを選んだ医師たちが大部分でした。また七三一部隊で中心になって人体実験を行っていたのは、軍医よりもむしろ、軍属(技師)として派遣されてきた、大学の講師や助教授クラスの医学研究者たちでした。彼らは七三一部隊や陸軍病院になぜ赴いたのでしょうか。人体実験や生体解剖に加わることを拒めなかったのでしょうか。
(1) 時代状況
まず第一に、当時の日本には《軍に協力してお国のために尽くすのは当然》という雰囲気があったことが挙げられます。軍医として中国山西省の陸軍病院へ赴き「手術演習」を行った湯浅謙は、医大を卒業した1941年に徴兵検査を受けて入隊していますが、その理由を「医学生は徴兵を猶予されていたが、学校を卒業した以上、軍人になることは、のがれられない運命とわたしは思っていた」【吉開那津子『消せない記憶』p.38】「わたしはもちろん、戦地へいって戦争などしたくはなかったが、仕方のないことだ、と思っていた」【同、p.39】と述べています。このような社会状況下でもし軍に協力しなければ、人々から「非国民」との罵られることは必至でした。そして、いったん入隊して軍医になってしまったら、生体解剖や人体実験に手を染めないために赴任命令を拒むことは軍法会議にかけられることを意味し、よほどの勇気と覚悟がなければ不可能だったでしょう。
また湯浅は、「手術演習」を実施すると病院長から初めて告げられたときのことを、次のように回想しています。
わたしは、いよいよ来るものが来たな、というような引き締った気持でそれを聞いた。というのは慈恵医大の医学生の時代、軍医になって大陸へ渡れば、生体解剖をやる機会があるらしいということをすでに聞かされていたからである。軍医として中国へいった者は、ほとんどの者がそれをやるということは、医学生に知れ渡っていた。【吉開那津子『消せない記憶』p.65】
これは、湯浅たち軍医が、だまされて人体実験や生体解剖による殺害に手を染めさせられたのではなく、わかっていながら「みんなやっているから、そうせざるをえない」と力無く諦めて荷担していったことを示しています。ここには、世の大勢に流されやすい日本人の倫理的弱さがあらわになっていますが、当時の時局の流れがそれだけ強いものであったことも否定できません。
(2) 医局講座制と防疫研究室嘱託制度
また、軍属の医学研究者たちは、別の種類のしがらみに縛られていました。それは「医局講座制」における教授の大きな権力です。大学の医学部には専門の研究室(講座)ごとに1名の教授を頂点とする権力構造が存在し、とくに教授は弟子の人事に関して裁量をふるっています。弟子たちは出身の講座に協力して「医局」を構成し、師である教授の意向に逆らうことができません。逆らえば医局で村八分にされ、研究者としての道を断念せざるをえないのです。
たとえば、七三一部隊できわめて残虐な凍傷実験を行っていた吉村寿人は、京都大学の講師を務めていたときに、師であった正路倫之助京大教授から七三一部隊行きを命じられました。吉村は、それまで行っていた研究を捨てるのがいやで即座に断ったところ、正路に「今の日本の現状からこれを断るのは以ての外である」と叱られます。それでも行きたくなくて、故郷から母親を呼び寄せて断りに行かせたところ「もし軍に入らねば破門するから出て行け」と言われ、しぶしぶ満州行きを承諾しました【常石敬一『医学者たちの組織犯罪』p.222】。
しかしながら、正路はなぜこうまで強硬に吉村を七三一部隊へ行かせたがったのでしょうか。それは、すでに正路が、吉村を平房に行かせると石井四郎に約束していたからだと考えられます。吉村自身のちに「何か先生が軍の方と既に約束済みの様な様子であった」と書いています【常石、同上、による】。石井は、出身大学である京都大学医学部の教授たちの協力を取り付けていました。京大だけでなく、東京大学医学部、東京大学伝染病研究所、大阪大学、慶応義塾大学、東北大学、熊本医科大学、北海道大学、金沢医科大学などの教授たちを、陸軍軍医学校防疫研究室の「嘱託」にしていたことが判明しています。石井はこれらの教授たちを通して優秀な弟子を石井機関へ派遣してもらい、研究者を確保していたのです。1944年5月から七三一部隊の「内海班」に加わって血清研究をしていた秋元寿恵夫医師は、指導教授の緒方富雄東大教授から「あそこなら、研究を続けることがそのまま入隊するのと同じになるのだから、どうだ行かないか」と勧められた二つの場所のうち一つが七三一部隊だった、と述懐しています【秋元寿恵夫『医の倫理を問う』p.61】。緒方も防疫研究室の嘱託に名を連ねる1人でした。
また、教授たちとしても、石井に協力することで、研究費を確保したり、戦時下で調達困難になってきていた研究資材などの便宜を図ってもらうことができました。自らの研究のために石井機関で人体実験をしてもらうこともあったようです。
このように、石井機関は、もともと関連病院などのポストが少ない基礎医学系講座の教授たちにとっては弟子を送り込む格好の場所であり、貴重なデータを提供してくれるまたとない実験施設であり、研究上のパトロンでもありました。石井のほうでも、防疫研究室の嘱託であるこれらの教授たちは、研究協力者であったと同時に、石井機関の中核をなす優秀な研究者の供給源だったのです。人体実験や生体解剖による大量虐殺が「医学者たちの組織犯罪」であったといえるのは、石井機関と医学界がこうした密接な「共犯関係」を結んでいたからなのです。
(3) ほかでは得られない研究環境
いやいやながら送り込まれた吉村のような研究者にとっても、石井機関の研究施設は、研究費・設備・研究資材のどの点でも、夢のようにぜいたくな場所でした。七三一部隊は当時の金で年間1千万円(今日の貨幣価値にして約90億円)もの莫大な経費を使っており、その半分の500万円が研究事業費でした(残りの半分の500万円は人件費)。研究費は湯水のごとくあり、高価な電気冷蔵庫が少し故障しただけで修理もされずにたくさん放置されていたほどでした。国家総動員体制が敷かれていた日本にあって石井機関は、そこで自分の研究テーマさえ見つけられれば、制約なく研究に没頭できる「理想的」な環境にあったのです。
しかも、流行性出血熱やペスト、発疹チフス、重度の凍傷など、日本本土ではめったに見られない「症例」が、そこにはありました。吉村は七三一部隊で行った凍傷の研究により、戦後この分野の日本における権威となり、学術会議の南極特別委員会の委員を務め、京都府立医大の学長にもなっています。また、同じく七三一部隊に加わった病理学者の石川太刀雄丸は、ペストや流行性出血熱の病理解剖を多数行い、標本を日本に持ち帰っています。七三一部隊の部隊長を務めた北野政次も、人体実験によって流行性出血熱の病原体を確保することに成功したといわれています。このように、石井機関はそこに送られた研究者たちにとって、日本本土ではけっして行えない研究を行うことのできる貴重な場所となったのです。
もっとも、石井機関で行われていた研究は、軍事研究という性質上、その成果を国際的に公表して科学史に名を残す業績とすることはできないようなものばかりでした。しかしながら、石井機関内では、各大学の嘱託を集めて定期的に研究発表会を開き、雑誌『陸軍軍医学校防疫研究報告』を編集・発行して、研究成果を共有していました。このように学術団体ふうの体裁を整えることで、研究者の研究意欲をかき立て、科学者としてのエトスや欲求を満足させていました(実際、戦後になって『陸軍軍医学校防疫研究報告』に掲載された自分の論文を自らの学術的業績に挙げている研究者もいます)。世界から孤立していた当時の日本の立場を反映して、科学者たちは研究成果を国際的に発表することをあまり重要視していませんでした。国内的な名声なら日本国内だけにしか通用しない論文でも十分得られますし、戦時下においては、むしろ日本だけを益し敵国を害するような科学研究が求められます。すなわち、国家総動員体制において科学研究はみな多かれ少なかれ軍事研究へと変質し、科学のグローバルな普遍性という理念は打ち捨てられてしまったのです。
5. 実行者たちは戦後どうなったか
1945年8月9日、ソ連が太平洋戦争に参戦して満州へ攻め込んできました。この日から石井機関は、細菌兵器の開発や使用、および被験者虐殺の証拠を隠滅することに全力を傾けます。七三一部隊ではまず、生き残っていた「マルタ」を全員殺害し、遺体を焼却して捨てました。実験を記録した書類やフィルムなども焼却されました。主要な施設は工兵隊によって爆破され、とくに「ロ」号棟や特設監獄は念入りに破壊されました。また、部隊員やその家族は、ソ連に捕らえられないよう、特別列車でいち早く帰国しました。そのおかげで、ソ連や中国の捕虜になった七三一部隊の幹部や部隊員はわずかしかいませんでした。
(1) 米国による戦犯免責
【詳細は、常石敬一『医学者たちの組織犯罪』;太田昌克『731免責の系譜』、を参照】
日本を占領した米軍は、ただちに石井機関の調査を始めました。しかし、それは戦犯告発のための調査ではなく、細菌兵器研究の成果についての調査でした。1942年に細菌兵器の研究開発に着手したばかりの米国にとって、石井機関の研究成果は国防上非常に重要なものとみなされたのです。8月28日に厚木に到着した第一陣の調査団は、細菌兵器のみならず、日本における原爆や化学兵器などの研究成果を調査するためのものでした。
この調査団で石井機関の調査を担当したのは、米国の細菌兵器の研究施設キャンプ・デトリックのマレー・サンダース軍医中佐でした。そして通訳として呼ばれたのは偶然にも、石井機関の中核である陸軍軍医学校防疫研究室を実質的に取り仕切っていた「石井の番頭」内藤良一軍医中佐でした。最初の一ヶ月間、めぼしい成果をまったく上げられなかったサンダースは、焦って内藤に、戦犯として訴追しないことを約束する代わりに真実を語るよう迫ります。この戦犯免責の約束は、参謀二部のウィロビー少将や連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥と相談の上でしたが、ワシントンDCの米本国政府の承認を得たものではありませんでした。いずれにせよ内藤はそこで、人体実験は決してやっていないこと、そして、石井機関の中心は平房の七三一部隊にあったこと、という二つの重要な点でサンダースを欺く一方、それ以外の点では七三一部隊の組織や研究内容について、ある程度踏み込んだ情報を提供しました。内藤の二つの嘘のうち「人体実験はやっていない」という嘘はやがて米国にもばれることになりますが、「石井機関の中心は七三一部隊」という嘘は国際的にも国内的にもその後長く通用し、石井機関の活動に組織的に荷担していた日本の医学界を護る役割を果たしています。
病気で帰国したサンダースの後を受けたアーヴォ・トンプソン獣医中佐は、石井四郎と、1942年8月から1945年3月まで石井に代わって七三一部隊の部隊長だった北野政次を尋問しますが、その際にも再び、戦犯に問わないという約束を確認しています。GHQには元七三一部隊員から人体実験に関する匿名の告発が多数寄せられていたにもかかわらず、トンプソンもサンダースと同じく、人体実験が行われていた事実を突き止めることはできませんでした。
米国が人体実験の事実を明確に認識したのは、1947年1月にソ連から、石井らの身柄を引き渡すよう要求を受けたときです。ソ連は、押収した文書や捕らえた七三一部隊関係者の供述から、細菌戦が実行されたことと、人体実験によって多数の中国人やロシア人などが殺されていたことの証拠をつかんでいました。ソ連は米国に、七三一部隊が蓄積していた細菌戦のノウハウを米ソの2国で共有するよう暗にもちかけ、米国がこの提案に応じなければ、七三一部隊の幹部を公開裁判にかけて事実を世界中に暴露する、と迫りました。しかしマッカーサーのGHQは米本国政府と協議した上で、ソ連の引き渡し要求を退ける一方、キャンプ・デトリックから再び調査官を迎えて内藤や石井を再尋問します。その過程で《細菌兵器の研究成果を全面的に米国に提供すれば、石井らを戦犯には問わない》という取引が、米本国政府の承認の下に確定します。調査官として来日したノーバート・フェル博士と、フェルの後を継いだエドウィン・ヒル、ジョゼフ・ヴィクターの両博士は、人体実験に基づく細菌兵器の研究資料や、生体解剖によって得られた大量の標本などを、米国に持ち帰りました。
こうして、ニュルンベルク裁判ではナチスの医師たちを裁いた米国が、石井機関の細菌兵器開発や人体実験による大量殺人に関しては、下手人たちと共犯関係を結ぶことになったのです。石井や内藤をはじめとして、石井機関の中枢を担った軍医や、七三一部隊に派遣され「マルタ」を虐殺していた研究者たちの多くは、戦後まったく罪を問われることなく、大学などの研究機関や企業の要職に着きました(内藤は自分の専門の凍結乾燥技術を生かして乾燥血漿を製造する「日本ブラッド・バンク」【後に「ミドリ十字」と改称】を設立します。内藤も含め、創立当初の役員の半数は石井機関の関係者でした)。そして石井機関に全面的に協力した医学界も、その過去を隠蔽することに成功したのでした。
(2) ハバロフスク裁判
【詳細は『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』;三友一男『細菌戦の罪』、を参照】
米国との取引に失敗し、東京に出向いて石井らの尋問を行ってもまったく成果が得られなかったソ連は、捕虜にしていた関東軍や七三一部隊・一〇〇部隊などの関係者を、公開の軍事法廷で裁きました。この公判は1949年12月25日から30日にかけて沿海州のハバロフスク市で行われたので「ハバロフスク裁判」と通称されています。被告になったのは以下の12人でした。
山田乙三(関東軍司令官、大将)
梶塚隆二(関東軍軍医部長、軍医中将)
高橋隆篤(関東軍獣医部長、獣医中将)
川島清(七三一部隊第四部[製造部]長、軍医少将)
柄沢十三夫(七三一部隊第四部課長、軍医少佐)
西俊英(七三一部隊孫呉支部長[後に教育部長]、軍医中佐)
尾上正男(七三一部隊牡丹江支部長、軍医少佐)
佐藤俊二(第5軍軍医部長、軍医少将)
平桜全作(一〇〇部隊研究員、獣医中尉)
三友一男(一〇〇部隊員、軍曹)
菊池則光(七三一部隊牡丹江支部衛生兵、上等兵)
久留島祐司(七三一部隊林口支部衛生兵・実験手)
彼らの罪状は「ソ連最高ソヴィエト常任委員会法令第一条違反」で、細菌戦部隊の業務統轄・細菌戦の準備および細菌兵器製造・侵略戦争の開始など「日本帝国主義への積極的参加」の廉で山田・梶塚・高橋・佐藤が、人体実験を容認した廉で山田・梶塚・高橋が、「波」部隊(広東の南支那派遣軍防疫給水部)と「栄」部隊(南京の中支那派遣軍防疫給水部)での細菌兵器製造を統轄した廉で佐藤が、細菌兵器の研究と製造に参加した廉で川島・柄沢・西・尾上・平桜が、中国に対する細菌戦の遂行と人体実験の遂行に参加した廉で川島・柄沢が、ソ連に対する細菌謀略に参加した廉で平桜が、細菌戦部隊の業務に参加した廉で三友・菊池・久留島が、人体実験とソ連に対する細菌謀略に参加した廉で三友が、それぞれ有罪とされました。
刑はいずれも収容所での矯正労働で、刑期は山田・梶塚・高橋・川島が25年、柄沢が20年、西が18年、尾上が12年、佐藤が20年、平桜が10年、三友が15年、菊池が2年、久留島が3年でした。彼らはモスクワから250kmほど東のイワノボ将官収容所に入れられましたが、刑期が長かった者も、1956年の日ソ国交回復に伴い(病死した高橋と自殺した柄沢を除いて)全員帰国しています。
ソ連はこのハバロフスク裁判を、ニュルンベルク裁判や東京裁判に匹敵するものとして世界中に印象づけようとしましたが、ソ連一国だけで行わざるを得ず、裁判団も検事も弁護人もすべてソ連人で、ソ連以外の報道機関による現地取材もなかったので、すでに始まっていた東西冷戦のさなか、ソ連の宣伝工作にすぎないとして西側各国からはほとんど黙殺されてしまいました。裁判の中身も、たとえば弁護人は日本帝国主義と財閥支配を非難して被告の情状酌量を求めるのみで具体的事実に関してはまったく争わず、被告たちもいっさい反論せず懺悔するばかり、という一方的な内容でした。しかしながら、法廷に提出された証拠や、被告や証人の供述調書は、七三一部隊や一〇〇部隊の実態を示すまとまった資料として、なお一級の価値を保っています。
ただし、ハバロフスク裁判の被告には、石井機関の全貌を知る中枢の幹部は含まれていませんでした。石井機関の全体像を把握していたのは、石井や内藤など、陸軍軍医学校防疫研究室の業務に携わっていたごく一部の幹部だけで、七三一部隊など現場の幹部は自分の関係した業務のこと以外はほとんど知らなかったのです。このことが、石井機関の全貌と医学界の組織的関与を、戦犯を追及したソ連の目からも隠すことを可能にしたのでした。
(3) 中国による取り調べと戦犯裁判
【詳細は、中央档案館ほか編『生体解剖』『人体実験』『細菌作戦』;吉開那津子『消せない記憶』、を参照】
日本軍の侵略によって最も大きな直接的被害を被った中国では、日本の降伏によって戦争が終わった後、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党の間で内戦が再発します。そのため、日本軍の戦犯の追及は、共産党軍が国民党軍を打ち破って1949年に中華人民共和国が樹立されるまで、実質的に棚上げにせざるを得ませんでした。その間に、中国で残虐な行為を行った日本人の多くが帰国してしまい、戦犯容疑者として捕らえられたのは、ソ連から引き渡された969人を除けば、山西省に残っていた140人だけでした。
中国の戦犯取り調べはきわめてユニークなものでした。戦犯容疑者として捕らえられた日本人たちは、収容所に入れられたものの、強制的に働かされるわけでもなく、しかも中国人看守より豪華な食事すら与えられました。その一方で、軍国主義の本質と構造を学び戦時中に行ったことを反省する機会が与えられ、自発的に戦争犯罪を供述するように導かれていきました。もちろん、すでに被害者の家族などからの告発や証言は多数寄せられていたので、供述がそれらの告発や証言と一致するまで、粘り強い尋問が止むことはありませんでした。
このようにして得られた供述に基づいて、1956年の6月から7月にかけて、瀋陽と太原で「中華人民共和国最高人民法院特別軍事法廷」が開かれました。実際に裁判にかけられたのは、拘留中に死亡した47名、起訴猶予にして帰国させた1017名を除いた、45名のみです。この中に含まれていた石井機関の幹部は、七三一部隊林口支部長だった榊原秀夫だけでした。医学関係者の被告として他には、各地の陸軍病院で「手術演習」を行った軍医などが含まれていました。
判決もまた、きわめてゆるやかなものでした。処刑されたのは1人もなく、有罪を宣告されても刑期満了前に釈放されました。こうして全員が1964年までに帰国しました。
このように寛大な戦犯裁判の背景には、当時国際社会への復帰を急いでいた中華人民共和国政府の意向がありました。こうして、最大の被害者であった中国の追及をも悪運強く逃れることができ、日本の医学界は安心して、残虐な非人道的犯罪の実行者を要職に据え続けたのです。しかしそれは、自らの犯した行為を正面から見つめ直し、二度とこのようなことはすまいと国内外に宣言するよう迫られる絶好の機会を、日本の医学界が決定的に逃してしまったということでもあります。
6. ナチスの人体実験との共通点と相違点
最後に、前回の講義で扱ったナチス・ドイツによる人体実験と、日本軍による人体実験(および生体解剖による殺害)の共通点と相違点を、簡単にまとめておきます。
まず第一の共通点は、双方とも、被験者に治療的効果などのメリットがありえない「非治療的実験」であったということです。この点は、次回に述べる米国の放射能実験も同様です。治療的実験をめぐる倫理的考察を行う際には、医師・患者関係や治療可能性に伴うさらに複雑な事情を考慮に入れる必要があります。もっとも、ナチスや日本軍による人体実験への反省から、人体実験に関する最低限の倫理が抽出されてくることは確かですが。
第二の共通点は、どちらも「どうせ殺される者」を用いた実験であるということです。ナチスの場合、それは絶滅収容所で抹殺される運命にあるユダヤ人やスラブ人やロマの人々などでした。日本軍の場合は、スパイやレジスタンスおよびその協力者と疑われた中国人やロシア人、朝鮮人、モンゴル人などでした。そして、いずれの場合も「どうせ殺される者」と決めるにあたって、人種差別や民族差別や思想差別が大きな役割を果たしていました。
第三の共通点は、ドイツの場合も日本の場合も、軍事上の目的のために実験が行われた、ということです。もっとも、ドイツの場合は「断種実験」や「安楽死」や「ユダヤ人骨標本コレクション」のように、優生学や人種衛生学[民族衛生学]の研究のために行われたものや、「骨・筋肉・神経の再生実験および骨移植実験」のように目的のはっきりしない実験もありましたが、その他の実験は、曲がりなりにもいちおう軍事上の目的が設定されていました。日本軍の場合は国家的プロジェクトとして、細菌兵器の開発という明確な軍事目的をもっていました。次回に取り扱う米国の放射能実験も、米国の安全保障上の目的を持っていたために、長く隠蔽されてきました。このように、国を守るという口実があれば非常に残虐な人体実験も行われうる、という点は押さえておく必要があります。
(もっとも、そもそもこの口実は、戦争という最も甚だしい残虐行為すら正当化してしまう口実なのですが、「国を守るため」であってもしてはいけないことがあるのか、あるとすればその根拠は何か、という問題は、さらに考える必要があります)
一方、相違点の第一は、ナチスの人体実験の舞台は絶滅収容所であり、その機構と施設の本来の目的は「抹殺」することであって人体実験をすることではなかったのに対し、日本軍とりわけ石井機関の機構と施設ははじめから人体実験を行うことを目的に作られていた、という点です。その典型が平房の七三一部隊で、これは人間を使って実験を行い殺すことを徹頭徹尾念頭に置いて設計された施設と人員配置をもっていました。それに比べると、ナチスの人体実験はずっと思いつき的に行われています。
これほど科学的で、大規模で、冷酷な人体実験機関は、歴史上ほかに存在しません。しかも石井機関は莫大な経費によって支えられた国家的プロジェクトであり、人体実験にここまで国家予算をつぎ込んだ国は日本以外にはなかったでしょう。そして、人体実験や生体解剖による殺害にこれほどの規模で組織的に協力した医療専門職集団も、日本の医学界以外にはないのです。その意味で、日本軍の人体実験は、その規模と組織性と計画性において、ナチスの人体実験をはるかに上回ると断言できます。
第二の相違点は、医学界の組織的関与の度合にあります。石井機関には、石井四郎の強力なリーダーシップの下に、医学界の有力者がネットワーキングされていました。これに対してナチスの人体実験の場合は、ナチスに入党した医師の割合は高かったものの、その関与は個人単位のものだったようです。悪名高きアウシュヴィッツの医師メンゲレも、師であるフォン=フェルシュアー教授に命じられてアウシュヴィッツへ行ったわけではありません。この点で、正路倫之助に七三一部隊行きを厳命された吉村寿人の場合とは異なっています。また、ナチスの場合には、ユダヤ人医師や社会主義者の医師など抵抗運動を続ける医師たちがいたのに対し、日本の医師の間に軍や石井機関に抵抗する動きはとくにありませんでした。このように、医学界の組織的関与の度合はナチスよりも日本の方が高かったといえます。にもかかわらず、いや、それだからこそ、ドイツの医師会が「『人間の価値』展」を開催したのに対し、日本の医師会は「七三一部隊展」の際にもいっさい沈黙を守っていたのでしょう。
第三の相違点は、生き残った被験者がナチスの人体実験では相当数いるのに対し、日本軍の人体実験では1人もいない、という点です。生体解剖されればもちろん生き残ることはできませんでしたし、生体解剖されなかったとしても実験後に毒物を投与されたりして殺されました。また、七三一部隊では「マルタ」をまず感染実験に使い、もしそれで生き長らえたら次に凍傷実験に使い、それで四肢を失ってもなお生き残った被験者は毒ガス実験などに使って殺したといわれています。しかも、ソ連軍の侵攻により撤退するときには、証拠隠滅のためにすべての「マルタ」が「処分」されたのです。こうした被験者の徹底的な「利用」ぶりもまた、はじめから人体実験に使って殺す目的で組織された石井機関と、思いつき的なナチスの人体実験との違いを際立たせています。
第四の相違点は、ナチスは絶滅収容所に入れられていた囚人をいわば場当たり的にピックアップして被験者としたのに対し、石井機関では憲兵隊や特務機関との連携のもとに「特移扱」という被験者調達システムが整えられていた、という点です。これもまた日本軍の人体実験の組織性と計画性を物語っています。このような連携は関東軍や陸軍首脳部の承認がなければ成り立ちませんので、「特移扱」は石井機関が国家ぐるみのプロジェクトであることをはっきり示すものであり、その責任はおそらく日本軍の最高責任者であった天皇にまで及ばざるをえないことを示唆しています。
第五に、日本軍とくに石井機関の、証拠隠滅と箝口令の徹底ぶりが挙げられます。ナチスの場合、人体実験の証拠隠滅はそれほど組織的なものではなかったため、多くの証拠を後に残すことになりました。ニュルンベルク裁判の訴追資料は、ナチスの医学犯罪の全体像を描き出しています。これに対し、石井機関では証拠隠滅が徹底的に行われました。そのため、ソ連の努力にもかかわらず東京裁判で表沙汰にすることは不可能でしたし、ハバロフスク裁判や中国の戦犯裁判でも、石井機関の全体像は明らかにできませんでした。
また、石井四郎は帰国する部隊員を「秘密は墓場まで持っていけ、もしバラすようなことがあったら、この石井はどこまでも追いかけるぞ」と恫喝し、
一、郷里に帰ったのちも、七三一に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと。
二、あらゆる公職には就かぬこと。
三、隊員相互の連絡は厳禁する。
と厳命したといいます【越定男『日の丸は紅い泪に』p.173】。この厳命は戦後長く旧部隊員(なかでも下級隊員)を拘束し続けます。彼らがこの秘匿命令に逆らってようやく重い口を開き始めたのは、それから35年あまり経った1980年代に入ってからでした。こうした徹底ぶりもまた、石井機関の組織性の高さを表すものです。
第六の相違点は、ナチスの人体実験はニュルンベルク裁判で厳しく追及されたのに対し、日本軍の人体実験および生体解剖による大量殺害の場合は、石井四郎を筆頭ととする実行責任者がほとんど戦犯に問われなかった、という決定的な違いです。これは第一義的には正義よりも自国の利益を優先させた米国のせいですが、暴露されればまちがいなく窮地に陥るような行動をあえて米国がとったのは、思いつき的なナチスの人体実験が独占に値する成果をほとんど含んでいなかったのに対し、石井機関の人体実験は(秘密が保たれたことも含め)それだけ独占に値する成果を上げていたからだともいえます。もちろん、最大の被害国である中国が内戦状態に陥ったこと、ソ連が石井機関の主要な幹部の身柄を拘束できなかったこと、米国は石井らの身柄は押さえたものの現地での捜査を行えなかったこと、そして東西の冷戦が米中ソ3国の捜査協力をまったく不可能にしてしまったこと、など、石井たちにとって都合のよい歴史的偶然が重なったことが、戦犯免責を可能にしたのですが。
そして最後に第七の相違点は、戦後における国内での追及と反省の仕方の違いです。旧西ドイツでも、ナチスに荷担した医学者の多くはそのまま要職に留まったため、医学界自身の反省の動きは1980年代まではほとんどありませんでした。しかしドイツでは何といってもニュルンベルク裁判が行われて人体実験の事実が国際社会に公表されていましたし、ユダヤ人団体などによるナチス犯罪人の告発も続けられていましたし、ナチス時代に国を追われた社会主義者の医師たちは国外から告発活動をしていましたので、こうしたことがいっさいなかった日本と事情は大きく異なります。しかも1980年代に入ると「『人間の価値』展」に象徴されるように、医学界自身の手による反省も行われています。
日本でも1980年代以降、石井機関の下級隊員や、湯浅謙ら陸軍病院に務めていた元軍医たちが、ようやく重い口を開いて公の場で証言を始めたこと、中国や米国・ロシアの資料が以前よりも手に入りやすくなったこと、国内でも新しい資料がいくつか発掘されたこと、などによって、研究は大きく進展してきました。しかし日本政府は、七三一部隊の存在だけは認めているものの、人体実験が行われていたことは未だに認めていませんし、まして謝罪などまったく行っていません。日本の医学界も、この問題に関しては固く口を閉ざしたままです。これは、単にドイツと日本の「相違点」といってすますには、あまりにも大きな相違です。
●テキスト
常石敬一『七三一部隊----生物兵器犯罪の真実』講談社現代新書、1995年、¥631
比較的新しい研究成果も取り入れた、歴史学的に堅実な、一般向けの解説書です。
●参考図書
常石敬一『医学者たちの組織犯罪----関東軍第七三一部隊』朝日新聞社、1994年、¥1000(朝日文庫、1999年、¥660)
米軍との免責取引や、医学界の組織的関与の全体像を詳細に描いています。
森村誠一『新版・悪魔の飽食』角川文庫、1983年、¥520
下級隊員の証言を掘り起こし、ミリオンセラーになった本です。七三一部隊施設の全容も明らかにしました。『続・悪魔の飽食』の初版で使った写真の一部が七三一部隊とは無関係だったという「写真誤用事件」を起こし、右翼からの総攻撃を受けましたが、一般市民の関心を呼び、その後も隊員の証言を広く引き出すきっかけを作った功績は大きいです。一度は目を通しておくべき本でしょう。
森村誠一『新版・続・悪魔の飽食』角川文庫、1983年、¥430
森村誠一『悪魔の飽食・第三部』角川文庫、1985年、¥500
下里正樹『「悪魔」と「人」の間----「731部隊」取材紀行』日本機関誌出版センター、1985年、¥950
『悪魔の飽食』の続編にあたる文献です。下里氏は森村氏の「共同作業者」として、元隊員などの取材を行った記者です。
太田昌克『731免責の系譜----細菌戦部隊と秘蔵のファイル』日本評論社、1999年、¥1800
新資料に基づき、戦犯免責と石井機関の全体像の秘匿をめぐる日米の駆け引きを検証した本です。
『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』モスクワ・外国語図書出版所、1950年(『細菌戦部隊ハバロフスク裁判』牛島秀彦解説、海燕書房、1982年、¥7500;『公判記録・七三一細菌戦部隊』高杉晋吾解題、不二出版、1993年再刊、¥7500)
ソ連によるハバロフスク裁判の公判書類です。まとまった資料として、今なお一級の価値を持っています。
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『生体解剖----旧日本軍の戦争犯罪』同文舘、1991年、¥2000
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『人体実験----七三一部隊とその周辺』同文舘、1991年、¥2800
中央档案館・中国第二歴史档案館・吉林省社会科学院編『細菌作戦----BC兵器の原点』同文舘、1992年、¥3300
中国における戦犯裁判の公判準備書類です。戦犯とされた人々の証言(供述調書)が中心です。
越定男『日の丸は赤い泪に----第七三一部隊員告白記』教育資料出版会、1983年、¥1200
吉開那津子『消せない記憶----湯浅軍医生体解剖の記録』日中出版、1981年、¥1300
郡司陽子『証言・七三一部隊』徳間書店、1982年、¥680
三友一男『細菌戦の罪----イワノボ将官収容所虜囚記』泰流社、1987年、¥1400
秋元寿恵夫『医の倫理を問う----第七三一部隊での体験から』勁草書房、1983年、¥1800
七三一部隊・一〇〇部隊の元隊員や陸軍病院に勤めた元軍医による告白記です。
本多勝一『中国の旅』朝日新聞社、1972年(朝日文庫、1981年、¥410)
七三一部隊の部隊長を務めた北野政次などが満州医科大学で中国人を用いて人体実験や生体解剖を行っていたことが明らかにされています(pp.57-86「人間の細菌実験と生体解剖」)。南京大虐殺や平頂山事件など著名な事件以外にも、中国人を虐殺することが日常茶飯事だったことが、現地取材に基づいて綴られています。取材は1971年に行われ、当時の文化大革命に無批判なのが今から見れば気になりますが、この点を割り引いても、ぜひ一読しておくべき本です。
●練習問題
(1) 日本軍の医学犯罪がなぜ行われ得たのかという点に関する筆者の分析を批判的に検討しましょう。筆者が挙げている四つの理由(戦争という時代状況、人種差別・民族差別・思想差別、「どのみち殺される」者の「利用」、密室状況)は、説明理由として十分といえるでしょうか?他に考慮すべき理由はないでしょうか?
(2) 医学者たちが石井機関に加わった理由に関する筆者の分析を批判的に検討しましょう。筆者が挙げている三つの理由(時代状況、医局講座制と防疫研究室嘱託制度、ほかでは得られない研究環境)は、説明理由として十分でしょうか?他に考慮すべき理由はないでしょうか?
(3) ナチスの医学犯罪と日本の医学犯罪の筆者による比較分析を批判的に検討しましょう。筆者の挙げている共通点三つ、相違点七つは、十分に両者の共通点と相違点を尽くしているでしょうか?他に考慮すべき点はないでしょうか?
(4) 米国が「二枚舌」と国際社会から非難される危険を冒してまで、石井機関の人体実験データを独占しようとした理由を考えてみましょう。また、国際社会においてニュルンベルク・コードはどのような意義をもっていると考えますか?
第1章 1920年代前半期における科学的社会主義の導入と成長(初期における科学的社会主義の輸入および摂取/マルクス主義経済理論研究の進展および価値論論争/福本イズム)/
第2章 国際的理論の摂取と評価(影響力をもっていた主要な国際的理論とその批判/猪俣津南雄によるローザ批判)/
第3章 マルクス主義による日本資本主義の研究のはじまり(初期の研究/補・野呂「日本資本主義前史」の解説/日本帝国主義論についての右翼社会民主主義との闘争と理論の進展/天皇制の意義についての未熟な見解)/
第4章 1927年テーゼと理論的進展(27年テーゼの政治的・理論的意義/27年テーゼによる理論的進展と「労農」派との対立)/
第5章 4・16から1932年テーゼまで(4・16いごの理論戦線と野呂栄太郎の活動/農業理論への新しい取り組み/「政治テーゼ草案」と反対派との闘争/地代論論争/山田盛太郎理論)/
第6章 1932年テーゼと『日本資本主義発達史講座』(32年テーゼ/岩波『日本資本主義発達史講座』/補・天皇制の基礎について)/
第7章 「講座」派理論の展開と批判(いわゆる「日本資本主義論争」と「講座」派理論の進展/補・櫛田による前資本主義地代論の誤謬/「講座」派農業理論の展開と批判理論)/
第8章 戦前日本独占資本主義の構造とこれについての戦前および戦後の理論(本問題にたいする戦前理論の達成/戦後理論とその批判)/
第9章 『資本論』『帝国主義』の継承をめざして
何が「天皇描写」を可能にするか
渡部直己の“中上健次三部作”が完結した。『日本近代文学と〈差別〉』に始まり、『中上健次論 愛しさについて』と続き、今度の『不敬文学論序説』で締めくくられた評論集である。と言っても私が勝手にそう呼んでいるだけであって、著者自身にその意図があるかわからないし、あるいはなお“続編”が書き継がれるかもしれない。 最初の『〈差別〉』で解き明かされたのは、乱暴に言うと、小説には穴が開いており、その穴に矛盾や差異が放り込まれ、しかもその穴を覆い隠すことによって小説は成り立つという原理である。その結果、小説は差別に荷担する。このこと自体は、小説のルーツのひとつである物語の起源と構造を考えればつきあたる原理であり、表象という制度が仕掛ける罠であり、必ずしも目新しいわけではない。だが渡部直己はこの本で、明治以降の日本近代文学の諸作品がいかにこの不問の穴を作ってきたかを暴き立てることで、歴史の感触をそこに持ち込んだ。いまだにわれわれの語りを支配する亡霊の姿を、見えるものとしたのだ。 しかし、本当にリアルな歴史の感触がもたらされるのは、「秋幸と「路地」」と題された終章で、不問の穴を決して許さなかった中上健次の姿が描かれたときである。それは、恐らく『〈差別〉』を書き始めたきっかけと無縁ではないだろう中上が、この本が書き始められるやすぐに他界してしまったためだと思われる。その証拠に、この章を拡大するようにして、『〈差別〉』と並行しながら「中上健次論』が書き継がれていくのだ。 「秋幸と「路地」」が形を変えて採録されてもいる『中上健次論』に私が読みとるのは、皮膚呼吸をする「テクスト」である〈秋幸〉というものに、さらには中上健次そのものに、渡部がなりかわりたいという“愛情告白”である。本論では、中上が自殺した兄の謎を解き彼のための場所と自分のいる場所をつなごうと試みるさまが何度も説かれるのだが、それは渡部自身が中上の場所と自らの場所をつなごうとして『中上健次論』というテクストを書く姿と重なる。それが副題「愛しさについて」の由縁であり、渡部が分析する中上作品の欲望やベクトルやその他すべての動きが、彼の中上に対する態度そのものだと私には映るのである。作品論・作家論である以上に、この本は中上健次に届こうとし確かに触れえたことの記録であり、その瞬間のなまなましさがこちらの胸を騒がせる。 そして今度の『不敬文学論』に至る。近代小説における〈差別〉の穴を暴露した波部直己は、ついには日本近代文学全体の穴となっている「天皇」に目を向けた。日本で日本語で書いている限り現れる矛盾・差異が、その穴に無理なく吸い込まれていく。しかもたちの悪いことに、その穴はわざわざ隠すための手続きを踏まなくても、“自然と”隠れてくれる。すなわち、そのことについて考えなければよいのである。渡部は『〈差別〉』のときと同様の手つきで年代順に作品を追いながら、テクストに残された「穴=天皇」への恭順と欺瞞、あるいは数少ない抵抗をあぶりだしていく。森鴎外が「かのやうに」で書いたテクストの形態が大逆裁判で使われた言説の形態と酷似していること、それに対し夏目漱石の『こゝろ』がそういった言説を逆転させようと、宮内省が公示する明治天皇の病状報告を主人公の父の病状描写に転じさせていること、また、執拗に「穴」へ食い込んでいく大江健三郎の小説の分析などは、著者の面目躍如である。 反面、〈差別〉のエクリチュールを「表象=支配」とし、天皇描写のエクリチュールを「表象=隷属」と対比させていることからもわかるように、『〈差別〉』と表裏をなした批評である分、分析の方法にはこれまでの繰り返しや変奏が多い。『〈差別〉』では「穴」という“中心”が全体の論旨を統括していたのに対し、『不敬文学論』は「不敬小説」の流れを歴史的に追うにとどまり、「天皇」は全体の論をまとめる“中心”とはならない。作品分析でも、『異族』論や村上春樹批判はいままでの繰り返しである。このため、前二作に見られたような求心力がやや影を潜めていることも否めない。 にもかかわらず、これは異様な本である。分析の部分を除いていくと、残るのは膨大な引用とその補足説明である。そして、奇妙な精彩を放って迫ってくるのはその引用部なのだ。なぜなら、ほぼ全編が天皇の直接描写ないしは天皇に接近した言説だからだ。 渡部直己はこの本で再三にわたり、小説家に「天皇を直接描写せよ」と囁きかける。《描写が要求する長さとは、あまりにもしばしば、対象の全体をもろもろの細部に向けて分断することによって支えられようとするからだ。すなわち、それに限りなく近づくことと、それを恣に切り裂くこと》(第一章)。そして自らその挑発に忠実に、日本近代小説史上の天皇描写をずらりと並べてみせる。この本自体が、天皇を描写したいという欲望に衝き動かされているのだ。著者自身が新たに天皇を描写し始めるまで、あと一歩だったのではないか。 しかも、小山いと子の恋闕小説や深沢七郎『風流夢譚』など、登場する記述ほあまりにも珍妙で可笑しい。これらの描写を見慣れないという事態そのものがまず十分異様である(ただ、武田泰淳『富士』の引用がないのは残念である。自分が「宮様」になったと信じて疑わない一条実見が警官に変装し、本物の「宮様」に精神病院改革を直訴に行き、「怪しい奴が徘徊していますから、気をつけなさい……。ところで、その怪しい奴は、ぼくですがね。そのほくが宮様なんです」(略)「君は警官のように見うけられるが、われわれが警官になることは……」(略)「あなたが宮様でありうるならば、精神病患者でも宮様になりうることを、忘れないで下さい」「うん、うん、そうかね」といった会話を交わすその小説を、『不敬文学論』の志向に忠実にここでももっと引きたい気もするのだが、『不敬文学論』の引用を孫引きしたい衝動を我慢している以上、『富士』の引用も我慢しておく)。 だがこの異様さは、より根源的には第四章で提示される中野重治の問いにかかわる。天皇を描くことは特定の人物を描くことであり、虚構化することが虚偽化することとつながってしまうのではないかという問いである。《〈描写〉の接近=分断性と、〈物語〉の激化の要請との両面において、不可避的に「不敬」なものと化してきた小説は、ここにおいて、〈物語〉のさらに根本的な原理たる虚構性そのものにおいて、またしても天皇なる存在と抵触していることになる》(第四章)のだ。妙な気分になるのは、この問いの瀬戸際にある描写をこれだけ羅列されることで、小説が小説でなくなる臨界を目の前に突きつけられたからだ。この問題を素通りして書かれた小説は、信用するに値しないとさえ言える。 一般的に小説では、モデルを一旦抽象化し、それを再びフィクションとして具象化しているはずであり、モデルと作中人物がダイレクトにつながりはしない。だが唯一、天皇だけにはその作業が通用しない。首相でも実在の事件の犯人でもお父さんでも、ある範囲内での複数性・交換性が確保されているがゆえに虚構が成り立つが、天皇だけはどの時代のどの天皇かとうことが選択肢にあるだけで、必ず固有の人物に結びついてしまい、SFか寓話の体裁でもとらないとその限定は超えられない。代替がきかないから天皇なのだ。しかもその天皇は人間という個人なのか、不特定多数の象徴なのか、あいまいにしか位置づけられていない。まさしくその問題を扱っているはずの『富士』でも、「宮様」という漠然とした言い方をしている。『不敬文学論』によれば、その領域をもっとも深く侵犯したのは『風流夢譚』ということになるのだが(この作品では「夢」を使っている)、侵犯はしても中野の問いを解決できたわけではない。第五章では、小説の形そのものを天皇の相似形に仕立てるという方法で別の方向からのアプローチを見せた大江、中上の闘いが記されるが、私が見るにそれは天皇的というより、天皇制的な形である。強靱な天皇制批判である。だから、天皇をフィクションにおいて描写することとは少し違う。 では、やはり著者の説くように「小説なる欲望じたいの存在が一貫した有罪性において抑圧されて」おり、「連戦連敗」するしかないのか(終章)。だが、この問いの立て方は、すでに著者の挑発に乗っているのである。なぜなら、「小説なる欲望」「描写の欲望」と言った時点で、天皇だけが見え、天皇制は視界から消えるからだ。 先ほどの引用でわかるように、この本で焦点を当てられている「小説なる欲望」とは、「物語の激化の要請」と「描写の噴出」であり、それぞれがはらむ過剰さがむきだしとなり終わることなく自己増殖するときにこそ、小説が〈差別〉や「天皇」を食い破ると説く。これに対し、その終わりなき増殖を回避しょうとする姿勢を著者は退ける。特に、表向きは「欲望」に忠実そうに見えながらその実遠ざかる「節度」ある作品に対しては、「俗情との結託」という大西巨人の言葉を借りて断罪する。このこと自体は正しい。 問題は、これらの「欲望」や「近接の原理」等の法則が、本書では自明のことがらとして語られていることだ。しかも、それが『不敬文学論』の根幹を支えているのだ。もちろん、渡部直己は以前の著作で何度となく小説のこの「欲望」という原理を検討している。そもそも『不敬文学論』の狙いはそこにはないのだから、割愛せざるをえないのは当然である。しかしこの本の目的のひとつが、天皇の存在によって言説空間がいかに歪み、どのような政治的力学が働いたのかを解明することにあるとなると、自らの言説の政治性にも敏感でなくてはならない。そして、これら自明のように扱われた言葉は、やけに無防備に使われているように見えるのである。政治性が歴史的文脈と切り離せない以上、これらの言い方の歴史性も問題とされなくてはならない。 いま私がこの「小説なる欲望のかたち」といった表現を見ると、主体という幻影をいかに消そうかと躍起になっていた時代の傾向を感じる。むろん、現在でもこの表現の意図が有効な局面はいくらでもあるのだが、一方でいまはこれが反動として作用する時代でもあると思うのだ。「小説なる欲望」と言うとき、「欲望」という言葉は書き手という個人の側に置かれるのではなく、小説やテクストやエクリチュールといったモノやコトの側に置かれる。これは時代と場所の違いによって政治的文脈が変われば、危うい倒錯に陥る。いまの日本の言説を鑑みれば、文字やテクストというモノに欲望を溶解させてしまうことは、小説の成り立ちの痕を消して神秘主義や集合的無意識みたいなものを肯定する方向につながりかねない。つまり、書く主体を見えにくくすることによって、書かれたテクストが聖化されるのである。 これは何やら『不敬文学論』が説く、天皇をめぐる言説と似てはいないだろうか。ひょっとしてこの本は図らずも天皇の擬態となろうとしているのではないか。天皇に近づきすぎるあまり、天皇と一体化しようとしていやしないか。極端に言うと、主体をあいまいにする天皇制のおかげで「小説なる欲望」という表現が可能になり、その表現が天皇制の風土を一層強化するという共謀関係を、知らずに築いているかもしれないのだ。 この評論の魅力も意義も危険も、そこにある。私は、天皇が「穴」であることをあからさまにし、近代小説がその穴を見ないようにして成り立ってきた歴史へ異議を申し立てる渡部直己に、深く共感する。その穴の中には「近代」さえも飲み込まれていると思う。だが、あえて天皇にぎりぎりまで近づいてみようという大胆な試みを実践し、第五章では天皇に近寄ることと天皇制と格闘することの違いにまで触れながら、最終的に、あるいは接近の前提条件として「小説なる欲望」にすべてを飲み込ませてしまうことで、著者と天皇との間に挟まっていた媒介は消えていく。歴史の感触をあと一歩のところで取り逃がしてしまう。果たして現在でもこのような「恋闕」は「不敬」たりうるのか。それは相手を食い破る批判たりうるのか。 私は、昭和天皇については制度ではなく人物としても描かれなくてはならないと思う。間違いなく歴史の闇に関わった彼を人物として書かなければ、歴史はいつまでたっても可変な抽象的構造として捉えられるだけだからだ。「死んだ天皇」であるからこそ、なおさら抽象化させてはならない。その限りでは「天皇小説」は必要である。 しかし平成以後の天皇や皇族の人間にかんしては、「直接描く」という戦略だけではどうにもならないのではないか。「人間」でもある以上、柳美里裁判にも見られるような問題が起こりうるし、つまり中野重治の問いは解決されていないわけだし、逆に描けば描くほど「開かれた皇室」の演出に一役買うだけだという警戒感も抱かざるをえない。そして、そのような窮地に書く者を陥らせるのが天皇制であり、批判の対象とするべきは天皇制であると考える。 このようなきわどさまで含んでもいるからこそ、『不敬文学論』を読む意味は増す。このきわどさがどこから来るのかを考えながら読むことで、初めて天皇制批判小説が可能となるはずだからだ。いま日本で小説を書くすべての人間は、『不敬文学論』に挑発されなくてはならない。 |