「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

防衛省ホームページより 生物・化学兵器の項目

2020-02-11 09:29:47 | つぶやきサブロー

2 生物・化学兵器

生物・化学兵器は、比較的安価で製造が容易であるほか、製造に必要な物資・機材・技術の多くが軍民両用であるため偽装が容易である。例えば、海水の淡水化に使用されるろ過器は生物兵器の製造を目的とした細菌の抽出に、金属メッキ工程に使用されるシアン化ナトリウムは化学兵器製造に悪用される可能性がある10。生物・化学兵器は、非対称的な攻撃手段11を求める国家やテロリストなどの非国家主体にとって魅力のある兵器となっている。

生物兵器は、①製造が容易で安価、②暴露から発症までに通常数日間の潜伏期間が存在、③使用されたことの認知が困難、④実際に使用しなくても強い心理的効果を与える、⑤種類及び使用される状況によっては、膨大な死傷者を生じさせるといった特性を有している12

生物兵器については、生命科学の進歩が誤用又は悪用される可能性なども指摘されており、こうした懸念も踏まえ、例えば、米国では09(平成21)年11月、生物兵器の拡散やテロリストによる同兵器の使用に対応するための指針を策定し13、病原菌や毒素の管理を徹底させる措置14をとることとした。

化学兵器については、イラン・イラク戦争中に、イラクが、マスタードやタブン、サリン15などを繰り返し使用したほか、1980年代後半には自国民であるクルド人に対する弾圧の手段として、化学兵器を使用した16。また、さらに毒性の強い神経剤であるVXや、管理が容易なバイナリー弾17などが存在していたとされる18。また、13(平成25)年8月、軍と反政府派が衝突していたシリア・ダマスカス郊外において、サリンが使用された19。シリア政府は化学兵器の使用を否定したが、米露合意を受けて化学兵器禁止条約(CWC:Chemical Weapons Convention)に加入した。その後、化学兵器禁止機関(OPCW:Organization for the Prohibition of Chemical Weapons)の決定20及び安保理決議21に従い、化学剤の国外搬出など国際的な努力が行われ、15(平成27)年6月、米海軍輸送船「ケープ・レイ」で実施されていたサリンやVXなどの廃棄作業が完了した22。また、シリア内戦における化学兵器の使用者を特定するため、15(平成27)年8月、国連安保理は国連とOPCWの合同調査メカニズムを設立する決議が採択され、同調査メカニズムによる捜査が進められた。16(平成28)年11月には、同調査メカニズムの活動任期が、1年間延長され、化学兵器の使用責任の特定による化学兵器の再使用阻止の努力が続けられた。同調査メカニズムは、シリアにおける6件の化学兵器使用事案の責任者を特定し、そのうち4件がシリア政府軍によるもの、残りの2件がISIL23によるものとされている24。特に、17(平成29)年10月の報告書で、同年4月にシリアのハーン・シェイフーンにおいて再びサリンが使用された件について、シリア政府に責任があると結論づけた。同調査メカニズムについては、17(平成29)年11月、活動任期更新の安保理決議が否決され活動を終了した。

一方、その後もシリアにおける化学兵器の使用事案は継続しており、18(平成30)年4月には、シリアの東グータ地区で化学兵器が使用された疑いが指摘されていた25。同月、米英仏3か国はアサド政権が化学兵器を使用したと判断し、シリアの化学兵器関連施設に対して攻撃を行った26

CWCに加盟せず、現在もこうした化学兵器を保有しているとされる国家として、例えば、北朝鮮がある。また、1995(平成7)年のわが国における地下鉄サリン事件は、米国における01(平成13)年の炭疽菌入り郵便物事案や04(平成16)年2月のリシン入り郵便物事案とともに、テロリストによる大量破壊兵器の使用の脅威が現実のものであり、都市における大量破壊兵器によるテロが深刻な影響をもたらすことを示した。さらに、17(平成29)年2月に発生した金正男氏の殺害事件において、マレーシア警察は、遺体からCWCにおいて生産・使用などが禁止されたVXが検出されたと発表した。18(平成30)年3月に起きた英国での元ロシア情報機関員襲撃事件をめぐっては、ロシアが開発した軍用の化学兵器「ノビチョク」が使用されたとして、英国はロシアが関わった可能性が極めて高いなどと非難したほか、対抗措置として欧米諸国がロシア外交官を追放した。

10 これらの生物・化学兵器の開発・製造に使用しうる関連汎用品・技術は、国際的な輸出管理を行う枠組み(オーストラリア・グループ)の合意に基づき、わが国を含む加盟国の国内法令によって輸出が管理されている。

11 相手の弱点をつくための攻撃手段であって、在来型の手段以外のもの。大量破壊兵器、弾道ミサイル、テロ、サイバー攻撃など

12 防衛庁(当時)「生物兵器対処に係る基本的考え方」(02(平成14)年1月)

13 09(平成21)年11月、生物兵器の拡散やテロリストによる同兵器の使用に対応するための指針である「生物学上の脅威に対する国家戦略」が発表された。オバマ米大統領(当時)は10(平成22)年1月の一般教書演説で、生物テロや感染症に迅速かつ効果的に対応するための新たなイニシアティブを立ち上げていると述べた。

14 米大統領令(10(平成22)年7月2日)

15 マスタードは、遅効性のびらん剤。タブン、サリンは、即効性の神経剤

16 特に1988(昭和63)年にクルド人の村に対して行われた化学兵器による攻撃では、一度に数千人の死者が出たとされる。

17 化学剤の原料となる比較的有害ではない2種類の化学物質を別々に充填した兵器で、発射の衝撃などでこれらが弾頭内で混合され、化学反応が起き、化学剤が合成されるように考案されたもの。当初から化学剤を充填したものに比較して貯蔵、取扱が容易である。

18 09(平成21)年2月、イラクは化学兵器禁止条約(CWC:Chemical Weapons Convention)の締約国となった。

19 「国連シリア化学兵器使用疑惑調査団最終報告書」(13(平成25)年12月12日)

20 OPCW執行理事会特別会合(第33回及び34回)

21 国連安保理決議第2118号

22 OPCWによるとサリンやVXガスなど毒性が極めて強い「カテゴリーI」に分類された化学物質600トンが廃棄されたと報告されている(14(平成26)年8月19日、OPCW事務局長声明)。16(平成28年)1月、シリア政府が申告した全ての化学兵器の廃棄が完了したとOPCWは報告している。

23 ISILについては3章1節2参照

24 国連とOPCWの共同調査メカニズム(JIM)は報告書において、シリア政府軍がティルメナス(14(平成26)年4月)、サルミーン(15(平成27)年3月)、クミーナース(15(平成27)年3月)において塩素ガス、ハーン・シュイフーン(17(平成29年)4月)においてサリンを使用したことを断定している。また、ISILが、マーレア(15(平成27)年8月)、ウンム・ホーシュ(16(平成28)年9月)においてマスタードガスを使用したと断定している。16(平成28)年2月の米国家情報長官「世界脅威評価」は、本事案へのISILの関与を指摘するとともに、シリアにおいて非国家主体が化学物質を戦闘に使用していると評価した。

25 本件につき、18(平成30)年4月10日、米国が提案した、化学兵器使用者を特定する国連独立調査メカニズムを設置する決議案が国連安保理で採決されたが、ロシアの拒否権行使により否決された。

26 米英仏3か国による軍事行動を含むシリア情勢全般については、3章1節3参照

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漱石と石鼓文

2020-01-13 14:26:19 | つぶやきサブロー

大正3年(1914)9月20日、47歳の漱石は岩波書店から『心』の単行本を上梓した。

東西の朝日新聞紙上に4月20日から110 回にわたって連載した小説を1冊にまとめたものであった。

本の表紙や扉などのデザインも、漱石が自ら手がけた。そのことは、単行本の序文にも書かれていた。

 

《装幀の事は今迄専門家にばかり依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣(や)って見る気になって、箱、表紙、見返し、扉及び奥附の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉(ことごと)く自分で考案して自分で描いた》

 

とりわけ表紙はユニークだった。

中国・周時代の石鼓文の拓本を地紋にして、そこに和装本の題箋のように康熙辞典の「心」(『荀子』)の項を貼り付けたようなデザインとしたのである。

石鼓文の拓本は、熊本五高時代の教え子で外交官として中国へ赴任している橋口貢が送ってくれたもので、漱石は貢にこんな礼状を送っている。

 

《御恵贈の拓本は頗る珍しく拝見しました。あれは古いのではないでしょうが面白い字で愉快です》(大正3年8月9日付)

 

 

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漱石にとって、良寛の書は別格中の別格

2020-01-13 14:13:15 | つぶやきサブロー

夏目漱石は、良寛の書を愛したことで知られる。

大正5年(1916)10月28日も、漱石は良寛の手蹟を集めた切張り帖を嬉々とした様子で眺めていた。

新潟県の直江津から上京した木浦正という蒐集家が持参したものであった。

漱石は半年ほど前、この人物から、良寛の書(和歌)を代価15円で譲ってもらったことがあった。

このとき、仲介役として医師の森成麟造が入ってくれていた。

森成は長与胃腸病院で漱石の主治医をつとめ、修善寺の大患の折も漱石に付き添った。

その後、郷里の新潟県高田市に帰り森成胃腸病院を開設していたのである。

森成はそれ以前、自身の手もとにあった良寛の七言絶句の書も、漱石に譲り渡していた。

新潟柏崎の旧家から出たものを、森成が入手していたらしい。

 

漱石の良寛への愛着は、森成宛てに綴った次のような手紙にもよく現れている。

 

《良寛は世間にても珍重致し候が小生のはただ書家ならという意味にてはなく寧(むし)ろ良寛ならではという執心故(ゆえ)、菘翁(すうおう)だの山陽だのを珍重する意味で良寛を壁間に挂(か)けて置くものを見ると有(も)つまじき人が良寛を有っているような気がして少々不愉快になる位に候》(大正5年3月16日付)

漱石にとって、良寛の書は別格中の別格。一般に書家として人気が高い菘翁(貫名海屋)や山陽(頼山陽)などと一緒にしてもらっては困る。そういう人は、良寛の書を持つべきではないとまで言っている。

 

 

漱石はじっくりと切張り帖を堪能したあと、木浦に乞われるままに、中村不折に宛てた紹介状をしたためた。

 

木浦は、中村不折が所有していると聞く古法帖などを、この機会にぜひとも見せてもらっていきたいと考えていた。

不折は『吾輩は猫である』の挿絵などで有名だが、書道にも関心が深く、自ら書をよくし、さまざまな資料も蒐集していた。

東京・根岸のその旧家跡が、現在、台東区立書道博物館となっている所以である。

木浦を送り出した漱石先生、きっと自身の愛蔵する二幅の書をも取り出し、なおしばらく、良寛の面影にひたったことだろう。

 

 

 

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津田青楓と良寛

2020-01-13 14:07:13 | つぶやきサブロー

青楓は、作家の夏目漱石と親しく交流していた。

ある時、漱石に誘われ出かけた「良寛展」で、

自らも「ああゆう風な字をかいてみたい」と、手習いを始めたことから、

画家・津田青楓の新たな「書の世界」が始まった。

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河上肇の全遺墨(藤原書店刊)

2020-01-13 13:56:46 | つぶやきサブロー

●近代日本を代表する詩人にして経済学者、河上肇の全遺墨を初集成!(いっかい・ともよし/神戸大学名誉教授)

「琴棋書画」
 「琴棋書画」という言葉がある。
 過去の中国では、7絃の琴を弾じ、囲碁を楽しみ、書を書き、画を描くという4つの事は、文人と呼ばれる人々の必須の教養であり、また資格でもあった。とりわけ書をよくすることは、学者、文人の風格を表わすものとして、尊重された。
 唐以前の文人の書は、あまり残っておらず、たとえば李白、杜甫の書を、現代は見ることができない。しかし宋以後の書、たとえば蘇東坡や黄山谷、陸放翁などの、文字通り墨痕淋漓たる書を、われわれは直接鑑賞することができる。
 学者、文人が書をよくするという中国の伝統は、わが国にも受けつがれた。江戸時代の知識人たちの必須の要件は、漢詩漢文が自由に読め、また自ら作れることだった。しかしそれだけでは、文人として尊重されない。「琴棋」は別として、「書画」をよくすることが、江戸の知識人たちのステータス・シンボルであった。その伝統は、時代の流れとともに徐々に稀薄になるものの、明治期の知識人にも受けつがれた。
 たとえば、江戸末期、慶応3年に生まれた夏目漱石(1867-1916)は、英文学者、作家として多くの論文や小説を書き残したが、同時にわれわれは彼の少なからぬ書画を、鑑賞することができる。

河上肇と書画
 漱石よりひと回り年下の河上肇(1879-1946)は、わが国にマルクス主義を紹介した経済学者として知られるが、彼もまた「文人」と呼ばれるのにふさわしい人物であった。
 河上肇は少年時代、友人たちと語らって手書きの同人雑誌を作り、自ら挿絵を描き、文字を墨書して、すでに書画の才の萌芽を見せていた。
 山口県の高校から東京帝国大学に進学して、経済学を専攻した彼は、やがて京都帝国大学に教職を得る。きわめて真摯で精力的な河上肇は、積み上げると自らの身長を越すと言われる多くの著書を刊行し、大学教授として多忙な生活を送っていた。そのため、書画の才を発揮する機会には、ほとんど恵まれなかった。ただ、ごく短い期間(大正末期)、風流を好む大学教授たちが、学部の枠をこえて集まり、画家津田青楓を囲んで、それぞれ書を書き画を描いて楽しむ「翰墨会」を、毎月開いたことがあった。
 それは当時の河上肇にとって、忙中閑を味わうオアシスであった。しかしそれも長くはつづかず、彼はやがて書斎から出て、社会活動に踏み込むようになり、生活は一層多忙となった。
 折りにふれて労働組合などに頼まれ、マルクスやジョルジュ・サンドの言葉を揮毫することはあったが、書画を楽しむ余裕などない、厳しい毎日がつづいた。

獄中期以降
 河上肇がようやく書画に親しむ機会を得たのは、皮肉にも彼が官憲に捕えられて自由を奪われ、獄中の人となった昭和8年(54歳)以後のことであった。
 彼は獄中で中国の詩人たちの多くの作品を読み、気に入った詩句を選んで、短冊や半截に墨書して楽しんだ。また自ら和語の詩や短歌を作り、これも墨書して残している。
 足かけ五年の刑期を終えて出獄したあとも、学者としての研究生活を禁ぜられ、やがて自らも漢詩を作るようになる。そしてそれらの作品を、色紙や条幅に書いて、知人から頼まれれば、これを頒った。
 本書はそれら河上肇の墨蹟を蒐めて、これに解説を加えたものである。
 私たちは、以前から河上肇の詩と書に傾倒し、03年、雑誌『環』(藤原書店刊)に、「河上肇の『詩』と『書』」と題して、彼の漢詩作品や和語の詩とその墨蹟を紹介する連載をはじめた。連載は6回で一応終えたが、読者の要望にこたえて、さらに多くの墨蹟を紹介すべく、本書の刊行を企画した。
 本書によって、河上肇の墨蹟をゆっくりと鑑賞していただきたい。

 

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河上肇「御萩と七種粥」より

2020-01-13 13:43:33 | つぶやきサブロー

人間は人情を食べる動物である。少くとも私は、人から饗応きょうおうを受ける場合、食物と一緒に相手方の感情を味うことを免れ得ない人間である。で、相手が自分の住んでいる環境の中で、あたう限りの才覚を働かせて献げて呉れた物であるなら、たといそれが舌にはまずく感覚されようとも、私の魂はそれを有り難く頂く。それと逆に、たといどんな結構な御馳走であろうとも、犬にでも遣るような気持で出された物は、食べても実際うまくない。折角御馳走を頂きながら、私は少しも感謝の情を起さず、むしろ反感を残す。場合によっては、その反感がいつまでも消えず、時々思い出しては反芻はんすうするうちに、次第に苦味を増しさえすることがある。
 私のこうした傾向は人並より強いらしく思われる。京都にいる娘から羊羹ようかんなど送って呉れると、同じ店の同じ種類の製品ても、友人に貰った物より娘の呉れた物の方を、私は遥にうまく食べる。格段に味が違うので、私は客観的に品質が違うのだと主張することがあるが、妻などは笑って相手にしないから、これは私の味覚が感情によって左右されるのかも知れない。(この一文を書いて四ヶ月ばかり経ってから、私はふと高青邱の「呉中の新旧、遠く新酒を寄す」と題する詩に、「双壷遠く寄せて碧香新たに、酒内情多くして人を酔はしめ易し。上国に千日の醸なからむや、独り憐む此は是れ故郷の春。」というのがあるのに邂逅かいこうして、古人すでに早く我が情を賦せりの感を深くした。)
 とにかく私はそういう人間だから、もう半世紀近くも昔になる私の少年時代に食べたおはぎの味を、未だに忘れることが出来ずに居り、その記憶は、叔母の姿をいつまでも懐しいものに思わせてくれ、今も私を駆って、この思い出を書かしめて居るのである。

 感謝する姿はしおらしくて上品だが、不平がましい面をさらすのは醜くて卑しい。しかし此の思い出も亦自画像のためのスケッチの一つだと考えている私は、ついでに醜い側をも書き添えて置かねばなるまい。――書こうと思うことは、自分の事ばかりでなく、他人の事にも関係するので、心の中で思っているのはまだしも、物にまで書き残すのはどんなものかと、私はいくたびもためらったが、やはり書いて見ようという気になって、ここに筆を続ける。
 大正十二年九月、関東大震災の後、津田青楓氏は、三人のお子さんを東京に残し、一人の若い女を連れて、京都に移られた。当時私は京都帝大の教授をして居たが、或日思い掛けなく同氏の来訪を受け、その時から私と同氏との交際が始った。(昭和八年、私が検挙された頃、青楓氏は何回か私との関係を雑誌などに書かれた。昭和十二年、私が出獄してからも、更に二回ばかり物を書かれた。で、初対面の時のことも、その何れかでくわしく書かれている筈である。)その後私たちは、毎月一回、青楓氏の仮寓かぐうに集って翰墨かんぼくの遊びをするようになった。その常連は、私の外には、経済学部の河田博士と文学部の狩野博士で、時には法学部の佐々木博士、竹田博士、文学部の和辻博士、沢村専太郎などいう人が加わったこともある。いつも朝から集って、夕暮時になるまで遊んだもので、会費は五円ずつ持ち寄り、昼食は然るべき料理屋から取り寄せて貰った。当時はすでに故人となっていた有島武郎氏が京都ではいつも定宿にしていたあかまんやという素人風の宿屋があったが、そこの女主人がいつも席上の周旋に遣って来て、墨をったり、食事の世話を手伝ったりしていた。(この婦人は吾々われわれのかいたものを役得に持って帰ることを楽みにしていた。いつも丸髷まるまげを結っていた此の女は、美しくもなくいきでもなかったが、何彼と吾々の座興を助けた。近頃聞くところによれば、何かの事情で青楓氏はこの女と絶交されたそうだが、今はもう亡くなって居るとのことである。)
 私はこの翰墨会かんぼくかいで初めて画箋紙がせんしに日本画を描くことを学んだ。半截を赤毛氈あかもうせんの上にひろげて、青楓氏が梅の老木か何かを描き、そこへ私に竹を添えろと云われた時、私はひどく躊躇ちゅうちょしたものだが、幼稚園の子供のような気持になって、恐る恐る筆を執ったのが皮切りで、その後次第に大胆になり、青楓氏と河田博士と私とで山水の合作を描き、狩野博士がそれへ賛を入れたりなどされたこともある。河田博士は絵専門、狩野博士は書専門、私は絵と書の双方をやった。集っていた人の組合せが好かったせいか、手持無沙汰で退屈するような人は一人もなく、誰かが大字でも書くとすずりの墨はすぐ無くなるので、あかまんやの女将までが、墨磨りだけにでも一人前の役割をっていた。当時私は経済学の研究に夢中になっていた時代なので、月に一回のこうした清遊は、実に沙漠の中のオアシスであり、忙中の閑日月であって、この上もなく楽しいものに思えた。それは私が一生のうちに見た美しい夢の一つである。
 後年囹圄れいごの身となるに及び、私は獄窓の下で屡々しばしばこの昔日の清夢を想い起した。幸に生命があって再び家に帰ることがあったならば、今度こそは一切の世縁をなげうたねばならぬ身の上であるから、ゆったりした気持で時折青楓氏の書房を訪い、たとい昔のような集りは出来なくとも、青楓氏と二人で、絵を描き字を書いて半日を過すことが出来たならば、どんなに嬉しいことであろう。出獄の日がやがて近づくにつれ、私はしきりにこうした空想にふけり、とうとうそんな意味のことを書いて、一度は獄中から青楓氏に手紙まで出したのであった。(その手紙は青楓氏により表装されているのを、後に見せて貰ったことがある。)
 昭和十二年の六月、私は刑期が満ちて自分の家庭へ帰ることが出来た。僅か二十二円の家賃で借りたという小さな借家は、私の不在中に結婚した芳子の家と並んで、東京市の――数年前までは市外になっていた――西の郊外、杉並区天沼という所にあった。偶然にもそれは青楓氏の邸宅と、歩いて十数分の近距離にあった。何年か前に京都を引払って東京に移り、一時はプロレタリア芸術を標榜ひょうぼうして洋画塾を開いていた青楓氏は、その頃もはや日本画専門となられ、以前からのアトリエも売ってしまい、新たに日本式の家屋を買い取って、住んで居られた。それは宏荘こうそうとまでは行かずとも、相当の構えの家であり、もちろん私の借家とは雲泥の差があった。
 出獄後半年たつと、昭和十三年になり、私は久振りに自分の家庭で新春を迎える喜びを有ち得たが、丁度その時、正月七日の朝のことである、青楓氏が自分のうちで書初めをしないかと誘いに来られた。私はかねてからの獄中での空想がようやく実現されるのを喜んで、すぐに附いて行った。
 二階の二間つづきの座敷が青楓氏の画室になっていた。二人はそこで絵を描いたり字を書いたりして見た。しかしそれは、私の予期に反し、獄中で空想していたほど楽しいものではなかった。何と云うことなしに索然たるものがあって、二人とも興に乗ることが出来なかった。時は過ぎ人は老いた、あの時の夢はやはり二度とは見られませんね、私は思わずそんなことを言って見たりした。
 昼食時になると、私たちは階下の食堂に下りた。この室は最近に青楓氏が自分の好みで建て増しされたもりで、別号を雑炊子と称する同氏の絵に、どこか似通ったものが感じられた。同氏は油絵に日本絵具の金粉などを混用されたこともあり、日本画専門になってからも筆は総て油絵用のものを用いて居られるが、この室も、純白の壁や腰板などは洋風趣味であり、屋根裏へじかに板張りをした天井や、竹の格子子こうしこの附いた丸窓などは、茶室か書院かを想わす日本趣味であった。炬燵こたつ蒲団ふとんへ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火あんかがあった。障子の硝子ガラス越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
 炬燵のやぐらを卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
 私は出獄匆々そうそうにも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応きょうおうを受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時にふすまをしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度もすこぶる之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣ふんまんを感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝ゆううつを味った。
 私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気のうちに在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかくはしを取って、供された七種粥ななくさがゆを食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
 人は落ち目になるとひがみ根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条しょうじょうたる落魄らくはく一老爺いちろうや、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰ふぎょう天地にずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる※(「糸+褞のつくり」、第3水準1-90-18)おんぼう狐貉こかくを衣る者と、ともに立って恥じざる」位の自負心は、ひそかはらの底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事さじが、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
 青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話してまとめたもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事さじを、それほどまで恩に感じていられるのかと、すこぶる青楓氏の人柄に感心するようになっていた。私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとってた甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、ようやく疑惑をち始めたもののようである。
 その後の十一月の末、私はまた河田博士と共に青楓氏の画房を訪うた。今度上京するのを機会に、昔のように翰墨会かんぼくかいを今一度やって見たいというのが博士の希望であり、私も喜んで之に賛成したのであった。吾々われわれは青楓氏の画房で絵を描いたり字を書いたりして一日遊び、昼食は青楓氏の宅の近所にあるという精進料理の桃山亭で済まし、その費用は河田博士が弁ぜられる。そういうことに、ねて打合せがしてあった。
 その日私は当日の清興を空想しながら、

十余年前翰墨間
  十余年前翰墨の間、
洛東相会送春還
  洛東相会して春の還るを送る。
今日復逢都府北
  今日復た逢ふ都府の北、
画楼秋影似東山
  画楼の秋影東山に似たり。

という詩を用意して行った。画楼というのは元来彩色を施した楼閣の意味だろうが、ここでは青楓氏の画室を指したつもりであり、東山とうざんというのは京のひがしやまを指したのである。
 漢詩の真似事を始めて間もない頃のこととて、詩は甚だ幼稚だが、実際のところ私はまだそんな期待を抱いていたのである。しかし後に書くように、画楼の秋影は私のため残念ながらその昔の東山に似ることを得なかった。
 雑談を済まして吾々が筆を執り始めると、間もなく昼食時になった。ところがその時青楓氏から、桃山亭の方は夕刻そこで食事して別れることにし、昼は簡単な食事をうちで済ませてくれ、と申出があった。で、私は思い掛けなく再びここの家庭で饗応きょうおうにあずかる機会を有ったが、今度はその御馳走が余りにも立派なので、その立派さに比例する不快を感ぜざるを得なかった。私は正月の七種粥ななくさがゆを思い出し、それと著しい対照を呈している今日の饗応ぶりを見て、簡素な待遇が必ずしもここの家風でないことを知った。そして私は、お前一人ならどうでもいいのだが、今日は河田博士に御馳走がしたいので、という意味の無言の挨拶を、その場の雰囲気や夫人の態度から、耳に聞えるほどに感じた。結構な御馳走が次から次へ運ばれるにつれて、私の心は益々ますます不快になった。人間は人情を食べる動物である。折角御馳走になりながら、私の舌にとこしえに苦味を残した。それはその後反芻はんすうされる毎に、次第に苦味を増すかに覚える。――こういうのが恐らく落目になった老人のひがみ根性というものであろう、しかし私はそれをどうすることも出来ない。
 こうした類の経験が度重なるにつれ、それは次第に私をこの画家から遠ざけた。
 翰墨会の夢は再び返らず、獄中では、これからの晩年を絵でも描いて暮らそうかとさえ思ったことのある私も、今では、絵筆を手にする機会など殆ど無くなってしまった。
 以上の思い出を書いて郷里の舎弟に送り、母に読んで上げて貰ったところ、母の話によれば、叔母が稲田家へ嫁入りしたのは、明治二十三年ではなく、その前年の二十二年だと云うことである。私は父の手記にったのだが、母の記憶によれば、当時母は末の弟を妊娠中だったとのことで、その記憶に間違いのあろう筈なく、これは父の誤記と思われる。当時末の弟は人に預けられて留守居したのだろう、などと私の書いたのも間違いで、弟はまだ生まれて居なかったのである。なお母の話によれば、舟を下りてから吾々は中宿なかやどの稲本家というに立ち寄り、叔母はそこで衣裳を改めたのだ、と云うことである。私は、私たちの家を出てから河原畑を通り抜けて舟に乗るまで、叔母はどんな服装をして居たのだろうか、紋服を着であの竹藪たけやぶの間を歩いたものだろうかなどと、当時の様子を想像しかねて居たが、母の話のおかげでこうした疑問がすっかり解けた。結婚披露の宴が済んでから、私たちは人力車に乗って帰ったが、車夫がふるまい酒に酔っぱらって、喧嘩けんかなど始めたため、吾々はみな途中から俥を下りて、歩いて帰った。これも母の思い出話である。
 ついでに書き加えておくが、私が以上の本文の清書をえたのは、昭和十六年十二月十日のことであるが、私はそれから十日目の十二月二十日、満十二年ぶりに、東海道線の汽車に乗って、居を東京から京都に移した。その際、東京を引上げるについては、私は名残りを措しんでくれる一二の友人から思い掛けなき厚意を受け、忘れがたき思い出の種子を残すことが出来たが、ただ一つ心に寂しく思ったことは、世間からは無二の親交を続けて居るように思われている青楓氏と、まことにあっけない簡単な別れ方をしたことである。私は早くから同氏に転居の意思あることを話しておいた。そして、或日私は、北京土産に貰った玉版箋を携えて、暇乞いとまごいかたがた同氏を訪問した。これまで私は何遍か同氏を訪問しているが、不思議なほどいつも不在であり、この時も亦た不在であった。ところがその後夫人から手紙が来て、立つ時が決まったら知らしてくれ、送別の宴を張ると云えばよろしいが、それは出来ないので、お餞別せんべつを上げるつもりだから、とのことであった。そして今居る女中は京都へ連れて行くつもりなのか、もしそうでなければ、こちらへ譲って呉れまいか、などと書いてあった。私は、立つなら物をやるから時日を知らせ、などという手紙の書き方を、不快に感じないわけに行かなかったが、しかし愈々いよいよ立とうという時にその事を知らせた。すると、丁度運送屋が来ていて混雑している最中に、青楓氏が玄関先きまで来られて、家内が食事を上げたいと云うから今晩二人で来てくれないか、との話があったが、取込んでいる最中そんなことは到底不可能だから断ると、それではと云うことで、玄関先きで別れてしまった。私は到底再び東京などへ遣って来られる人間ではなし、これで最早や一生の別れになるかも知れないと思ったが、同氏との多年にわたる交友の最後は、遂に斯様かような切れ目を見せたのてある。餞別をやるとのことであったが、――そして紙一枚でも好意のこもった贈物なら人並み以上に喜ぶ今の私であるけれども、――とうとう約束の餞別も受けずに済んだ。こんなことまで書き残しておくと、後で見る人はさもしくも思うであろうが、私は今「七種粥」の追記として、以上のことを書いておかねば気が済まないのである。

(「河上肇著作集」第9巻、昭和39年、筑摩書房刊。歴史的仮名遣い。)
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辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるものかな(河上肇)

2020-01-13 13:30:51 | つぶやきサブロー

今日のことば】
「辿りつき振り返り見れば山河を越えては越えて来つるものかな」
--河上肇

京都市左京区鹿ケ谷の法然院には『貧乏物語』の著作で有名な経済学者・河上肇のがもある。

門人たちが建てたというその墓碑に記されているのが、本人の手になる掲出の歌である。

河上肇は明治12年(1879)山口県岩国の生まれ。東京帝国大学在学中、足尾銅山の鉱毒事件に関する救済演説会を聞いて、その場でただちに着衣すべてを寄付し新聞記事にもとりあげられた。基底には、聖書マタイ伝の一節への感動があったらしい。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というその教えから、絶対的利他主義へと至り着く萌芽がすでに見られる。

『貧乏物語』は、はじめ『貧乏物語断片』の題名で大阪朝日新聞に連載(大正5年)。

翌年、京都の弘文堂書房から単行本が刊行された。

先進諸国における貧困の実態と原因を解明し、貧乏を根治するには金持ちによる奢侈品消費の自制、富裕層と貧困層との格差是正が必要だと訴え、好評をもって迎えられた。

大正8年(1919)に創刊の個人雑誌『社会問題研究』も、社会問題に関心を持つ多くの若者に影響を与えた。

その後、さらに社会主義経済の実践を求道的に志した河上は、京大教授を辞任。共産党に入党して地下運動にかかわり、検挙され長い獄中生活も味わった。

出所後は、閉戸閑人と号して『自叙伝』の執筆に専心する。昭和21年(1946)1月、終戦による新時代の到来を喜びながら、栄養失調症によって逝去した。

66年の生涯は、まさに墓碑に刻まれた通りであったのだろう。

 

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もう死んだも同然 だろうか?

2019-10-31 14:42:09 | 一場の春夢――伊藤ふ...

やるべきことは全てやったと思っていたが、まだ今村についての仕事が残っていた。

どうにかしないとな。

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井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM" 1-2

2018-05-04 01:05:53 | 多喜二のあゆみー東京在

1.井上ひさし「一週間」が描くもの

 

 井上ひさし「一週間」の主人公小松は、東北の農村出身で、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業エリートコースをあゆむものの、『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党機関紙『赤旗(せっき)』配布活動に関係。スパイMが党組織を潰滅させた後に入獄・転向する。そうした若者にわずかに開かれていた新天地中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その短かからぬ日々を過ごしたものの、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなる。
 その一方でかれには、奇怪な任務をやりとげて満洲に逃れたとされる「M」の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やす。そしてシベリア・ハバロフスクの日本新聞社に配置されたことで、満州皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ「M」らしき人物とつきとめる、そしてその「M」と対決する一場ともなっている。

 主人公を一般の兵士ではなく、戦前日本共産党の地下活動に従事しスパイ「M」と行動したことがあることで逮捕され、のちに転向した共産党員と設定。修吉を、満州→シベリア抑留地においても、スパイMの追跡者と位置づけて、執念に満ちた追跡行動を具体的に描いている。

 同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結したものを、没後一冊にまとめたもので、大江健三郎は [井上ひさし『一週間』刊行記念] 小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(2010年7月号)で、「私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。

 同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上がそこに持ち込んだ大きな仕掛けが、修吉を、日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞社で働かせた過程である。

 捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨が、ハーグ陸戦法規の俘虜条項に赤軍も日本軍も無知であったことによること、収容所でもそのまま踏襲されている旧軍幹部の秩序がそれを拡大させていると気付かさせます。さらに小松が日捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属させることで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実をレーニン自身が友人に書き送った手紙を手に入れさせます。小松修吉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの争闘させている。

 

2.共産党の活動資金とは

一九二九年(昭和四)年八月ごろから党技術部金策係責任者・曽木克彦の手により、蔵原惟人を通じ、ナップ(作家同盟)内に資金網がひろげられ、戦旗社、戦旗社読者会からも昭和五年一月頃から資金の提供がはかられた。この資金網の一端に多喜二はいたのである。この資金網が摘発され、多喜二は罪に問われた。

「プロレタリア文化運動に就いて」(同前)には

――「昭和六(1931)年頃は、手塚英孝に於いて作家同盟員より約百円位集金したにとどまったが、同年夏には資金集金の責任者として西沢隆二が選ばれたが、同年十一月頃より、党中央委員会特別資金局員 伊達こと近藤勤が文化団体の責任者となり、プロットは 中村栄治こと今村重雄、作家同盟は小林多喜二が責任者となり資金の獲得に努めた」との情報がある。 多喜二の「我々の芸術は……」(色紙)と時を同じくしての、多喜二の資金集めの情報がピッタリ重なる。多喜二入党直後の文化分野党員の「党生活」は、資金活動中心だったことがうかがえる。

こうした、自主的な資金活動の他方、一九三一年三月、党中央委員・紺野与次郎が上海のコミンテルン極東ビューローに運びモスクワに届けた報告書が残されている。

当時の党員東京四四名等々の詳細な党勢報告と、モスクワのコミンテルン本部への中央委員手当一人百円総計月二千円の活動資金請求などが、率直に述べられていた。それで、スパイM=松村が実質的に動かしていた中央委員会の活動は詳細にわかる。

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井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM" 序

2018-05-04 00:59:50 | 多喜二のあゆみー東京在

井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM"

一、井上ひさし「一週間」が描くもの

二、共産党の資金活動

三、第五回プロフィンテルン大会がもたらしたもの

四、31テーゼ草案と共産党大衆化

五、スパイ「M」-松村

六、もうひとりの スパイ「M」 -三船

七、「赤旗」事件

八、特高の「M」-毛利

九、多喜二「地区の人々」の意図

十、「日本新聞」と「赤旗」

 

 井上ひさしの晩年の仕事に、「組曲虐殺」と「一週間」がある。

「組曲虐殺」は、プロレタリア作家・小林多喜二の生涯を劇化したものだ。そして「一週間」は、井上ひさしの父・小松修吉を主人公にしたものだった。

私にはこの二作はコインの表裏のような関係にある作に思える。そして、この二作をつなぐものは“二人のスパイM”。

 

一人は、松村昇(本名飯塚)、一人は三船留吉--。

            ◇

「組曲虐殺」では、満州事変以後の反戦活動のなかで、治安維持法で非合法とされ、地下活動に入った作家・小林多喜二の晩年を主にとりあげている。

 多喜二が地下活動に入る動機となったのは、一九三二年春のプロレタリア文化運動への大弾圧だった。プロレタリア作家同盟書記長として運動を指導していた。1931年秋に入党していた多喜二は、地下から反戦活動を指導していた日本共産党の文化運動の指導だけではなく、宣伝・扇動部を担い、活版印刷で大衆的普及をひろげていた『赤旗』文化面の編集を担当し、さらに反帝同盟執行委員として反戦統一戦線運動に挺身し極東反戦大会の成功のために奔走した。

 地下活動に入った多喜二は非公然の潜伏活動のなかで、作家・評論家としても果敢に筆をとり『改造』『中央公論』誌なでに「転形期の人々」「党生活者」「沼尻村」「地区の人々」、「赤旗」紙面での短編連作を遺している。

 

 一方の「スパイM」とは、この日本共産党に潜入した特高のスパイであり、あろうことか共産党の組織部、家屋資金局の責任者となり、事実上、委員長に次ぐナンバー2だったといっていい。 スパイ「M」のその正体と罪状が明らかになるのは、戦後になってからだった。


松本清張 『昭和史発掘』第十三話 「スパイ“M”の謀略」

 

・小林峻一・鈴木隆一著 『昭和史最大のスパイ・M-日本共産党を壊滅させた男』 (ワック、2006)

・1976(昭和51).10月5日から10月8日、共産党機関紙「赤旗」紙上に、「スパイMこと飯塚盈延(みつのぶ)とその末路」が発表され、スパイMの全体像が簡略ながらも明らかにされた。

立花隆 『日本共産党の研究』(上下巻、講談社、1978

 

 

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多喜二絶筆小説ともいえる「地区の人々」

2018-04-29 14:51:04 | 多喜二のあゆみー東京在

多喜二絶筆小説ともいえる「地区の人々」は、前年の「党生活者」と同じく作者自身のたたかいを踏まえた小説世界である。かなりのコンテンツが作者と作者周辺の人々の体験や情報として織り込まれている。ただし、当時は満州事変から「満州国建国」以後、急速に中国への侵略を拡大する日本ファシズムの確立期であり、多喜二の入党した日本共産党は創立時から合法的活動を禁じられる存在であり、その言論をこそ、天皇制政府は恐れ、文化分野の活動家に徹底した弾圧を下していたさなかの執筆だった。
特高警察は10月の党中央部指導者の集団検挙、拷問、虐殺のなかで壊滅に追い込んだはずだった。その弾圧にもかかわらず、共産党員作家小林多喜二が堂々と、ブルジョアジャーナルである『改造』誌に発表したものだった。特高の激怒も想像できようなものだ。その党中央と「地区」との連絡のさまを生き生きと描き、不死鳥たる共産党とその反貧困・反戦活動家たちとの交歓を描いた作である。
もちろん、当時の状況から、作者は奴隷の言葉を使わなくてはならなかったし、編集者は伏字、削除を余儀なくされたのではあるが、そのたたかいの「火」は確実に継承されたのだった。

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今井正監督映画「小林多喜二」DVD7月発売

2018-04-01 23:52:57 | 多喜二関係映画・演劇・書籍・DVD情報
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1927年6月 日本労働組合北海道地方評議会一覧

2018-02-24 08:36:46 | 多喜二のあゆみ―作家・小樽在

1927年6月 日本労働組合北海道地方評議会一覧

  執行委員長   境 一雄          2.176名

  教育出版部長  近藤栄作

  財政部長    鈴木源重

  争議部長    武内 清

  組織部長    渡辺利右衛門

  其ノ他執行委員 正木 清 石井三郎 富樫三治

  ┌───────────┬─────┬─────┬──────┐

  │    組合名        │ 組合員  │ 組合長  │ 執行委員  │

  ├───────────┼─────┼─────┼──────┤

  │函館造船木工労働組合  │  320│高島末太郎│小林力太郎  │

  │                      │          │          │丸町徳太郎  │

  │                      │          │          │中村庄太郎  │

  │函館鉄工労働組合      │  137│坂野琢治  │村上福次    │

  │                      │          │          │佐藤忠寿    │

  │                      │          │          │安拓武五郎  │

  │函館合同労働組合      │  136│鈴木治亮  │斎川民次郎  │

  │                      │          │          │佐々木健三  │

  │                      │          │          │村上 由    │

  │小樽合同労働組合      │  883│鈴木源重  │武内 清    │

  │                      │          │          │渡辺利右衛門│

  │                      │          │          │正木 清    │

  │                      │          │          │近藤栄作    │

  │札幌合同労働組合      │   67│沼山松蔵  │遠藤 誠    │

                             

  │                      │          │          │田沢利策    │

  │                      │          │          │津田伊平    │

  │                      │          │          │清 清人    │

  │                      │          │          │高橋正一    │

  │室蘭合同労働組合      │   33│佐藤末五郎│山口利哉    │

  │                      │          │          │土合隈次郎  │

  │釧路合同労働組合      │  600│佐藤健一  │平本文作    │

  │                      │          │          │柴崎岩美    │

  │                      │          │          │伊勢藤吉    │

  │                      │          │          │森田駒一    │

  └───────────┴─────┴─────┴──────┘

その他の労働組合

  ┌───────────┬─────┬─────┬──────┐

  │    組合名        │ 組合員  │ 組合長  │ 執行委員  │

  ├───────────┼─────┼─────┼──────┤

  │函館印刷工組合親工会  │   22│井上正夫  │            │

  │函館水電従業員交誼会  │  345│加賀谷貞蔵│森永啓次    │

  │                      │          │          │田中松雄    │

  │                      │          │          │宮川秀一郎  │

  │                      │          │          │小野貞治    │

  │                      │          │          │古谷剛正    │

  │                      │          │          │森内幸吉    │

  │                      │          │          │千葉正太郎  │

  │                      │          │          │鈴木 忠    │

  │                      │          │          │能正力太郎  │

  │日本海員組合函館出張所│          │藤井親義  │            │

  │日本海員組合小樽出張所│          │木村唯作  │            │

  │函館製材職工組合      │  197│金田清助  │菊地尾治    │

 ー2ー

  │小樽靴工会            │   15│高橋政吉  │福沢美喜太郎│

  │北海水交会            │  114│山内幸三郎│中島久吉    │

  │                      │          │          │日野文次郎  │

  │網走共成組合          │   75│関喜一郎  │窪田卯助    │

  │                      │          │          │吉田庄平    │

  │                      │          │          │郷内清吉    │

  │留萌町大工業組合      │   50│佐々木長次│田辺勝造    │

  │湯川労働組合          │   30│宮本新蔵  │渡辺貞太郎  │

  │北海労働聨盟          │  120│水野光次郎│            │

  │北海労働倶楽部        │1.021│合田久市  │後藤北蔵    │

  │                      │          │          │清水清作    │

  │自由労働組合          │   90│板野勇吉  │長屋錠太郎  │

  │旭川合同労働組合      │   29│木下源吾  │石田敬蔵    │

  │                      │          │          │大矢辰巳    │

  │                      │          │          │山本作二    │

  │                      │          │          │小野庄一    │

  │函館船渠工愛会        │  415│村林源次郎│西川菊治    │

  │                      │          │          │鈴木弥太郎  │

  │函館鉄工組合          │  295│中里弓之助│佐藤鉄蔵    │

  │恵比島共済会          │   40│村上朝夫  │中村源治    │

  └───────────┴─────┴─────┴──────┘

               北海道庁警察部特別高等課作成資料

  函館印刷工組合親工会は全国労働組合自由聨合会加盟

  函館水電従業員交誼会は日本交通総聨盟加盟

  その後、北海道地方評議会に加盟した組織があります。

 

  1928年12月現在 北海道労働団体一覧

  北海道庁警察部特別高等課労働係が1928年12月に作成した「執 務参考資料」のなかに、次の記載があります。

  ┌───────────┬─────┬──────┬─────┐

  │    組合名        │ 組合院  │ 組合長    │思想傾向  │

  ├───────────┼─────┼──────┼─────┤

  │函館造船木工労働組合  │  320│高島末太郎  │共産主義的│

  │函館一般労働組合      │   90│高橋二郎    │共産主義的│

  │函館船渠工愛会        │  415│村林源次郎  │共産主義的│

  │函館港内労働組合      │  436│高島末太郎  │共産主義的│

  │北海漁業労働組合      │  130│板垣武男    │共産主義的│

  │室蘭合同労働組合      │   60│佐藤末五郎  │共産主義的│

  │旭川合同労働組合      │  140│木下源吾    │共産主義的│

  │釧路合同労働組合      │  152│田中輝俊    │共産主義的│

  │小樽運輸労働者組合    │  152│鈴木源重    │共産主義的│

  │札幌一般労働組合      │   12│遠藤 誠    │共産主義的│

  │帯広合同労働組合      │   19│長屋錠太郎  │共産主義的│

  │日本海員組合小樽支部  │3.852│木村唯作    │改良主義  │

  │日本海員組合函館支部  │3.000│藤井親義    │改良主義  │

  │函館印刷工親交会      │   36│井上正夫    │          │

  │函館水電従業員交誼会  │  285│加賀屋貞蔵  │社民的    │

  │北海労働総同盟        │1.311│合田久市    │社民的    │

  │函館製材職工組合      │   80│金田清助    │          │

  │小樽靴工会            │   10│高橋政吉    │          │

  │網走共成組合          │   38│関喜一郎    │          │

  │函館衛生従業員組合    │   45│佐々木貞次郎│          │

  │北海水交会            │   63│中島久吉    │          │

  │湯川労働組合          │   16│宮本新蔵    │          │

  │恵比島共済会          │   40│村上朝夫    │          │

  │苫小牧合同労働組合    │    4│佐藤修平    │共産主義的│

  └───────────┴─────┴──────┴─────┘

 

 

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多喜二だけが虐殺されたのではない

2018-02-14 21:22:03 | つぶやきサブロー

 

https://youtu.be/CLVfGkn_M5U

 

戦後70年 表現の自由が弾圧された当時の様子を語りました。(15/08/19)

 
2015/08/19 に公開
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戦後70年シリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。 大正14年(1925年)から、終戦の年まであった法律「治安維持法」。
 
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下からの『統一戦線』で、全革命的民主主義的勢力を吸集せよ!!

2018-02-14 21:19:11 | 各地多喜二祭情報

2018年2月13日(火)

戦争の足音が再び聞こえる時代、多喜二のようにたたかおう

多喜二祭での小池・共産党書記局長の連帯あいさつ

 東京都中野区で12日に開かれた「杉並・中野・渋谷 第30回記念多喜二祭」で、日本共産党の小池晃書記局長が連帯あいさつを行いました。


写真

(写真)連帯あいさつする小池晃書記局長=12日、東京都中野区

 小池氏は小林多喜二を「個人の尊厳を押しつぶす社会の矛盾を文学の力で告発し、不合理な現実を変えるため、たたかいに立ち上がる人々を描いた日本共産党員作家」と紹介。

 29年の短い生涯に残した作品のうち、小池氏は特高警察の拷問によって命を奪われる直前に書いた、『沼尻村』『党生活者』『地区の人々』の3作品を取り上げました。時代背景は、1931年、満州への侵略戦争が始まり「戦争が本格化すればもっと景気はよくなる」と政府が宣伝する「戦争特需」の時代。これらの作品群は「反戦平和と反ファシズムを訴えてたたかう人々を描き、今日の情勢から見ても、迫力と輝きを放っています」。

時空を超えて私たちの胸打つ

 『沼尻村』は戦時体制に組み込まれた農村の実情と、その中での反戦運動を描いた作品。続いて書かれた『党生活者』もガスマスクやパラシュートを作る軍需工場を舞台に反戦闘争を展開する共産党員を描いた作品。最後の作品となった『地区の人々』も北海道の港町の鉄工所を舞台に、反戦平和・生活擁護のたたかいをすすめる労働者と、産業界を戦争翼賛の流れにのみ込むため工場に派遣されてきた軍関係者との、たたかいの“綱引き”が描かれています。

 3作品に共通する、「戦争で景気がよくなった」などの宣伝を振りまき戦争推進の流れに国民を絡めとろうとする当時の権力の姿は「まるで、今の安倍政権のようだ」と小池氏は指摘しました。

 「国民生活や経済の実態には目もくれず、『アベノミクスで経済がよくなった』と叫びながら、9条改憲に突き進もうとする、安倍内閣の姿をほうふつとさせるではないか」と強調。「戦前の暗黒体制のもとで、『戦争反対』の声を上げ戦争推進勢力のウソを暴き、奮闘する、多喜二の作品の登場人物たちの姿は時空を超えて、私たちの胸を打つものがある」と評しました。

多喜二の訴えは実現しつつある

 続いて小池氏は、多喜二が32年10月24日、日本プロレタリア文化連盟(コップ)創立1周年に際して書いた「闘争宣言」を引用しました。「きたるべき革命が『ブルジョア民主主義革命』として広範な層を含むものであるがゆえに(中略)あらゆる問題をとらえての下からの『統一戦線』の戦術の適用によって、全革命的民主主義的勢力を吸集すること等々が実践されなければならぬ」―。統一戦線を呼びかけたものです。

 しかし当時は、統一戦線は実現できませんでした。小池氏は「私たちが生きる今の時代は、多喜二の時代とは大きな違いがある」と指摘しました。

 多喜二没後85年の今は、当時と何が違うか―。小池氏は二つの点を強調しました。

 一つは、多喜二の時代は非合法政党だった日本共産党が公然と活動し、2700人を超える地方議員、衆参合わせて26の国会議席を持つ政治勢力となっていることです。日本軍国主義の敗北と日本国憲法の制定、その後の民主主義発展の努力を受け、そうした公然たる思想弾圧は過去のものとなりました。

 もう一つは、多喜二が呼びかけたような民主主義的勢力の統一戦線、すなわち平和・民主主義・立憲主義を守り、安倍政権の戦争国家づくりに反対する「市民と野党の共闘」が実現しつつあることです。「オール沖縄」の共同の実現や、安保法制=戦争法に反対する空前の市民の運動を受け、新しい共闘がつくられ発展しています。

日本共産党を強く大きく

 「もし、多喜二が現代に生きていたら、この成果を大いに喜び、戦前とは比べものにならない、可能性と展望に満ちた現代のたたかいを、生き生きと小説に描き、社会変革の活動にまい進したのではないでしょうか」と問いかけた小池氏。「再び戦争への足音が耳元で聞こえる情勢の中で、多喜二のように声を上げ、多喜二のようにたたかいましょう。この党を強く大きくすることに、日本の未来はかかっています。戦後最悪の安倍政権を一日も早く打倒しましょう」と結びました。

 
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