「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

荻野富士夫先生、NHKのETV特集「吉田隆子を知っていますか」に登場!

2012-09-06 21:15:07 | 仲間たちから多喜二への手紙

荻野富士夫先生、NHKのETV特集「吉田隆子を知っていますか」に登場!

(多喜二奪還闘争研究ブログより)

伊勢崎・多喜二祭は,9/9です!!

 

NHKのETV特集「吉田隆子を知っていますか~戦争・音楽・女性~」が9月2日(日) 夜10時から放送されました。再放送が9月9日(日) 午前0時50分からあります。

激動の昭和、太平洋戦争のさなか、新しい音楽を目指し、信念を貫いた女性作曲家がいる。吉田隆子(1910~56年)。戦前、男性中心の音楽界にあってみずから演奏家を組織し、聴衆との接点をつくりだそうとした女性の音楽家で、戦後、世界に通じる音楽を作りだすことにも挑んだ。

隆子は、独学で作曲を学び、「楽団創生」をみずから結成。築地小劇場を中心に民衆のための音楽運動を展開し、人気を集めた。楽団では、断髪、タキシード姿の隆子自身が指揮棒を取る。りりしい隆子の姿は話題を呼び満員札止めの盛況となる。昭和13、4年ごろのことだ。

しかし、軍部ににらまれ、思想犯として4度の勾留生活をおくることになる。4回目の勾留は5か月におよんだ。そのため重病になり釈放されたものの、昭和15年から終戦の翌年21年までの6年間、結核を病み闘病することになる。その間、周りにはいつも特高警察の監視があり、伴侶は獄中にあるという過酷な境遇となった。昭和20年に入ると東京空襲で戦火が間近に迫ってくる。この苦難の中にあっても、隆子は音楽への愛、戦争反対の思いを諦めることはなく、「病床日記」にひそかにつづった。今回、新たに見つかった「病床日記」「自筆メモ」、関係者の証言などから、隆子の作曲家としての音楽への強烈な思いが浮かび上がってくる。そして、戦争に蹂躙(じゅうりん)されたクラッシック音楽と女性作曲家の運命が明らかになってくる。

戦前、芸術家の多くが戦争協力した中で、特高警察に勾留されながらも、音楽への情熱を失わず主張を貫き通した吉田隆子。彼女はどのようにして特高と闘い、音楽活動を戦後再開させたのだろうか?
番組では、隆子が残した膨大なメモ、伴侶の劇作家、久保栄、養女の久保マサらの残した証言などから、吉田隆子の音楽へのあくなき情熱、戦争反対の志を浮き彫りにする。(http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2012/0902.html)から

途中、友人が回想した中で、新宿署では拷問されている多喜二の写真を掲示して、無言の圧迫をしていたと、特高の卑劣さを告発していました。伊勢崎・多喜二祭で記念講演をなさる荻野先生は2度インタビューに応えました。

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NHK教育テレビの『ETV特集』で、吉田隆子

2012-09-03 23:09:30 | 仲間たちから多喜二への手紙

小樽商科大学教授、荻野先生情報ですが、

「9/3日の午後10時から、NHK教育テレビの『ETV特集』で、吉田隆子という女性作曲家をとりあげます。この女性は、プロレタリア音楽同盟の一員で、多喜二追悼の歌を作曲しています。(中略)ほんの少し、私もインタビューで登場します。」


『特高警察』を刊行・小樽商大教授荻野富士夫さん

2012-07-15 22:28:28 | 仲間たちから多喜二への手紙
文化/今につながる民衆弾圧/『特高警察』を刊行・小樽商大教授荻野富士夫さん/組織の実像、通史に

 日本近現代史が専攻の荻野富士夫さんが、『特高警察』(岩波新書)を刊行しました。勤務先の小樽商科大学で思いを聞きました。
 金子徹記者



 特高警察は、プロレタリア作家の小林多喜二の虐殺など、思想弾圧の最前線で暗躍した悪名高い組織です。『特高警察』では、その歴史と実態を記しています。
 「昨年は特高警察が創設されて100年目でした。それを機に雑誌から原稿依頼があり、改めて特高警察の全体像をまとめたいと思いました。特高関連では、事件の羅列になっている本が多い。前史から戦後の解体、そして公安警察への『継承』までを、通史としてまとめたかったのです」
 特高警察は、大逆事件(注1)を契機に「国家国体の擁護」のため創設されました。総力戦体制が強化されるなかで組織の拡充を重ね、日米開戦直前には、広義の特高警察の陣容は1万人を超えました。
 同書では、1970年代末から続けてきた研究をもとに、官僚機構としての陣容の推移や拷問を容認する体質、朝鮮、「満州」での活動や、ナチスのゲシュタポとの比較などもまじえて広い視野から分析しています。
 「自由や平和を志向する人たちを、抑え込む側から歴史をみるのは、学問的にも必要なことです。特高の歴史は現代につながっているのです。警察の理不尽な抑圧や取り締まりはいまでもおこなわれているし、『共謀罪』や秘密保全法の制定をめざす動きもあります。監視カメラなどの、統制の網の目が張り巡らされた社会のあり方や、公安警察について考える参考にしてほしいですね」

憲兵も視野に
 特高が、特別高等警察の名のとおり警察内でもエリート視されていたこと、組織内の功名争いが弾圧に拍車をかけたことなど、組織の実像をリアルに描きだします。
 特高と競合関係にあり、民衆弾圧の一翼を担った思想検事や憲兵、経済警察など、あまりなじみのない組織も紹介され、〝暗黒時代〟を形成した勢力の顔ぶれがみえてきます。
 「特高や憲兵が、同じ役割の組織として競い合うことで弾圧がエスカレートした面があります」
 点数稼ぎのためのでっち上げや、日本共産党を弾圧しつくした後の1940年代も、疑心暗鬼にかられ、ありもしない「主義者」を「えぐりだす」仕事に血道をあげたことなど、「国家のための警察」の姿を浮き彫りにしています。
 「横浜事件(注2)にみられるように、特高の犠牲者は日本共産党員だけではありません。これは特定の組織や人だけの問題ではないのです」
 『治安維持法関係資料集』(全4巻)や『特高警察関係資料集成』(全38巻)など、大部の資料集の編集も手掛けてきました。その原点は―。
 「大学の修士論文は大杉栄や荒畑寒村、堺利彦らの初期社会主義者でした。その序章で、大逆事件以後の社会運動が弾圧される『冬の時代』について書いたことがきっかけです。支配する側の視点に興味がわきました」
 大学の卒論は石川啄木をテーマにし、多喜二への思い入れも強くもっています。今後は、特高と並び強権をふるった憲兵の研究や、「文学ではない多喜二論」を深めていきたいと考えています。
 「多喜二は小樽高商(現在の小樽商科大学)の卒業生ということもありますから、学生には、せっかく多喜二がいた学校で同じ空気を吸っているんだからと、読むように勧めています。2月にシンポジウムで『蟹工船と北洋漁業』を報告する機会がありましたが、多喜二を切り口にした歴史研究はこれからも続けたいですね」

(注1)大逆事件
 1910年、天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水らが逮捕され、12人が死刑となり社会に衝撃を与えた事件

(注2)横浜事件
 1942年、日本共産党の「再建」にかかわったとして、党と無関係の雑誌編集者や記者など約60人が逮捕され、4人が獄死した事件

おぎの・ふじお=1953年生まれ。早稲田大学卒。小樽商科大学教授。著書に『北の特高警察』『戦後治安体制の確立』『思想検事』『外務省警察史』ほか
(2012年07月01日,「赤旗」)

多喜二とともにファシズムとたたかった槙村浩

2012-07-02 23:11:14 | 仲間たちから多喜二への手紙

槙村浩は多喜二とともにあった。多喜二全集の編集実務を遂行したのは、槙村浩の同志・佐野順一郎であることは銘記されなくてはならない。




文化/反戦詩人・槙村浩生誕100年/「間島パルチザンの歌」に新たな光/高知と朝鮮人民つなぐ

 高知出身の反戦詩人、槙村浩。ことしは生誕100年です。日本の支配に抗して蜂起した朝鮮人民をうたった「間島(かんとう)パルチザンの歌」(1932年)。この詩の舞台・間島と高知とのつながりも生まれ、あらためて光が当たっています。
 児玉由紀恵記者

 〈思い出はおれを故郷へ運ぶ/白頭の嶺を越え、落葉松(からまつ)の林を越え―〉
 印象的な詩句から始まる「間島パルチザンの歌」。間島は、現在の中国延辺(えんぺん)朝鮮族自治州にあたる地域。詩は、朝鮮を統治する日本軍に抵抗する抗日パルチザンの青年(おれ)を主人公にしています。
 貧窮にあえぐ朝鮮民族の姿や、「大韓独立万歳!」を掲げた19年3月1日の朝鮮全土での蜂起と日本軍の大弾圧。さらに国際連帯を奏でる200行近い長詩が劇的に展開し、終連近くではこううたわれます。
 〈おれたちはいくたびか敗けはした/銃剣と馬蹄はおれたちを蹴散らしもした/だが/密林に潜んだ十人は百人となって現れなんだか!/十里退却したおれたちは、今度は二十里の前進をせなんだか!〉
 この詩が発表されたのは、プロレタリア作家同盟の機関誌『プロレタリア文学』1932年4月臨時増刊号でした。

多喜二虐殺の時代
 前年9月には、「満州事変」が勃発。天皇制の専制政治、アジアへの侵略に反対するプロレタリア文化運動の刊行物などは、発売禁止となり、持っているだけで捕らわれたりしました。33年には、小林多喜二が虐殺されています。
 この詩が、発表の数年後には、舞台である間島地方に伝えられていたことが明らかになりました。延辺に住んだ作家の戸田郁子さんが、『中国朝鮮族を生きる』で、そのことを伝えています。戸田さんの恩師、延辺大学の歴史学者が小学生のころ(35、36年ころ)の話。日本に留学経験のあった教師が、授業中に朝鮮語でこの詩を朗読した、というのです。
 日本の植民地時代に間島でこの詩が読まれていたとは! 衝撃を受けた戸田さんは2009年11月、高知を訪ねました。

 「延辺をたった時は50㌢積もる大雪でした。高知に着いて南国のシュロの木や日差しの温かさに驚き、ここで育った詩人が、あの間島の風景や厳しい冬の季節を描いたのかと、胸に迫るものがありました」と戸田さん。若い日、韓国で歴史を学びながら、槙村のこの詩に民主化をめざす韓国の人々のたたかいを重ねていました。「戦時中にこれほど朝鮮人に寄り添った日本の詩人はいません。どれほど尊いことかと思います」
 2日に高知市で開かれた「槙村浩生誕100周年記念のつどい」。戸田さんは、ここで講演し、槙村の詩でつながった延辺と高知をさらに太くつなぐ「懸け橋になろう」と呼びかけました。
 槙村浩の会会長で詩人の猪野睦さんは語ります。「あの時代に槙村の詩が伝わっていた話にはびっくりしました。7年近く前、文学の集いで延辺に行った時、槙村のこともこの詩のことも知られていた。槙村はここで生きていると思いました」
 「記念のつどい」の成功に向けて尽力してきた高知市内の「平和資料館・草の家」の館長、岡村正弘さんは言います。「文化的な重みで〝北の多喜二、南の槙村浩〟と言いたい。9月には延辺への旅も計画しています。友好のきずなをさらに強めたいと思います」
 「間島パルチザンの歌」が発表された月に検挙された槙村は、獄中での拷問、虐待に屈せず、非転向を貫きました。26歳で病没。「不降身、不辱志」(「バイロン・ハイネ」)と記した志は今も輝いています。

 
槙村浩(まきむら・こう)は、1912年6月1日、高知市生まれ。本名・吉田豊道。幼時から抜群の記憶力、読書力を示し、「神童」と報じられます。海南中学時代、軍事教練に反対し、30年、岡山の中学校に転校処分。『資本論』を読み、マルクスに傾倒。
 31年、高知でプロレタリア作家同盟高知支部を結成し、共産青年同盟に加盟。32年、兵士の目覚めを促す「生ける銃架」、「間島パルチザンの歌」を発表。日本共産党の党員候補に推薦されます。高知の連隊の上海出兵に反対行動を展開し、4月に検挙。治安維持法違反で懲役3年に。拷問などで心身を壊し、35年6月に出所。獄中で構想した革命への情熱あふれる詩「ダッタン海峡」や「青春」「バイロン・ハイネ」、論文「アジアチッシェ・イデオロギー」などを一挙に書き、東京の貴司山治に出版を託します。

 36年、高知人民戦線事件で再検挙。翌年、重病で釈放され、38年9月3日、病没。
 貴司山治に託された原稿は、官憲の捜索や空襲から守られ、64年、『間島パルチザンの歌 槙村浩詩集』刊行の基に。84年、『槙村浩全集』刊行。
(2012年06月24日,「赤旗」)

5月5日シカゴ大学で開催の Atomic Age II: Fukushima に注目!

2012-05-04 23:01:55 | 仲間たちから多喜二への手紙

5月5日シカゴ大学で開催の Atomic Age II: Fukushima に注目!

 

◆◆多喜二奪還ブログよりの転載です◆◆

 

シカゴ大学で開かれるシンポジウムです。『小林多喜二』(岩波新書)の著者であるノーマ・フィールド先生の紹介文です。ご成功を祈っています。

「もう5回目とは。続けるのは大変なことですね。(注、伊勢崎・多喜二祭のことです。)
私は5日のAtomic Age II: Fukushima というシンポジウムの準備に追われています。日本からは小出裕章さんと武藤類子さんをお迎えします。
富山妙子さんの絵を使わせていただいたチラシとプレスリリースを添付します。富山さんの絵は50年代、炭坑などを題材に画かれたころのものと通じるように思えます。」

以下は添付されていたプレリリースです。
「+++プレスリリース+++   2012年4月10日
アトミック・エイジII: 福島 (Atomic Age II: Fukushima)
シカゴ大学は日本とアメリカの専門家を招き、今もまだ続く福島第一原発の事故の多方面にわたる影響について、シンポジウムを開催します。
日時:2012年5月5日 8:45 a.m. – 6:00 p.m.
場所:シカゴ大学 Social Science 122
1126 East 59th Street, Chicago, IL 60637
イベントは一般公開で、日本語での発言はすべて英語に通訳されます。コンチネンタル形式の朝食と昼食が無料で提供されます。
シンポジウムについての情報や詳細については、以下のサイトをご覧ください。
http://lucian.uchicago.edu/blogs/atomicage/aboutsymposium/

福島第一原子力発電所の大事故はまだ収束したとはほど遠い状況にあります。原子炉の状況がまだ安定せず、専門家もいったい原子炉の中で何が起きているのか想像するよりほかないことに加え、この大事故の社会的、政治的、経済的、そして環境と健康に関わる影響に関してもほとんどわかっていないという状況でもあります。大気や水の放射能による汚染、さらには瓦礫処理の問題や食材の流通などにより、その影響は福島はもとより、東北地方、そして日本という国境を超えて拡散しています。

2011年5月にシカゴ大学は「アトミック・エイジ−広島から現在まで」と題したシンポジウムを開催しました。そこでは問題があると認識されている核兵器と、発展のために必要だとされてきた原発が正反対のものとして位置づけられてきた戦後の世界状況そのものに疑義が提示されました。シカゴ大学は1942年に、マンハッタン計画の一環として初めて制御した核分裂の連鎖反応の実験が成功したという歴史をもち、そのシカゴ大学でこの議論が行われたことは重要な意味をもっています。そこで今年は、福島での事故のもつ様々な側面や影響に関して、さらにはアメリカに住む人々にとっての意味について議論すべく、日本と米国から専門家をお招きし、シンポジウムを開催します。

日本からは京都大学原子炉研究所の小出裕章氏と、ハイロアクション福島の武藤類子氏をお迎えできることになりました。小出氏は日本の発展の鍵になると考え原子力工学の道に進んだものの、研究を通して原発と人類とは共存不可能であるという信念を持つに至り、原発の危険に関して研究をすすめるとともに、それを一般の人たちに伝えてきました。福島に住む武藤氏はチェルノブイリ事故以来、とくに女性たちによる反原発の運動に関わり続け、福島の事故以降は、住民や避難民らの人権を守る運動をすすめるとともに、福島の影響に関して日本各地で講演を行っています。
更に、シカゴ大学天文学・天体物理学部、物理学部(アルゴンヌ国立研究所の前所長)のロバート・ロズナー氏、「ジョージア・WAND(Women’s Actions for New Directions 新しい道を求める女性運動)」代表のボビー・ポール氏、「社会的責任を果たすための医師団」で過去に団長を勤めた医師のジェフ・パターソン氏、原子炉で作業員や管理員としての経験を持つディーン・ウィルキー氏、ウィルキー氏と共同で、福島の原子力発電所事故関連の詳細な情報を提供するウェブサイト、SimplyInfoを運営するオンラインメディアの専門家、ナンシー・フォースト氏が登壇されます。

ラウンドテーブルでは、登壇者の方々とシカゴ大学東アジア言語文明学部のノーマ・フィールド氏が参加し、パネルででた論点について議論を行います。」

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中野重治の手紙―『愛しき者へ』展(2012,6.16土~8.5日)

2012-04-30 13:13:19 | 仲間たちから多喜二への手紙

中野重治(1902~1979)は、大正末期、みずみずしい抒情溢れる詩や評論を発表して文学活動を始めました。プ

ロレタリア文学運動に参加し、獄中生活を送った昭和戦前から、転向を経て複雑な政治状況下での戦後の活動まで、多難な歩みの中で、「村の家」「歌のわかれ」「梨の花」など多くのすぐれた作品を生み出しました。

本展はその生誕110年を記念して開催するものです。
 

今回は、当館が所蔵する中野重治資料の中から、書簡集『愛しき者へ』にまとめられた、妻や家族あての手紙を軸に、敗戦前の日記や著作、関連資料も織り交ぜて、その生涯と作品を紹介します。

数々の書簡にみえる作家としての厳しい姿勢、家族に寄せた深い愛情など、中野重治の人間性に焦点をあてつつ、その生き方や考えを、時代を超える普遍的なメッセージとして伝えます。

※同時開催
  ・常設展「文学の森へ 神奈川と作家たち 第1部 夏目漱石から萩原朔太郎まで」→詳細

 
◇会  期 2012年(平成24年) 6月16日(土)~8月5日(日)
◇開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
◇会  場 神奈川近代文学館第2展示室
◇観 覧 料 一般400円(300円)、65歳以上/20歳未満及び学生200円(150円)
高校生100円、中学生以下無料
 *(  )内は20名以上の団体料金
◇主  催 県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会
◇後  援 中野重治の会、NHK横浜放送局、FMヨコハマ、
神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
◇協  賛 平凡社、東京急行電鉄、神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
展示資料紹介

関連行事

 

□記念講演会6月30日(土) 「男と女・きびしい時代に」
講師:澤地久枝(ノンフィクション作家)

□記念講座(2012年度 神奈川近代文学館友の会の集い)

7月14日(土) 「中野重治の昭和十年代 『愛しき者へ』の時代」
講師:林淑美(立教大学文学部特任教授)

□記念DVD上映会

6月23日(土)、7月16日(月・祝)
「偲ぶ・中野重治―葬儀・告別式の記録― 1979年9月8日」
※会期中、展示館1階エントランスホールでも上映
  (要展示観覧料/11:00、14:00)

□ギャラリートーク

6月29日、7月13日、8月3日(いずれも金) 14:00~
会場=展示館1階エントランスホール


●行事についての詳細は、催し物のページをご覧ください。

 

◇お問い合わせ

公益財団法人神奈川文学振興会
231-0862 横浜市中区山手町110 県立神奈川近代文学館内
TEL045-622-6666 FAX045-623-4841


創立50周年おめでとう 新婦人へのメッセージ ノーマ・フィールド

2012-04-12 00:37:33 | 仲間たちから多喜二への手紙
創立50周年おめでとう 新婦人へのメッセージ

おしゃべりはパワー!

ノーマ・フィールドさん
シカゴ大学教授・小林多喜二研究者


新婦人創立50年おめでとうございます。
 私にとって身近な新婦人は、北海道、小樽の新婦人です。小樽支部が企画した高遠菜穂子さんの講演会をチラシで知り、出かけ、新婦人と出会いました。その後ちょくちょく小樽支部の事務所におじゃまし、お昼をいただきながら、いろいろ新婦人の活動を見聞きしました。

地についている運動

 憲法、そして女性の権利、尊厳、生活のことなど、私が知っている新婦人は、それはそれは生活のいろんな面に密着しています。女性のこうした運動の重要性、それを言葉で掲げれば、憲法9条であり、反戦・平和なのでしょうけれど、そういった大きな「標題」、スローガンに終わらせないで、大きな標題を実生活とつなげていることが大事だと思うのです。
 小樽の事務所には、いろんな集いの場がありました。その活動はさまざまで、ヨガだったり、絵手紙だったり、手芸、おしゃれやお化粧のことなどだったりするんですね。そういうことの大事さを、若い頃はたぶんわからなかった、私は・・・。抽象的な価値観をかかげれば、その正しさ、それは誰だってわかることだとそういうふうに長いあいだ、生きてきたような気がするのです。
 新婦人のそういう活動、”いこい”...”いこい”っていい言葉ですよね、日本語の...さまざまな手仕事をやりながら、その”いこい”の場があってこそ、平和とはなんであるか、憲法9条を守るとは何か、子どもの権利を守るとはどういうことなのかなどについて、話し合うことができるわけでしょ。そういうレベルをくぐらせないと、地についた運動にはなれないんだろうなと思いますね。

自分が生きてくるおしゃべり

(略)人はおしゃべりでほぐれ、生きてくるのです。自分ひとりでは取り戻せない、表現できない自分らしさを、「雑談」を通して、おしゃべりを通していきいきさせることができるのです。個と集団の関係で、個が、一人でこうしなければならないと頑張って、いくら自分を問い詰めても、それには限界があります。
 おしゃべりこそ、パワーだって思いますよ。

特高警察100年その罪責/荻野富士夫

2011-11-03 21:35:27 | 仲間たちから多喜二への手紙

シリーズ歴史と現代/特高警察100年その罪責/荻野富士夫/

 

断罪された抑圧と人権蹂躙

 ビラまき行為について最高裁で有罪判決が出されたように、地域の安全などを名目とする社会の監視態勢の網は広くかぶさりつつある。「日の丸・君が代」への対応を踏み絵とすることなどにより、異論をもつ存在のあぶり出しも巧妙に図られつつある。鹿児島の志布志事件などの冤罪事件は、警察内部の違法な捜査や取り調べが過去のものではないことを示した。その意味で、戦前の特高警察的機能は現在も「生きつづけている」。一方、横浜事件再審裁判が特高警察による拷問を認定したように、人権蹂躙と違法性については明確に断罪されることになった。

国家・天皇の警察
 100年前の1911年8月、前年の「大逆事件」を機とする社会主義運動の一掃のために警視庁総監官房に特高警察課が設置された。これが特高警察の誕生である。その後、1928年の三・一五事件の衝撃を利用して全県に特高課が設けられた。この特高警察の大拡充は、植民地朝鮮と台湾における「高等警察」の拡充にも連なった。1932年建国の「満州国」には「特務警察」が置かれた。
 「国家の警察」という役割に加えて、1930年代半ばには「天皇の警察」意識が強調された。特高警察官らをその職務に駆りたてたのは、それらの意識に加え、自身の立身栄達もあった。そのハイライトというべきものが、「破格 共産党潰滅の功労者に恩遇」(「東京朝日新聞」)と大きく報じられた1936年11月の叙勲と金銀杯の下賜である。毛利基に代表される第一線の特高警察官が、思想検事らとともに天皇からの〝栄誉〟にあずかった。

拷問は黙認された
 30年代後半になると、戦争遂行のために特高警察は「共産主義運動」とみなしたものをえぐり出すほか、反・非「国体」的とする宗教団体にも襲いかかった。銃後の治安維持を名目に、監視の対象は国民生活・思想に広がり、流言飛語や生産阻害などにあらわれる「人心の動揺」への警戒と抑圧を強めていった。
 拷問による取り調べは黙認された。身内の会議では郵便の検閲やスパイの活用などの法規の逸脱の具体例が、捜査・取り調べ時のテクニックとして得々と語られた。
 特高警察は最大の武器である治安維持法を恣意的に拡張解釈し、国内だけで検挙者は7万人余にのぼる。しかもその外側には検束・勾留された膨大な数がある。朝鮮においては民族独立運動に対して、「満州国」においては反満抗日運動に対して、より過酷な運用がなされた。

戦前的な復活阻む
 敗戦の事態に特高警察は動揺しつつ、社会運動の再興を抑え、民心の動向の監視をつづけ、増員すら志向した。そのためGHQは「人権指令」を発し、民主化の障害として特高警察の解体を命じ、5千人が罷免となった。しかし、その勢力は警察の内外に温存される一方、すぐに「大衆運動」取締の方針を確立し、「警備公安警察」を創設する。1950年前後からの「逆コース」の進行とともに、罷免された特高経験者も復職する。治安維持法は破壊活動防止法として復活をめざした。
 こうして戦前からの特高人脈・取締理念・ノウハウは継承され、現在に至っているとはいえ、その拷問に象徴される特高警察の抑圧的取り締まりの記憶は生きつづけ、戦前的な思想と行動の自由の封殺はほぼ食い止められてきた。戦後民主主義の存在そのものが、連続継承された治安体制の戦前的な復活を阻止しつづけている。そこには特高の罪責を見据えた歴史の進歩がある。 (おぎの・ふじお 小樽商 科大学教授)
(
2011年10月25日,「赤旗」)


「小林多喜二 早春の賦」プロデュ―サー 釘崎康治『多喜二と志賀直哉』(御影暢雄) 

2011-05-11 07:10:02 | 仲間たちから多喜二への手紙

『 多喜二と志賀直哉 』 
  演劇プロデュ―サー 釘崎康治

 【2005年4月24日に開催された(奈良市内:約120名の参加者)「小林多喜二 早春の賦」制作委員会・釘崎康治さんの記念講演の要旨を紹介致します。】

 私は「早春の賦」制作委員会の一員として、全国を回っております。この劇はどこかの劇団の主催というのではなく、各劇団から俳優さんや裏方さんが制作委員会に参加するというスタイルで、各地での公演活動が運営されています。

 奈良の皆さんに是非知って頂きたいことがございます。実は小林多喜二は短い生涯の中で一度だけ奈良に来たことがあります。

 今から74年前、彼は小説の師として尊敬していた、志賀直哉の奈良市高畑の自宅を訪れました。志賀直哉は多喜二より20才年長でしたが、この若い作家の才能を高く評価していましたので、多喜二の来訪を大変喜び歓待したそうです。

 志賀直哉が多喜二に書き送った書簡は、近代日本文学の貴重な資料として有名ですが、そこには、思想・信条を超えた、先輩作家としての慈愛に満ちた批評と助言が記されています。
 多喜二が特高に虐殺された直後、志賀直哉は大きな衝撃を受け、悲嘆に暮れたことを日記に残しています。そして、多喜二の母親に哀悼の手紙を書いています。
 (参考:岩波文庫『小林多喜二の手紙』)
 
 多喜二が74年前に来た奈良の地へ、本日、彼を主人公とした劇を多くの人に見て頂くために私は来たのだと思うと、深い感慨を覚えます。多喜二が、師と仰ぐ作家に会うべく胸躍らせて、はるばると関東から奈良までやって来た姿を思い浮かべずにはいられません。

 今、全国各地から憲法を守ろうという声が高まり、「憲法九条の会」があちこちで立ちあがっています。誰もが、「多喜二が生きた暗い時代に後戻りさせるな、日本を戦争に巻き込むな」という熱い思いを抱いています。

 米倉斎加年と常に語り合っていることは、「早春の賦」を特に若い人達に見て頂き、多喜二の生き方から何かをつかんで欲しいということです。皆さんの周りの青年・学生を一人でも多く誘って頂き、6月27日の奈良での公演成功にご協力をお願いする次第です。

 (「小林多喜二 早春の賦」は同年6月27日、大和郡山城ホール・大ホールにて満席の観客が観劇し、大成功の公演となりました。 ~御影暢雄 )


この大惨事の彼方にある希望のために為すべきこと(ノーマ・フィールド)

2011-04-10 23:25:18 | 仲間たちから多喜二への手紙

4月3日、札幌在住のともだちが生まれて初めてデモに参加したことを教えてくれました。北海道には泊原発があります。ともだちは、「今日私が参加した一番の思いは、福島原発で起こっている危機の現実と向き合おう、とにかく意思表示をしよう、とにかく連帯したいという気持ち。日本人は世界一従順で、物言わぬ民と評されないよう、声をあげていきたいです」と書いています。
 
そのデモには「健康や命が脅かされるということだけの動機ではだめだ、非正規雇用や外国人労働者の不当な扱い、原発現場でも作業員の問題と一緒に訴えようという若者」も参加していたそうです。思うに、原発によって一般市民の健康や命が脅かされるように、非正規雇用や危険な労働現場や福祉の削減によっても健康や命は脅かされ、結局同じ社会の仕組みです。不平等自体、健康を害します。
 
この大惨事の彼方に希望があるとすれば、それは新しい社会を作り出すこと以外にあり得ません。それはクリーン・エネルギーのみならず、新しい価値観と文化を必要としています。いままでの「繁栄」の縮小バージョンはイヤです。ましてやナオミ・クラインが警鐘を鳴らす「惨事資本主義」は許せません。(すでに兆しています。「需要の流失」に対して規制緩和を、という具合に。)
 
みなさん、長い闘いです。力を合わせましょう!地球と人類を救う道は他にありません。
 
原子力の発祥地、シカゴ大学より
ノーマ・フィールド
 


希望の松 (akio)

2011-04-05 23:40:57 | 仲間たちから多喜二への手紙
希望の松 (akio)
2011-04-05 22:06:27
 がれきの中の「希望の松」岩手・陸前高田市から  佐藤 慧(11・4・5付 しんぶん赤旗)

 (akio:一部を紹介したいと思います。)

 数百の遺体の間を歩き、あの優しい母の笑顔を探すことは拷問に近かった。・・・。
 
 一つひとつの棺の中の顔をのぞき込み、そこに母の面影がないことを確認する。

 どの顔も苦痛にゆがんでいる。素朴な生活が一瞬にて波にさらわれ、がれきと泥土の下敷きとなったのだ。

 僕の両親の住んでいたまち・陸前高田市は、市街地が確認不可能なほどたたきつぶされていた。(病院に勤務している父とは再会しましたが、母とはいまだ再会できていません。)

 ・・・陸前高田市の松原には、ただ一本、津波に耐え抜いた松が残っている。

 その松は、大切な仲間を失いながらも堂々とそびえていた。
 その不屈の精神、真っすぐに立つ姿をみて、人々はそれを「希望の松」と呼ぶ。

 希望とは、未来に足を進めていくことでしか得られないもの。

 いま、みんながつながり、その未来にむけて歩んでいく。

 (さとう・けい フィールド・エデイター/ジャーナリスト)

 akio:この高田松原の「潮害防備保安林」は、大船渡地方振興局(気仙地方)の人たちが永年、手塩にかけて撫育(補植・間伐等)してきた、全国に誇れる素晴しい「森林」でした。(海岸線にこれだけの森林を造成した先人のご苦労に頭が下がります。)

 akio:この「希望の松」は、24m以上の樹高があると思われます。枝下高が17mです。その下木に「クロマツ等」が豊に育ち、防潮と津波の被害を「和らげる」役目を永年果たしてきたからこそ、その後方に豊かな「農村」が営まれてきたと思います。

 akio:「国土保全」の官職に永年携わってきた私は、今回の未曾有の大津波に驚くばかりです。でも、この一本の「希望の松」が、私に与えたはかりしえない感動を生涯忘れることはないと思います。

 追伸:「希望の松」・・・樹冠が径14m以上・樹高:枝下が不正常なので、今後の保全に対策が必要と感じています。

 追伸:「希望の松」・・・『日本の木=アカマツ』(樹形を見て)

力を合わせて新しい社会の構築に向かいましょう(ノーマ・フィールド)

2011-04-05 23:38:56 | 仲間たちから多喜二への手紙
Unknown (るもい (ノーマ・フィールド))
2011-04-04 21:44:21
佐藤さん、ブログの読者のみなさん、それぞれたいへんな日々をお過ごしとのことでしょう。

4月10日、全国各地で反原発デモが企画されているようですね。8日にはシカゴでもあります。イリノイ州には福島と同じ原発が4基もあります。

札幌の友人が2日に生まれてはじめてデモに参加したそうです。この際、力を合わせて新しい社会の構築に向かいましょう。あたらしい価値観が必要です。

どうかお大切に。

いのちなき (akio)

2011-04-02 16:39:05 | 仲間たちから多喜二への手紙
いのちなき (akio)

 

2011-04-01 22:21:47
 「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと握れば指の あひだより落つ」 啄 木

 
 2万2千名以上の津波被災者を思う悲しさと、握った砂が自然に逆らえずに指の間から落ちてゆく「砂」。津波にさらわれていった人々の悲しさに悲しさに重なってしまいます。

 「明治三陸大津波」(1896年)の四年後の1900年(明治33年)夏に盛岡中学三年生の修学旅行で高田松原(現陸前高田市)を訪れ詠んだ歌です。

 高田松原で津波に負けずただ「一本の松」が残った!との報道を知りました。
 ここの松原は江戸初期(1667年)にクロマツを植林したのが始まりです。
 初代の「クロマツ」としたら、復興のシンボルにしてほしいと思います。

 啄木はこの体験を通じて創作活動を一段と活発にしていきます。
 「明星」への投稿。「足尾銅山公害」患者への義捐金活動。「校長排斥ストライキ」。

 私は盛中の啄木が、1907年(明治40年)に岩手から来函するまでの間が一番ひきつけられます。

追伸:札幌の義理の息子が支援に行っていた仙台市より戻りました。(テレビ報道よりの凄さにショックを受けています。)

追伸:今度は、娘が岩手県に支援に入ります。

 今日から、道議選始まりました。家族揃って「ビラ折」をやっています。(頚椎を除雪・雪割で痛め。左手がシビレテいます。)

 では、「原発推進論者」に「勝!!!}