「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

笑う多喜二の写真

2010-11-04 22:27:53 | 多喜二のあゆみー拓銀
笑顔の写真がほとんどないとされるプロレタリア文学作家、小林多喜二(1903~33年)が大口を開けて笑った写真が関係者宅で見つかり、ゆかりの北海道小樽市の市立小樽文学館に寄贈された。

 専門家は「(暗いタッチの作品とは対照的に)実は陽気な人物だったことを示すもの」と評価している。同館は、今回寄贈された写真などを、6日から展示する。

 寄贈されたのは、写真40数点を収めたアルバムのほか、直筆はがき2点と、雑誌など12点。小林が勤務していた北海道拓殖銀行小樽支店の上司だった酒匂親幸氏(故人)の次男・洋二さん(73)(東京都世田谷区)が所有していた。

 小林が笑顔で写っていたのは、1925年1月、同支店の社員旅行の際、撮影したとみられる写真。1枚は浴衣姿の小林が同僚たちと一緒に、大口を開けて笑う表情が、もう1枚ではカメラから少し視線を外し、はにかんだように笑う姿がとらえられている。

ヤフーニュースより引用

多喜二全集未収録の広告文(曾根博義)『彷書月刊』第25巻第3号

2009-04-18 00:56:42 | 多喜二のあゆみー拓銀
雑誌『彷書月刊』最新号(3月号)のご紹介



 『彷書月刊』最新号は、「労働と文学─働くこと、闘うことをめぐって」という特集を組み、初期研の会員を含む9名の方々の寄稿を掲載しています。
 特集部分の目次を下記に紹介します。下記の彷徨舎のウェブサイトには、連載を含めた3月号の詳細な目次も掲載されています。是非ご覧ください。
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『彷書月刊』第25巻第3号 / 通巻第281号
特集=労働と文学─働くこと、闘うことをめぐって

(彷徨舎、2009年2月25日、95p.)
(定価:700+税 / ISBN:978-4-903919-8 )


〔目次〕※特集部分のみ

・徳永直と『太陽のない街』…… 祖父江昭二
・小林多喜二と小樽高商─全集未収録の広告文の紹介をかねて …… 曾根博義
・平林たい子の小説における「労働」…… スティーブン・フィラー
・"記録"の力─細井和喜蔵『女工哀史』と現代 …… 岡野幸江
・黒島傳治・醤油と文学と闘争 …… 須田久美
・働くこと闘うこと、そして命─葉山嘉樹の労働と文学 …… 峰村康広
・詩の導きのままに生きたプロレタリア詩人 高橋辰二 …… 大崎哲人
・絵筆を武器に闘う労働者を鼓舞した画家柳瀬正夢
─その「無産階級美術の歴史的使命遂行」の筆力 …… 甲斐繁人
・この腕を見よ─平沢計七における巨人主義と労働疎外 …… 大和田茂



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※お問い合わせ等は、
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多喜二年譜1925-1926

2008-12-15 10:05:19 | 多喜二のあゆみー拓銀
1925(大正14)年 22歳
『キング』創刊、梶井基次郎ら『青空』創刊、中野重治ら『裸像』創刊

2月発行『クラルテ』第4輯に、小説「彼の経験」〈1・14〉、感想「赤い部屋」「仲間雑記」発表。編集後記に多喜二の創作「駄菓子屋」への志賀直哉の評を紹介。
田口タキへの書簡(3/2)「闇があるから光がある」


3月、東京商科大学を受験。不合格。
茅ケ崎に行き、南湖院第七病棟第一号室に入院中の旧師大熊信行を見舞う。
4月、銀行員の安易になりがちな生活態度を反省。「龍介の経験」「曖昧屋」を書く。
4/22 治安維持法公布 5/5普通選挙法公布。
「『生れ出ずる子ら』について」感想〈6月〉原稿帳
「田口の『姉との記憶』」<4.5~6.9>

7月 青野季吉「『調べた』芸術」、細井和喜蔵『女工哀史』
「ある病気のお話」(『小樽新聞』7/13付)

8月 小樽総労働組合創立。
1月から「龍介の経験」にとりかかり〈8・15〉に脱稿。『極光』26年7月号に掲載の際に加筆訂正。



10/15 小樽商科大学に軍事教練反対の闘争が起き、全国に広がる。
小説「曖昧屋」〈11・19〉原稿帳

12月、田口タキを、身請け。タキは、長橋の実家に帰り、二ヵ月後小樽郊外の奥沢に住んだ。
1
2/6 日本プロレタリア文芸連盟創立。
※淫売婦(葉山嘉樹・『文芸戦線』11月号)



1926(大15・昭元)年23歳
1月 志賀直哉「山科の記憶」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」(『文芸戦線』1月号)、川端康成「伊豆の踊り子」(『文芸時代』1月号)

「ぼくは小樽高商の所謂「軍教反対問題」に関係した友人からマルクスやレーニンの著作、当時評判だった福本和夫の著作を読むことをすすめられた。なおその上に、山本懸蔵の立候補、諸種の研究会、あの「三・一五」事件等々が、そのぼくの傾向を決定的なものにした。ぼくは又プロレタリア芸術理論や葉山嘉樹などを貪り読んだ。」(自筆「年譜」)

『クラルテ』第5輯終刊号のため、小説「師走」〈1・28〉(翌年改作されて「最後のもの」となる)、感想「赤い部屋」「仲間雑記」を書く。

「此頃ドストエフスキーのものを読んでいます。「虐げられし人々」「死の家の記録」「貧しき人々」「二重人格」今のところこれだけを読みました。ストリンドベルヒあたりが持っていない、そして私の内心で、とても要求しているものゝあるのを知って、今年一年は徹底的にドストエフスキーのものばかりを読もうと思っています。」


3/5 日本労農党創立。

4月末田口タキを若竹町の自宅に迎える。母・セキは赤飯を炊いて祝う。5月26日「折々帳」(日記)を書きはじめた。
『下女』と『循環小数』」 (『新樹』5月号)
日記(6/1)「今日、彼女が美しく見えた」チェーホフ全集を読む。
評論「ジュードとアリョーシャ」(6・17)原稿帳
小説「And Again!!」原稿帳(「龍介の経験」改作〈7月〉)
「師走」改作小説(8・10)原稿帳
「父の危篤」小説(8・4)金沢で発行されていた同人雑誌『原始林』(9月版第16輯)に中司哲也のゆかりで投稿。改作稿を『読売新聞』に投稿したが没。
小説「酌婦」〈8・10〉原稿帳「曖昧屋」改作


3月発行『校友会々誌』第38号に、小説「人を殺す犬」〈8月〉
9月8日付『小樽新聞』朝刊「蟹工船博愛丸に雑夫虐待の怪事件」


9月14日、葉山嘉樹の小説集『淫売婦』に感銘。「志賀直哉氏あたりの表現様式と正に対蹠的にある。」(日記)

10/9「志賀直哉の「十一月三日午後の事」「網走まで」「或る朝」「宿かりの死」「木と木鋸?」などを、フト、これで何度目か、読み返してみた。(中略)然し、俺は断然、志賀のカテゴリーから出ることだ。」(日記)

11/5 高畠素之著『マルクス十二講』を読む。

11月11日、田口タキが、だまって家を出て、花園町の小野病院に住み込み、自活を求める。
「来るべきこと」シナリオ原稿帳
「シェクスピアよりも先ずマルクスを」を、『小樽新聞』11月17日号に掲載。これをきっかけに朝野十二氏と『小樽新聞』紙上で論争。朝野への反論として、「朝野十二氏へ」(11月27日号)、「頭脳の相違」(12月4日号)を掲載。

小説「無題」 〈12・20〉原稿帳



12/25 大正天皇死去。皇太子裕仁即位。昭和に改元。

12月改造社の『現代日本文学全集』刊行開始(円本時代始まる)

多喜二年譜1927

2008-12-13 23:48:36 | 多喜二のあゆみー拓銀

1927(昭和2)年 24歳
小説「雪の夜」〈1・2~21〉原稿帳(生前未発表)


「人を殺す犬」改作小説〈1・27〉 原稿帳
4月発行『原始林』第21輯に、小説「万歳々々」〈2・4~5〉。「何度もホホエミながら作った。こういうことは自分にはなかった気持だ。(ノート原稿末の言葉)

新井紀一に就職斡旋を依頼。

小樽高商時代の恩師、大熊信行宛に書簡、東京での就職斡旋など依頼。

「此前『文芸春秋』に、懸賞小説を出したところ、又私のものが二篇(「最後のもの」「酌婦」)が予選に入りました」「昨年の暮頃から色々東京の知人に手紙を出して、雑誌社か新聞社のほうに口がないか、をたずねて貰いましたが、ありませんでした。それから奈良にいる志賀直哉氏とは小説を時々見てもらったり、手紙を貰ったりしている関係上頼んでみましたが、やはり思わしいところもないとのことでした。心懸けて置いてくれると云っています。」(全集未収録 大熊信行宛書簡 2月6日消印)

「大熊信行先生の『社会思想家としてのラスキンとモリス』」(『小樽新聞』2月27日号)
3月5日付『小樽新聞』「四十余名の小作人来樽―磯野氏宅に押かく」
3/6 北海道銀行余市支店・渡辺善之助のあっせんをうけ、余市実科高等女学校で『クラルテ』同人文芸講演会開催。多喜二は「ノラとモダン・ガールに就いて」講演。

前年9月から腹案の「女囚徒」一幕物戯曲(〈3・8〉『文芸戦線』10月号)を書き上げ、「『女囚徒』の自序」〈3・13〉を原稿帳に書く。
5月創刊の『山脈』に評論「詩の公式」 〈3・20〉

3月14日 片岡蔵相の失言から金融恐慌始まる

3月3日~4月9日、磯野小作争議が、日本で初めての労働者・農民の共闘でたたかわれた。銀行に勤めながらこの争議の支援をしていた多喜二は、争議の指導者武内清に依頼され、磯野側の経理内部情報を争議団へ提供して支援した。このころ乗富道夫・産業労働調査所函館支所の協力を得て、函館で北洋漁業や蟹工船を取材。
原稿帳に「父の危篤」の改作「Eternal problem」小説〈4・28〉
「マルクスの芸術観」 評論 (5・8)不詳

評論「十三の南京玉」(『小樽新聞』5月23、30日号)

原稿帳に小説「放火未遂犯人」、「その出発を出発した女」長編小説・上編〈5~6/15〉
「田口の『姉との記憶』」(『北方文芸』第4号6月)

5/20改造社主催で開催の「日本文学全集講演映画会」函館に来ていた芥川龍之介、里見を小樽に招き、小樽での文芸講演会に150人。映画は、国木田独歩「各作酒中日記」、徳富蘆花「ホトトギス」。その後、クラルテ同人主催の座談会をひらく。

5/28、病院に住みこんでいた田口タキが行方を知らせず小樽を去る。



6月19日~7月4日、小樽港湾の運輸労働者を中心とする争議が起こり、日本最初の産業別ゼネラルストライキがおこる。多喜二はこの争議に積極的に参加した。ビラづくりで助けた。評議会の提唱する工場代表者会議運動の典型として記録される歴史的闘争となった。

7月15日 コミンテルンの「日本問題に関する決議」で山川・福本批判(1927年テーゼ)
8月、労農芸術家連盟に加盟。

佐野碩、久板栄二郎、来道。
原稿帳に小説「営養検査」〈8・5〉、「築地小劇場来る」〈8月〉
芥川龍之介7月24日未明、「ぼんやりした不安」を理由に、遺書を残し服毒自殺。
8月、築地小劇場がクラルテのメンバーの世話を受け、小樽中央座で、実篤「愛欲

※『キネマ旬報』誌9月号に「最近のソビエト映画界」(モスクワ滞在中の蔵原惟人によるもの)、現地で見た「戦艦ポチョムキン」を詳細に論じている。多喜二がこの名作を「戦闘艦ポチョムキン」と表記しているのも、蔵原論文にならったと思われる。
」チェーホフ「熊」を公演。

9月ころ労農芸術家連盟小樽支部幹事。

9月古川友一が主宰する社会科学研究会に参加、労働農民党小樽支部、小樽合同労働組合の活動家たちとの関係をふかめる。
多喜二の勤めていた拓銀小樽支店の同僚工藤誠吉の住まい近くの売春窟を題材に、「残されるもの」小説(〈9・14〉『北方文芸』10月発行第5号)
原稿帳に「酌婦」改作小説。

※辻君子「酌婦」「最後のもの」(9月)(「師走」改作)を書き、郷利基の名で『文芸春秋』に応募。予選入選。
「最後のもの」は『創作月刊』2月創刊号に川端康成、片岡鉄兵、小島政二郎、橋本英吉、秀島彬らの顔触れのなかに掲載された。

10月 芥川龍之介「或る阿呆の一生」「歯車」、志賀直哉「邦子」、中野重治「芸術に関する走り書き的覚え書」

1幕4場の戯曲「山本巡査」〈10・24〉は、前衛芸術家同盟の機関誌『前衛』に送られたが、掲載されなかった。12月 小樽映画鑑賞会が創刊した機関誌『シネマ』に評論「チャップリンのこと其他」〈10・31〉
小樽映画協会会員名簿には、多喜二とタキの名がならんである。

11月11日に築地小劇場が再び来樽、ゲーリング「海戦」、ローラン「狼」を公演。ピアノの手配など世話をする。

1927年11月集産党事件。名寄を中心に士別、稚内などで40人以上が逮捕拘束された国内で2番目、道内では初の治安維持法弾圧事件。第1次大戦後、名寄駅や機関庫の労働者を中心に多くの文芸誌が発刊され、70人余で名寄新芸術協会を発足。27年の磯野小作争議と小樽港湾争議、中国への出兵反対のたたかいに参加した同協会の青年たちは同年、社会主義をめざす組織として集産党を結成した。

11月12日、労農芸術家連盟の分裂により組織された前衛芸術家同盟に参加。3月から原稿帳に書きつづけた長編「その出発を出発した女」〈11月〉を中編でやめる。

評論「『海戦』を中心の雑談」(〈12・17〉『シネマ』28年1月号)
11月21日、小樽市中央座で上演された築地小劇場の演劇、ドイツのプロレタリア作家ゲーリング作『海戦』を見て「自分は幕が下りた時、興奮したまま『戦闘艦ポチョムキン』を考えていた。その二つの間に、しかし厳然として存在している大きな画線について考えた」と書き、「築地の『海戦』(もう少しだ)」「『海戦』を中心の雑談」、『シネマ』誌1928年新年特輯号)。対象となった『海戦』が反戦劇であること以上、多喜二は明らかに自分の制作中の作品を、「戦艦ポチョムキン」とくらべ、「もう少しだ」としている。


12月、「防雪林」を起稿。