「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「一九二八年三月十五日」第8章下

2010-04-04 16:25:20 | 小林多喜二「一九二八年三月十五日」を読む
 取調室の天井を渡っている梁に滑車がついていて、それの両方にロープが下がっていた。龍吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さに吊し上げられた。それから「どうつき」のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。その度に堰口を破った滝のように、血が頭一杯にあふれる程下がった。彼の頭、顔は文字通り火の玉になった。眼は真赤にふくれ上がって、飛び出した。
 「助けてくれ!」彼が叫んだ。
 それが終ると、熱湯に手をつッこませた。
 龍吉は警察で非道い拷問をされた結果「殺された」幾人もの同志を知っていた。直接には自分の周囲に、それから新聞や雑誌で。それ等が惨めな死体になって引渡されるとき、警察では、その男が「自殺」したとか、きまってそういった。「そんな筈」の絶対にない事が分っていても、しかしそれではどこへ訴えてよかったか?――裁判所? だが、外見はどうあろうと、それだって警察とすっかりグルになってるではないか。
 警察の内では何をされても、だからどうにも出来なかった。これは面白い事ではないか。
 「これが今度の大立物さ。」拷問係がいっている。彼はグラグラする頭で、そういうのを聞いていた。
 次に、龍吉は着物をぬがせられて、三本一緒にした細引でなぐりつけられた。身体全体がビリンと縮んだ。そして、その端が胸の方へ反動で力一杯まくれこんで、肉に食いこんだ。それがかえってこたえた。彼のメリヤスの冬シャツがズタズタに細かく切れてしまった。――彼が半分以上も自分のでなくなっている身体を、ようやく巡査の肩に半ば保たせて、よろめきながら廊下を帰ってゆくとき、彼が一度も「拷問」を受けた事のなかった前に、それを考え、恐れ、その惨酷さに心(しん)から惨めにされていた事が、しかし実際になってみたとき、ちっともそうではなかった事を知った。自分がその当事者にいよいよなり、そしてそれが今自分に加えられる――と思ったとき、不思議な「抗力?」が人間の身体にあった事を知った。殺してくれ、殺してくれという、しかし本当のところ、その瞬間残酷だとか、苦しいとか、そういう事はちっとも働かなかった。いえば、それは「極度」に、そうだ極度に張り切った緊張だった。「なかなか死ぬもんでない。」これはそのまま本当だった。龍吉はそう思った。しかし彼がゴロツキの浮浪人や乞食などの入っている留置場に入れられたとき、――入れられた、とフト意識したとき、それッ切り彼は気を失ってしまった。
 次の朝、龍吉はひどい熱を出した。付添の年のふけた巡査が額を濡れた手拭で冷やしてくれた。始終寝言をしていた。一日して、それが直った。ゴロツキの浮浪人が、
 「お前えさんのウワ言はなかなかどうして。」
 龍吉はギョッとして、相手に皆いわせず、「何んか、何んか?」と、せきこんだ。彼は付添の巡査のいるところで、飛んでもない事をいってしまったのではないか、とギクリとした。外国では、取調べに、ウワ言をする液体の注射をして、それに乗じて証言を取る、そういう馬鹿げた方法さえ行われている事を、龍吉は何か本で読んで知っていた。
 「ねえ、なかなか死ぬもんか。―― ちょっとすると、またなかなか死ぬもんか、さ。何んだか知らないが、何十回もそれッばっかりウワ言をいっていたよ。」
 龍吉は肩に力を入れて、思わず息を殺していたが、ホッとすると、急に不自然に大声で笑い出した。が「痛た、痛た、痛た……。」と、笑声が身体に響いて、思わず叫んだ。

 演武場では、斎藤が拷問されたので気が狂いかけている、といっていた。それは、斎藤が取調べられて「お定(き)まり」の拷問が始まろうとしたとき、突然「ワッ!!」と立ち上ると、彼は室の中を手と足と胴を一杯に振って、「ワア――、ワア――、ワア――ッ!!」と大声で叫びながら走り出した。巡査等は始め気をとられて、棒杭のようにつッ立っていた。皆は変な不気味を感じた。拷問、それが頭に来た瞬間、カアッとのぼせたのだ、気が狂ったのだ、――そう思うと、誰も手を出せなかった。
 「嘘(たら)だ。やれッ!」
 司法主任が鉛筆を逆に持って、聴取書の上にキリキリともみこみながら、低い、冷たい声でいった。巡査等は、不器用な舞台の兵卒のように、あばれ馬のように狂っている斎藤を取りかこんだ。
 ――なぐりつけた。一度なぐると、しかし皆は普通の「拷問意識」に帰っていた。誰かが斎藤の顔の真中を、竹刀で横なぐりに叩きつけたらしかった。花火でも散るように「見事」に鼻血があふれ飛んだ。見るうちに着物の前が真赤に染ってしまった。彼はワア――、ワア――と、(が、どこかに変な空虚をもった)叫声をあげて、跳ねとんでいた。彼の顔も真赤になった。血の中からあげた、そのまゝの顔だった。
 「これア今駄目だ。」司法主任が「やめた、やめた。――この次だ。」といった。
 そして後で証拠の尾をつかまれぬように、巡査は血のドロドロについた着物を取りあげてしまった。
 斎藤はそのまま十日も取調べをうけなかった。そのうち三日程演武場にいて、監房へ移されて行った。が、拷問があってから、斎藤は今までよりは眼に見えて、もっと元気になった。しかしその元気にどこか普通でない――自然でないところがあった。何か話しかけて行っても、うっかりしている事が多く、めずらしく静かにしている時には、独りでブツブツいっていた。

 沢山の労働者が次から次へと、現場着のまま連れられてきた。毎日――打ッ続けに十日も二十日も、その大検挙が続いた。非番の巡査は例外なしに一日五十銭で狩り出された。そして朝から真夜中まで、身体がコンニャクのようになる程馳けずり廻された。過労のために、巡査は附添の方に廻ると、すぐ居眠りをした。そしてまた自分達が検挙してきた者達に向ってさえ、巡査の生活の苦しさを洩らした。彼等によって拷問をされたり、また如何に彼等が反動的なものであるかという事を色々な機会にハッキリ知らされている者等にとって、そういう巡査を見せつけられることは「意外」な事だった。いや、そうだ、やっぱり「そこ」では一致しているのだ。たゞ、彼等は色々な方法で目隠しをされ、その上催眠術の中にうまくと落されているのだった。では、どうすればよかったか?誰が一体その目隠しを取り除けてやり、彼等の催眠術を覚してやらなけれはならないのだ?――これア案外そう俺達の敵ではなかったぞ、龍吉も他の人達と同じようにそう思った。
 しまいには、検挙された人の方で、こき使われている巡査が可哀相で見ていられない位になった。どんなボロ工場だって、そんなに「しぼり」はしなかった。
 「もう、どうでもいいから、とにかく決ってくれればいいと思うよ。」頭の毛の薄い巡査が、青いトゲトゲした顔をして龍吉にいった。「ねえ、君。これで子供の顔を二十日も――えゝ、二十日だよ――二十日も見ないんだから、冗談じゃないよ。」
 「いや、本当に恐縮ですな。」
 「非番に出ると――いや、引張り出されると、五十銭だ。それじゃ昼と晩飯で無くなって、結局ただで働かせられてる事になるんだ、――実際は飯代に足りないんだよ、人を馬鹿にしている。」
 「ねえ、水戸部さん(龍吉は名を知っていた。)貴方にこんな事をいうのはどうか、と思うんですが、僕等のやっていることっていうのは、つまり皆んなそこから来ているんですよ。」
  水戸部巡査は急に声をひそめた。「そこだよ。俺達だって、本当のところ君等のやってる事がどんな事か位は、実はちアんと分ってるんだが……。」
 龍吉は笑談のように、「そのがが要らないんだがなあ。」
 「うん。」巡査はしばらく考え込むように、じっとしていた。「……何んしろ、見かけによらないヒドい生活さ。ね、君は教授をした位の人だから、こっそり話すがね。(龍吉は苦笑してうなずいてみせた。)咋日さ、どうにもこうにも身体が続かないと思って、附添をしながら思い切って寝てしまったんだよ。いいあんばいだと思っていると、また検挙命令さ。がっかりしてしまった。それでもイヤイヤ四人ででかけた。ところが、途中でストライキをやろうッて話が出たんだよ。」
 「へえ。――巡査のストライキ。」しかし巡査が案外真面目な顔でいうのを見て、彼はフトその笑談を止めた。
 「ストライキなら、その道の先生が沢山いるんだから、教わればいい。それに今度の事件は全国的で、どこもかしこも、てんてこ舞をしてるんだから、やったら外れッこなく万々歳だ、という事になったんだ。」
 龍吉はその話にグイグイ魅力を感じてきた。
 「そのうちでは、ただ俺は署長をたたきのめして、ウ、ウ――ンと思う存分手と足をのばして、一度――たった一度でいいから、グッすり寝こんでみたい、というのがあったり、署長の野郎の元気のいいのは、今度の事件で市内の大地主や大金持から特に応援費として、たんまり懐に入れてるからだとか……。」
 龍吉は聞耳をたてた。
 「偉いことになったんだ。皆は、嫌になった、といって、ワザと、ブラブラ歩いた。それからどこかへ行って一休みして行こうや、という事になって、ついでにH派出所へ寄って漫談をやらかしてしまったよ。」
 「それで?」
 「それだけだけどさ。」
 「………………。」
 「内密だけど、腹をわって見れば、どの巡査だって皆同じさ。ただねえ、ただ巡査だっていうんでそれに長い間の巡査生活で根性が心(しん)からひねくれて、なかなかおいそれと行かないだけさ。」
 龍吉は明らかに興奮していた。これらのことこそ重大な事だ、と思った。彼は、今初めて見るように、水戸部巡査を見てみた。蜜柑箱を立てた台に、廊下の方を向いて腰を下している、厚い幅の広い、しかし円く前こごみになっている肩の巡査は、彼には、手をぎっしり握りしめてやりたい親しみをもって見えた。頭のフケか、ホコリの目立つ肩章のある古洋服の肩を叩いて、「おい、ねえ君。」そういいたい衝動を、彼は心一杯にワクワクと感じていた。

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