「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM" 1-2

2018-05-04 01:05:53 | 多喜二のあゆみー東京在

1.井上ひさし「一週間」が描くもの

 

 井上ひさし「一週間」の主人公小松は、東北の農村出身で、一九三〇年代に苦学して東京外語大と京大を卒業エリートコースをあゆむものの、『貧乏物語』の河上肇に深く影響を受けて、共産党の地下運動に加わって、党機関紙『赤旗(せっき)』配布活動に関係。スパイMが党組織を潰滅させた後に入獄・転向する。そうした若者にわずかに開かれていた新天地中国・満洲に渡り、そこに作られた映画会社の巡回映写班員として、北満洲一帯を巡る。その短かからぬ日々を過ごしたものの、守備隊に動員されて敗戦をむかえ、やむなくシベリアで収容所生活を送ることとなる。
 その一方でかれには、奇怪な任務をやりとげて満洲に逃れたとされる「M」の行方をつきとめて、報復したい執念を燃やす。そしてシベリア・ハバロフスクの日本新聞社に配置されたことで、満州皇帝溥儀(ふぎ)の秘書となっていた武蔵太郎=スパイ「M」らしき人物とつきとめる、そしてその「M」と対決する一場ともなっている。

 主人公を一般の兵士ではなく、戦前日本共産党の地下活動に従事しスパイ「M」と行動したことがあることで逮捕され、のちに転向した共産党員と設定。修吉を、満州→シベリア抑留地においても、スパイMの追跡者と位置づけて、執念に満ちた追跡行動を具体的に描いている。

 同作は生前、『小説新潮』で二〇〇〇年二月号から始まり、半年から一 年半の大きな中断を三度はさんで、二〇〇六年四月号で完結したものを、没後一冊にまとめたもので、大江健三郎は [井上ひさし『一週間』刊行記念] 小説家井上ひさし最後の傑作」『波』(2010年7月号)で、「私は文字通り寝食を忘れて読みふけり、その、井上さんの演劇活動最盛期にわずかな休載があっただけだという長篇小説が、『吉里吉里人』と堂どうと対峙する、作家晩年の傑作である」と評価する。

 同作の発表後、大きな反響を呼んだが、そこで注目されたのは、井上がそこに持ち込んだ大きな仕掛けが、修吉を、日本人捕虜の再教育のために極東赤軍総司令部が作った日本語の新聞社で働かせた過程である。

 捕虜となった日本兵たちの生活の極度の悲惨が、ハーグ陸戦法規の俘虜条項に赤軍も日本軍も無知であったことによること、収容所でもそのまま踏襲されている旧軍幹部の秩序がそれを拡大させていると気付かさせます。さらに小松が日捕虜向けに出している「日本新聞」の編集局に配属させることで、レーニンが実はユダヤ人とドイツ人の混血であり、また少数民族のカルムイクの出身であるという、ずっと隠されてきた事実をレーニン自身が友人に書き送った手紙を手に入れさせます。小松修吉にこれを使わさせてロシア赤軍将校たちとの争闘させている。

 

2.共産党の活動資金とは

一九二九年(昭和四)年八月ごろから党技術部金策係責任者・曽木克彦の手により、蔵原惟人を通じ、ナップ(作家同盟)内に資金網がひろげられ、戦旗社、戦旗社読者会からも昭和五年一月頃から資金の提供がはかられた。この資金網の一端に多喜二はいたのである。この資金網が摘発され、多喜二は罪に問われた。

「プロレタリア文化運動に就いて」(同前)には

――「昭和六(1931)年頃は、手塚英孝に於いて作家同盟員より約百円位集金したにとどまったが、同年夏には資金集金の責任者として西沢隆二が選ばれたが、同年十一月頃より、党中央委員会特別資金局員 伊達こと近藤勤が文化団体の責任者となり、プロットは 中村栄治こと今村重雄、作家同盟は小林多喜二が責任者となり資金の獲得に努めた」との情報がある。 多喜二の「我々の芸術は……」(色紙)と時を同じくしての、多喜二の資金集めの情報がピッタリ重なる。多喜二入党直後の文化分野党員の「党生活」は、資金活動中心だったことがうかがえる。

こうした、自主的な資金活動の他方、一九三一年三月、党中央委員・紺野与次郎が上海のコミンテルン極東ビューローに運びモスクワに届けた報告書が残されている。

当時の党員東京四四名等々の詳細な党勢報告と、モスクワのコミンテルン本部への中央委員手当一人百円総計月二千円の活動資金請求などが、率直に述べられていた。それで、スパイM=松村が実質的に動かしていた中央委員会の活動は詳細にわかる。


井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM" 序

2018-05-04 00:59:50 | 多喜二のあゆみー東京在

井上ひさし「一週間」と二人の"スパイM"

一、井上ひさし「一週間」が描くもの

二、共産党の資金活動

三、第五回プロフィンテルン大会がもたらしたもの

四、31テーゼ草案と共産党大衆化

五、スパイ「M」-松村

六、もうひとりの スパイ「M」 -三船

七、「赤旗」事件

八、特高の「M」-毛利

九、多喜二「地区の人々」の意図

十、「日本新聞」と「赤旗」

 

 井上ひさしの晩年の仕事に、「組曲虐殺」と「一週間」がある。

「組曲虐殺」は、プロレタリア作家・小林多喜二の生涯を劇化したものだ。そして「一週間」は、井上ひさしの父・小松修吉を主人公にしたものだった。

私にはこの二作はコインの表裏のような関係にある作に思える。そして、この二作をつなぐものは“二人のスパイM”。

 

一人は、松村昇(本名飯塚)、一人は三船留吉--。

            ◇

「組曲虐殺」では、満州事変以後の反戦活動のなかで、治安維持法で非合法とされ、地下活動に入った作家・小林多喜二の晩年を主にとりあげている。

 多喜二が地下活動に入る動機となったのは、一九三二年春のプロレタリア文化運動への大弾圧だった。プロレタリア作家同盟書記長として運動を指導していた。1931年秋に入党していた多喜二は、地下から反戦活動を指導していた日本共産党の文化運動の指導だけではなく、宣伝・扇動部を担い、活版印刷で大衆的普及をひろげていた『赤旗』文化面の編集を担当し、さらに反帝同盟執行委員として反戦統一戦線運動に挺身し極東反戦大会の成功のために奔走した。

 地下活動に入った多喜二は非公然の潜伏活動のなかで、作家・評論家としても果敢に筆をとり『改造』『中央公論』誌なでに「転形期の人々」「党生活者」「沼尻村」「地区の人々」、「赤旗」紙面での短編連作を遺している。

 

 一方の「スパイM」とは、この日本共産党に潜入した特高のスパイであり、あろうことか共産党の組織部、家屋資金局の責任者となり、事実上、委員長に次ぐナンバー2だったといっていい。 スパイ「M」のその正体と罪状が明らかになるのは、戦後になってからだった。


松本清張 『昭和史発掘』第十三話 「スパイ“M”の謀略」

 

・小林峻一・鈴木隆一著 『昭和史最大のスパイ・M-日本共産党を壊滅させた男』 (ワック、2006)

・1976(昭和51).10月5日から10月8日、共産党機関紙「赤旗」紙上に、「スパイMこと飯塚盈延(みつのぶ)とその末路」が発表され、スパイMの全体像が簡略ながらも明らかにされた。

立花隆 『日本共産党の研究』(上下巻、講談社、1978

 

 


多喜二絶筆小説ともいえる「地区の人々」

2018-04-29 14:51:04 | 多喜二のあゆみー東京在

多喜二絶筆小説ともいえる「地区の人々」は、前年の「党生活者」と同じく作者自身のたたかいを踏まえた小説世界である。かなりのコンテンツが作者と作者周辺の人々の体験や情報として織り込まれている。ただし、当時は満州事変から「満州国建国」以後、急速に中国への侵略を拡大する日本ファシズムの確立期であり、多喜二の入党した日本共産党は創立時から合法的活動を禁じられる存在であり、その言論をこそ、天皇制政府は恐れ、文化分野の活動家に徹底した弾圧を下していたさなかの執筆だった。
特高警察は10月の党中央部指導者の集団検挙、拷問、虐殺のなかで壊滅に追い込んだはずだった。その弾圧にもかかわらず、共産党員作家小林多喜二が堂々と、ブルジョアジャーナルである『改造』誌に発表したものだった。特高の激怒も想像できようなものだ。その党中央と「地区」との連絡のさまを生き生きと描き、不死鳥たる共産党とその反貧困・反戦活動家たちとの交歓を描いた作である。
もちろん、当時の状況から、作者は奴隷の言葉を使わなくてはならなかったし、編集者は伏字、削除を余儀なくされたのではあるが、そのたたかいの「火」は確実に継承されたのだった。


多喜二がその成功のために奔走した「上海反戦会議」

2012-12-14 22:43:43 | 多喜二のあゆみー東京在

「反戦反帝の国際連帯のだたかい」(京都学習協)より

一九三一年九月一八日夜、日本の関東軍は、奉天北郊の柳条溝で鉄道をじぶんの手で爆破し、これを中国のしわざだといつわって、とうとう「溝州」(中国東北部)侵略の軍事行動をおこしました。

 一九三二年三月には、カイライ国家「溝州国」をつくって、これを中国とソ連への侵略基地にしたてました。そして一九三七年七月七日には、蘆溝橋事件を理由に、ついに中国との全面戦争に突入、一九四一年一二月八日には真珠湾攻撃によってアメリカに宣戦、それから一九四五年八月一五日の敗戦・降伏まで、じつに足かけ一五年間のながい戦争に人民をなげこんだのです。

 日本人民は労働者階級を中心にして、三・一五事件、四・一六事件によって大きな打撃をうけたにもかかわらず、不屈のたたかいをつづけました。

 さきにのべた対支非干渉同盟の活動は、反戦同盟をへて、日本反帝同盟(一九二七年に片山潜、宋慶齢、ロマンーロランらによって創立された「世界反帝国主義・民族独立支持同盟」の日本支部として、一九二九年一一月七日結成される)にうけつがれ、反帝同盟は、「帝国主義戦争反対」「中国革命の擁護」「朝鮮、台湾の完全な独立」「在日朝鮮人、台湾人の差別反対、生活と権利の擁護」などの要求をかかげて、日・中・朝三国人民の連帯行動と反帝統一戦線のためにたたかいました。

 そして、一九三三年には、国際反戦委員会(一九三二年八月のアムステルダム反戦大会で事務局を常設)のよびかけで、上海で反戦会議がひらかれることになったので、日木共産党をはじめ日本反帝同盟加盟の祖織は、その支持委員会を工場、農村、学校、地域につくって、反帝反戦の活動を全力をあげてくりひろげました。

 秋田雨雀、江口渙、佐々木孝人、加藤勘十、金子洋文らの進歩的民主主義者や左翼社会民主主義者らも「極東平和友の会」をつくって、これに協力しました。

 一九三二年二月二〇日、輝かしいプロレタリア作家であり、共産党員であった小林多喜二がとらえられて、築地警察署で残虐な拷間によっで殺されたのも、かれが文化団体選出の反帝同盟執行委員として、上海反戦会議のために活働していたときでした。同年九月三日、東京の本所公会堂でひらかれる予走の「日本反戦大会」も、発起人であった布施辰治らがことごとく事前に検挙され、会場を警官によって占拠されたため、開くことができませんでした。

しかし、上海反戦会議は九月末日に、国民党と各国帝国主義者の弾圧下に、秘密のうちに上海でひらかれ、イギリス労働党のジャン・マレー卿をはじめ、フランス、ベルギー、ポーランド、アメリカ、宋慶齢末人を中心とする中国代表らか参加しました。これは、戦後一九五二年に北京でひらかれた「アジア太平洋地域平和会議」の前史をなすものとして、大きな意義をもつものでした。

 これら国内の反戦反帝運動と呼応しで、ドイツでは国崎走洞らが「革命的アジア人協会」をつくって反戦運動をおこなっていました。

 しかし、この間、共産党のなかからも、佐野学、鍋山貞親、三田村四郎らが、天皇制権力のまえに屈服して、獄中で「転向」して、労働者階級をうらぎりました。そして、一九三四年の初めごろには、共産党をはじめ全協その他の戦闘的大衆組織も、ほとんど活動できないまでに破壊されてしまったのです。野呂栄太郎(一一月逮捕、拷問のため・翌三四年二月死亡)についで、一九三三年暮、支配階級が共産党指導部にもぐりこませたスパイを摘発して捕えられた宮本顕治は、特高警察の拷問とでっちあげに抗して、さいごまで節をまげず、真実を守って敢然とたたかいぬきました。

 なお、この間、日本の労働運動のもっとも古い、すぐれた先覚者として偉大な足跡をのこし、天皇制政府のために海外に亡命をよぎなくされたのちも日本共産党の創設に指導的な役割をはたし、世界、とくにアジアの反帝反戦闘争のために東奔西走して、生涯を世界革命のためにささげた片山潜が、死の瞬間にいたるまで、思いを祖国の労働者と人民のうえにはせながら、一九三三年一一月五日モスクワで死去したことも忘れることはできません。

東京地下鉄の「もぐら争議」

 労働者は、さきにのべた反戦反帝の不屈のたたかいと同時に、戦争の拡大とともにひどくなる一方の労働条外の切下げや権利のはくだつに抗して、きびしいたたかいをつづけました。一九三二年三月の東京地下鉄の仲間たちの「もぐら争議」は、その代表的なものでした。

 一九三〇年ごろから全協のオルグが東京地下鉄の工作にとりくみ、うどん会、同期生会、ピクニック、学習、映画や文芸サークルなど、いろいろな自主的なサークルをつくる活動をねばりづよくつづけて、ようやく二〇名たらずの全協地下鉄分会かできたのは、一九三一年一一月ごろでした。

分会員たちは、分会機関紙や職場新聞をつくり、あらゆる方法で、職場の要求、不満、できごとを知らせあうなかで、ついに、勤務時間を七時間にしろ、女子の給料を一円五〇銭に、詰所を地上に、駅に便所をつくれ、現場手当一五円、現金出納係手当三円をつけろ、生理休暇をあたえろ、入営、演習のときは休職にして除隊後は元給で復職させろ、出征中の給料は全額支給しろ、など二五項目の要求をまとめてストライキを準備しました。

交渉委員をはじめ、すべて民主的にえらばれ、全員の部署、任務もみんなできめ、争議戦術をはなしあいました。その結果、一九三二年三月一九日の夜半、終電車四台を上野の地下鉄の入口にとめ、最前部には鉄条網をはりめぐらして、「さわると死ぬ」と貼りだし、三週間分の食事や日用品をはこびこんで、全員一五八名が車内にたてこもりました。一〇代から二〇
代のわかい労働者、とりわけ婦人労働者が中心でした。

 こうして、二〇日始発からストライキにはいり、「闘争日報」や「家族への手紙」がガリ刷りで発行され、また外部とは、激励のモナカのなかに、銀紙でつつんだレポートをいれたりして連絡がとられました。このストライキを知って、東武、西武、小田急でも出征兵士にたいする要求がだされはじめたので、これをおそれた陸軍省の圧力もあって、四日目になって、会社は「出征兵士は欠勤とし、軍隊支給との差額を支給する」「入営兵士は除隊後ただちに原職に復帰させる」「女子の賃上げ、山札手当、神田、浅草に便所をつくる」などをみとめました。しかし、官憲は卑怯にも争議がおわると。

 「赤色分子」の名で、先頭にたってたたかった共産党員や活動分子をとらえて投獄しました。

 この「もぐら争議」は、もし、労働者の切実な諸要求を土台にして、一人ひとりの自覚と創意にもとづいて、周到な準備がされるならば、どんな困難な条件のもとでもストライキは勝利しうることをおしえています。
(谷川巌著「日本労働運動史」学習の友社 p81-84)


共産党事件の主なるシンパ 時事新報 1931.5.21(昭和6)

2011-09-04 10:05:34 | 多喜二のあゆみー東京在

時事新報 1931.5.21(昭和6)


再生共産党事件の主なるシンパサイザー


今回の日本共産党再建に当り首脳部は在露コミンテルンと意志の疎通を欠き、活動資金の調達に悩み田中のみは去る四年秋モスクワから帰国した今本、岩尾等の同志から資金を融通されたが、佐野前納等は極度の資金難に陥った処から別項の如く党中央部に金策部を設け曾木克彦を責任者として内地に於て資金の募集をなすべく去る四年十月頃から左翼運動に理解ある少荘学者、文士、芸術家等の同情にすがり五年二月までに五千五百円醵金を受けたことが判明し、この間中央技術部の懇請により事情を知って毎月党本部へ定額の寄附行為をなしたシンパサイザーも多数あり主なる人々は次の如くである

麹町区平河町五の二五
東大法学部助教授 平野義太郎
芝区芝公園一三号
 文士 蔵原惟人
市外杉並町高円寺五三七
 法政、日大教授 三木清
本郷区駒込曙町一
 法政大学教授 小林良正
市外高田町雑司ヶ谷亀原二五
 東大経済学部助教授 山田盛太郎
市外稗衾町碑文谷一、二九一
 伝染病研究所医師 滋賀秀俊
市外池上町一、四四九
 新聞記者 小沢正元
本郷区駒込東片町四一
 東京帝大助手 小宮義孝
市内千駄ヶ谷町八九六
 新聞記者 武井一男
府下三鷹村牟礼四一三
 画家 永田一修
市外落合町上落合一八六
 文士 村山知義
小石川区駕篭町二二六
 ナップ同人 佐野碩
市外板橋町羽根沢三、四八一
 画家 岡本唐貴
市外中野町大場一六四七
 ナップ同人 大河内信威
赤坂区新坂町二四
 文士 高田保

略歴

シンパサイザーとなり運動を支援したため検挙された主なる人々の略歴は左の如くである

 

平野義太郎

 京橋築地の生れで、一高を経て大正十年四月東京帝国大学独法科を首席で卒業、法学部研究室の助手となったが在学中帝国学士院よりローマ法の論文につき名誉の書籍を贈られ又高文行政科をパスした秀才、大正十二年六月法学部助教授に任命され昭和二年二月二十五日フランスへ留学を命ぜられたが、平野氏は予て帝大内に於ける左翼教授として大森義太郎氏等と共に文部省から睨まれて居り殊に「法律に於ける階級闘争」の著書に於てストライキ及び罷業の合法性を認め主張した、法学部学生は徹底せる氏の理論に心服していたが、文部当局の圧迫で退職せしめられた

 

大河内信威

 元貴族院議員で貴族院研究会の首領工学博士大河内正敏子爵を父に持つ名門の出である、明治三十五年長男として生れ、高等師範附属中学を卒業したが三年頃から研究、十年夏山川均の水曜会に入り、大正十二年浦和高校文科に入学、在学中学生連合会を組織そのリーダーとなり左傾分子として二学年の時盟休事件に参加し一年後れて卒業、東京帝大経済科入学試験に左傾学生として入学を許されず、其後十四年末プロレタリヤ文芸家同盟に入り小川信一と称しシンパサイザーから九百九十四円を集金自身百九十八円を支出し、金策係に支給した、同人は市外中野町中野一六四七に志寿江夫人(二三)の間に信具(四)とささやかに暮し、志寿江夫人は石川県出身で上京遊学後帝劇女優をしている頃知り恋愛自由結婚をしたため別居嫡子のため全く勘当も出来ず正敏子爵の大きな悩みの種となっている、信威一家の生活費は毎月ひそかに子爵家から仕送られている模様である父正敏子は令息が今次の共産党事件に連座したため貴族院議員其他一切の公職を辞し淋しい日を送っている

 

山田盛太郎

 八高卒業東京帝大経済学部在学中マルクス資本論を研究し卒業後助教授に任ぜられ、曾て資本論を教材に用うることを教授会に提出し、土方成美博士等と激論を交え否決されたことがあるが、わが国に於けるマルクス学者の一権威として認められていたが大森、平野両助教授等と共に赤色教授として文部当局に睨まれ五月の検挙の厄に逢い後釈放されたが、七月十一日附で免職となった

 

佐野碩

 脳神経科の大家医学博士佐野彪太氏の長男明治三十八年生れ、父博士は故後藤(新平)伯の女婿で、また三・一五共産党事件で有名な佐野学の実兄である、同人は浦和高等学校時代から演劇に興味を有ち学生時代にプロ劇を実演、学校当局から注意人物とされていた、帝大文科入学後も読書会等に加入して活躍し中途退学後全日本無産者芸術家同盟の同人となり村山知義等と共に左翼劇場の指導者となった、二三子夫人(旧姓高橋)と演劇研究所に研究中恋愛に依り結婚したもので夫人は現在小石川駕篭町の博士邸に居るが夫君が左翼劇場演出主任となってからは同劇場のスターとして昭和四年六月築地小劇場に上演した夫君演出の「全線」には主役葉青山の女房翠英に扮したことがある

 

三木清

 大正五年一高を経て京都帝大に入学、西田幾太郎教授指導の下にディルタイ純粋哲学の研究に専心し卒業後ドイツに留学し、ヘーゲルの弁証法に興味を持ち暫時マルキシズム研究に没頭していた、帰朝後は日本東洋、法政各大学の講師をしていたが、論文は三木哲学完成を暗示し西田哲学と並んで世界に誇り得る哲学大系が完成される日が近づいたものと期待されていた位で、純情な氏は今回の事件にも可成喰い入っていたといわれている

 

小林良正

 故法学博士小林丑三郎氏の長男で、東大経済学部で経済学を専攻したが、現在は法政大学経済学部の講師をした居る

 

被告の略歴 帝大を出て―ドックの人夫に細胞組織に努めた年若の首領田中清玄

中央委員長田中清玄はまだ二十六歳という若さで、北海道渡島国亀田郡七飯村大字七飯字鳴川一二士族で母愛子の手に育てられ、大正十三年函館中学を卒へ弘前高校理科乙類を経て昭和二年四月東京帝大文学部美術史科に入り、二年で退学した
 帝大入学後は新人会に入ったが理論闘争を排撃して神奈川の浅野ドックの人夫となり、先ず工場細胞として活動、三・一五事件で神奈川県特高課に検挙されたが釈放されるや、東京地方で細胞組織に当り、今回は関西を中心に党フラクションの再組織に奔走し昭和四年春モスクワから帰国した今本文吉、岩尾家貞等が本部から資金をもって来たのでこれにより活動を続けていた同人は変名多く検挙直前は大塩平八郎に自分を擬して大塩と名乗り代表的のものとしては神田哲夫がある、同人が思想的傾向を把握したのは住居が下町であった関係上土地の人が上町と下町に区別をつけたのを上町はブルジョアとして畏敬するに対し意識的となったものであると

 

犯行を悲しみ田中の母自殺 資産を特に田中に残して

愛人の閨秀作家中本たか子と共に小田急沿線祖師ヶ谷の隠れ家で逮捕された田中清玄の母愛子は夫幸吉に二十数年前死別してから北海道渡島国から函館市下町に転任、産婆を開業し二児を養育し女ながらも相当立派な生計を立てていたが清玄の兄が死去後同人の成長を楽しみにし東大文科にまで入学せしめたが、早くも左傾し母の許に音信もせず遂に今回の検挙により投獄さるるに至った一方、母親は愛児の将来を気遣い悲歎の余り「清玄が出獄してから遺産を渡して戴きたい」と縷々親心から綴った遺書と遺産約四万円を残し万事を知合の牧師に依頼した上昨年二月十日仕事に用うる昇汞水を嚥んで自殺を遂げてしまった

 

活躍した婦人党員

此の事件には婦人の活躍がかなり重要な役割を演じ屋内に在って炊事洗濯を初めレポとして街頭に進出する等活躍した

 

獄中で発狂 女給からプロ作家―中本たか―

女党員として首領田中清玄と同棲中検挙された女流作家中本たかは明治三十六年十一月十九日山口市後河原栗本小路一九八予備陸軍中尉幹隆(七一)長女として生れ山口高女卒業後大正十年十二月下関市王ノ江小学校に教鞭を執っていたが同十四年四月家出、昭和二年六月市外淀橋町角筈八五八文士加藤正種と同棲したことあり、別れた後自暴自棄となり四谷区永住町一三六大黒カフェー新橋一の八八カフェーキング、市外淀橋町角筈一カフェーツバメ等で女給をし転々放浪生活を続けていたが創作を発表して認められ一躍プロ女流作家となり婦人公論改造等に寄稿して作家生活に入る一方実際運動にも進み再生共産党中央部が確立するや婦人闘士として活躍しコンミンテルンより帰った岩尾家貞と同棲し妊娠した事もあり誰彼の見分けもなく懇ろになっていた、懐妊しているのを入獄後分娩させては危険だとの医師の診断により一時釈放堕胎手術をなし、同年十月二十七日再び市ヶ谷刑務所に収容されたが急激な生活変化のためか郷里や実家のことを甚しく心痛し毎日のように親許に宛てて通信する等只管罪償いをねがっている模様に見受けられ、本年二月精神上の打撃のためか遂に発狂したので現在は府立松沢病院の一室に収容され華やかな活躍時代も忘れたものの如く放心状態で悲惨な日々を送っている

 

故宇都宮大将の息 宇都宮徳馬

 田中、西村の首脳部をかくまい党の活動に尽力した一方に不敬不穏を極めた論文を作り不敬罪に問われた宇都宮徳馬は、市外渋谷町向山一七戸主で故陸軍大将宇都宮太郎氏の長男で二十六歳、長姉は明治天皇の侍従武官長だった木村中将の息に嫁いでいる、同人は府立一中を修了陸軍幼年学校を卒業したが、水戸高校に入り昭和三年三月卒業、京都帝大経済学部入学昨年六月退学した、同人は水高時代社会科学を研究し全日本学生社会科学連合会水高代表とし参加もしたが、京都帝大在学当時は京都合同労働組合等に関係を持っていた

 

入露して主義の研究 副首領の佐野博

赤坂のポントンで劇的逮捕を見た副委員長格の佐野博は大分県杵築町字上町文雄弟で二十七歳亡父は医師をやっていた、三・一五事件の大立物佐野学、故後藤新平伯の女婿で脳神経系統学の権威佐野病院長佐野彪太博士は叔父である
 大分県杵築中学二年の時東京錦城中学に転校七高を大正十四年卒業、翌年東大文学部社会科学に入学せんとし学校当局が入学を許可した時は既に入露していた、十四年十月、日本共産青年同盟に北浦千太郎の紹介で加盟十五年三月末高橋貞樹と共に神戸から浦潮を経て入露モスコウレーニン学校に入学、後東洋共産主義大学等で主義理論を研究同年五月ロシア連邦共産党員候補者に挙げられ学校細胞に当り其後正式に党員に推されたが、三・一五事件の大検挙があったため日本共産党再建の秘密命令をコンミンテルンより受け、同年十一月中旬モスコウ発浦潮着十二月上旬浦潮発厳寒のシベリヤを徒歩で露支国境を越え上海に入り同月二十八日夜帰京、巧みに所在を晦まし共産青年同盟のリーダーとなり四四・一六事件で検挙されたが間もなく釈放されその後は共青の責任者となってコンサモール運動を続けていたが田中、前納等と結び中央部首脳となり再建に尽していたものである

 

最年少者商大総長の息―佐野武彦

 佐野武彦は市外千駄ヶ谷八三四に生れ最若年者で東京商大総長佐野善作氏四男で市立一中四年から早稲田第一高等学院政経科二年在学中退学を命ぜられ、其後共産青年同盟に関係し昨年二月選挙当時ビラ撒きで府下北多摩郡谷保村青柳の自邸から検挙されたものである、尚お次兄英彦も弟同様運動に専心して検挙されるに至ったので父博士は二児が事件に連座したので教育者の立場からいたく恥じ近く商大総長を辞する筈であるといわれている

 

学生の地下運動 京大生以下百五十四名検挙され九名起訴―学生グループ事件

四・一六事件の検挙直後から再び学生間に左翼運動が地下的に画策され出し共産党下に活躍して居た京大学生の検挙が昭和五年二月一日以来五箇月間に亘って京都府警察部特高課の手により行われ其数京大を始め三高、同志社、府立医大竜大、同志社高商、同女専等の学生百五十四名に及び京都地方裁判所検事局は大阪検事局の応援を求め遂に九名(内一名中途死亡)の起訴を見た所謂学生グループ事件は二十日午後五時新聞記事掲載禁止を解除された、起訴された被告は左の如くである

 

起訴された者

京大経済学部二年
 長谷川茂 (二三)
京大経済学部二年
 寺尾一幹 (二四)
京大経済学部三年
 船橋正直 (二八)
京大経済学部三年
 山田新三郎 (二五)
京大経済学部二年
 山下良治 (二三)
京大文学部三年
 柳原豊 (二四)
京大法科三年
 香川信雄 (二五)
当時無産者新聞京都支局責任者
 草野悟一 (二三)

 

事件の内容

彼等は四・一六事件で壊滅後大学内に再組織を企て関西F・Sを組織し京大、三高、同志社大学、府立医大、竜大、同志社女専、京都女専、大阪では関大、外語、商大に連絡を取り又地方では四高、八高、姫路高校、広島高校、高知高校等にS・S会を組織せしめ教育政治組織の拡大強化各学校の時事問題及び左翼学生のストライキ指導をなし共産青年同盟の指導闘争形態を作り、関西F・Sの解体を声明し同年十二月初旬より共産党の組織下に入ったものである(京都電話)

 


データ作成:2010.3 神戸大学附属図書館

 


多喜二が投獄された豊多摩刑務所(中野刑務所)展11/25まで

2010-11-14 06:07:43 | 多喜二のあゆみー東京在

思想犯収容した刑務所 文化人とモダン建築紹介 中野の図書館

2010年11月7日 東京新聞より

 

 

 思想犯を収容していた旧中野刑務所(中野区新井)の着工百年にちなみ、モダンな近代建築としても知られる刑務所と、収容されていた文化人を紹介する企画展が二十五日まで区立中央図書館(中野)で開かれている。

 中野刑務所はもともと市谷にあった市谷監獄が豊多摩監獄として中野に移転。一九一五年に完成し、その後、豊多摩刑務所となり、終戦までは主に治安維持法違反の政治、思想犯が収容された。中には「蟹工船」で知られる小説家小林多喜二や詩人壺井繁治ら作家も含まれた。戦後は連合国軍総司令部(GHQ)の接収を経て中野刑務所となった。八三年に廃止され、平和の森公園になった。

 移転当初や解体時の刑務所の写真約二十点、刑事政策専門の矯正図書館(新井)から借りた写真集など刑務所に関する書籍約十冊を展示。収容されていた文化人が刑務所について書いた部分を抜粋して掲示し、刑務所の歴史を振り返った。

 小林や壺井、経済学者河上肇、哲学者三木清ら収容されていた文化人、作家八人と、刑務所を設計した後藤慶二の紹介パネルを展示。あわせて小林の「蟹工船」や壺井の詩集など所蔵する著書、関連本約百冊を並べた。本は企画展終了後、借りられる。

 図書館は「刑務所の歴史を知ってほしい。中野ゆかりの作家の本を読んでほしい」としている。月曜休館。問い合わせは区立中央図書館=電03(5340)5070=へ。 (松村裕子)


1932年4月10日 愛国第11長岡号

2010-01-14 19:24:53 | 多喜二のあゆみー東京在
愛国第11長岡号
 1932年2月に飛行機献納の計画が発表されると、市民の戦争熱を利用したこの運動は盛り上がり、5万円を超える金額が集まりました。献納飛行機の命名式は4月10日に東京代々木の練兵場で行われ、飛行機は「愛国第11長岡号」と名付けられ、翌日、長岡への訪問飛行しました。

写真は、1932年4月10日代々木練兵場での愛国第11(長岡)号。

1932年夏―反帝同盟、霧社事件、百合子「刻々」

2008-12-14 10:52:52 | 多喜二のあゆみー東京在
1932年7月8日、日本反帝同盟の中央執行委員会が開催され、4月の文化分野への大弾圧以来、地下活動を余儀なくされていた小林多喜二が文化連盟から派遣された執行委員として加わった。

同執行委員会で検討された課題は、以下の

①八・一国際反戦デーの準備と宣言の発表、

②ゼネヴァ反戦大会への代表派遣とともに、

③日本帝国主義の満洲侵略に反対する諸活動に取り組む

という3項だった。



この時期の多喜二について手塚英孝『小林多喜二』の年譜は、「七月、麻布区新網町にうつる。日本反帝同盟の執行委員になる」と記している。

これは、『定本小林多喜二全集』第15巻の年譜での「八月」を訂正してのことであろう。

手塚は反帝同盟とは何を目的にした団体であり、多喜二の作品世界と具体的にはどのような関係にあるかは、解明しなかった。

多喜二の反戦活動の展望とその主体的な関わりをとらえるには、多喜二の反帝同盟での活動を明することが重要な意味をもつのである。



 このころの多喜二の反帝同盟での活動について、日本反帝同盟委員長・谷川巌は『アカハタ』(63年2月19日付)の特集に寄せた小文で、「(32年から33年にかけて)日本反帝同盟のしごとをしていたわたしは、加盟団体の一つであった文化連盟選出の反帝同盟執行委員であり、同時に共産党グループであったある同志(小林多喜二のこと―引用者)と、かなりながいあいだ、いっしょに会合に参加したり、毎週定期的に街頭での連絡をとりながら、当時中心的な課題であった上海でひらかれる極東反戦会議の運動に熱中していた」(「不屈の反戦反帝の戦士」33年3月4日付『赤旗』)というほど多喜二が意欲的に活動していたことを証言している。



その一文の冒頭で

 「熱河では、すでに、日本の帝国主義の侵略行動が拡大し、爆撃機と毒ガスに幾十万の日本、朝鮮、台湾、中国の勤労大衆が殺りくされている時、去る二月二十日日本プロレタリア文化運動の輝ける指導者、ボルシェビィキ作家、同志小林多喜二は鬼畜に等しい天皇制テロルによって虐殺された。」「同志小林を虐殺した天皇制帝国主義は、戦争遂行のため日本の勤労大衆を飢餓と失業と政治的無権利につきおとし、朝鮮、台湾を惨忍比類ない抑圧下におき、土地と文化と自由を踏みにじり、最近にも五・三○間島事件の同志十二名を虐殺し、台湾霧社蕃事件の同志三十六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた。同志小林は死をもって組織を防衛したすぐれた共産党員、ボルシェビィキ作家であったとともに、わが日本反帝同盟の加盟団体である文化連盟の反帝執行委員として、かれの全生活と全作品を一貫して、朝鮮、台湾の完全な独立、中国分割反対、中国ソビエト支持、ソビエト同盟擁護のために身をもって闘争した反帝戦士であった」



と多喜二が「文化連盟選出の反帝執行委員」を務めたことを明らかにし、その具体的活動として「逮捕された直前まで、きたるべき上海反戦大会の積極的支持者として、上海大会支持の大衆的運動のため東奔西走していた」ことを述べていることは貴重な証言だと思う。



ここで谷川が「台湾霧社蕃事件の同志三六名をことごとく虐使と自由はく奪と野蛮な台湾のろう獄の設備によって餓死せしめた」と指摘している「台湾・霧社事件」は、日本軍が他国民に対してガス兵器を実戦使用した事件として知られ、「党生活者」の世界との関係性も重要である。



陸軍はすでに27年に瀬戸内海の西方、広島・忠海町の大久野島に「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」の看板を掲げる日本最大の毒ガス生産基地を建設するなど、毒ガスの研究に本格的に取り組んでいた。そして30年に日本帝国主義支配下の台湾で少数民族高砂族が反乱に立ち上がると、その鎮圧に有毒ガス兵器を使用したのである。



この「霧社事件」のころ、多喜二は共産党への資金提供の罪で多摩刑務所に投獄されていたので、リアルタイムでこの事件報道には接することはできなかったが、出獄後すぐに知ることになっただろうと思われる。

なぜなら、多喜二の「東倶知安行」掲載の『改造』誌巻頭に霧社事件関連の記事が掲載されているからである(『改造』31年3月号に、川上丈太郎と河野密の対談「霧社事件の真相を語る」が掲載されている)。



自分の作品が掲載された雑誌を読まないはずはない。そして、多喜二は非合法生活に追い込まれて数ヶ月後には、この日本帝国主義の支配からの解放を進める日本反帝同盟の執行委員の大任を負う執行委員となるわけであるから当然この抗日蜂起事件は知るところとなったはずである。



(※同反帝同盟は、第1回全国大会を31年11月初旬に開催。加盟団体は全国農民組合、日本労働組合全国協議会などで、メンバーは在日朝鮮人および中国の留学生・台湾出身の中国人も重要な構成部分として含んでいた。そもそも「日本反帝同盟」は、はじめ「対支干渉同盟」から出発した日本の反帝反戦運動が、29年8月のドイツ・フランクフルトでの「国際反帝大会」を契機として結成されもので、反帝国主義・民族独立支持同盟に正式に加盟した組織である。) 


ちなみに同じ時期、作家同盟に所属した日本共産党員の宮本百合子(当時中條姓)の「刻々」にも、この「霧社事件」についての記述がある。この記述は度々引用される個所ではあるが未だ、「霧社事件」との関連では論議されてきたことがないだけに重要な事項であるだろう。

 それは

 ―帝国主義文明というものの野蛮さ、欺瞞、抑圧がかくもまざまざとした絵で自分を打ったことはない。自分は覚えず心にインド!印度だ、と叫んだ。インドでも、裸で裸足の人民の上に、やはり飛行機がとんでいる。人民の無権利の上に、こうやって飛行機だけはとんでいるのだ。革命的な労働者、農民、朝鮮、台湾人にとって、飛行機は何をやったか?(台湾霧社の土人は飛行機から陸軍最新製造の爆弾と毒ガスを撒かれて殺戮された。(傍線引用者)猶も高く低く爆音の尾を引っぱって飛んでいるわれわれのものでない飛行機―。



とあり、百合子は明確に毒ガス戦の視角から「霧社事件」をとらえているのである。

小林多喜二も当然、これらの把握の上に立って、この時期の小説「党生活者」をはじめとした創作や、評論に自らを鼓舞し、取り組んだことだったろう。


多喜二年譜1933

2008-12-14 00:05:46 | 多喜二のあゆみー東京在
1933(昭和8)年
1月7日、「地区の人々」を書きあげ、『改造』3月号に発表。このころ伊藤ふじ子が職場で検挙される。
『プロレタリア文学』2月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(6、7、8、結び)〈1・10〉
『プロレタリア文化』4月号に、「同志淡徳三郎の見解の批判」(右翼的偏向の諸問題2章)

1/20隠れ家を襲われ、渋谷区羽沢町国井方にひとりで下宿。

『プロレタリア文化』3月号のため、2月13日、評論「討論終結のために(右翼的備向の諸問題)」を執筆。
2月20日、正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、詩人で青年同盟幹部の今村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高の拷問により午後7時45分殺さる。検察当局は死因を心臓まひと発表。解剖を妨害し、22日、馬橋375の自宅での通夜、23日の告別式参会者を総検挙した。今村も1936年12月9日、拷問を受けた傷が癒えず死去。

志賀直哉は、多喜二の母・セキに宛て「不自然なる御死去の様子を考えアンタンたる気持ちになりました」(2.24)と、香典と弔文を出す。

「為横死之小林遺族募損啓」
魯迅の弔詞=同志小林ノ死ヲ聞イテ

当時26歳の手塚英孝「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(1933・3・10)に「同志小林多喜二を憶う」。――「同志小林は、実に断乎とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ぶ。


3/15『赤旗』藤倉工業女工マツの手記。「同志小林多喜二の虐殺に際して」

3/27 国際連盟から日本脱退。

・『日本プロレタリア文学集』(国際出版所 33年)。Kobayashi Takiji. The Cannery Boat (and Other Japanese Short Stories). Translation anonymous. New York: New York International Publishers、 1933.

「地区の人々」(『改造』3月号)106枚のうち、削除と伏字は約180ヶ所、2、200字。出版予告広告は、多喜二が虐殺される直前に掲載された。

・「討論終結のために」を、『プロレタリア文化』3月号に遺稿として掲載。
3月15日、労農葬が築地小劇場でおこなわれた。労農葬を記念して『日和見主義に対する闘争(小林多喜二論文集)』(日本プロレタリア文化連盟出版部 4月 岩松淳装丁)が出版される。『赤旗』『無産青年』『大衆の友』『文学新聞』『演劇新開』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』は追悼と抗議の特集号を発行した。ロマン・ロラン、魯迅をはじめ、内外から多数の抗議と弔文がよせられた。3月、築地小劇場で新築地劇団により追悼公演「沼尻村」が上演された。

『中央公論』は、「党生活者」を、貴司山治、立野信之と協議し、多喜二の遺作として「転換時代」の仮題で4、5月号に発表。削除・伏字は758ヶ所、約14,000字の多さで、痛々しい姿だった。(「党生活者」原稿は焼失とつたえられる)

33年に・板垣鷹穂「古い手紙―小林多喜二氏のこと―」(『新潮』4月号)
・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて-四月の二三の作品―」(『文学新聞』3月15日)

・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて」(『プロレタリア文化』4月号)
・宮本百合子「同志小林の業績の評価によせて――四月の二三の作品――」(「国民新聞』4/6、8~10)

・3月『不在地主、オルグ』(改造文庫)

・4月『蟹工船、不在地主』(新潮文庫)

4月『小林多喜二全集 第2巻』(作家同盟出版部 国際書院発売)
夏から秋にかけて全集刊行委員会に基金・前金に300円が集まったが、刊行は不可能だった。宮本百合子は大熊信行に募金のお願いの手紙を出した(現在小樽文学館蔵)。

楼適夷は胡風とともに、日本での極東反戦会議に中国代表として参加したものの、同会には中国代表者しか集まらなかったので、準備会扱いとなった。江口渙と懇談したのち、ただちに帰国。

・5月小説集『地区の人々』改造社

・5月小説集『転形期の人々』(国際書院)
5月小説集『蟹工船、工場細胞』(改造文庫)

「転形期の人々・断稿」(『改造』6月号)

多喜二を虐殺した後、渋谷区羽沢のアジトに特高が踏み込み、捜査資料として多喜二の大事なトランクを押収した。そのトランクに残されていたのがこの「転形期の人々・断稿」49枚の原稿。
コップ党組の責任者、池田寿夫は、胡風から中国左翼文総名で電報を打ち、日本政府への抗議と哀悼の意を示すことを提案された。電文は『プロレタリア文化』に掲載された。
・『文学新聞』(6月11日付)宮本百合子「小説の読みどころ」

6月、志賀直哉は『文化集団』創刊号に「小林多喜二君と作品」と題し、多喜二宛て書簡2通と、母セキへの弔文を掲載。

『プロレタリア文化』(6.7合併号)は「大衆の手による『小林多喜二全集刊行』を提唱す」。文化連盟書記局8/20「小林全集刊行カムパの意義とコップ各同の任務」にもとづく刊行は、編纂者のあいつぐ検挙と文化連盟内部の保身的潮流のための混乱から、一巻のみで続刊不能。

6月7日 共産党幹部の佐野学、鍋山貞親が獄中で転向声明。

8月 広津和郎「風雨強かるべし」

8/25 日比谷市制会館で、「極東平和の友の会」(佐々木孝丸議長)創立大会。

9月21日、宮沢賢治死去。

9月小説集『転形期の人々』(改造社)

9月30日 上海で極東反帝反戦反ファシズム大会。日本代表参加。

「蟹工船、一九二八年三月十五日」(『世界革命文学日本編』収、ロシア語訳)小説(外国語訳) 国立芸術文学出版所

「蟹工船、一九二八年三月十五日」(『世界革命文学日本編』収、ロシア語訳)小説(外国語訳) ウクラインシキーロビートニク出版所(ハリコフ)

小説集『蟹工船』(一九二八年三月十五日、『市民のために!』収、日本短編集、英訳)(外国語訳)インターナショナル出版社(ニューヨーク)、マーティン・ロレンス社(ロンドン)

・『プロレタリア文学』(33/10)「小林多喜二全集刊行会広告」 全10巻を予定。「この全集の内容は最も完全を期」す計画。二度目の試み。

多喜二年譜1932

2008-12-14 00:02:43 | 多喜二のあゆみー東京在
1932(昭和7)年 29歳
『プロレタリア文学』(作家同盟機関誌)創刊

1月28日 上海で日本の海軍陸戦隊が中国軍と衝突(上海事変始まる)
「文芸時評」(〈1・12〉『時事新報』1月10、11、12、15日号)
「『転形期の人々』の創作にあたって」(『短唱』2月発行第2号) 小説「失業貨車」 (〈1・17〉『若草』3月号)
評論「『組織活動』と『創作方法』の弁証法」(〈1・21〉『読売新聞』1月27日号)
鹿地亘に入党を勧誘。

2月、作家同盟は国際革命作家同盟(モルプ)に加盟。
評論「我々の文章は簡単に適確に」(〈2・7〉『帝国大学新聞』2月29日第421号)
「『一九二八年三月十五日』の経験」(〈2・7〉『プロレタリア文学』3月号)
評論「戦争と文学」(〈2・19〉『東京朝日新聞』3月8~10日号)

3/1 「満州国」建国。

小説「転形期の人々」(『ナップ』31年10、11月号」『プロレタリア文学』33年1~4月号 )
「転形期の人々」執筆を一時うちきる。
「小林多喜二氏より」(『新潮』3月号)

3月「母たち」収(『年刊日本プロレタリア創作集』作家同盟出版部)
評論「『文学の党派性』確立のために」(『新潮』32年4号)を発表。

3月6日 横浜・神奈川会館での文学講演会で講演する。(『横浜近代史総合年表』)松田解子、大宅壮一、江口渙らと東京からタクシーで行く。

3月8日、中編小説「沼尻村」を完成させる(『改造』4、5月号)。

前年春、ビラはりなどで知り合った伊藤ふじ子が美術サークルの関係で出入りする大崎労働者クラブを通じ、「党生活者」の舞台となる五反田の藤倉工業労働者の臨時工解雇撤回闘争を支援する。藤倉の労働者を組織するため「小林多喜二の小説の話を聞く会」をひらく。

3月24日から5月にかけて、文化連盟を中心にとして蔵原惟人、中野重治などの検挙が行われる。作家同盟指導部員の大部分が検挙投獄される。

多喜二は4月上旬、伊藤ふじ子に紹介されて小石川原町21番地 木崎方で作家同盟第五回大会報告書準備のため、自家を離れていたため検挙を免れたため、そのまま地下生活に入り、宮本顕治らと文化運動の再建に献身した。

評論「第五回大会を前にして」(〈3・10〉『プロレタリア文学』4月号)
評論「『文学の党派性』確立のために」 (〈3・12〉 『新潮』4月号)
「文芸時評」(『読売新聞』4月1~3日号)
報告「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその『立ち遅れ』克服のために」(『第五回大会議事録』)

4/3 宮本家へ。「四月三日の晩、小林多喜二が来た。そして、中野重治が戸塚署へ連行されたことを話した。」(宮本百合子「一九三二年の春」)

島崎藤村「夜明け前」第二部(『中央公論』4~10月号)

『プロレタリア文学』5月号に、評論「『国際プロレタリア文化聯盟』結成についての緊急提案」〈4・9〉

4/16~8/1 第一期革命競争。
同月中旬、以前から交際のあった伊藤ふじ子と結婚。麻布東町に住む。
「文芸時評」(『中央公論』6月号)

郷利樹の筆名で「ある老職工」(32年4月23日付『赤旗』 全集未収録)

5/11 作家同盟第5回大会 解散させられる。

『プロレタリア文学』6月号に、評論「暴圧の意義及びそれに対する逆襲を我々は如何に組織すべきか」 〈5・15〉

岩波書店から『日本資本主義発達史講座』刊行開始

5月26日 コミンテルンが「32年テーゼ」

5・15事件(犬養毅首相暗殺)

6月 文化団体党員グループの責任者になる。
『プロレタリア文学』7月号に、評論「『政治的明確性』の把握の問題に寄せて」<6.15>
清水賢一郎名「戦争から帰ってきた職工ーー八・一(反戦)デー近づく」(『赤旗』80号6月25日付、81号7月1日付 全集未収録)

7月 日本反帝同盟の執行委員になる。麻布新綱町にうつる。「文化連盟中央協議会書記長として伊東継の名にて『コップ』に文化運動の指導的論文を多数発表。また、『プロレタリア文学』に文学運動の日和見主義的傾向との闘争に関する多くの論文を書く。一方、党のアジプロ部員として赤旗編集局に参加」(貴司)

1932年7月8日、日本反帝同盟の中央執行委員会が開催され、4月の文化分野への大弾圧以来、地下活動を余儀なくされていた小林多喜二が文化連盟から派遣された執行委員として加わった。同執行委員会で検討された課題は、以下の①八・一国際反戦デーの準備と宣言の発表、②ゼネヴァ反戦大会への代表派遣とともに、③日本帝国主義の満洲侵略に反対する諸活動に取り組む、という3項だった。


8月 アムステルダムで文学者の国際反戦大会

『プロレタリア文化』8月号に、評論「日和見主義の新しき危険性」、「八月一日に準備せよ!」〈7・11〉

『プロレタリア文化』9月号に、評論「闘争の『全面的』展開の問題に寄せて」〈8・14〉

8月25日、小説「党生活者」を完成。『中央公論』は作者が追われていることと、その内容から掲載を保留。

8月30日、小説集『沼尻村』を作家同盟出版部で刊行。同年11月4日安寧禁止処分に付された。

9月下旬、麻布桜田町に一戸建てを借りてうつる。この前後から、林房雄を代表とする分裂主義的言動への批判に力をそそぐ。

『プロレタリア文化』10月号に、評論「二つの問題について」
『プロレタリア文化』11・12月合併号に、評論「闘争宣言」〈10・24〉
『プロレタリア文学』12月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(3、4、5章)

大森第百銀行事件
10/30 熱海党集会への弾圧。岩田義道検挙され、11/3虐殺される。

12/9 日比谷公会堂でのハンガリーのバイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティのコンサートを弟・三吾とともに聴く。

吉祥寺・江口渙宅で、33年5月に上海で開催が予定され(実施は9月となった)ている極東反戦会議準備会(出席、江口渙、小林多喜二、小林雄三、佐々木孝丸ほか)。
『プロレタリア文学』33年1月号に、評論「二つの戦線における闘争」(右翼的偏向の諸問題第1章)

「蟹工船」が『世界革命文学』ロシア語版第2号に訳載)
『蟹工船』(ロシア語訳)小説(外国語訳)ソ連モップル中央委員会出版所

多喜二年譜1931

2008-12-14 00:00:05 | 多喜二のあゆみー東京在
1931(昭和6)年 28歳
片岡鉄兵「愛情の問題」(『改造』1月号)
★1月『市民のために!』(『戦旗三十六人集』収)改造社、「蟹工船」「不在地主」「救援ニュースNo.18.附録」



1月22日、保釈出獄。壷井栄らが出迎える。市外杉並区成宗88番地 田口守治方に下宿。

1月23日、新宿・不二家で宮本百合子たちと会う。
1月23日 松岡洋右代議士が「満蒙生命線」論を主張


25日、「『市民のために!』」収録の『戦旗三十六人集』発売。

同25日、2月発売予定の「『市民のために!』」を収録の改造社版現代日本文学全集第(62)編『プロレタリア文学集』のため自筆「年譜」。

2月上旬、立野信之釈放。
「工場細胞」の続篇、「オルグ」を起稿。
★2月、ロシアから蔵原惟人帰国。共産党アジプロ部員として活動を始める。

3月3日「オルグ」ノート稿脱稿。

田口タキにプロポーズするが、その申し出をタキは退ける。

評論「わが方針書」(〈3・10〉『読売新聞』3月24、25、27、28日号)

・3月16日、投獄されている間の家族を支えなくてはならない事情から、当時作家同盟書記長だった西沢隆二らからすすめられ、「一九二八年三月十五」以前の作を含んだ小説集『東倶知安行』(新鋭文学叢書)を改造社から出版。

3月21日 評論集『プロレタリア文学論』(立野信之との共著)天人社から刊行。

3月中旬、神奈川・七沢温泉に投宿。「オルグ」執筆。4月6日完成させ、『改造』5月号に発表。

このころ、帰国していた蔵原惟人と連絡。以後、行動をともにする。

同月、「文芸時評」(〈4・8〉『中央公論』5月号)。

小説「壁にはられた写真」(〈4・17〉『ナップ』5月号)

「壁小説と『短い』短篇小説」(評論〈4・20〉『新興芸術研究(2)』 肉筆原稿は貴司山治の遺族により日本近代文学館に寄贈)

「小説作法」(〈4・30〉『綜合プロレタリア芸術講座』第2巻)

・5月「蟹工船」(徳永直「太陽のない街」、中野重治「鉄の話」) 改造社
『良き教師』(推薦文『ナップ』6月号)※全文は『総合プロレタリア芸術講座』パンフレット。
「指導部のセクト化に対する同盟員の不平から怒った作家同盟の内紛解決のための諸種の会合に出席する。」

5/15「独房」掲載の件で改造社へ行く。

5/24 作家同盟第3回大会に出席。「内紛が解消せざるため、混乱して役員の選出未了のままに閉会。(貴司年譜)
評論「階級としての農民とプロレタリアート」〈6・5〉『帝国大学新聞』6月8日発行第388号

6月8日 多喜二は志賀直哉に書簡。『蟹工船』を送り、「私は自分の仕事の粗雑になっていることに気付き、全く参っています。」と批評を求める。

小説「独房」(〈6・9〉『中央公論』7月号・夏季特集号)

評論「四つの関心」(『読売新聞』6月11、12、13、15日号)
評論「文戦の打倒について」(〈6・20〉『前線』7・8月合併号)
壁小説「プロレタリアの修身」(『戦旗』6・7月合併号)

蔵原惟人「プロレタリア芸術運動の組織問題」

夏、蔵原の指導のもとで文化団体の党グループの活動に従事している手塚英孝と初めてあう。

壁小説「テガミ」(〈6・30〉『中央公論』8月号 )
壁小説「飴玉闘争」(〈7・4〉『三・一五、四・一六公判闘争のために』室順治の挿絵1枚)

志賀直哉の多喜二宛書簡「お手紙も『蟹工船』もちゃんと頂いています。」(7月15日)

感想「『一九二八年三月十五日』」(〈7・17〉『若草』9月号)
7月、作家同盟第4回臨時大会が開かれ、第1回執行委員会で常任中央委員、書記長にえらばれた。東京に居住することに決め、一端帰郷後、同月末、杉並区馬橋一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟と住む。

7月18日 小説集『オルグ』(「独房」収録 戦旗社)

・7月「東倶知安行」収録の『明治大正昭和文学全集』(51)が春陽堂から発売。

7月「市民のために!」収録(『日本小説集』(7)が新潮社から発売。

夏、はじめて蔵原の指導のもとで文化団体の党グループの活動に従事している手塚英孝と会う(同年12月検挙、40日拘留)。

ショーロホフ「静かなドン」1・2読む。「悠長な小説を書きたい」。

8月、感想「読ませたい本と読みたい本」(〈8・3〉『戦旗』8・9月合併号)
志賀直哉からの書簡(8.7)

評論「『静かなるドン』の教訓」(〈8・11〉『国民新聞』8月17、19日号)
「新女性気質」『都新聞』(※同紙は『国民新聞』と1942年合併し、『東京新聞』となる)8月23日~10月31日号までの69回連載。大月源二挿絵 単行本では「安子」と改題。

壁小説「争われない事実」(〈8・17〉『戦旗』9月号)
「北海道の同志に送る手紙」(〈8・17〉『ナップ』9月号)

★壁小説「七月二十六日の経験」国際無産青年デーのために書かれたもの。掲載誌は『われら青年』(作家同盟発行パンフレット)。

古川大助のペンネームで、「父帰る」小説『労働新聞』(日本労働組合全国協議会機関紙9月3日号)

9月6日小林多喜二が群馬・伊勢崎に文芸講演会の講師で来た。講師陣は事前に検束され、講演会場に集まった満員の聴衆は「多喜二を還せ!」と伊勢崎警察署に抗議。多喜二等の奪還に成功した。

「文芸時評」(『東京朝日新聞』9月26、27、28、30、10月1日号)

9/15  東京地方裁判所で3・15、4・16事件第一回公判を傍聴。

※9月18日 関東軍による南満州鉄道爆破(柳条湖事件)から満州事変勃発。

9/20 上野自治会館の第2回「戦旗の夕」で講演、検束される。

※9月 蔵原惟人「芸術的方法についての感想」前半(『ナップ』1931/9月号 8/2執筆)9月、多喜二は長編「転形期の人々」を書きはじめた。

評論「良き協同者」(『時事新報』10月4日号)

「共産党公判傍聴記」(『文学新聞』10月10日第1号)

10月「壁にはられた写真」収録(『ナップ傑作集』改造社)
10月「戦い」収録(『土地を農民へ』新潮社)
小説「母たち」(〈10・11〉『改造』11月号)

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10月、非合法の日本共産党に入党。

ナップ解散。10月24日、日本プロレタリア文化連盟(コップ)を結成。

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10月末「安子」完成。

11月上旬、潜行して奈良に赴き、志賀直哉をはじめて訪れる。

11/9 帰京して、志賀直哉へ礼状。

11.10色紙「我々の芸術は、飯の食えない人々にとっての料理の本であってはならない。」

壁小説「疵」(〈11・14〉『帝国大学新聞』11月23日第408号 鈴木賢二挿絵)
11/15、作家同盟の拡大中央委員会で芸術協議員に選ばれる。
※「蟹工船」「一九二八年三月十五日」(抄訳)が国際革命作家同盟機関誌『世界革命文学』ロシア語版第10号に掲載された。前後して、英、ドイツ・モップル出版所、フランス語版に訳載。『一九二八年三月十五日』がドイツで出版、発禁処分を受ける。

「十二月の二十何日の話」(『婦人公論』32年1月号)
壁小説「母妹の途」(『サロン』12月号)
評論「プロ文学新段階への道」(〈11・30〉『読売新聞』11月26、27、12月1、3日号)

評論「我等の『プロ展』を見る」(『美術新聞』12月25日第2号)
「コースの変遷」(『新文芸日記』32年版)

「故里の顔」(『女人芸術』32年1月号)

壁小説「級長の願い」(〈12・10〉『東京パック』32年2月号)
「一九三二年に計画する」(『若草』32年1月号)
「一九三二年への抱負」(『近代生活』32年1月号)

「監房随筆」(〈12・14〉『アサヒグラフ』32年1月20日号)
『プロレタリア文化』(コップ機関誌)創刊

多喜二年譜1930

2008-12-13 23:57:05 | 多喜二のあゆみー東京在
1930(昭和5)年 27歳
1月20日 小説集『不在地主』日本評論社から刊行。1941年6月4日安寧禁止処分に付された。
※夏衍は「崔若沁」名で、「関于"蟹工船」を『拓荒者』創刊号(1930/1月号)に掲載した。王任叔(巴人)は、雑誌『現代小説』1月号に「小林多喜二底『蟹工船』」を掲載した。

評論「宗教について」(『中外日報』1月9日号)
評論「プロレタリア文学の新しい文章に就いて」(『改造』2月号)
「総選挙と『我等の山懸』」(『戦旗』2月号 )
評論「プロレタリア文学の方向に就いて」 (〈1・5〉『読売新聞』1月14、15、17日号)
評論「『暴風警戒報』と『救援ニュースNo.18.附録』に就いて」 (〈1・21〉『読売新聞』2月1日、4日号

※夏衍は「沈端先」名で、2月発行の『拓荒者』第二期に「小林多喜二的"一九二八年三月十五日"」

評論「宗教の『急所』は何処にあるか?」〈1・23〉『中外日報』2月2、4、5、6日号
評論「『機械の階級性』について」(〈1・23〉『新機械派』(武田暹主宰同人誌)3月発行第1号)
「プロレタリア短歌について」(感想『新短歌時代』4月号)
「銀行の話」(〈1・26〉『戦旗』4月号)
前年12月18日に起稿の小説「工場細胞」が2月24日完成。書留小包で送る。(『改造』4、5、6月号に連載)

1月30日、「田口の『姉との記憶』」を改作した、小説「同志田口の感傷」完成。(『週刊朝日』4月春季特別号 永田一脩のカットと挿絵) 

3月『蟹工船』(戦旗社 改訂普及版 装幀大月源二)が発行された。半年の間に3万5000部を売りつくし、当時としては記録的な発行部数となった。
3
月未、小樽から上京し、東京市外中野町(現中野区)上町に下宿。近在の橋本英吉、鹿地亘らと親交を深める。作家同盟主催の多喜二歓迎会が、新宿・白十字で開かれた。
4/6 本郷・仏教会館での作家同盟第2回大会に出席、挨拶。
「同志林房雄」序文(〈4・7〉『鉄窓の花』)
童話「健坊の作文」(〈4・9〉『少年戦旗』5月号 松山文雄挿絵)
白揚社発行『プロレタリア文学』6月創刊号に、評論「プロレタリア・レアリズムと形式」〈4・11〉 

田口タキ、4/10ごろ上京。多喜二と3週間ほど同居。

4月蔵原惟人「『ナップ』芸術家の新しい任務」

・4月、中国・上海で戦旗社版を底本とした『蟹工船』(潘念之中国語訳)上海大江書鋪が刊行される(国民党政府、ただちに発禁処分)。

「現行映画検閲制度に就いて」(『新興映画』5月号)
「感心した作品・その理由」(『プロレタリア文学』6月号)
「プロレタリア大衆文学について」(『世界の動き』6月号)
評論「プロレタリア文学の『新しい課題』」(『読売新聞』4月19、22日号)
評論「『報告文学』其他」(『東京朝日新聞』5月14~16日号)
「傲慢な爪立ち」(『時事新報』5月19日号)
評論「『シナリオ』の武装」(『プロレタリア映画運動の展望』)
小説「市民のために!」(〈5・17〉『文芸春秋』7月増刊・オール読物号 吉田謙吉挿絵1枚)

・5月小説『一九二八年三月十五日』(戦旗社)★

夏衍は「沈端先」名で『大衆文芸』第2巻第3期に、沈端先名で「一九二九年の日本文壇」を書く。
5月20日 共産党シンパ事件で三木清、中野重治、平野義太郎、山田盛太郎ら検挙

5月、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京都(17日)、大阪(18日)、山田(20日)、松阪(21日)をまわった。京都では山本宣治の遺族を訪ね、墓参。
6月「救援ニュースNo.18.附録」収録、『日本小説集』(6)新潮社

5月23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され2週間拘留され、拷問を受ける。6月7日いったん釈放された。大阪から6/9付斉藤次郎宛書簡「ひどい拷問をされた。竹刀で殴ぐられた。柔道でなげられた。髪の毛が何日もぬけた。何とか科学的取調べを三十分もやらせられた」。先に逮捕されていた中野重治を、妻原泉とともに滝野川警察で面接。24日立野信之方で、立野とともに、ふたたび逮捕された。
7
月4日小説集『工場細胞』を戦旗社から出版。

7月19日、多喜二と山田清三郎(『戦旗』編集長)は、東京区裁判所検事局によって『蟹工船』の表記が「不敬罪・新聞紙法違反」にあたると起訴された。
8月21日、治安維持法違反で起訴、豊多摩刑務所に収監された。以後5ヶ月の未決生活。
 中野重治の妹で、詩人の中野鈴子は留置場から豊多摩刑務所まで毎日、多喜二への差し入れに奔走する。母セキは多喜二にあてて手紙を書くため字を覚えようとした。

9/4付「田口瀧子宛書簡」

10月4~13日、小野宮吉、島公靖脚色「不在地主」(〔4幕11場〕、佐々木孝丸演出、市村座で東京左翼劇場公演)

11月、ハリコフで開かれた国際革命作家第2回国際会議の日本文学委員会でも、高い評価を得た。

多喜二は獄中から、志賀直哉に宛てて手紙を出す(12/13)。

11月14日 浜口首相、東京駅で撃たれる。

宮本(当時中條)百合子10月ロシアを立ち帰国。12月作家同盟に加盟。*米価暴落、農村の困窮深刻化