「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

琉球処分-1868年明治政府が誕生

2021-09-12 16:01:45 | 多喜二研究の手引き

琉球処分 -日本に組み込まれた琉球王国-

■解説文

 700年近く続いた武士支配の時代が終わり、1868年明治政府が誕生しました。藩閥を柱としてつくられた新政府は、天皇を中心とした中央集権国家の確立をめざし日本国の国境を画定することを重要な政治問題としました。

 これまで琉球王国は、薩摩に支配されてはいましたが、清国(中国)との冊封・進貢関係にありました。明治政府は1871年に台湾で宮古島の遭難者が殺された事件(台湾遭害事件)がおこると、琉球が日本領であると清国に認めさせるため72年に琉球藩を設置、74年には台湾に出兵しました。出兵後日清両国間で締結された「北京議定書」には琉球人民のことを〈日本国属民〉と表記し、条約上琉球は日本の版図であることを承認したのです。琉球の人々の承認も、同意もないまま、頭の上を通り過ぎて歴史は動いていったのです。

 1879年、明治政府は武力を背景に首里城において廃藩置県を通達し、沖縄県を設置しました。琉球藩王には琉球の土地・人民・書類などを政府にひきわたし、東京に居住することを命令しました。政府のやりかたに反発した琉球の士族たちのなかには清国に訴え救助を求めた人たちもいましたが、清国は自国の内政問題をかかえ、琉球に関する日本との条約の調印にはいたりませんでした。琉球王国を日本国に組み込んでいく政治的課程を琉球処分とよんでいます。

 日本国に組み込まれても、各県で行なわれていた地租改正などの改革はすぐには行われず、旧慣温存政策がとられ、民衆の苦しみは改善されませんでした。政府は沖縄県の〈教育〉に力をいれ、天皇制国家の臣民として育てあげようとしました。しかし、人頭税などで苦しむ宮古島の農民たちは人頭税廃止にたちあがり、国会に直訴しました。自由民権思想も謝花昇らによって広まり、旧慣改革の運動は高まりをみせました。近代的な土地制度と租税制度を確立するため、土地整理事業がおこなわれたのは1899年になってからでした。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿