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50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

日本での映画撮影、天国か地獄か。

2008-01-08 05:12:57 | 映画・演劇・文学
“More”(『モア』)などで有名な映画監督、Barbet Schroeder(バーベット・シュローダー:フランス語読みでなきゃ嫌だという方用にはバルベ・シュレデール)が昨年後半、日本で新作の撮影を行なっていたそうですが、日本では報道されていたでしょうか。


2日付のル・モンド紙です。一面を使って、66歳にして日本で撮影を敢行! という挑戦の模様を伝えています。

バーベット・シュローダー・・・1941年にイランのテヘランで生まれる。フランス国籍のスイス人。父親はコロンビア人。教育はパリで受け、名門・アンリ四世高校からソルボンヌへ。哲学を専攻し、その後『カイエ・デュ・シネマ』に参加。批評からスタートし、制作、監督、出演と映画全般に関わる。

そのシュローダー監督がメガフォンを取り日本で撮影した作品は、『陰獣』。江戸川乱歩の原作で、すでに1977年に加藤泰監督の手により映画化され、カルト映画の傑作と言われています。個人的には、加藤泰監督の作品では『車夫遊侠伝 喧嘩辰』が記憶に残っています。それも、作品云々より、桜町弘子と藤純子がきれいだったという、至ってミーハーな印象によるものですが・・・関係なかったですね。

さて、何がシュローダー監督の挑戦なのかというと、日本で撮影すると言うことそのこと自体! 日本へ発つ前にシュローダー監督は、映画人仲間のシェリー・ランシングなどと食事を共にしたそうです。ランシングといえば、松田勇作の劇場公開映画としては遺作となった『ブラック・レイン』の制作担当者。彼女曰くは、『ブラック・レイン』の撮影は、日本で行なわれていましたが、文化、風土、システム・・・さまざまな相違から、日米スタッフが共に苛立ち、とうとう日本を撤退しアメリカなどで撮影を続けたと言う、パラマウント映画最悪の経験と言われているそうです。そうした経験などを直接聞いたシュローダー監督なのですが、それでも敢えて日本ロケを敢行。しかも、予定通り一日も遅れず12月16日に終了し、公開日も今年9月24日と早くも決定しているそうです。

では、シュローダー監督は実際にどんな苦労に遭遇したのでしょうか。

まずは、日本人の細部へのこだわり。どんな些細なことでも、現実と異なることには妥協しない日本スタッフ。いかに全てが真実らしく見えるか・・・特に外国人の思い描く日本的イメージには、間違いがあれば正さないと気がすまない。例えば、芸者役をパリに5年住みモデルもしている日本人女性が演じたそうですが、日本人ぽくないという意見が日本サイドから出たり、サドマゾ的シーンもあるそうなのですが、真実らしくするために、その道の専門家にコンサルタントとして立ち会ってもらったり・・・日本では、細部の積み上げで捉えることが多いですよね。細部までよく描けている小説、細部まで寸分のミスもない文章、細部まで時代考証の行き届いた映画・・・しかし、テーマ、主張となると、あまり論じられなかったりします。正確な細部を積み上げていって、言いたい事は忖度する。これが日本式かもしれないですね。観念、思想を大切にする欧米流に対し、現場の細部積み上げ式の日本。その影響か、先日もアメリカ人ジャーナリストが、日本の生産現場は世界一だが、経営はひどい、と言っていたそうですが、その傾向は認めざるをえないかもしれませんね。経営理念、経営思想を語れる経営者は少ないような気がします。現場で優秀な社員が経営者になる。だから、「後は、任せた」と現場丸投げの管理職が多いですよね。一方の欧米には、哲学、理念を語る経営者が多く、そのことが経営者の資格でもあるようです。その一方で、時間から時間までただ職場にいれば良いという現場。ボトム・アップの日本と、トップ・ダウンの欧米・・・

時間厳守・・・ホテルを早朝借り切って撮影したそうですが、絶対に時間オーバーをしてはいけない。以前ソフィア・コッポラ監督が東京で撮影した際、朝の7時半までに撤収しなければいけないところ、30分遅くなったことがあるそうですが、そのホテルはそれ以降一切の撮影を受け入れていないそうです。どんなことがあっても絶対に遅刻をしない日本人、というのは『世界の日本人ジョーク集』にも良く出てきます。時間に几帳面(過ぎる)日本人というのは、定説になっているのでしょうね。

周囲への配慮・・・屋外ロケの際、欧米では、撮影の邪魔にならないよう歩行者に遠回りしてもらったりするそうですが、日本では、歩行者のために撮影を中断し、迷惑を詫びながらその舗道を通ってもらう。また、屋外ロケを許可しない街もあり、そのひとつが京都。『陰獣』の舞台はその京都なのですが、許可が下りず、東京に屋外セットを組み、ロケを行なったそうです。一方、欧米では・・・例えば、パリでは、いたるところで屋外ロケが行なわれています。日本では、映画という文化よりも、市民の日常生活優先なのかもしれないですね。あるいは、映画が文化としての市民権を得ていない、たんなる娯楽なのでしょうか・・・

スタッフの熱意と待遇・・・撮影は旧知のイタリア人Luciano Tovoli(ルチアーノ・トヴォリ)で、最初英語のできるスタッフを要求したそうですが、撮影や照明などのスタッフで英語ができる人は見つからない(日本の英語教育・・・)。そこで、通訳を介しながら、英語・フランス語・日本語が飛び交う環境での作業となったものの、数週間もすると日本の若いスタッフの熱意が実って、いちいち指示しなくても、撮影監督の意図をある程度汲めるようになった。しかし、この可能性を秘めたスタッフの待遇たるや・・・日本の大手映画会社はスタッフに残業代を払わず、年金などの福利厚生も全くない。将来への不安から、せっかくキャリアを積んでもみな辞めていく。でも、会社にとっては、そのほうがありがたい。ベテランは給与が高くなるから、安い若手に切り替えたい! ・・・これで映画産業の伝統は保たれるのでしょうか・・・

融通性・・・日本では一端決まったものを変更するのが大変。絵コンテが決まると、一部たりとも変更させない。実際にカメラの前に立つと新しいアイディアだって沸いてくる。それでも、その変更を日本人スタッフに納得させるには、なぜ、どうしてを事細かに説明しないと聞き入れてくれない。オーソライズされたことに対しては、頑固で、融通性が全くない・・・確かに表面はそうでしょうけれど、そこのところを何とかお願いしますよ、ということがまかり通るのがアジアの日本。正論で理解してもらおうとするよりも、相手の目をじっと見て困った顔で、お願いしますよ、後生ですから、のほうが有効かもしれないですね。

他にも日本ならではの特徴に、行く手を妨げられたことも度々あったようですが、シュローダー監督は、最終的に、スケジュールどおりに完成させてしまった。どこが『ブラック・レイン』との違いなのでしょう。

シュローダー監督は次のように言っています・・・「監督の才能などは20年もすれば枯渇してしまう。それを避ける方法は、ルイス・ブニュエルやヒッチコックのように撮影する国、舞台になる国などを、固定せず移動することだ」。確かに、シュローダー監督は今までにニューギニアやコロンビアで制作した経験も持っています。そして、今回は日本。未知なるものとの出会いが、新たなる創造性やアイディアの泉になる・・・このことは、映画監督だけに限らないかもしれないですね。

そうした未知なるものとの出会いから、シュローダー監督は異なる文化との対応の仕方を学んでいるのでしょう。撮影の途中からは、こうした場合日本はどう言ってくるか予想できるようになり、先回りして対応を考えることができるようになったそうです。一方の『ブラック・レイン』は・・・世界にアメリカの価値観・システムを広げることが正義である! の一翼を担ってしまったのかもしれないですね。ひたすら日本のやり方を否定し、アメリカ・スタイルで押し通す。その結果の、破綻。

国を跨ぐことによって起きる軋轢とその相克。フランス人監督とイタリア人撮影監督の日本での数ヶ月の撮影というひとつの事をとっても、考えさせられることがたくさんあります。ただ、もちろん、国によるさまざまな違いは、あくまで違いであって、優劣があるわけではないのは、言うまでもないですね。

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本、好き。作家、好き。

2008-01-02 05:24:01 | 映画・演劇・文学
一年の計は元旦にあり。何か、本を読まれましたか。ま~元日と言っても、松の内は許してもらえるでしょう。今年は、どんな読書の世界が待っているでしょうか。

ところで、フランス人は、本好き。何しろ、クリスマスのプレゼントでも、本を贈るという人が多いそうです。昨年の(といっても、先週ですが)テレビのニュースでも、店頭でのインタビューを交えて紹介していました。しかも、インテリアとして「積ん読」しておくのではなく、よく読んでいます。読書が好きなのでしょうね。フランス語会話のボランティアの人たちも、よくいろいろな本を読んでいます。だからでしょうね、作家という職業の人には一目置くそうです。ホテルでのチェックイン時、職業欄に作家と書いたために、いい部屋をもらえたという経験をお持ちの日本人もいらっしゃるようです。

今、フランス人の本好きを証明するような展覧会が開かれています。“Paris, capitale des livres”(『パリ、本の首都』展)・・・マレ地区にあるパリ市歴史図書館(Bibliotheque historique de la Ville de Paris)で2月3日までの開催です。


(マレ地区、歴史・・・でも、近代建築です)

タイトルどおり、パリが出版の一大中心になってから以降の展示が中心になっていますので、ここではまず、それ以前の本や印刷の歴史を簡単に振り返ることから始めましょう。なんといっても、年のはじめ、ですから。

「“本”とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」という定義が、1964年にユネスコ総会で採決されたそうです。こうした「本」、漢字文化圏では物事の基本にあたるという意味から転じて書物をさすようになったそうです。英語の“book”は古代ゲルマン語のブナの木、フランス語の“livre”はラテン語の木の内皮がそれぞれ語源になっているそうで、きっとそうした木の皮に文字を書いたことに由来しているのかもしれないですね。

文字を書いたものと言えば、パピルス。エジプトでつくられ、“paper”や“papier”などの語源になっていますね。しかし、ヨーロッパでは印刷技術が普及する15世紀までは、紙ではなく羊皮紙に文字を書いて記録していました。紀元前2世紀、小アジアのペルガモンでエジプトに負けない蔵書を持とうとしたそうですが、エジプトが何とパピルスの輸出を禁止した(けち! でも、今の経済紛争と似ていなくもないですね)。そこで、身近に多くいる羊やヤギの皮を使って文字を書きとめたそうです。そこで羊皮紙。パピルスの保存は巻いて、つまり巻き本だったそうですが、羊皮紙は折ることもできる。折って綴じるという今の本の基礎を作ったのは、6世紀、ベネディクト派の修道士たちだったそうです。



体裁は今日の本と同じようになっても、印刷技術がないため、全て手書き。写本の時代ですね。ただ、驚くべきことは、写本でありながら書体(フォント)がすでにあったそうです。ゴシック体とか、カロリング体とか。手書きのプロたちは、その書体で全ての文字を書き分けたのでしょうね。すごい職人技です!

そして、いよいよ、印刷技術の発明。ご存知のように、ドイツ人グーテンベルクの発明といわれています。1439年頃には当時住んでいたストラスブールで、すでに印刷業者として生計を立てていたそうですが、なんと言ってもグーテンベルクを有名にしたのは1455年に完成させた『グーテンベルク聖書』。私の生まれるちょうど500年も前(関係ないですが)! この印刷技術のお陰で、同じ内容の文書を多く作ることが、早く、廉価にできるようになりました。フランスでも早速、1470年に最初の印刷物がパリ大学で出回ったそうです。


ここからが、展覧会のメインの内容になるのですが、印刷技術の発明からあまり時をおかずにパリで始まった印刷による出版活動。その背景には、パリという街の特徴が反映されているそうです・・・フランスは、他のヨーロッパ諸国に比べて、早くに集権国家となっていた。そうした体制では、王の命令などを全国に交付する同じ文面の書類が多く必要になる。そのため、文書作成は重要な分野になっていた。そこに印刷技術が伝われば、すぐさま活用されたのは想像に難くないですね。しかも、宮廷や文書作成等を行なっている人たちの間には文化への造詣も深くなっていた。詩などの印刷を求める声もあったのでしょう。


(ボーマルシェの『フィガロの結婚』)

さらに、パリは王国の首都であると同時に反権力の中心でもあって、その主張をしたためた文書、いわゆる地下文書を制作する伝統が19世紀まで続いていたそうで、やはり、印刷や出版を後押しすることになったようです。


(フロベールの『ボヴァリー夫人』)

フランス革命(1789年)以前、パリはすでにヴェニスに次ぐヨーロッパ第二の出版の中心地になっていたそうで、出版される本の数も、またその分野で働く人の数も順調に増えていったようです。19世紀の産業革命時には、いっそうの発展ぶりを見せました。多くの新聞が発行されるようになり、大型書店が出現し、そして大手出版社が誕生するようになり・・・

(パリ市内にある書店)

そして、今日の、パリ出版界の隆盛へと繋がるのですが、大手出版社の一社を紹介する展示が、時を同じくして、ポンピドゥー・センターの2階ロビーで行なわれています。


その出版社の名前は、“Seuil”(スーイユ)。1937年に設立された出版社で、文学書はもちろん、宗教、アート、子供、実用などの本、雑誌を編集発行しています。あくまで一企業の展示なので詳細は省略しますが、こうした出版社の歴史や特長を紹介する展示会を公の機関が受け入れると言うことは、それだけ出版への理解があるということなのでしょう。やはり、出版文化への畏敬の念というものもあるのかもしれないですね。



ところで、近代印刷技術を発明したのはグーテンベルクですが、もちろんそれ以前にアジアでは印刷技術がありました。木版印刷。古くから行なわれていましたし、金属活字を使った印刷も、14世紀(一説には1377年)に朝鮮半島の高麗で発明されたそうです。こうした印刷技術がシルクロードを経て、ヨーロッパにもたらされ、グーテンベルクの近代印刷の発明に繋がったと考えてもおかしくない気がします。なお、現存する印刷物で年代が確定している世界最古のものは、日本にあるんですって! 770年に完成されたと言われる「百万塔陀羅尼」だそうで、法隆寺にあるとか。現代につながる製紙法も中国で発明され、各地に広まったそうです。日本にも610年には伝来。ずいぶん昔ですね。製紙技術と印刷技術があれば、本もできる。現存する最古の本は、7世紀はじめに聖徳太子が直筆したと言われる「法華義疏」だそうです。どうだ、アジアには伝統も技術もあるのだ!と言いたくなる内容です。アジアはコピー文化だけじゃないんだ、よく覚えておけ・・・言いすぎでしょうか。お屠蘇のせいにしましょう(フランスにお屠蘇はないだろうって? 細かいことは言わないのがフランス流です!)。

・・・と、ずいぶん長くなってしまいましたが、とてもとても49ページにはなりません。本にするのは難しい。やはり、ブログで、頑張ることにしましょう!

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コトバは、乱れているか?

2007-12-05 05:22:41 | 映画・演劇・文学
11月29日のフィガロ紙、その文学欄のトップページに、いきなり・・・



こんな記事が出ていました。「文法、それは自由」・・・文法っていうと、いかにも四角四面、堅苦しくて、面倒で・・・日本語の文法はほとんど系統立てて学んだ記憶がないのですが、英語と若干の中国語、そしてなににもましてフランス語の文法に苦しめられた私などはそう思って敬遠してしまいがちなのですが(もちろん大好きな方もいらっしゃるでしょう)、そうじゃなくて、実は自由で楽しいものなのだと言っています。



中面では、“La Grammaire en s'amusant”(楽しみながらの文法)という本を出版したPatrick Rambaud(パトリック・ランボー)氏と因習に反逆する作家でアカデミー会員でもあるMichel Deon(ミシェル・デオン)氏の対談が出ています。

結論を先に言ってしまうと、コトバ、そしてその根幹をなしている文法は世界を理解する鍵になる、ということだそうです。確かに、言葉によって理解できることは多い、と言うか、ほとんどのものが言葉によって理解されますね。そして言葉による理解のキーになるのが文法。しかし、フランスの高校生たちにとっても、文法は面倒なもの。図表や矢印、難しい言葉で説明される文法は分からないし、つまらないと言っているそうです。

文学愛好家の多いフランスにしても、現代では、文法を理解していなかったり、無視している人も多いとか。文法を理解していないばかりにニュアンスが理解できなかったり、ひどい場合は他人が言っていることがよく分からない。校内暴力を起こす生徒たちの多くが文法に問題を抱えているそうです。そこから来るストレス、フラストレーション。どうでしょう、日本でも同じようなことがあるのでしょうか。授業が理解できない。だから、つまらない。ストレスがたまる。そこで、問題を起こす。でも、授業を理解できない理由が、言葉を理解できていないからだとしたら・・・文法をしっかり学び、より多くの単語を覚えれば、授業が理解できるようになり、荒れる子どもも減るのではないか。どうでしょう。しかも、言葉をしっかり学ぶ場は、学校だけではないそうです。親から子への話しかけ、つまり家庭が言葉を学ぶ上で、実は最も大切な場所なのだとこの記事は言っています。

もうひとつは、言葉の変化。文法も含めての言葉、その変化・改革は、政令や政府発表なで行なわれるべきではなく、使用されることによって自然になされるべきだ。その一例として、フランス革命時のことが紹介されています。革命月をはじめ多くの新しい言葉が導入されましたが、多くは死に絶えてしまった。なぜなら、その言葉を使う人々に受け入れられなかったから。逆にいえば、人々が受け入れる言葉や文法の変化は市民権を得て、永らえることができる―――。

このあたり、日本でも、よく問題になりますよね。言葉が乱れている。でも、私は、言葉は乱れるのではなく、変化するのだと思っています。例えば、「全然」。この副詞、後に否定形が来なくてはいけないと小学校のころ習った記憶があります。しかし、いつの間にか肯定形でも使われるようになりました。全然すごい。こう使われ始めた頃は、日本語の乱れだ、と非難する人もいましたが、今では・・今でも、ワードでは緑色の波線が全然の文字の下に出ますが、それでも、なんとなく受け入れられていますよね。

極論してしまうと、平成の日本語と戦前の日本語、あるいは明治の日本語は同じなのかどうか。江戸の日本語は? あるいは、平安の言葉と同じかなのかどうか? もし違うのなら、誰がどのように変えてきたのか・・・浅学な私は、自然に変わっただけだろう、使う人たちに受け入れられた新しい言葉やその使われ方が生き残って変化してきたのではないか、と思ったりしています。そして、その変化は、時代と共に、今も起きている。自分が学校で習った言葉や文法と差異が生じてきているからといって、それを乱れと非難することはできないのではないか、そんなふうに思っています(反対意見もおありだと思います)。

ただ、もちろん、文法を無視していいわけはありません。文法を知らなくては、言葉を通しての共通理解も得られません。新しい知識も得られません。現行の文法をしっかり理解したうえで、その上で、新たな変化を受け入れるだけの柔軟性を持っていることが大切なのではないかと思っています。



こうしたテキストで、フランス語の文法は学びました。同じような日本語の文法書が必要に思えます。きっと探せばあるのでしょうね。あるいは、先日ご紹介した、外国人用の日本語検定試験用テキストがいいのでしょうか。何かしっかり系統だった日本語文法の本を手元においておくことの必要性を痛感しています。こんなブログを書く際にも、ちょっとは気になる場合があります。単語は電子辞書の『広辞苑』を参照しています。後は、文法書。どなたか、良い日本語文法書をご存じないでしょうか。英文法、仏文法の隣に、いやその先頭に日本語文法書を置いておきたいと思っています。



なお、この記事に関して、フィガロ紙がネット上でアンケートをとりました(写真はその結果を伝える30日のフィガロ紙)。フランス語の文法を簡略化することに賛成か、反対か。反対が77%。平易にすべきではないと考えるフランス人が圧倒的に多いようです。理由は、フランス語、およびその文法はフランスの貴重な文化遺産だ。非常に論理的に考えられる言語で、哲学の本はイギリスでもフランス語で書かれているほどだ。私の大好きなフランス、何も変わらないで。一方、賛成派は、英語が国際語になっているのはその文法の平易さ、外国人に学び易いからで、フランス語もそうしないと、いっそう限られた言葉になってしまう。言葉の豊かさはその難しさによって証明されるわけではない。それぞれの理由はあるようですが、平易に変えてほしくないというフランス人が圧倒的に多いようです。でも、英語を中心に新しい単語はどんどん受け入れていますし、文法の一部に変化もあるようですが・・・

さて、フランスの高名な作家二人がそろって言っています・・・文法は、ビデオゲームより面白い。そのことを、母国語である日本語の文法を学び直すことで実感してみたいと思っています。

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文学賞に、日本の影。

2007-11-10 05:11:06 | 映画・演劇・文学
今年の読書の秋、皆さんはどのような作品を読まれましたか。季節が秋から冬へと巡る11月上旬は、文学賞発表の季節でもあります。



11月5日、フランスで最も権威のある文学賞、ゴンクール賞(le Goncourt)とゴンクール賞の残念賞とも言われるルノドー賞(le Renaudot)が発表になりました。上の写真はその結果を伝える7日付(6日発売)のル・モンド紙です。

今年のゴンクール賞は、ジル・ルロワ(Gilles Leroy)の『アラバマ・ソング』(Alabama Song)が受賞しました。『華麗なるギャツビー』などでおなじみのアメリカの作家、スコット・フィッツジェラルドの夫人ゼルダの生涯を描いた作品です。

(7日付のフィガロ紙に掲載された広告)
総合失調症で入院中にその施設の火事で死亡したゼルダ夫人の自由と自らの欲するところを強烈に追及する強さを描いた作品だそうで、その文体、スタイルの素晴らしさが絶賛されています。

作者のジル・ルロワは、1958年生まれ。現代文学を専攻し修士号まで取得しましたが、大学に別れを告げ、世界を旅行しながら、アメリカ文学と日本文学に耽溺。多くの作品を読み漁ったようです。12作目の作品でゴンクール賞を受賞しましたが、それらの作品のどこかに、日本文学の影響が見て取れるかもしれませんね。これが、日本の影の一番目。まだまだ出てきますよ。

ゴンクール賞の結果を見てから選考され、同じ日に発表されることから、ゴンクール賞の残念賞とも言われるルノドー賞。しかし、フランス五大文学賞(他に選考委員が女性だけのフェミナ賞、主にデビュー作を対象としたメディシス賞、ジャーナリストの作品を対象としたアンテラリエ賞)の一つで、もちろん立派な文学賞です。

(9日付のフィガロ紙に掲載された広告)
今年受賞したのは、ダニエル・ペナック(Daniel Pennac)の“Chagrin d'ecole”(学校の苦悩)。リセ(高校)で国語(フランス語)の教師だった自らの体験を自伝風に書き上げた作品で、エッセー風小説とも言われているようです。作者のペナックは1944年生まれ。児童書から大人向けの作品まで幅広い作家活動を行なっていますが、日本では『人喰い鬼のお愉しみ』などで有名ですね。日本でも有名ということで、無理やり日本の影の仲間入りです。さて、次ぎに、本格的な日本の影が登場します。

ルノドー賞にはエッセー部門もあり、今年この賞を獲得したのは、オリヴィエ・ジェルマン=トマ(Olivier Germain-Thomas)の“Le Benares-Kyoto”(ベナレス・京都)。作者のジェルマン=トマ氏は日本とインドの文化に惹かれ、それぞれの国に長く滞在し、その文化に深い造詣があります。日本について語った作品は、以前、弊ブログでもご紹介しています(先人たちの知恵―15)。ルノドー賞を取った作品も、タイトルから推察するに、インドと日本についての慧眼をまとめたものと思われます。これは日本の影というよりは、日本そのものが俎上に乗っているような作品ですね。

そして、もう一作。1994年に創設された文学賞、フロール賞(Prix de Flore)。気鋭の若手作家の作品を対象にした賞で、サン・ジェルマン・デ・プレの有名なカフェ、カフェ・ド・フロールで授与式が行なわれることからフロール賞と名づけられたそうです。今年この賞を獲得したのは、アメリ・ノトンブ(Amelie Nothomb)の“Ni d'Eve ni d'Adam”(イヴでもなくアダムでもなく)。

(9日付のル・モンド紙に掲載された広告)
アメリ・ノトンブ女史が生まれたのは、神戸。父親が駐日ベルギー大使館に勤めていたため、子供時代を日本で過ごしました。その記憶が強烈に残っているそうで、その後、中国・アメリカ・ラオス・ミャンマー・バングラデッシュで暮らし、ベルギーで大学を卒業すると、再び日本へ。日本の会社で働き、いろいろと辛い経験もしたそうです。今回の受賞作も、舞台は東京。ヨーロッパ人女性と日本人青年との恋愛がストーリーの中心になっているそうです。

どうですか、受賞すると発行部数も一気に増えるといわれるフランスの有名な文学賞。その受賞作に、これだけ日本に関係した作家、作品が並んでいる。やはり、文化面では、日仏関係はいっそう緊密になっているといわざるを得ないような気がします。後は、如何にこれらの作品を、日本人が受容するかですね・・・せめて一作でも、原書で読んでみなくては・・・まずは、書店で厚さ等を見て読めそうな一冊を(情けない)買うことから始めてみることにしましょう・・・

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バイクと映画。

2007-10-04 00:44:06 | 映画・演劇・文学
9月29日から、“Mondial du Deux Roues”という名のエクスポジションが行なわれています。要は、二輪のモーターショー。しかし、そこは自転車大好きのフランス、もちろん自転車の展示も同時に行っています。



でも、このブログのタイトルは、バイクと映画。その関係は? ・・・答えは、最後のお楽しみ!


バイクの展示コーナーです。多くの入場者。しかも、優男風のフランス人を見慣れている目には実に新鮮に映るほど、マッチョ系の男性が多くいます。大型バイクを乗りこなすには、それなりの体格が必要なのでしょうね。それに、バイク乗りにはバイク乗りの雰囲気がありますよね。これって、万国共通のような気もしますが・・・


バイク乗りには、刺青愛好者が多いのか、会場では刺青ショップが店開き。革ジャン、Tシャツ、ブーツ、手にはヘルメット、そして、刺青とイヤリング。

肝心のバイクですが、「二輪の世界」とタイトルで謳っているにもかかわらず、三輪、四輪も。もちろんクルマではなくバイクなのですが・・・






会場では、試乗、といっても動かすことはできないのですが、跨ることはできます。みんな、楽しそうです。本当にバイクが好きなんですね。

女性も。

おっと、危ない・・・子供も。


そして、新技術も。

日系メーカーが展示していた電気バイクです。環境に優しいバイク作りでも、日本が先行しているようです。頼もしいかぎりですね。

自転車は、この通り。

軽量のものからがっしりしたタイプまで。

パリ市も出展。何を・・・もちろん、“Velib'”、レンタサイクルですね。

使用方法などを、ここでも教えています。これから冬へ向けて、利用者をどう維持するか、知恵の絞りどころですね。

そして、いよいよ映画の登場。勘のいい方はもうお分かりですよね。

映画に登場したバイク、バイクが主役のように目立った映画・・・バイク好きな方には叱られてしまいそうですが、これが見たくて出かけたようなものです。

ジェームス・ディーンですね。このようにポスターや写真がパネルで展示されていますが、それらのパネルの裏側では・・・映画に使われたバイクが登場!

まずは・・・

『イージー・ライダー』、ピーター・フォンダですね。いかにも大陸を走る長距離用大型バイク、といった感じがしたのを覚えています。


こちらは逆に、石畳の細い道を走るスクーター、ヴェスパ。映画は、いうまでもなく『ローマの休日』。オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペック。カメラマンが乗っていた小型車のフィアットも忘れられないですね。


フェリーニのディレクター・チェア、そしてこの幌付き荷台を引くバイク、といえば・・・La Strada、そう『道』ですね。

ザンパノ・・・浜辺で慟哭するアンソニー・クイーンが目に焼きついています。


インディー・ジョーンズ。原題はインディアナ・ジョーンズ。このサイドカー、いい味を出してますね。こうした映画にぴったりのバイクですね。


少し新しいところでは、『バットマン』。マークで一目で分かるバイク。キャラクターの勝利ですね。

そして、もう一人、颯爽とバイクを乗り回したといえば・・・

『大脱走』のスティーブ・マックィーン。こうした柵を飛び越えたシーン、確かにありましたね。

「二輪のモーターショー」といいながら、三輪・四輪のバイクあり、自転車もあり、さらには映画とバイクの企画コーナーあり・・・このあたりの融通性というか、企画する側も楽しんでいるところが、フランスらしい、あるいはラテン気質なのでしょうか。もちろんバイクがメインではあることに変わりはないのですが。12ユーロ、決して高い入場料ではありませんでした。(7日まで、ポルト・ド・ヴェルサイユのPARIS EXPOで)

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マルセル・マルソー、永遠へ旅立つ。

2007-09-29 00:19:41 | 映画・演劇・文学
9月22日に、パントマイムの神様とも呼ばれるマルセル・マルソーが84歳の生涯を閉じたことは、日本でも報道されていたと思います。では、フランスでの報道ぶりは・・・

今年も今までに何人か、有名な俳優が亡くなっているのですが、そうした人たちに比べると、ちょっと控えめな報道ぶりだったという印象を持っています。もちろん、割かれるスペースや時間が若干少ないというだけで、報道はきちんとされていましたが・・・


(24日付のフィガロ紙です)

Marcel Marceau(マルセル・マルソー:1923年5月22日-2007年9月22日)。生まれたのはストラスブール。肉屋で、歌好きな父と、読書好きな母の間で育ちますが、父はユダヤ人。アウシュビッツから帰ってくることはありませんでした。マルセルも、ナチの手から逃れるため、名前を本来のMangelからMarceauに変えて、別の地方に移り住んだりしました。但し、逃げてばかりいたのではなく、レジスタンスとして、活動。偽名とレジスタンス・・・素性が分からないように、なるべく喋らないように・・・こうした経験とアウシュビッツから帰れなかった人たちや戻れても自らの体験を語るべき言葉が見つからない人たちの苦悩を思いやること、こうしたことが言葉のないパントマイムへといっそう強く誘ったのではないかとも言われています。

最初は造形芸術を学んでいたものの、やがて演劇の教室へ。Dullin(デュラン)、Decroux(デクルー)という優れた教師に出会うことができ、本格的に演劇修行を始めます。特に、パントマイムの改革者として名を馳せていたデクルーにその素質を見い出されました。デクルー曰くは、マルセル・マルソーは生まれながらにしてのマイム役者だ。そのセンスはもちろんですが、マルセルの痩せていて筋肉質、それでいて柔らかい体躯がマイムに最適だったそうです。また、その教室で出会ったのが、ジャン=ルイ・バロー。『天井桟敷の人々』でお馴染みですね。当時すでに、彼ら二人は、歩いているように見えて実際は進んでいないマイムの動きを考案していたそうで、今ではマイケル・ジャクソンの「ムーンウォーク」の原形とも言われていますね。戦後すぐ、ジャン=ルイ・バローがマドレーヌ・ルノーと劇団を立ち上げるとマルセル・マルソーも誘われ参加。喜劇のアルルカン(Arlequin)を演じていました。しかし、1年後、マイムに専念すべく、そこから離れていきます。


(25日付(24日発売)のル・モンド紙です)

そして、マルセル・マルソーは“Bip”(ビップ)というマイムのキャラクターを創り上げます。マイムを再生するには伝説となるキャラクターが必要だった、とマルセル・マルソー自身が後になって語っています。名前は、ディケンズの『大いなる遺産』のピップ少年から取ったそうです。Bipの誕生、つまり初舞台は、1947年3月22日、マルセル24歳の誕生日でした。それからは、Bipとともに、フランス国内はもとより、海外へと公演の旅が続きます。行く先々で好評でしたが、中でも特にチャップリンやバスター・キートンといった無声映画の伝統のあるアメリカと、能や歌舞伎といった伝統演劇の生きている日本で人気が高かったといわれています。

1990年代になっても毎年200回以上の公演を続けていたそうで、マルセル・マルソーといえばBip、Bipといえばマルセル・マルソー、そんな関係になっていました。各国で大人気のマルセル・マルソーのマイムですが、もしかすると最も熱狂的でなかったのがフランスかもしれないとも言われています。このあたり、マルセル自身も認識していたようで、フランスではアーティストは常に自己革新をしていかないと評価されないが、自分は根源に帰ることも必要だと思っている、と語っています。しかも、再生に成功したかに見えたマイムも、1968年、つまり五月革命以降、言葉のない舞台が以前ほど評価されなくなってしまった。言葉で異議申し立てをする風潮。それに対して、身体言語で伝えるマイム。しかも、Bipは傷つきやすく、詩的なキャラクター。どうも、フランスでは、日本で思っていたほどのすごい人気ではなかったようです。こうした背景で、死亡の報道も、他の人気俳優たちに比べると、ほんの少し控えめだったのかもしれません。


(24日付のメトロ紙です)

しかし、マルセル・マルソーの始めたマイム学校からはしっかりと後進が育っており、Bipの蒔いた種は、しっかり育っているようです。マイムの演技はその場かぎりの儚いものだが、その儚い演技を通して自分は永遠を探している・・・こう語っていたマルセル・マルソー・・・

眠りについたのは、パリのペール・ラシェーズ墓地。

亡くなって1週間。まだ墓碑は立っていませんが、手向けられた多くの花に囲まれています

花の間には、Bipがかぶっていたのと同じ形の帽子も。こうして、“Bip”が人々の記憶に永遠のキャラクターとして残ることを確信して、マルセル・マルソーは今、安心して眠りについているのではないでしょうか。

合掌。

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07/08シーズンへ。

2007-08-29 00:29:00 | 映画・演劇・文学
この時期から来年へ向けて、新しいシーズンが始まります。たとえば、サッカー。日本は春から秋ですが、ヨーロッパの多くの国々では、8月から来年の春までがシーズン。最近シーズン・インしたリーグが多いですね。イタリアではセリエAに復帰したユベントスが大勝、ドイツではバイエルンが三連勝、スペインでも、イギリスでも、そしてフランスでも始まっています。松井のいるル・マンが好調な滑り出し。パリでの試合、また応援に行ってみたいと思います。

そして、忘れていけないのが、文化イベント。これも、秋から春がシーズン。9月になるといろいろなイベントが始まります。その一つが、演劇。


26・27日付のル・モンド紙の別冊に掲載されていたコメディ・フランセーズの広告です。1680年に設立された、別名「モリエールの家」とも言われるフランス演劇の殿堂。ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。これからのシーズン、どのような演目リストで私たちを迎えてくれるのでしょうか。


これは、コメディ・フランセーズの公演スケジュールや演目紹介をまとめた冊子です。実は、頂きもの。フランス語会話のボランティ教室で、演劇の話とかをしていたところ、ボランティアの女性が、持ってきてくれました。コメディ・フランセーズには劇場が三つあり、そのひとつがそのボランティア・サークルの近くにある。そこでわざわざもらって来てくれたものです。嬉しいプレゼント。パリのおばさんたちは意地悪という風評もありますが、もちろん全員が意地悪ではなく、こうして親切なご婦人たちも多くいます。実際には、親切な人たちのほうが多いのだろうと思います。ただ、少数の意地悪さんが露骨にやるので、そういうイメージができてしまっているのかもしれないですね。


さて、この写真にあるように、劇場は三つ。もっとも有名なのが、“Salle Richelieu”。コメディ・フランセーズの本拠地です。ここ以外に二劇場。6区にある“Theatre du Vieux-Colombier”。ジャック・コポーにより開かれた劇場で、一端閉鎖されていましたが、1993年にコメディ・フランセーズの第二劇場として再開されています。そしてもう一つが、ルーヴルのギャラリー・デュ・カルーセルにある“Studio-Theatre”。この名は、1912年にスタニスラフスキーがモスクワに作った劇場の名に因んでいるそうです。こちらは1996年にオープンしています。


今年6月10日現在の劇団員です。総勢59名。これらの俳優たちが見せてくれる演劇の真髄。さて、このシーズンの演目は・・・

主だったところでは、モリエールの『病は気から』・『人間嫌い』・『才女気取り』、ボーマルシェの『フィガロの結婚』、マリヴォーの『率直な人々』、シェークスピアの『じゃじゃ馬ならし』、ラ・フォンテーヌの『寓話』、ガルシア・ロルカの『イェルマ』、エドモン・ロスタンの『シラノ・ド・ベルジュラック』、ダ・シルヴァの『ドンキホーテとサンチョ・パンサ』・・・どうです、楽しみですね。

そして、もう一つ、忘れていけないのが・・・

“Hommage a Moliere”(モリエールへのオマージュ)として去年から始まった特別公演。モリエールの誕生日(1622年1月15日)を記念して、2008年も1月15日に劇団員総出で特別公演を行なうそうです。

来年1月はモリエール386回目の誕生日。

ここまで愛され、尊敬されるとは、モリエール自身、存命中に予想していたでしょうか。時の試練を潜り抜け、今でもまだその輝きが衰えない。真の芸術の名に相応しい作品を残したゆ故でしょう。そうした作品を、「今」を感じさせる演出で見ることができる。これは、とびきりの贅沢かもしれません。9月から来年の6月まで、その贅沢をできるだけ多く味わいたいと思っています。

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一足早く、読書の秋。

2007-08-23 00:27:06 | 映画・演劇・文学
日本では、まだまだ暑くて読書の秋なんていう状況ではないかもしれないですが、政治も、学生の勉強も再開されたフランスでは、読書の秋!

皆さんは、どんな本を思い出の一冊にあげますか? 一冊に絞るのは難しい。たとえば、私の場合は、『十五少年漂流記』、『クオレ』、『三銃士』、『君よ知るや南の国』、『ああ無情』・・・思い出の本と言うと、どうしても「少年少女世界の文学」に行き着いてしまいます。もちろん、これら以降に読んだ思い出の本もあります。一方、忘れてしまった本もそれなりにあります。それら全てが、私の存在のどこかで、生きているのではないかと思っています、ちょっとオーバーですが。

いきなり、私的思い出に浸ってしまいましたが、ブログゆえとご容赦を。

さて、フランスの読書の秋。


21日付のフィガロ紙です。新学年を“Rentree”と言いますが、それに引っ掛けてあるのか、“la Rentree Litteraire”(文学の新学期)、日本の「読書の秋」にあたるのではないかと思います。

これから2ヶ月ほどの間に、727冊の小説が出版される予定とか。内訳は、フランス人作家による作品が493作、外国人の作品が234作で計727冊。それらの中には、新人の作品が102作含まれているそうです。新しい文学の地平を切り開くどんな新人作家が登場するのか、楽しみですね。

でも、727冊。すごい量です。記録更新だそうです。2ヶ月で全部読もうとすると、毎日12冊以上! これは、無理な話ですね。大手出版社よりは、中小出版社からの本が多いそうです。どうしてか・・・記事によると、作品が売れるかどうか、これは一種の賭けのようなもの。ということは、下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる? 727冊も出版されても、その多くが数千部程度しか売れない! 10万部売れれば、ベストセラーだそうです。今年のベストセラーは、どんな作品に。

ということで、フィガロ紙が20冊をあげています。でも、これらは出版業界で話題になっている作品で、必ずしも、作品のレベルを保証するものではないそうです。

また、小説以外にも、エッセーがおよそ600冊。これだけ多くの作品が世に出ると、1作品あたりの部数は、どうしても減ってしまうのでしょうね。

では、実際に書店の店頭はどうなっているでしょうか。


この書店では、まだ「この夏のお勧め50冊」で店頭を飾っています。


インテリアショップみたいなおしゃれな店頭の書店もあります。


そして、ありました。

“Rentree litteraire”と表示した書店のウィンドー。この店は、この店ならの判断で選んだお勧めの本を展示しているようです。


作家が尊敬され、読書のよろこびを大切にする人が今でも多いというフランス。一足早く、読書の秋のご紹介でした。

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見つけた、ついに! 何を?

2007-08-06 00:32:01 | 映画・演劇・文学
今日のブログは、デカルト通りから始まります。



6区、パンテオンの裏にあるリセ・アンリⅣのそのまた裏にある通りですが、何しろ哲学者にして数学者、さらには物理学者でもあったこの偉人の名を冠する通り、この名前だけでも、注目に値してしまいそうですね。

ただ、今ある通りはどこといって特徴のない通りです。地上階がレストランや食料品店。そして、上がアパルトマン。

ただ、さして長くない通りの中ほどに、ある詩人の住んだ建物があります。


ヴェルレーヌが1896年1月8日に亡くなったのがこの建物。秋の日のヴィオロンの・・・地上階は、いまや“La Maison de Verlaine”というレストランになっています。借家人、ヴェルレーヌは今もこの建物に貢献している、というか、させられているようです。これでは、ヴェルレーヌも草葉の陰で苦笑しているに違いありません。

ここまでは、ガイドブックにも載っているので、ご存知の方も多いでしょう。何気なく、隣の建物を見上げたら、突然、探し物に出会ってしまいました!


日本の作家・辻邦生、1980年から1999年まで、ここに滞在す。

そうです、探していたのは、辻邦生氏の住んでいた場所。高校時代の愛読書でした。当時は『辻邦生作品全六巻』として河出書房新社から出ていました。『回廊にて』、『夏の砦』、『天草の雅歌』、『安土往還記』、『サラマンカの手帖から』、『嵯峨野明月記』、『洪水の終り』、『空の王座』、・・・息苦しくなってしまうほどの美への探求、人間と美への信頼感、叙情性・・・純真な(?)高校生は夢中になって読んだものです。

その後も、『背教者ユリアヌス』、『ある生涯の七つの場所』など読んでいきましたが、突然、パタッと読まなくなってしまいました。その後、国内、海外を何度か引越すうちに、六冊ともなくなってしまった。もしかすると、古本屋さんに売ってしまった!かもしれない・・・。それが急に氏のパリでの足跡をたどってみたくなったのは、以前先人の知恵でもご紹介した『フランスの新しい風』という本を読んでから。その本には、パリにアパルトマンを持っていて、パリに来るとそこに滞在。毎朝、リセ・アンリⅣの前を通って、コントルスカルプ広場のカフェでクロワッサンとカフェ・オレの朝食をとっていた、と出ていました。今までにも何度か探してみたのですが、見つかりませんでした。


(コントルスカルプ広場)

それが偶然にも見つかりました! どうも「リセの前を」を誤解していたようです。パンテオンとリセの間の路を歩いていたのかと思っていたのですが、正確に言えば、「リセ脇のアパルトマンを出て広場のカフェへ」。これなら探しやすかったのですが。プライバシー尊重の意味から敢えて分かりにくくしたのかもしれないですね。


(辻邦生の住んでいた建物の外観)

デカルト通り37番地。若い頃はモリエールみたいな笑劇を書いてみたいと浅草に通いつめたり、働くこととはどういうことかを身をもって体験してみたいと日産ディーゼルの前身の宣伝部で午後だけ働いたり・・・しかしその後は、フランス文学の研究と創作活動に専念。人間と美に対する信頼を隠さずに表した、人格と作品の価値の高さが一致する稀有な作家、とも言われています。

「ヨーロッパは、自然に与えられたものをいつも越えていく場所であるということが、ぼく自身を変えてくれたいちばん大きな認識だったわけです。甘えることを絶対にしない。自分がある環境に産み落とされると、そういう環境と絶えずたたかって、より高いものをつくっていく。これがヨーロッパなんだとつくづくと感じました。」(『言葉の海』辻邦生)


(パンテオンを北へ少し降りたところで出会った風景)

1925年生まれの氏は、1957年から61年までパリに留学(昨日ご紹介したホテル・イストリアのあるカンパーニュ・プリミエール通りに住んでいたそうです)。そして80年から99年に軽井沢で亡くなるまで、パリに来るとこのアパルトマンに。長らく離れていた氏の作品をパリで読み直し、その炯眼を道しるべに、そして先人の偉大さに改めて打ちのめされながらも、フランス、ヨーロッパについて、もう一度しっかり見つめなおしてみたいと思っています。

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芸術家御用達ホテル。

2007-08-05 00:21:08 | 映画・演劇・文学
なぜか文化人・芸術家たちに愛されるホテルって、ありますよね。たとえば、日本でなら、神田駿河台の山の上ホテルとか、他にもいくつかありますね。芸術の歴史の長いパリなら、そうしたホテル、たくさんあるに違いないと思われます。実際きっとたくさんあるのでしょう。今日はそうしたホテルの内、芸術家ご用達だったことを示すパネルを表示してある二つのホテルをご紹介しようと思います。


まずは、フランスで偉人といえばパンテオン。ルソーとかヴォルテール、ユゴーとかゾラ、マルロー、キューリー夫人などの偉人たちが永遠の眠りについているパンテオン。そのすぐ南側に建っているのがこのホテル。


その名も“Hotel des Grands Hommes”(偉人ホテル)。18世紀に建築された建物を使っています。しかし、2002年に改装したそうで、内部は19世紀風のインテリアがシックな3つ星ホテル。

このホテルと芸術家、その関係は・・・


時は1919年春、このホテルの一室で、作家のアンドレ・ブルトンとフィリップ・スーポーが自動記述という新しい創作方法で作品を書き、シュールレアリスムの産声を上げたそうです。いってみればシュールレアリスム誕生の地。そこで書かれたシュールレアリスム第一作は、“Les Champs magnetiques”。

自動記述というのは、眠りながらの口述や常軌を逸した高速で文章を書くことにより、美意識や倫理観などを超えた無意識や意識下の世界を反映させた創作活動、といわれているようです。でも、門外漢には、寝言とか、コックリさんとかに近いのでは、などと思えてしまいますが、文学を専門とする方々からはきついお叱りを受けてしまいそうですね。

ただ、シュールレアリスムといえば、日本では同じくアンドレ・ブルトンの『シュールレアリスム宣言』(1924年)がその誕生といわれています。しかし、フランスではいくつか資料に当たってみましたが、どれも“Les Champs magnetiques”。どうして違うのでしょうか。第一作は“Les Champs magnetiques”だが、きちんと宣言をした時点でスタートしたということなのでしょうか。実質は1919年に書かれ翌20年に出版された作品だが、カタチとしては1924年の『シュールレアリスム宣言』だ、ということなのでしょうか・・・ここはご存知の方のお教えを待ちたいと思います。

もう一つの、芸術家ご用達のホテルにはさらに華々しい歴史が・・・


1920年代、日夜、芸術論議というか、芸術家たちのばか騒ぎが行なわれていたモンパルナス。その芸術家たちのねぐらとなっていたのが、“Hotel Istria”(ホテル・イストリア)。錚々たる名が刻まれています。



画家のピカビア、デュシャン、キスリング、写真家のマン・レイとそのモデルも勤めた当時の芸術家たちのアイドル・キキ(モンパルナスのキキ)、作曲家のエリック・サティ、作家のリルケ、ツァラ、マヤコフスキー、アラゴン。アラゴンはその恋人との邂逅を詩に書いたようですが、その一説も紹介されています。

パネルに紹介された芸術家たち以外にも、一世を風靡したダンサーのジョセフィン・ベーカーなどもよく投宿していたとか。どの部屋に泊まっても、かつて芸術家の誰かが滞在したかもしれない、そう思えてきそうです。


イストリア・ホテルの前の路(カンパーニュ・プルミエール通り)です。今ではごく普通の通りですが、モンパルナスにも近く、20年代にはさぞや多くの芸術家たちの足音が聞こえたことでしょう。


通りのアパルトマンの窓からホテル・イストリアを眺める人形のような、真っ黒な犬。この犬が見つける新しい芸術家は誰でしょうか。そしてこの通りからもう一度新しい芸術活動が生まれてくることがあるのでしょうか。21世紀にも、熱狂の芸術運動が起きてほしいもの。ぜひ期待したいと思います。

部屋の中とか見てみたい方は、それぞれのホームページでどうぞ。
・偉人ホテル(日本語のページあり)
http://www.paris-hotel-grandshommes.com/japanese/the-hotel-01.html
・ホテル・イストリア(英語のページあり)
http://www.istria-paris-hotel.com/

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