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50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

楽園の奴隷たち。

2007-06-05 00:29:33 | 美術・音楽
21世紀の今でも、奴隷がいる・・・そんなショッキングな写真展が行われています。


このイベントに気付いたのは、メトロの駅に貼ってある大型ポスター。“Esclaves au Paradis~L'esclavage contemporain en Republique Dominicaine”(天国の奴隷たち~ドミニカ共和国における今日の奴隷制度)。地上の楽園としてヨーロッパの観光客に人気のカリブ海。そこに浮かぶイスパニョーラ島。1492年にコロンブスが到着したこの島の東側三分の二を占めるのがドミニカ共和国。そして残りの西側がハイチ共和国。この島で、今でも奴隷制度を髣髴とさせる状況が続いている・・・


会場は、かつての工場を改修したようなアート・スペース。主催には、人権擁護団体・アムネスティ・インターナショナルやパリ市、リベラシオン紙などが名を連ねています。


写真の点数はそれほど多くはないのですが、タイトル・スローガンにもなっている「血と砂糖と汗と」に現されたサトウキビ農場労働者の悲惨な暮らしぶりが見事に写し出されています。奴隷のような状況に置かれているのは、ドミニカ共和国のサトウキビ農場で働くハイチ出身者・・・。

このカリブ海の島にコロンブス一行がやってきたときは、先住民族が平和に暮らしていました。しかし、この島で金鉱が発見されるや、スペイン人たちは先住民たちを金の採掘で酷使。あまりの酷使に、彼らはほぼ死滅してしまいました。そこで、必要な労働力として、アフリカから多くの黒人奴隷をつれてくる。金の生産が減ると、サトウキビやコーヒーなどのプランテーションで酷使する。その間に、スペイン領のこの島は、西側がフランス領になったり、すべてが仏領になったり、再び東側がスペイン領に戻ったりしましたが、19世紀初頭、フランス領がハイチ共和国として独立。世界初の黒人による共和国で、またラテン・アメリカ最初の独立国でした。こうした快挙にもかかわらず、このハイチは島の東にあるスペイン領を占領したり、南北に分かれての内戦があったり、非常に不安定な状況だったようです。東側の地域も、ハイチの支配の後はスペイン領に戻り、その後アメリカの占領を経て、独立。このように、元は一つの島であったところに、アフリカの人たちが奴隷として連れてこられ、しかもスペインとフランスの力関係で境界線が引かれ、その後独立しても、反目しあう二カ国関係になってしまったようです。

また、ハイチは独立の際、フランス人入植者たちの農園などを接収しましたが、その補償と引き換えに独立を認めてもらったため、後々までその莫大な補償の支払いが大きな足枷となってしまいました。その支払いのため、国民経済が一向によくならない、その不満から政治が不安定になり、独裁、内紛、暗殺などが続き、国は疲弊しきって、世界最貧国の一つに数えられています。


(上の地図、左のクリーム色の部分がハイチ、右側グリーン系の部分がドミニカ)

ドミニカ共和国として独立した東側のほうが、状況はまだましなようで、その結果、職を求めて多くのハイチ人がドミニカ共和国へ出稼ぎに。そのまま居つく人もいますが、その待遇たるや、まさに奴隷並み。かつて互いに敵同士で闘った歴史もあり、ドミニカ人のハイチ人に対する扱いは、かつての奴隷を髣髴とさせるものだそうです。

プランテーションで1日15時間働き、サトウキビを1トン収穫して得られる賃金が1ユーロちょっと(160~170円)。体格がよく、慣れている人でも、1.5トンの収穫、1.6ユーロの賃金が限度だそうです。しかも払われるのは兌換券のようなもので、それで買い物をすると手数料まで引かれてしまうとか。


このような収入では食べて行けず、子どもたちも働くことに。しかし、基本的には子どもの就労は違法なため、支払われる額は、非常に少ないものに。もちろん、衛生・医療制度などは、あってなきに等しい状態。また長年ドミニカで暮らしていても、正式な滞在許可証を出してもらえず、いわば不法滞在状況。その結果、子どもたちには就学の機会も与えられない。


アムネスティがこの問題を告発するレポートを公にし、また今回の会場でも配布しています。名前だけはよくニュース等で聞いたり、見たりしていましたが、そのレポートを手にするのは初めてです。今年の4月に出されたもので、フランス語版はA4・32ページ。その中には、ハイチ人への聞き取り調査の抜粋も載っていますが、まるで犬並みの扱いだとか、上手い口車に乗せられてここに来たら、待っていたのは家畜のようにこき使われる日々だったとか、現状を訴える声が多く紹介されています。

こうした現状に、かつての宗主国、フランスとスペインは何か策を講じているのでしょうか。それとも、見て見ぬふりなのでしょうか・・・ハイチの惨状は、数年まえ日本のテレビでも見た記憶があります。しかし、ドミニカへ働きに行った人たちの奴隷並みの生活は知りませんでした。ヨーロッパの奴隷商人に連れられアフリカからイスパニョーラ島へ。その島は、ヨーロッパ二カ国の思惑と力関係で分断され、相争い、憎しみあう関係に。そして、より悲惨なほうから、まだましなほうへ働きに来ている人たちは、人ではなく奴隷のような日々を送る・・・常に虐げられ、悲惨な人生を送るのは、アフリカ系の人たち。こうした現状を、ヨーロッパの人たちはどう思っているのでしょうか・・・。

イベント紹介雑誌にも載っていないこのイベント、しかも分かりにくい会場(あ、ここだ、やっと見つけた、と言って入ってきた人たちもいました)、しかし、それでも会場にはそれなりの数の白人が訪れていました。完全には、見捨てられていないようです。それが、せめてもの救いです―――。


・“Esclaves au Paradis~L’esclavage contemporain en Republique Dominicaine”
(天国の奴隷たち~ドミニカ共和国における今日の奴隷制度)
・L'Usine Spring Court
 5 passage Piver
(11区、メトロのBelleville駅から徒歩5分)
・6月15日までの開催

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海からの贈り物~海洋博物館。

2007-06-04 00:31:27 | 美術・音楽
今日は、先日特別展(「アイヴァゾフスキー~海のポエジー展」と「舟遊び展」)をご紹介した海洋博物館の通常展示をご紹介しましょう。



海へ・・・未知なる世界への憧れ、信条の自由を求めて、あるいは新しい暮らしを夢見て・・・多くの人々が海へと漕ぎ出していきました。その長い歴史の中で、新しい世界へたどり着き、新たな人生を始めることができた人、海の神に魅入られ、海にその人生を終えた人・・・いろいろな結末がありました。それでも、海のかなたへ。海は今でも多くの人を惹きつけて止みません。



ガレー船の時代もありました。船は大型化し、漕ぎ手も多く必要になりました。動力も、人の手から、風へ、水蒸気へ。



人を運ぶだけでなく、戦の道具となることもありました。砲門の数を競う時代がありました。



海賊たちが我がもの顔に跋扈する海域もありました。



より確実に、より安全にと、いろいろな道具も発明、改良されてきました。



生命の故郷でありながら、いまだその全貌が解明されていない、未知の世界、海。そこに不思議がある限り、子宮回帰のように、人は惹きつけられていくのかも知れません。

地球温暖化により、水位が上がりつつある、海。海がその牙をむくことがないよう、私たち人間が、地球を元の健全な姿に戻すべきではないでしょうか。その責任が私たちにあるのではないでしょうか。母なる、海。本来は優しいはずですから。


海洋博物館(火曜休館)
(Musee national de la Marine)
www.musee-marine.fr

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海洋博物館の特別展。

2007-06-02 00:41:07 | 美術・音楽
セーヌをはさんでエッフェル塔の対岸、シャイヨー宮の中に、Musee National de la Marine(海洋博物館)があります。

そのすぐそばに住んで1年。はじめて行こうとしたきっかけは、例によってメトロの駅に貼ってあるポスターでした。

“Aivazovski”というはじめて目にする画家の名と“la poesie de la mer”(海のポエジー)というタイトルに惹かれて観に行ってみました。

イヴァン・アイヴァゾフスキー・・・1817-1900、海のもつさまざまな表情を余すところなく6,000点の作品に描き出した、海の画家、海の詩人。海と空の透明感を描き、ドラクロワやターナーに影響を与えたとも言われています。嵐の海や難破船を描いた作品には、神々しいまでの自然とその前では無力でしかない人間の姿がテーマとして表現されているそうです。この画家の海への憧れは、彼の祖国アルメニアの精神風土だそうで、海のかなたには偉大なる自由がある・・・自由を希求するアルメニアの人々の憧れの結晶なのかもしれません。

首都エレバンにあるアルメニア国立ギャラリーの作品を展示するこの展覧会は「フランスにおけるアルメニア年」の記念行事のひとつとして開催されています。

なお、時を同じくして、日本でもアイヴァゾフスキーの作品を見ることができます。東京都美術館で7月8日まで行なわれている「国立ロシア美術館展」。そこで、この海の詩人の作品に出会えるそうです。

海洋博物館でのアイヴァゾフスキー展は6月4日で終わってしまうのですが、館内ではもう一つの特別展が秋まで行われています。“Bateaux jouets”(舟遊び展)・・・子どもの頃遊んだ舟遊び、あるいは船の模型作り、そうした船と遊びに関する展示会です。


子どもの頃、こうした小型のボートに池や湖で乗った記憶はありませんか。

船の模型づくりに夢中になった日はありませんでしたか。

模型を池に浮かべて・・・夢中になりすぎると、こんなことにも・・・以前ご紹介したウィリー・ロニスの写真に思わぬところで再会することができました。

船の模型づくり・・・子どものときの海への憧れを大人になっても持ち続けて、夜、書斎でこっそり、ボトルシップづくり。

そんな趣味をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。フランスにも同好の士がいるようで、きちんと展示されていました。

そして、なんといってもすごいのが、船の模型づくりが昂じて、それを職業としてしまった人たち。海洋博物館には実物の何十分の一という精緻な模型がいっぱい。

それを作っている人たちの仕事部屋ものぞけるようになっています。

ちょうど食事時間で、誰もいなかったのですが、趣味がそのまま仕事になった、子どもの心そのままに大人になった、そんな笑顔が素敵であろう人たちの職場がパリの海洋博物館にはあります。

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ピカソとカルメン。

2007-05-28 00:35:49 | 美術・音楽
いま、ピカソ美術館で“Picasso - Carmen”(ピカソ・カルメン)という企画展が開催されています。



いくらフランスに住んで制作活動をしていたといえ、ピカソはスペイン人。「カルメン」のもつ情熱・アウトサイダー・反逆といったイメージを嫌いであるはずがありません。「カルメン」を描いた作品があって当たり前・・・と、この企画展を知れば思えるのですが、ではその具体的な接点は、と問われると、はたと困ってしまう、そんな程度の知識しかなかったのですが、ピカソとカルメン・・・惹かれるものがあり、出かけてきました。


いかにもスペインといった、黒のレースをイメージさせる会場装飾です。そして、髪飾り、扇・・・スペインが出迎えてくれます。展示されているのは200点ほどの絵画、デッサン、版画、挿絵、写真など。何しろピカソの多作ぶりは有名で、もっとも多作な画家としてギネス・ブックにも載っているほどですから、カルメンに関係する作品が200点といっても驚くにはあたらないのかもしれないですが、それでも、多くの作品です。


ポスター、パンフレットに使われているスペイン女性やこうした闘牛士の写真、


そして、いかにもキュビズムの創設者といった作品が並んでいますが、今回特に注目されたのが、メリメの本に描かれた水墨画です。


メリメの小説『カルメン』が発表されたのは1845年。そしてビゼーのオペラが上演されたのが1875年。ピカソはそのあと1881年の生まれで、20世紀に入るとすぐパリに住み始めましたので、それらを読んだり観たりするチャンスはあったのではないでしょうか。実際、ピカソはカルメンに多大な興味を抱いていたようです。興味というより、憑り付かれていたといった方がいいくらいだ、と言う人もいるくらいです。情熱的というか、男の一人や二人、簡単に破滅させてしまうほどの魔性の女性、カルメン。

ピカソは、1957年に出版されたメリメの『カルメン』の余白に、水墨画を中心に彩色したものも含め、多くの挿絵を描いています。


そして、暗く血の騒ぐ儀式、闘牛。カルメンと闘牛・・・祖国スペイン、というだけでなく、ピカソはそこの何か共通するものを見ていたのではないでしょうか。しかも、両者が似ているだけでなく、そこに自分自身を見出していた画家・ピカソ。カルメンは、女性という鏡に映ったピカソ自身だ、といわれる所以かもしれません。情熱・アウトサイダー・反逆、それらの化身がカルメンになり、ピカソになったのでは・・・そう思えてきます。


ピカソ美術館
5 rue de Thorigny(火曜日休館)
“ピカソ・カルメン”展は7月24日まで

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地中海の歌姫~ダリダ

2007-05-24 00:42:05 | 美術・音楽
ダリダ・・・知っていますか? 昔、日本でも大ヒットした曲を歌った女性歌手です。その曲の名は・・・『甘い囁き~パローレ・パローレ』。思い出しましたか? これはデュエット曲でした。一緒に歌っていたのは、あのアラン・ドロン。ヒットしたのは1973年。あのリフレインが蘇ってきますよね。ここで、うんと肯いた方は、私と同年代か上の方ばかりかもしれないですね。日本では、すっかり忘れられているかもしれない、このダリダ。無理もありません、死後20年。でも、フランスでは、今でも根強い人気を保っています。


このダリダの芸能活動と彼女の人生を振り返る“DALIDA une vie…”(「ダリダ、ある人生」展)が、パリ市庁舎ホールで開かれています。

ダリダ。本名ヨランダ・ジリョッテイ(Iolanda Gigliotti)。イタリア人夫婦の間に、1933年、エジプトのカイロで生まれる。父親は、カイロのオペラ座のヴァイオリン奏者。小さい頃から音楽や舞台に慣れ親しんで育ったようです。1954年にミス・エジプトに選ばれ、エジプト映画に出演したりしていましたが、より大きな活躍の舞台を求めて、その年のクリスマスに、パリへ。パリで当初住んでいた小さなアパルトマンの同じ階にいたのが、まだ無名だったアラン・ドロンで、よくおしゃべりをしたそうです。56年にオランピア劇場のオーディションに参加。その際、聖書の『サムソンとダリラ』から取って使っていた芸名Dalila(ダリラ)をDalida(ダリダ)に変更。そしてこの年、本格デビューを果たし、「バンビーノ」が2週間で30万枚を売り上げるヒットに。これでスターの仲間入り。


(順路は、まず2階へ。出生証明書から始まり、彼女の人生を物語る品々が展示されています。)

61年にマネージャーと結婚するが、すぐ離婚。67年にはイタリアの歌手と結婚すると発表。彼の作った曲でそろってサンレモ音楽祭(懐かしい!)に参加。しかし、この曲(Ciao amore ciao:チャオ・アモ―レ・チャオ)は落選してしまう。そのショックで、彼がピストル自殺。数週間後、ダリダも睡眠薬で後追い自殺を試みるが、一命を取り留める。この試練から彼女を救ったのは、舞台でした。歌うことによって救われたようです。しかし、表情も声の質までも変わってしまい、陰のある歌い方になりました。


(彼女の使った化粧道具なども展示されています。)

70年代に入ると、アメリカや日本をはじめ、多くの国で、彼女の歌う曲が大ヒット。フランス語はもちろん、イタリア語・英語・ドイツ語・日本語・エジプト語・スペイン語など10ヶ国語で歌っています。また、ディスコ用の曲も歌うようになり、彼女が75年に吹き込んだ“J'attendrai”(「待つわ」、あみんの曲みたいですね・・・あみんも古いですね)が最初のディスコ曲といわれています。


(彼女の写真を表紙に使った各国の音楽雑誌。その中に、日本のものも含まれています。)

80年代には、押しも推されぬフランスを代表する歌手になっています。


(ゴールド・ディスクは70以上、そしてダイヤモンド・ディスクまで受賞しています。)

しかし、好事魔多しで、70年代に付き合っていた元カレが83年に自殺。彼女は人生に4度結婚し、うち3人の夫が自殺した、とも言われています。何という人生でしょう。そして、87年に付き合っている恋人との関係が思わしくなくなったとき、ついに彼女は、「人生は耐えられない。許してください」という遺書を残して、モンマルトルの自宅で睡眠薬自殺。5月3日のことで、享年54歳。今はモンマルトル墓地に眠っています。


(彼女がステージで着た衣装が展示されています。)

彼女が生まれながらにもっていた優雅さが多くの人を惹きつけたと言われていますが、それ以外に、本来イタリア人で、生まれ育ちはエジプト、というエキゾティックなバックグランド、しかもイタリア語・英語・フランス語・アラビア語に堪能となる環境で育ったこと、また歌ったのが覚えやすい曲が多かったこと、そしてその人生がドラマティックだったこと。こうしたことが、存命中はもちろん、今でも多くのファンがいる主な理由だそうです。

彼女の最後のコンサートはトルコで行なわれました。イタリア、エジプト、フランス、トルコ・・・まさに地中海世界で生まれ育った音楽の女神。しかし、その人生は壮絶でした。歌はヒットに次ぐヒット。2,000曲以上もレコーディングし、売り上げたレコードは、1億2,000万枚以上。70以上のゴールド・ディスクを獲得。しかし、恋人や結婚した男たちは自殺、自殺、自殺。彼女もついに、自らその命を絶つ。無責任なようですが、ピアフの自伝映画に次ぐ芸能人の伝記映画にはうってつけの人生かもしれません。ピアフと言えば、ダリダは『ミロール』をイタリア語でカバーしているのですが、ピアフへの敬意から決してフランス語では歌わなかったそうです。


なお、地中海の歌姫は、映画にも出演しています。そのクリッピング・ビデオやポスターなども展示・上映されています。


“DALIDA une vie…”
9月8日までの開催(日曜・祝日休館)

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新「光の画家」。

2007-05-10 03:15:53 | 美術・音楽
今、Petit Palais(プチ・パレ)で“Peintres de la lumiere, Sargent & Sorolla”(光の画家~サージェントとソローリャ)展が行なわれています。



光の画家、というと、誰を思い浮かべますか。レンブラントがそう言われることもありますが、私にとってはラ・トゥール。暗闇のなかで、一本のろうそくに照らされた静謐な空間とそこに佇む人物。あるいは、そこで手仕事をする人物。暗闇に見出した一条の光。新たな時代の息吹。そんなことを感じさせる、闇のなかの光なのですが、今回はじめて出会った画家が描くのは、明るさのなかの光。海岸沿いを歩く女性たちの顔で、服の上で、跳ねる光、強烈な光、地中海の光・・・それを余すところなく描き出しています。画家の名は、Joaquin Sorolla(ホアキン・ソローリャ:1863-1923)。


カタログの表紙や会場入り口の大型ポスターに使われているのも彼の作品です。モデルは、彼の奥さんと娘。家族をモデルにした作品を多く残しています。

スペインのヴァレンシアに生まれ、ヴァレンシア、マドリッドそしてローマで絵の勉強をしました。もちろんパリにも一時住んだことはありますが、生活のベースはスペイン。マドリッドに構えた住居兼アトリエは、彼の死後、「ソローリャ美術館」として一般に公開されています。

生まれ故郷、ヴァレンシアの碧い空、紺碧の地中海、そして、いたるところにある「光」。その光を見事なまでに捉え、描き出しています。写真やプログラムからの複写ではとてもその素晴らしさをお伝えできないのが残念ですが、ないよりはまし、と何点かご紹介しましょう。







白がこれほどまでの見事な光を演出するとは・・・この光はやはりピレネーの向こう側のものなのでしょう。ピレネーの向こう側、アルプスの向こう側は、やはり光の国。パリやオランダの光とは、光が違います。こちら側の人たちが、向こう側へ憧れる気持ちがよく分かります。

光が違えば、色彩も変わってくる。昔、『源氏物語絵巻』のローマでの展示に携わった方から、「ローマで見ると全く別物に見えた、色が異なって見えた、光のせいなのだろう」、という話をうかがったことがあります。光が違えば、見えてくる色彩も異なる。この差は大きいのでしょうね。ソローリャの絵を見ていると、どうしても向こう側、光の国に住んでみたくなります。



もうひとりの画家、サージェント。John Singer Sargent(1856-1925)。アメリカ人の両親の下フィレンツェに生まれる。パリやロンドンに住みながら、肖像画や風景画を描く。もちろんアメリカでの制作も多い。作風がソローリャに似ているということで、二人の展示会となったようですが、似ているといえば言えるのかもしれませんが、サージェントはフィレンツェ生まれとはいえ、主に暮らしたのがアルプスのこちら側の人ですから、やはり作品に描かれた「光」が違います。フランスに住んだ画家たちの作品でよく目にする「光」です。上手いのは上手いのですが、特別な感動はありませんでした。なお、ヴェラスケスの影響を受けたという共通項も、ふたりにはあるそうで、このあたりからも二人展になったのかもしれないですね。

美術が好きだというフランス人にとっても、これだけソローリャの作品をまとめて見ることができるは初めてのようで、口コミでどんどん話題が広がり、まだまだ多くの観客が押しかけています。「光の国の、光の画家」・・・私にとっては、新鮮な出会いでした。因みにプチ・パレで開催される前に、去年秋から今年はじめにかけて、同じ二人展がマドリッドの「ティッセン・ボルネミック美術館」でも開催されたそうです。


“Peintres de la lumiere, Sargent & Sorolla”
プチ・パレにて、残念ながら5月13日まで(火曜休館)

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オランピア劇場。

2007-05-02 02:06:32 | 美術・音楽
かつて、エディット・ピアフをはじめ、多くの歌手たちがその舞台に立ってきたオランピア劇場。はじめて中に入ってきました。


外観は、エディット・ピアフの自伝映画“La Mome”をご紹介した際にお見せしていますので、早速、中に入ってみましょう。赤を基調とした内装と照明で、シックではありますが、いかにもミュージックホールといった、ちょっといかがわしい雰囲気もあり、ワクワクと期待させるものがあります。


ガラスの扉を押してさらに中に入ると、階段の先にバーコーナーが。1階と2階にそれぞれバーがあり、ビールやソフトドリンク、ポップコーンなどを売っています。開演前、あるいは幕間に多くの人たちがコップ片手に語らっています。


そして、ホール内に入るとこの通り、ステージも含め横幅はそれほど広くはないのですが、その分奥行きが長く、また2階のバルコンが大きくせり出しています。各シートには番号等が表示されていませんので、どうしても案内係りのお世話になることになります。

右上に、せり出している2階のバルコンがご覧になれますか。1階、2階合わせて収容人員はおよそ2,000人だそうです。

ここで、オランピア劇場の歴史をちょっと振り返ってみましょう。ムーラン・ルージュの設立者でもあるジョゼ・オレによって、始められました。ミュージックホールとしてのオープンは1889年と1894年というふたつの説があるようですが、いずれにせよ19世紀末のパリ、今と同じ場所にオープンしたようです。初期の頃には、ジョセフィン・ベーカーやダミアといった伝説のスターがステージに立っていたそうです。1929年から、一時映画館として使用されたようですが、1954年にディレクターとしてBruno Coquatrix(ブリューノ・コカトリックス)が就任すると、彼の運営の下、ミュージックホールとして再生。エディット・ピアフをはじめ、ジョルジュ・ブラッサンス、ジルベール・べコー、イヴ・モンタン、ジョニー・アルディなどが夜毎観客を熱狂させる黄金時代を迎えました。1990年代に入り、解体して駐車場にという声が上がったようですが、時の文化大臣、ジャック・ラングによって解体を免れ、今でも多くのミュージック・ファン憧れのホールになっています。因みにここオランピアで日本人初のリサイタルを開いたのは、1990年の石井好子さんだそうです。もちろんそれ以前に出演した日本人歌手の方もいらっしゃいますが、個人リサイタルはこの年が初めてだったとか。

さて、4月30日の夜、オランピアで私がはじめて聞いたのは、日本人歌手・TOMUYA(突無也)のコンサート。

ミック・ジャガーに憧れ歌手の道へ。その後、ジャズ、シャンソン、フレンチポップスなどへレパートリーを広げ、フランス、日本で活動を行っているそうです。

オランピアでの初コンサート。ここまでの道のりは決して平坦ではなかったと思うのですが、そんな苦労は微塵も感じさせない、どこまでも軽く、明るい歌です。シャンソンでもない、ジャズでもない、ロックでもない、いってみれば古い言葉ですがフュージョン? オランピアのステージはゴールではなく、スタート。これからどんなトムヤ・ワールドを作っていくのでしょうか。

4月5日に新しいCDをリリースしたそうで、そのアルバムに参加したフランスの歌手たちが友情出演。大いにステージを盛り上げてくれました。歌手の仲間意識、友情はいいな~、というのがこの夜の一番の感想だったかもしれません。


出口へ向かう通路には、ブティックもあり、歌手のCDなどを記念に買えるようになっています。

フランス人の歌手はもちろんですが、日本人だけでなく、多くの外国人スターが憧れるオランピアのステージ。さて、今夜の、来週の、そして来月のステージでは誰がどのようなショーを繰り広げるのでしょうか。

L'Olympia
28 Bld. des Capucines
http://olympiahall.com

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パリの小物の店。

2007-05-01 00:04:59 | 美術・音楽
パリの9区、サント・トリニテ(Ste-Trinite)教会の近くに、Music Bazarという看板を出している店を見つけました。

名前からして、楽器やDVDなどを売っているのだろうと思っていたのですが、すぐ前を通りかかったら、なんと、売っているのは、バッジ。

名前がミュージック・バザールなので、楽器の形をしたバッジはもちろん売っていますが、

エイズへの連帯を表明するバッジやエッフェル塔など観光用のバッジまで売っています。音楽というより、バッジに興味のある方にお勧めの店です。Rue Jaen Baptiste Pigalleのサント・トリニテ教会寄りにあります。

そして、もう1軒。遠くから見ると小さなものがきれいに並んでいます。一瞬バッジの店がもう1軒と思ったのですが、扱っている商品が違っていました。

ボタンの店です。ボタンだけを扱っている、本当にボタンだけの店。

場所は、rue de Temple(タンプル通り)。

看板にあるBOUTONS、そのものズバリ、ボタンの意味です。

ウィンドーを覗いて歩くにはそれなりに楽しい小物の店が、パリにも意外と多くあるようです。

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レオナルドの情熱~理解と創造

2007-04-30 01:42:50 | 美術・音楽
ご存知、レオナルド・ダ・ヴィンチ。彼の「知識と創造への情熱」をテーマにした展覧会が、パリ6区にあるRefectoire des Cordeliers(コルドゥリエ修道院食堂)で行なわれています。

1230年に造られた修道院の食堂跡で、1826年からは医学部の校舎として使われましたが、今はパリ市の展示会場となっている建物です。

外観と趣を全く異にしてというか、期待にそぐわず、今風のおしゃれな入り口になっています。

“La Passion Leonard~comprendre et creer”(情熱レオナルド~理解と創造)。創造するために、まず多くのことを理解しようとしたレオナルドの探究心。そしてその結果としての作品。そのつながりを提示している企画展です。

会場入ってすぐのスペースは、レオナルドの考案した多くの科学的アイデアの紹介です。

この自転車は、レオナルドの考案したアイデアを弟子の一人が書きとめたメモを元に制作したものだそうで、自転車も元々はレオナルドのアイデアだったのでしょうか。ほかにも、大砲、船、重量のあるものを持ち上げる装置など、彼のメモを元に制作されています。

空への憧れも強かったようで、こうしたグライダーの祖先のようなものや、人力飛行機の先祖、背中につける翼なども展示されています。こうした制作物の多くは、なぜかマドリッドのスペインの国立図書館に所蔵されているようです。

レオナルドの残した13,000ページにも及ぶ膨大なメモ。その中にはこうした工学的発明といってよいアイデアや、

人体や動物の克明な解剖図、そしてデッサンなどが含まれています。

会場には、こうした直筆も展示されています。

これらの知的的好奇心を元に制作された芸術作品。しかし、完成し、現存するものは意外に少ないので驚いてしまいます。絵画は僅か17点だそうで、しかも未完ではないかともいわれる作品も含まれています。しかし、それらは人類の宝とも言われる傑作ぞろい。その中から『モナリザ』と『最後の晩餐』を選んで、新しい技術によって、オリジナル・カラーの解明などを行なっています。

ニスを取り除くシミュレーションなど、そのプロセスは映像でも紹介されています。


科学的なアプローチを基に創造されたレオナルドの作品を、現代の科学の力で解明する・・・なかなか的を得た展示方法ではないでしょうか。

創造のためには、真実を知ること。その探求に情熱を傾け、その結晶として僅かな、そして偉大な芸術作品を残したレオナルド。そのことに改めて思いを馳せる企画展です。


Refectoire des Cordeliers
15, rue l’Ecole de Medecine
(6月24日までの開催・6月16日のみ休館)

*なお、主催者が日本でもこうした企画展を開催したいそうです。ふさわしいコンタクト先をご存知の方がいらっしゃいましたら、弊ブログまでご連絡いただければ幸いです。


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近代写真の父・ウジェーヌ・アジェ展

2007-04-25 00:12:48 | 美術・音楽
Eugene Atget(ウジェーヌ・アジェ:1856-1927)。ボルドー近郊に生まれ、水夫や役者などを経験した後、1888年頃から写真を撮り始める。

しかし、彼が撮った写真は、当時の商業写真。つまり、画家たちが作品を描くに当たっての資料用写真を撮っては販売していたようです。従って、決して芸術論や写真論を語ることもなく、テクニックにしても新しいものを追求したわけではない。それでいて、彼の写真からは、純粋さ、ひたむきさが見る者の心に突き刺さってきます。強烈な印象を残すことになります。それゆえか、近代写真の父とも言われているようです。

彼の作品の回顧展“Atget, une retrospective”が、国立図書館・リシュリュー館で行なわれています。


彼が撮ったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけての、パリの街並み、庶民の暮らし、住まい、公園などです。全く気取ったところのない、普段着のパリ。それは、彼のドキュメンタリー性と感受性が捉えた呼吸するパリです。街の息遣いが聞こえてきそうです。

サン・ルイ島(上)とポン・ヌフ(下)。

いろいろな商売。八百屋、魚屋、そして箒などの日用品を売る店。

当時の住まいの中。

パリの街を走った車。

すでに完成していたパッサージュ(アーケード街)。

左はベルトン通り(rue Berton)。先日、バルザックの家で紹介した「通り」ですが、なるほど、今も当時も同じ佇まいですね。こうして100年前と今を比較できるのも、写真の記録性のお陰かもしれません。そのことに早くから気付いていたからこそ、アジェは街の記録、庶民の暮らしの記録を多く残したのかもしれません。

アジェは芸術としての作品発表などを一切行なわなかったせいか、ほぼ無名で亡くなっていますが、彼の晩年にその写真に心酔したのが、マン・レイのもとで写真を学んでいたベレニス・アボットというアメリカ人の女性カメラマン。上のアジェのポートレートも彼女の作品ですが、彼女の働きで、アジェの多くの作品がニューヨーク近代美術館によって買い上げられました。その結果、散逸を免れ、一大コレクションになっているそうです。

美的価値よりも記録の集積としての写真の価値に重きを置いたアジェ。フランスよりはアメリカで評価されているのかも知れません。やはり商売よりは芸術論の国フランス・・・それでも、会場には多くの観客が来ており、ここはパパが子どもの頃住んでいたところよ、などと話しながら懐かしそうに見入っている老婦人など、回顧展にふさわしい雰囲気ではありました。


Bibliotheque Nationale, site Richelieu
58, rue de Richelieu
7月1日までの開催(月曜祝日休館)

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