慶喜

心意気
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安土桃山時代1(耳川・鳥取城の戦い)

2022年06月14日 | 歴史
🌸耳川の戦い

 ☆大友氏の勢力が一気に衰退し九州の勢力図が塗り替えられる

安土桃山時代の耳川の戦い
 ☆九州では大友氏が勢力を拡大していた
 *肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏も力をつけていた
 *三大勢力が形成されつつあった
 ☆島津氏が日向の伊東氏に攻め込むと、大友宗麟に救援を要請
 *島津氏は、大友軍と対峙する
 *島津氏は、負けて敗走するふりをして敵を誘い込む戦法が得意
 *耳川の戦いでもおびき出して三方から攻撃し、大友軍を総崩れさせた
 ☆島津軍は敗走する敵軍を耳川まで追撃し大友宗麟は多くの有力武将失う

島津必殺の戦法・釣りの野伏
 ☆大友軍が山田有信が籠もる高城を包囲する
 ☆高城には島津家久が救援に駆けつけ、大友軍の攻撃をしのいだ
 ☆大友軍を包囲した島津軍
 *3方向から攻撃を加え大友軍は敗走する

壊滅的な被害を受けた大友軍
 ☆全軍総崩れとなった大友軍は重臣が討ち死にし大友軍は敗走する
 ☆大友軍、耳川付近で島津軍に追いつかれた
 *大雨で増水していた川で溺死する者、討たれる者が続出
 *大友軍は止めを刺された
 ☆総大将大友宗麟は日向の務志賀に本陣を置いていた
 *敗報を聞いて撤退した

敗軍の将・大友宗麟
 ☆北九州と日向、伊予の半国を支配化に治めていた大大名
 ☆耳川の戦いでは宣教師も従軍させていた
 ☆本陣を置いた務志賀でキリスト教王国を建設しようとしていた
 ☆耳川での敗戦ののちは
 *家臣の反乱や島津氏に圧迫されて衰退の一途をたどる

🌸鳥取城の戦い

 ☆飢え殺しと呼ばれる凄惨な籠城戦

安土桃山時代の鳥取城の戦い
 ☆信長と敵対する足利義昭や大坂・本願寺への支援を行う毛利輝元
 *信長と対立する立場を貫いていた
 ☆信長は秀吉に毛利攻めを命じた
 *秀吉は、三本城を兵糧攻めで落とした
 ☆秀古が次に向かった鳥取城
 *城主は、早々に降伏したが、納得いかない家巨たち
 *新しい城主として吉川経家を迎えた
 ☆秀吉は鳥取城を包囲して兵糧攻めを実施した
 *3カ月に及ぶ戦いで城内では
 *餓死した人の肉を食う悲惨な状態に陥っていた
 *限界を悟った吉川経家は自刃
 *鳥取城は秀吉の軍門に降った

鳥取城を包園して補給ルートを断った秀吉
 ☆鳥取城に入城した吉川経家
 *鳥取城の間に丸山城や雁金山城などを築き
 *海(港)から兵糧を運び込めるように補給ルートを構築した
 ☆秀吉は、戦いの長期化を避けるため港を制圧した
 ☆秀吉は、経家が用意したその他の補給ルートも封鎖
 ☆秀吉は、鳥取城を囲むように陣城を築いて鳥取城を孤立させた

毛利の救援は鳥取城まで届かず
 ☆鳥取城の救援のために派遣された吉川元春、小早川隆景
 ☆抵抗勢力に阻またて鳥取城にたどりつくことができなかった
 ☆城兵の命を助けることを条件に、吉川経家自刃した

敗軍の将・吉川経家
 ☆父は立派に死んだとわが子に伝える
 ☆毛利氏の家臣・吉川経安の子として生まれる
 ☆城主として迎え入れられた鳥取城籠城戦
 *城兵の助命嘆願を求めて自刃した
 ☆父や家臣、子どもに宛てた遺書を残す
                        (敬称略)                                     
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⛳出典、『日本の合戦』






安土桃山時代1(耳川・鳥取城の戦い)
『日本の合戦』記事より画像引用)

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