慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

アルコール依存症(酒飲み誰でも罹る可能性!)

2016年09月10日 | 医療
アルコール依存症内閣府世論調査結果

依存症が疑われる場合、約9割が相談の必要性を感じている
依存症が疑われる場合、約3割超は相談先を知らなかった
109万人が、アルコール依存症?
出典、朝日新聞デジタル版記事(寺本大蔵)








アルコール依存(ネットより画像引用)

「依存症が疑われる場合に相談するか」との質問には、
「する」 が88・1%
「しない」が11・7%。
「しない」理由の最多は「必要を感じない」が約30%

具体的な相談先(複数回答)
「医療機関」約55%
「保健所などの公的機関」約20%
「断酒会等」約4%
「具体的には知らない」約34%

依存症についての知識
「飲酒をコントロールできない精神疾患」と認識していた人約69%
「女性の方が短期間で発症する傾向がある」と認識していた人約20%
「お酒に強い人ほどなりやすい」と認識していた人約10%
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怨霊洛中(白峯・羅城門跡)10

2016年09月10日 | 歴史上の人物
崇徳上皇の怨霊と自峯神宮創建

崇徳上皇の遺体を自峰山に運ぶ際、雷鳴が轟き、棺からは血がしたたり落ちたとの逸話?
天変地異や社会不安が続いたため、都では崇徳上皇の怨霊が原因だとの噂が流れ始めた
鎌倉幕府が成立して崇徳院の呪いが的中
崇徳上皇の怨霊はその後も長い歴史を通じて人々の恐れを呼び起こしていった
明治天皇が崇徳上皇の霊を鎮めるために創建
知識・意欲の向上の目的で、本を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典、「京都魔界(東雅夫)」詳細本で確認ください










洛中怨霊(ネットより画像)

崇徳上皇の生涯
鳥羽天皇と藤原環子の第一皇子として生まれ、5歳で天皇に即位
白河法皇と環子の間に生まれた不義の子で、鳥羽帝は崇徳天皇を毛嫌いした
鳥羽帝が院政を開始すると、崇徳天皇との確執はさらに深まっていく
鳥羽上皇は、23歳の崇徳天皇に譲位させ、崇徳院の弟である近衛天皇を即位させた
崇徳上皇が望みをかけ息子の即位も、鳥羽帝によってつぶされてしまう

崇徳院は後白河天皇と対立(鳥羽帝死後)
摂関家の内紛が絡み、朝廷は崇徳上皇方と後白河天皇方に二分される
保元の乱が勃発する
後白河側が勝利し、崇徳上皇は讃岐へと配流された

羅城門跡
平安京を造営した際、朱雀大路の南端に、都の表玄関として羅城門が建てられた
羅城門は、都の正門というだけあつてきわめて壮麗な楼門でした
羅生門倒壊後、荒れるに任せ、鬼と盗賊の住処となった都の正面玄関

芥川龍之介の『羅生門』
『今昔物語集』の話が下敷きになっている
盗賊が羅城門の楼上に登ると、老婆が一心不乱に遺骸の頭髪を抜いていた
理由聞くと、かつらにするのだという
盗賊はその髪の毛を奪い、さらに老婆と遺骸の着物を剥ぎ取って去った


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昭和選択(石橋湛山さん)

2016年09月10日 | 歴史上の人物
石橋湛山(ジャーナリスト、政治家)

戦前は、日本の植民地政策を批判して加工貿易立国論を唱えた
敗戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張
総理総裁となったが、在任2ヵ月弱で発病し退陣
退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用し自分のノートとしてブログに記載
 ☆番組の画面引用しています
NHKBS番組『昭和選択』参照&引用(司会磯田道史先生他「私の好みの司会者です」)




















石橋湛山(NHKBS番組『昭和の選択』画面引用)

石橋湛山学生時代
山梨県立尋常中学校に7年間在籍(2年落第)
中学校5年生時『校友会雑誌』理事を務めている
早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格

石橋湛山ジャーナリスト時代
毎日新聞社に入社
軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感した
東洋経済新報社に入社する
大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として「民主主義」を提唱する
帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張
リベラルな言論人として知られる
『東京経済新報社』を中心とした経済倶楽部を創設

石橋湛山日本敗戦直後の論説
「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」と述べている
科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいと述べている
『東洋経済新報社論』「靖国神社廃止の議」で、靖国神社の廃止を主張

石橋湛山政界時代
日本自由党から総選挙に出馬して落選、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣
大蔵大臣在任時には、インフレーションを進め「石橋財政」を推進した
アメリカに嫌われ、公職追放令によりGHQにより公職追放された
公職追放からの復帰後、通商産業大臣に就任
中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復を主張したが、アメリカの猛反発を受ける

石橋湛山内閣総理大臣に就任
内閣発足直後に、全国遊説を行い、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた(軽い脳梗塞)
絶対安静が必要との医師の診断を受けて、総理大臣を退陣した
日本社会党の浅沼書記長は、「政治家はかくありたい」と述べた

石橋湛山内閣総理大臣退陣後
冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張
国交の無い中国を訪問し石橋・周共同声明を発表した
日米安保条約改定には、本会での議決を欠席し、自民党内ハト派の重鎮として活躍した
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