慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

女系・女性天皇とは

2016年09月09日 | 新聞記事
女性天皇と女系天皇は違い

女性天皇とは、性が女性の天皇です
女系天皇とは、母が天皇で、父親が天皇ではなく即位する天皇です
今まで、女系天皇は存在していません










女系天皇(ネットより引用)

女系天皇概略
日本において母のみが皇統に属する天皇を指す呼称です
皇統での「女系天皇」の意味は、その天皇自身の性別ではありません
女系天皇では、世襲はなくなり、誰でも天皇になることができます
外的承認機関としての皇室の意味合いが変わり価値がなくなります
現在の皇室典範では、女子の皇位継承を認めていません

日本の皇統
初代神武天皇から、今上天皇まで男系の血筋で続いています(万世一系)
神武天皇以来男系が継続しており、女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属していません

「天皇の男系子孫のみが皇位を継承できる」
日本の有史以来、皇族は全員男系の人間のみで構成されていました
明治期に、それまでの継承経緯とされるものを元に成立しました

女性天皇は過去に8人10代存在します
女性天皇は、天皇または皇子を父に持ちます
8人は、未婚(生涯独身)、天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)です

日本では、結婚した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗る
その子もその姓を名乗ることとなっています
現状では、そのほとんどが男子(父)の姓を名乗っています
姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的です
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浅井長政(信長を追い詰めた男)

2016年09月09日 | 新聞記事
浅井長政(戦国大名、浅井家3代目当主)

妻の兄・織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いた
後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて自害し、浅井家は滅亡した
知識・意欲の向上目指し、番組を参考・引用して自分のノートとしてブログを記載
 ☆番組の画面引用
出典、BS・TBS『高島礼子・日本の古都』
























浅井長政(BS・TBS『高島礼子・日本の古都』番組の画面引用)


浅井久政の嫡男として、長政六角氏の居城で生まれる
浅井家は、南近江の守護六角氏との合戦に敗れ、六角氏に臣従していた
長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていた

浅井家の成長と六角家の衰退
直接の主筋で北近江の守護京極氏を追い落とした浅井家
長政も、六角軍を相手に見事な戦い振りを披露した
六角氏に服従する状況に不満を持っていた家臣達は、長政の父久政を追放して隠居を強要した
浅井長政は家督を強奪に近い形で相続した
長政の美濃遠征中に六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した

長政、織田信長と同盟
織田信長は、美濃斎藤氏を打破するため、長政に同盟を提案した
同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした
長政は、信長の妹の市を妻とした
結婚に際して、信長の一字を拝領し長政と改名した

同盟破棄・信長包囲網
信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破る
長政は、朝倉義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍と戦う
信長は、命からがら近江国を脱出した(金ヶ崎の退き口)
長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)
姉川の戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった

姉川の戦いの後
長政は朝倉軍とともに、近江国・姉川で織田徳川連合軍と戦う(姉川の戦い)
姉川の戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった
信長に脅威を覚えた本願寺が、反信長の意志を表した
信長は、朝廷工作を行ったため、長政は、信長と勅命講和する
浅井家と協力関係にあった延暦寺は、信長の比叡山焼き討ちにあい壊滅してしまった

武田信玄との連携失敗
織田信長が北近江に来襲した
長政は、朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた
浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。
武田信玄は、遠江で織田・徳川連合軍を撃破し(三方ヶ原の戦い)三河に進んだ
浅井長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである
北近江に織田軍を釘付けにすれば、反信長連合軍の勝機は高まった
在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した
信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した
信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった

浅井家滅亡
信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる
長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を即座に落とす
浅井家中にも寝返りが相次ぎ、浅井家の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退
撤退する朝倉軍を信長は追撃し壊滅
信長は、越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後(一乗谷城の戦い)、全軍を浅井家に向けた
浅井軍は、信長の大軍によって一方的に勢力範囲を削られる

本拠の小谷城(滋賀県長浜市)が、織田軍に囲まれる
信長は不破光治(同盟の際の使者)を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続けた
浅井長政は、小谷城内赤尾屋敷にて自害した







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古典的理論?日本地震学

2016年09月09日 | 学び
日本の地震学、改革の時

東京大学のロバート・ゲラー教授主張
 ☆日本政府は、欠陥手法での確率論的地震動予測は、仮想と認識すべきです
 ☆東海地震に基づく、不毛な地震予知も、即刻やめるべきです
地震予知が不可能であることを率直に国民に伝えるのが必要
東海地震予知体制を廃止して、大震法を撤廃する時です
現在の地震学では、特定の地域のリスクレベルを的確に評価することはできない
出典、Nature Japan NatureNature 特別翻訳記事オンライン特集、引用、詳細確認ください




地震(Nature Japan NatureNature 特別翻訳記事オンライン特集引用)

東海地震予知体制が30年以上継続している理由
第1、多くの研究者がさまざまな点(予算配分、委員ポストなど)で癒着している
第2、政府決定には名目上の審議があるが、審議会は官僚が指名する委員から構成されている
第3、説得力のある批判は、放送マスコミではほとんど無視されるためにインパクトが乏しい
第4、報道記者は科学の知識に乏しい

マグニチュード8クラスの「東海地震」は必ずすぐ来る?
一部の地震学者が、20年以上も前から地震や津波の危険性を指摘してきた
マグニチュード9の東北地震(東日本大震災)のあとでも、地震と津波を「想定外」と語る解説者は多い

「想定内」の地震とは何なのか?
日本政府の地震調査研究推進本部(推進本部)が仮定した、地域ごとの固有地震を指している?
地域に選定に関して、断層パラメータなど確率論的地震動予測地を導き出している

予測が不能な地震
地震学の歴史を通じて、数日間前に地震の予知を行うということは難しいと言われていた
ソ連の研究者により、肯定的な研究が登場し、予測可能のムードに変わっていった
24万人が死亡したとされる中国の唐山地震は予知(が)できなかった
大半の研究者は、地震の前兆報告が誤りであったことを認識するようになった
現在でも、一部研究者が地震の前兆という主張を続けている

根拠のない予知法
1970年に差し迫っているとされた東海地震に関する議論は、日本中をパニック状態にした
気象庁や大学の科学者は「大規模地震対策特別措置法」(以下、大震法)の制定を促した
大震法によって定めた制度により、「東海地震」が発生する前兆を検出しようとしている
日本の気象庁地震活動等総合監視システムでは、「東海地震」を予知するために、常時観測を行っている
他の国で前例がない大震法は、信頼性の高い地震の前兆が存在することを前提としている
このデータは、今では時代遅れの測量技術を使用して測定されたもので、かなりの不確実性を伴う

研究者は、国民と政府に「想定外に備え」を勧告しなければならない
日本政府が、法的に拘束力のある地震予知体制を運用していることには驚きです
気象庁のホームページには、予知できるのは、マグニチュード8クラスのいわゆる『東海地震』だけです
それ以外の地震については直前に予知できるほど現在の科学技術が進んでいません


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