江戸時代の文化人
紀伊國屋文左衛門 ⇒江戸時代の商人(架空の話かも?)
玉川兄弟 ⇒玉川上水建設に功績
荻生徂徠 ⇒江戸時代の儒学者・思想家・文献学者
江戸の文化人(ネットより引用)
紀伊國屋文左衛門
紀州みかんや、塩鮭で富を築いた話が伝えられています
側用人柳沢吉保、勘定奉行荻原重秀、老中阿部正武らに賄賂を贈り接近し幕府御用達商人になりました
幕府御用達の材木商人となりましたが、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業しました
紀伊國屋は、2代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退しました
紀伊國屋文左衛門のミカン船伝説
紀州はミカンが大豊作でしたが、江戸への航路は嵐に閉ざされていたので、ミカンの価格は大暴落しました
江戸の「ふいご祭り」は、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて振舞う風習が有り、紀州から船が来ないのでミカンの価格は高騰
文左衛門は、ミカンを買い集め、大波を越え、死ぬ思いをしながら、江戸へミカンを運ぶ事が出来ました
「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残っています
復路、江戸にある塩鮭を買って、伝染病が流行っている大阪で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方でも大儲けしました
玉川兄弟(兄は庄右衛門,弟は清右衛門)
玉川上水の開削の指揮をとりました
上水工事は2度失敗しています
3度目で開通し、兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされました
荻生徂徠
林春斎・林鳳岡に学び、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が、江戸から放逐されました
父の赦免で共に江戸に戻り、学問に専念、塾を開きましたが、貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられました
幕府側用人柳沢吉保に抜擢され、将軍・綱吉の知己も得ました
私塾・蘐園塾を開き、て徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成する
将軍・徳川吉宗の信任を得て、豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能でした
徂徠学の成立と経世思想
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古文辞学を確立した
柳沢吉保、将軍・徳川吉宗への政治的助言者でした
日本思想史の流れで、政治と宗教道徳の分離を推し進め、経世思想(経世論)が生まれました
赤穂事件での徂徠
元禄赤穂事件の処分裁定論議では、林鳳岡等は、賛美助命論を展開したが、徂徠は義士切腹論を主張しました
「公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也」と述べています
徂徠豆腐(落語・講談・浪曲の演目)
将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話です
貧しい中で徂徠に支援してくれた豆腐屋が、大火で焼けだされたことを知り、金と新しい店を豆腐屋に贈りました
「赤穂義士を切腹に導いた徂徠」からの施しは、江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねました
自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけたと法の道理を説きました
「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情け、武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある」と武士の道徳について語る
紀伊國屋文左衛門 ⇒江戸時代の商人(架空の話かも?)
玉川兄弟 ⇒玉川上水建設に功績
荻生徂徠 ⇒江戸時代の儒学者・思想家・文献学者
江戸の文化人(ネットより引用)
紀伊國屋文左衛門
紀州みかんや、塩鮭で富を築いた話が伝えられています
側用人柳沢吉保、勘定奉行荻原重秀、老中阿部正武らに賄賂を贈り接近し幕府御用達商人になりました
幕府御用達の材木商人となりましたが、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業しました
紀伊國屋は、2代目文左衛門が継いだが、凡庸であったために衰退しました
紀伊國屋文左衛門のミカン船伝説
紀州はミカンが大豊作でしたが、江戸への航路は嵐に閉ざされていたので、ミカンの価格は大暴落しました
江戸の「ふいご祭り」は、鍛冶屋の屋根からミカンをばら撒いて振舞う風習が有り、紀州から船が来ないのでミカンの価格は高騰
文左衛門は、ミカンを買い集め、大波を越え、死ぬ思いをしながら、江戸へミカンを運ぶ事が出来ました
「沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船」とカッポレの唄に残っています
復路、江戸にある塩鮭を買って、伝染病が流行っている大阪で「流行り病には塩鮭が一番」と噂を流し上方でも大儲けしました
玉川兄弟(兄は庄右衛門,弟は清右衛門)
玉川上水の開削の指揮をとりました
上水工事は2度失敗しています
3度目で開通し、兄弟は「玉川」の姓を名乗る事が許され、上水の管理も玉川家の世襲とされました
荻生徂徠
林春斎・林鳳岡に学び、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が、江戸から放逐されました
父の赦免で共に江戸に戻り、学問に専念、塾を開きましたが、貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられました
幕府側用人柳沢吉保に抜擢され、将軍・綱吉の知己も得ました
私塾・蘐園塾を開き、て徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成する
将軍・徳川吉宗の信任を得て、豪胆でみずから恃むところ多く、中華趣味をもっており、中国語にも堪能でした
徂徠学の成立と経世思想
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古文辞学を確立した
柳沢吉保、将軍・徳川吉宗への政治的助言者でした
日本思想史の流れで、政治と宗教道徳の分離を推し進め、経世思想(経世論)が生まれました
赤穂事件での徂徠
元禄赤穂事件の処分裁定論議では、林鳳岡等は、賛美助命論を展開したが、徂徠は義士切腹論を主張しました
「公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也」と述べています
徂徠豆腐(落語・講談・浪曲の演目)
将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話です
貧しい中で徂徠に支援してくれた豆腐屋が、大火で焼けだされたことを知り、金と新しい店を豆腐屋に贈りました
「赤穂義士を切腹に導いた徂徠」からの施しは、江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねました
自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけたと法の道理を説きました
「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情け、武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある」と武士の道徳について語る