慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

「ルソン島の秘境マヨンヤオ」「イフガオ族」「イフガオ族の神話」

2024年06月19日 | 歴史
🌸高天原は高千穂峡3

⛳高千穂峡と類似したフィリピン・ルソン島の秘境
 ☆棚田が層をなして幾重にも重なる山峡の高千穂
 *高所から俯轍したときにおもい出したのは
 *ルソン島北部山岳地帯の奥深い谷間マヨヤオ
 ☆谷の底から、棚田を一段ずつ石組みの壁で支え
 *山肌の傾斜を這い上って、上へ上へと段段に積み重ねて行く
 *山の斜面を全面に覆い尽くす大工事
 ☆イフガオ族の住民たちは、遠い昔から、金属製の農具を用いず
 *ただ一本の木鋤だけを振るって、営営と成し遂げてきたのだ
 *自然条件を最大限に生かしたイフガオ族の棚田
 *個人的な労働の日常的な積み重ねにより
 *谷間の傾斜地にかなりの人口が生活するのを可能にした
 ☆わが国の弥生時代の住居をおもわせる高床式の小舎
 *床板も壁板も、光るくらい拭き清められ、磨きこまれている
 *原始的ではあるが、野蛮ではないなく、日本人に類似した性格

イフガオ族の神話
 ☆イフガオ族は、稲作のほか機織と木彫を得意とする
 *自然と霊魂を崇拝し、ユーカリの巨木を精霊の宿り木として崇める
 *かれらの宝物は、古代から伝わる土器の壺と、首飾りの玉
 *富の程度は、所有する古代壺と首飾りの玉の数等で計られる
 ☆イフガオ族での最高の美徳とされる勤勉さ
 *長く持続して、棚田を幾重にも築き上げ
 *資産を作った者の名誉の象徴は、家の敷地内に建つ倉庫
 *高床式の構造は、野鼠の襲来から籾を守るためである
 ☆棚式水田は、発祥の地である中国の雲南から
 *南を通り海を渡ってルソン島に伝わり
 *山中を流れる川を湖って深い山奥のイフガオにまで達した
 ☆イフガオ族には、世襲の巫女がいる
 *延延とつづく先祖代代の系図を朗誦し、呪術を行なう
 *わが国の記紀神話とそっくりの伝承である
 *ルソン島北部山岳地帯にも秘境にも存在した
                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『「古事記」の真実』



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「高千穂峡」「白杵の山峡」「笠沙の御前」「縄文⇒弥生」

2024年06月18日 | 歴史
🌸高天原は高千穂峡2

古事記で語られる「霊異ぶる嶺」
 ☆邇邇芸命が天降った場所、『古事記』のいう「高千穂のくじふる嶺」 
 *霧島火山群のなかにそびえ立つ高千穂峰と
 *臼杵の高千穂峡の二説に分かれている
 ☆しかし「古事記」の内容からすると
 *明らかに稲作の渡来と伝播から、かなり後に生まれた説話である
 ☆山の幸と、鹿児島湾の海の幸の両方に恵まれたこのあたり一帯
 *縄文人にとってまことに暮しやすい風土であったろう
 ☆高千穂の嶺に降臨した天孫邇邇芸命そこから眺めた地形を語る
 *霧島山の中腹から、鹿児島湾と周囲を見下ろした眺めに近い
 *高千穂峰の山頂から見ると邇邇芸命の詔にぴったり符合する景色だ

 ☆筆者は、邇邇芸命先ず霧島の高千穂峰に天降り
 *やがて白杵の山峡の高千穂に遷ったのに相違ないと想定する

白杵の山峡は、「笠沙の御前」というアンテナ地
 ☆高天原から天降った邇邇芸命、地上で最初に経験する劇
 *笠沙の御前における、国津神の女木花之佐久夜毘売との出会い
 *ここはどうしても薩摩でなければならない
 *しかし、邇邇芸命は「笠沙の御前」の地名を挙げた
 ☆「笠沙の御前」は、対馬海峡を通って
 *朝鮮ら度って来る外つ国の人と物、情報と文化等に
 *素早く集中して接することができる南九州の最先端
 *いわば海外に向けられたアンテナにあたる場所
 ☆北九州の宗像は、胸に鱗形の入墨をした海部の子孫
 *『魏志倭人伝』の、 つぎの記載がある
 *成人も子供も、身分の上下に関係ないとある
 ☆「笠沙の御前」が、これら中国の史書と
 *神代篇に「海幸彦」と「山幸彦」の対立の劇をふくむ
 *『古事記』との接点にあたる場所のようにもおもわれる

天孫邇邇芸命の子どもたち
 ☆長子火照命は海幸彦(漁師)末子火遠理命は山幸彦(猟師)で暮らす
 *双方とも田も耕しており、両者の対立と抗争、山幸彦の勝利となる
 ☆この劇の背景には、縄文から弥生への
 *時代の変化も隠されていたのでは
 *何千年にもわたって栄えた縄文文化は
 *稲作の渡来によって、過去の遺物となって行く
 ☆陸路より水路の交通が主であったころの古代人
 *後世の人間より遥かに積極的に、舟で航行した
 ☆想定される航路を辿って、日向灘の沿岸沿いに北上すると
 *舟は河口部の延岡に達し、五ヶ瀬川の流れを辿って行けば
 *その先にもうひとつの「天孫降臨」の伝説の地
 *高千穂峡が現われる
                       (敬称略)
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「天地降臨地」「上野原遺跡」「桜島噴火」「火」

2024年06月17日 | 歴史
🌸高天原は高千穂峡1

くつがえる常識
 ☆津田は、古事記が天孫降臨の地としたことを地に関して述べた
 *今の日向に大古の皇都が有った話も容易には信じられない
 *歴史上から、今の日向・大隅・薩摩は九州に於いて最も遅く開けた土地  
 *後々まで皇室に服従しなかった國であった
 ☆地理上からいへば、海にも陸にも交通の極めて不便な位置である
 *上代に於いて大なる勢力をもつ根核地としては何一つ其の資格が無い
 ☆今日では首を傾げる人が少なくないはず
 *薩摩に住む人びとは、強い疑問を禁じ得ない

⛳最古最大級の上野原(鹿児島県)遺跡
 ☆筆者が、上野原遺跡を訪ねた
 *9500年前の日本最古最大級の定住集落跡が発見される2年前
 *そのときすでにこの遺跡の凄さは、身に染みて実感された
 ☆上野原で発掘された縄文早期の壺型の大型土器
 *最初に写真で見たときは、弥生時代のものかと思われた
 *縄文文化は北から南へ波及したという学界の定説を一変させた
 ☆専門家も弥生時代のものと見紛う大型の壺型土器
 *下層の桜島大噴火による薩摩火山灰にパックされた状態で出土した
 *約7500年前のものと推定された
 *おなじ地層から発掘された縄文早期の土偶
 ☆上野原は、縄文の早期、高度の精神文化をもって定住する社会だった

「天地降臨地」の発祥地は火山地帯桜島でないか?
 ☆津田左右吉は、天孫の日向降臨説を徹底的に批判した
 *交通が不便な未開地で物資の供給が乏しく
 *文化の発達も遅れていた僻陳の疫せた荒蕪の土地である日向大隅薩摩
 *どうして皇室の発祥地であり得たか
 ☆皇祖を日の神としたため
 *日に向かうという意義に解し得られるヒムカという土地の名が
 *日の神の子孫として皇室が初めて都を置く土地としては
 *もっとも適当であったからである
 ☆『古事記』神代篇の早期の叙述と
 *活火山島である桜島を取り囲む湾岸一帯から
 *火山群の霧島山にかけての地形とのあいだに
 *切り離せない関連があるように感じられる
 ☆日本人の原母ともいうべき伊邪那美命が
 *火の神を生んだことで御陰を焼かれて病み亡くなる
 *早い段階で、現世から姿を消し、黄泉国に去ってしまう
 *夫伊邪那岐命が、黄泉国で見た妻伊邪那美命の姿から
 *大噴火のあと、溶岩流や火砕流が幾筋も流れ下る山容を象徴している
 ☆高天原から天降った天孫邇邇芸命が
 *国津神である大山津見神の女、木花之佐久夜毘売を娶って
 *作った二人の子が、火照命、火須勢理命、火遠理命と名づけられた
 *木花之佐久夜毘売は、婚姻で懐胎した子を邇邇芸命に疑われたのに
 *激怒し、自分が籠もり産殿に火を放たせ、猛火の中で火照命を出産する
 ☆上野原遺跡は、桜島の噴煙を対岸に望み
 *いまより気温と海面が高かった、海に違いなかった国分平野に面する
 *広大な台地の上にあって、たいへん見晴らしがいい
 ☆天を突き刺す円錐のような形の高千穂峰
 *その姿が、信仰心の篤い敬虔な古代人の目には
 *神が天降る依代にしたという想像と伝承の神話を育むのに
 *まことにふさわしい山容に映ったのではないだろうか
 *上野原台地の横を通って、鹿児島湾に注ぐ下流は
 *その名も「天降川」と呼ばれている
 *その水路は『古事記』が天孫降臨の地と伝える
 *竺紫の日向の高千穂のくじふる嶺のすぐ近くにまで達する
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「天皇の任務巫祝」「皇室の永続」「政治の実権握らない」

2024年06月12日 | 歴史
🌸森鴎外と津田左右吉の苦衷3

⛳天皇の任務は「巫祝」
 ☆津田は戦後に述懐した核心の部分を要約

 *神代史は歴史的事件の記録ではない
 *天上に国土のあるはずがなく、天から人が降りて来るはずもない
 *説話で、説話として初めて、記事に籠められた精神が生きてくるが
 *歴史的事件の記録とすれば、古事記の精神を壊してしまう
 *尊厳なる国体、わが皇室の御地位が、学問的に真実を明らかにすれば
 *ますます強固になると津田自身考えた
 ☆公判の予審で、重大な問題点とされたなかに
 *畏くも現人神に在す天皇の地位「巫祝に由来せるもの」のごとき
 *講説を立てたという点が指摘された
 *津田の著書、皇室の宗教的地位の説明に「巫祝」の言葉を使っている
 *津田は禁錮3月、岩波は禁錮2月、執行猶予2年の刑をいい渡された

津田が早稲田大学教授の職を失った戦時下で述べている
 ☆津田は、もし日本が戦争に勝ったりでもしたら
 *軍部の専横や無謀に抑えがきかなくなる
 *日本にとって非常に不幸なことだ
 ☆負けないかぎり、かれらの横暴は改まらない
 *しかし、国民として日本の敗戦希望することもできない
 *デイレンマに引き裂かれて過ごした

民衆と皇室の共生
 ☆敗戦で、津田博士攻撃の急先鋒となった皇国史観は一挙に崩壊する
 *津田左右吉は、輝かしい解放の春を迎えた時の人である
 *津田は、皇国史観の学問性を完膚なきまでに否定した
 ☆日本の昔の天皇崇拝とは
 *天皇が神を祭られる人であることの明らかである
 *呪術や祭祀を行なう地位と任務にたいする
 *人びとの尊敬と感謝が、精神的権威のもとであった
 ☆皇室の永続性は、みずから政治の局に当たられなかったこと
 *造作された神代史の中心観念である
 *皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし
 *天皇をその天つ日つぎとする宗教的、精神的権威から生まれた
 ☆一方で皇室が永続し、 一方で政治の実権をにぎる者が交替して行く  
 *世界に類のない二重政体組織の国家形態
 *わが国には形づくられ、政治の実権をにぎらなかった
 *外国のような王朝の更迭がなく、時の権力者にたいして
 *つねに弱者の立場にあられたことが、皇位を永続させた
 ☆幕府と封建諸侯から取り上げた軍事の権
 *天皇がすべてに優越する地位を占めて
 *天皇と国民のあいだに大きな距離が生まれ
 *国民は皇室にたいして親愛の情を抱くよりは
 *その権力と威厳とに服従するように仕向けられた
 ☆神代の物語を歴史的現実のように説いて
 *万世一系の皇室を戴く国体の尊厳を教えこみ
 *天皇崇拝の儀礼を学校において行わせたが
 *それは現代人の知性や精神とは相容れぬものであった
 ☆国民的結合の中心であり
 *国民的精神の生きた「象徴」であられるところに
 *皇室の存在の意義があるとの見解を述べた
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「鴎外の悩み」「歴史と神話の分離」「蓑田胸喜」

2024年06月11日 | 歴史
🌸森鴎外と津田左右吉の苦衷2

森鴎外の悩み
 ☆森鴎外自国の歴史を書くことを生涯の念願としていた
 *しかし、神話と歴史の限界をはっきりさせなければ、手がつけられない
 ☆父親の五条子爵に手紙で書き送る
 *息子の雑駁な学問の仕方、父親は気にしなかった
 ☆鴎外が書いてよこす報告や知見を読んで、子爵は考える
 *今の教育を受けて、神話と歴史を一つにして考えることはできない
 *前途、恐ろしい危険が横たわってはいるのではと
 ☆子供に神話を歴史として教えることを当り前として怪しまない
 *自分では神話と歴史を分けて考えながら交ぜて教えた
 *神話と歴史を分けようとするのは危険思想である
 ☆子爵は、どうぞできるだけ穏健な思想を養い
 *国家の用に立つ人物になって帰ってくれと返事を書く

鴎外は帰国後も悩みつづける
 ☆神話が歴史でないと言明することは、良心の命ずる所である
 *八方塞がりになる職業を、僕は不幸にして選んだのだ
 *所詮父と妥協してやる望みはあるまい
 *「駄目、駄目」目を見合わせながら、黙ってしまう2人
 ☆八方塞がりの職業を選んで、突貫する歴史家が現われた
 *『神代史の新しい研究』を二松堂書店から刊行した津田左右吉

⛳蓑田胸喜の攻撃
 ☆蓑田胸喜は、機関誌「原理日本」の誌上で
 ☆「津田左右吉氏の大逆思想」と題し、猛然と攻撃した
 *津田氏の神代上代捏造論は、その所論の正否にかかわらず
 *畏き極みであるが、記紀の「作者」と申しまつりて皇室に対し奉りて
 *極悪の不敬行為を敢えてしたものである
 ☆蓑田胸喜が、津田非難を開始した理由
 *早稲田大学教授津田左右吉の東京帝国大学出講である
 ☆熱烈な皇室崇拝主義者であった蓑田
 *慶應予科や国士舘専門学校の教壇に立ちながら
 *同志と原理日本社を結成して
 *社会主義、共産主義、民主主義思想の撲滅運動を展開してきた
 *攻撃目標、東大美濃部達吉、牧野英一、末弘厳太郎教授ら
 ☆津田氏講師任命、東大法学部が現日本万悪の禍源を示したものだ
 *内務・文部・司法当局は、厳重処置を講じなければならないと
 *各当局にたいして、熾烈な働きかけを行なった
 ☆津田が東大法学部で行なった「先秦政治思想史」の最終講義
 *「学生協会」のメンバーであるのが明らかな聴衆が多く詰めかけた
 *博士が「これで私の講義を終わります」と頭を下げた直後に
 *「質問」「質問があります」と教室の各所から手が挙がり
 *全体の調子がだんだん詰問に変わって行く
 ☆津田博士は述べた
 *ああいう連中がはびこるとそれこそ日本の皇室はあぶない
 *やがて日本が戦争に敗れた後にはっきりする
 ☆津田左右吉は皇室に、熱烈きわまりない敬愛の念を抱いていた
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「森鴎外」「津田左右吉の苦衷」「かのやうに」

2024年06月10日 | 歴史
🌸森鴎外と津田左右吉の苦衷1

皇室を冒涜する文書
 ☆津田左右吉、岩波に対する出版法違反被告事件の公判
 *東京刑事地方裁判所の第四号法廷で開かれた
 *裁判は、国民のだれも知り得ないところで秘密裡に進められる
 ☆被告人の津田と岩波が置かれた立場
 *どれほど恐ろしいものであったか
 *知らない人にはいくら説明しても実感はしてもらえない

「修身」は、当時の最重要科目であった
 ☆天照大神は、日神とも申しあげ、天皇陛下の御祀先
 *従察の高い紳様で伊勢の内宮、この天照大神を祀るお宮である
 *世界には、多くの國があるが、神様の御ちすぢをおうけた
 *天皇陛下がおをさめになり、かぎりなくさかえて行く國は
 *日本のほかにはない
 ☆日本は、遠い昔、紳様が國をおはじめになったみ心にしたがって
 *世界の人々を正しくみちびかうとしている
 *私たちのおとうさん、にいさんみんな勇ましくたたかっている
 *戦場に出ない人も、みんな力をあはせ
 *心を一つにして、國をまもらなければならない時です
 *正しいことのおこなはれるやうにするのが、日本人のつとめです
 ☆私たちは、日本國に生まれたことをよくわきまへて
 *心をりっぱにみがかなければならない
 ☆強いたくましい日本国民になって
 *お國のためにはたらくことができるやうに
 *しっかリベんきゃうすることがたいせつ

神話に直結する歴史
 ☆「初等科國史上」での国の成立ちでの国土の譲受
 *天皇陛下の御祖先天照大神は、高天原におられて
 *稲麦など五穀を植え、蚕を飼い糸をつむぎ布を織ることを教えられた
 *私たちは「天の岩屋」のお話等にも、大神の尊い御徳と
 *深いお恵みを仰ぐことができる
 *大神は、大八洲を安らかな国になさろうと
 *ご子孫をこの国土にお降しになることを考えた
 *出雲地方が勢いが最もさかんであるところから
 *御使いをつかわされて、君臣の分を示された
 *国土の奉還をおさとしになられ、大国主神は、その仰せに従われた
 *大神はその真心をおほめになり、りっばな御殿をお造らせになった
 *これが出雲大社の起源である
 ☆「初等科國史上」で皇孫のお降りになる日
 *大神は御孫瓊瓊杵尊の豊葦原の千五百秋の瑞穂の國
 *是れ吾が子孫の王たるべき地なりとおごそかにおおせられた
 ☆「初等科國史上」で、大神は三種の神器を皇位の御じるしとした
 *万世一系の天皇をいただき、天地とともにきわみなく栄えるわが国
 ☆「初等科國史上」の瓊瓊杵尊は
 *御かどでの御姿もけだかく、大神においとまごいをした
 *天上の雲をかき分けながら、日向の高千穂の峯にお降りになられた

⛳天孫降臨の神話に直結する日本の歴史
 ☆模範的な地方の少国民の筆者
 *高天原とは空中のいったいどのヘんにあるのかと
 *内心漠然とした疑問は抱きながらも
 *天孫降臨の神話に直結する日本の歴史を
 *ほぼ教えられた通りに信じて育った
 *教育に縁がなかった一般の庶民も、そういう人が大多数であった
 ☆視野が世界に向かって開かれていた知識層
 *その複雑に鬱屈していた心理と苦衷を
 *しごく曖味にしてかつ明晰に説き明かすのが
 *森鴎外の小説『かのやうに』である
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「古事記にホームドラマ風も」「古事記、文学であり歴史書」

2024年06月09日 | 歴史
🌸楽劇としての古事記2

『古事記』での須勢理昆売と沼河比売の八千矛神を巡る情事
 ☆『古事記』筆者もオペラやミュージカルのような印象を受けている
 ☆『天皇の誕生 映画的「古事記」』のシナリオ化
 *夫の八千矛神が、遠征した高志国で沼河比売と結ばれた
 *それを知った嫡妻の須勢理毘売は、平静ていられる筈がない
 ☆筆者の脳裡には、出雲から遠く隔たった高志国での恋愛劇
 *歌で沼河比売に伝える歌劇としておもい描かれる

『古事記』伝誦者は聡明な女性
 ☆『古事記』はその体裁や資料の選択から
 *誦者の聡慧なる女性であったことを推測される
 ☆美しい歌物語が多く、歌や諺の興味ある由来談を中心にして
 *公私の些事が記憶せられている
 ☆歌い終わった須勢理毘売
 *大国主神とひとつ杯の酒を分け合って飲み
 *手をおたがいの首に回して抱き合う

古事記は、ホームドラマ風の話題も有る
 ☆男性原理を体現する八千矛神(大国主神)
 *女性原理を体現する須勢理毘売
 *手に汗を握らせた熾烈な闘い
 *語り手の支持は嫡妻の側にあった
 ☆『古事記』は文学か歴史書の両方である
 *総合芸術の台本として遇せられるべきものである
 ☆天武天皇が想像もできなかっただろう
 *古事記は。歌劇やミュージカル、映画やアニメーションとなったとき
 *古代日本人の想像力や感受性や魂や情念
 *一気に解き放たれて、その真価と可能性を全面的に開花させる
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「楽劇=芸能=古事記」「古事記=オペラ」「音読⇒黙読」

2024年06月08日 | 歴史
🌸楽劇としての古事記1

⛳韻文の感性・散文の理性
 ☆『古事記』の作者は、テキストの文字面を目で追って
 *黙読する読者を予想していなかった
 ☆人間の歴史において、文字が使われだしたのは数千年前から
 *黙読の習慣がついたのはたかだかここ数百年
 ☆旧教は、教会堂に集まった信者が
 *壇上に立つ神父の口頭の言語を通じて神の教えを聞いた
 *印刷術の発明から、宗教改革を経て文字を通じて
 *神の教えに接する新教の時代に移行し黙読の習慣が定着した
 *それまで、世界中どこでも、読書は声に出して朗読するものであった
 ☆「音読」から「黙読」へ、「音声言語」から「文字言語」へ
 *聴覚が集団的な快感や情感を呼び起こす「韻文」から
 *視覚が個人ので 観念的で抽象的な思考と想像力を触発する「散文」へ  
 *文芸の主流が切り換わることにもつながっていた

⛳音読で知る真実
 ☆本居宣長は『古事記』を黙読していなかった

 *大安万侶か記したこの音注に忠実に従った抑揚をつけて音読し
 *繰り返し古言の調べと響きを確かめ直しながら、訓法を定めていった
 ☆漢字の字音に、どのような仮名をあてるのが正しいかを
 *中国の語学書『韻鏡』や、日本の古い用例に徴して決定した
 *宣長は、わが国の五十音図でオとヲのア行・ワ行の所属が
 *鎌倉時代以来の入れちがっていたのを訂正した
 ☆壬申の乱で、地方豪族の力を結集し近江朝を倒した天武天皇の治世
 *平時でも「地方の時代」であり「芸能の時代」でもあったのだった
 ☆『古事記』の鑑賞と享受には、時代背景の認識が必要

古事記の持つ高い音楽性と演劇性
 ☆天武天皇は、『古事記』が語りかけ、訴えかけようとする対象
 *文字を知る少数の「読者」に限定していたのではない
 ☆口誦者によって語られ、歌われて、耳を傾ける多数の「聴衆」
 *どこまでもいつまでも浸透し広がって行くことをこそ期待していた
 ☆『古事記』は文学か?歴史書か?の問題
 *『古事記』には、古事記が持つ芸能としての側面がある
 *古事記は、歌劇的舞踊がその背景をなしていた
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「国家仏教」「憲法17条」「神と仏の共存」「和語と漢字の融合」

2024年06月07日 | 歴史
🌸天武天皇の鑑は聖徳太子3

⛳天武天皇の手本は聖徳太子
 ☆聖徳太子は実在?触れない
 ☆聖徳太子が、草稿の「憲法17条」
 *太子の側近者、帰化僧たちが参加した
 *文章は、推古朝のころのもの
 *憲法の条文推古紀の撰者によって書きおろされた
 ☆天武朝は、天皇の神格化が初めて顕著になった時代
 *天武天皇の詔で編修がはじめられた『日本書紀』
 *撰者の潤色が加わっている
 *天武天皇、仏教を保護・奨励しなから監督した
 ☆律令政府は、仏教政策の基本原則である
 *その原則は天武天皇のときにできあがった『国家仏教』の成立

⛳神と仏の共存
 ☆天皇家の祖先
 *高天の原の天照大御神であると物語る『古事記』を口誦する一方
 *日本中の家家に、異国の教えである仏教を浸透させた
 *仏教だけでなく、伊勢神宮を国家的信仰の対象とした
 *わが国古来の八百万の神神をも重んじた
 ☆仏教の受容をめぐって都が真っ2つに割れた
 *対立した二つの原理主義が天武天皇の宗教政策には
 *両方とも取り入れられている
 ☆昔の日本では、神棚と仏壇が両方あった
 *そのような形を最初に定めたのは、天武天皇であった
 ☆和語と漢字の見事な融合、神と仏の和らかな共存
 *ひとつ家のなかに神棚と仏壇の設置
 *世界に類のないこの二元の構造
 *わが国の文化の最大の特徴である
 ☆壬申の乱は「日本」という国家の原型を生み出すもとになった
                      (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『「古事記」の真実』






「国家仏教」「憲法17条」「神と仏の共存」「和語と漢字の融合」
『「古事記」の真実』記事、ネットより画像引用)
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「古代文明同時崩壊」「海の民の実態」

2024年06月06日 | 歴史
🌸古代文明の同時崩壊のミステリー

 ☆海の民の活動と言われている
 *前1200年頃、東地中海上で活動した系統不明の民族
 *ヒッタイト、ミケーネ文明を衰退に追い込んだと言われている
 ☆海の民、エジプト新王国にも侵入し、西アジアに変動をもたらした

海の民の実像
 ☆海の民が着ていたものには統一感がない
 *出身地がバラバラである
 *系統や実体は不明でさまざまな名称をもつ民族からなる集団
 *原住地は小アジア西海岸とエーゲ海諸島
 ☆彼らが移動を開始した理由は不明である
 *かれらは、飢饉が原因で豊かな土地をめざして移住を企てた
 ☆彼らの攻撃の対象となったのが
 *ヒッタイト、シリア、エジプト、ギリシア人の諸王国であった
 ☆海の民の活動で鉄器文化の拡散した
 *ヒッタイトが滅亡し、鉄器生産技術が拡散した
 ☆海の民の活動
 *青銅器時代から鉄器文化への移行をもたらした
 ☆東地中海地域の名だたる国家を滅亡・崩壊へと導いた「海の民」
 *エジプトでは敗北した
 ☆エジプト新王国のラメセス3世
 *「海の民」を撃退することに成功した
 
古代文明 同時崩壊した理由(仮説)
 ☆前1200年頃当時の環境
 *干ばつや大地震、疫病が頻発していた
 ☆海の民に対して研究者たちが打ち立てた仮説
 *彼らの行動は、暴力を伴う侵略・侵攻ではなかった
 *純粋な移民、又は何らかの原因で故郷を離れた一種の難民だった
                      (敬称略)
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⛳出典、NHKBS『フロンティアズ』









「古代文明同時崩壊」「海の民の実態」
『フロンティアズ』記事より画像引用)
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「古事記=仏教語」「大伴氏」「海行かば~」

2024年06月04日 | 歴史
🌸天武天皇の鑑は聖徳太子2

『古事記』は、口誦の仏教語
 ☆『古事記』の成立事情
 *仏教語は、天武天皇の口誦の言葉で稗田阿礼が唱える
 *大安万侶が筆録で勝手に仏教語を採用するこは考えられない
 ☆天武天皇は、仏教に心を寄せていた
 *大海人皇子は、聖徳太子の『法華義疏』を参考に
 *鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に深く親しんでいた
 ☆大海人皇子は、天皇に即位してからの政治は
 *伝えられる聖徳太子の事績に、基本的に模範を仰いだ
 *天武天皇の修史事業は、その意思を継ごうとしたもの

地方豪族は物部支持
 ☆対立にはじまった抗争(物部対蘇我)
 *開明派(国際派)蘇我氏の勝利となった
 *畿外の地方豪族、保守派(国粋派)の物部氏側への共感強かった
 ☆大海人皇子が高市皇子にいった言葉
 *高市皇子に総司令官としての自覚を持たせて
 *励ますためのものであったとおもわれる

壬申の乱での大和の戦い
 ☆約1箇月におよんだ壬申の乱
 *大海人皇子は勲功を賞して、吹負を倭京将軍に任命した
 ☆使者に立った大伴安麻呂
 *吹負の甥で、万葉の歌人、大伴旅人である

 『海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ 顧みはせじ
 わが宿のいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
 現身は数なき身なり山河の清けき見つつ道を尋ねな』
 
 ☆壬申の乱に勝利を収めて、即位する天武天皇
 *新たな皇居を飛鳥浄御原に定められた
 ☆武門の大伴氏を率いる大将軍御行の没後
 *安麻呂はしだいに栄進して大納言、正三位に叙され
 *その子旅人は、酒を讃め称える歌を詠みながら
 *67歳まで生きて、大納言、従二位にまで栄達した
 ☆大伴氏はもともと『古事記』の天孫降臨で
 *天降る隊列の先頭に立って警衛にあたった
 *天忍日命の後裔の家柄である
 ☆壬申の乱で大海人皇子が敗れ、大伴氏も滅んでいれば
 *『万葉集』はこの世に現われていない
 *『古事記』も生まれるはずもない
                      (敬称略)
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⛳出典、『「古事記」の真実』





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「日本語の父天武天皇」「夭折の天才・有坂秀世」

2024年05月31日 | 歴史
🌸日本語の父は天武天皇1

夭折の天才・有坂秀世
 ☆知る人ぞ知る有坂秀世(恩師金田一京助の文)
 *有坂秀世博士が、昭和の言語学界に、彗星のごとく現われて
 *彗星のごとく去られた
 *有坂秀世博士、満43歳の若さで他界されたことは
 ☆有坂秀世がいかに早熟の天才であったか
 *本居宣長の著書にみえるアクセントの記述について
 *アクセントについての論文を書いた
 ☆「古事記に於けるモの慨名の用法について」を書き上げる
 *契沖―本居宣長―石塚龍麿―橋本進吉―有坂秀世とつらなる
 *上代仮名遣研究史の流れ

音韻の厳密さ
 ☆国学の基礎を築いた契沖の上代仮名遣研究
 *かれが真言宗の僧侶であったことと切り離せない
 *宗祖空海の「声字分明にして、実相はる」真言の哲学にもとづき
 *学問の根本は言語を正しく究めることにある、と考えた契沖
 ☆契沖は「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」などの
 *万葉仮名(本来の意味を離れ仮名的に用いられた漢字)が
 *平安中期までは画然と使い分けられて
 *混同されることが決してないという事実を発見して
 *上代仮名遣を標準にして語を書くべきであると主張した。
 ☆平安中期以降に失われるこの区別
 *古事記と日本書紀と万葉集においては正しくつけられており
 *古事記においてことに正しいと説いた
 ☆有坂秀世は大安万侶について
 *『古事記』における毛と母の書き分けは
 *安万侶自身はっきり意識して行なったものと考えられると説いた
 ☆音韻状態の変化しつつある過渡期において
 *一般の人々には忘れられてしまった音韻上の古い区別
 *少数の高齢者にのみ記憶されていることは有り得べきことだ

⛳有坂秀世は、学位請求論文『音韻論』を東京帝国大学に提出した
 ☆漢字・漢文の輸入せられくる次第を述べ
 *我が国民がよくそれらを咀疇し日本化してた
 *自己の思想を表現する手段を作り出したるのみならず
 *自ら自国語の諸性質を自覚するに至れる事実を明らかにする
 *字音の輸入、字訓並びに倒読法の成立
 *固有の国語、国文を漢字で写し出す方法の発達等につきて説明する
 ☆万葉仮名の発達に伴って自国語の音節組織を整理した
 *片仮名・平仮名の発達せる過程を述べている
 *記紀万葉等の万葉仮名には清と濁との区別あるに
 *片仮名・平仮名には何故字形上清濁の区別が存在せぎるか
 *その理由を説明した
 ☆自国語の清音と濁音との区別が自覚せらるるに至りしは
 *漢字音の学習に起因せるものなることを明らかにした
                       (敬称略)
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⛳出典、『「古事記」の真実』

「日本語の父天武天皇」「夭折の天才・有坂秀世」
『「古事記」の真実』記事より画像引用)
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「古事記=作品」「日本書記=史料集」「阿礼=女性」

2024年05月02日 | 歴史
🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家2

⛳宣長は最先端の言語学者
 ☆『古事記』の編纂に乗り出した天武帝の意図
 *諸家に伝わる帝紀(天皇の系譜)と本辞(神話・伝説・歌物語)には
 *異同が多く、間違いも少なくない
 *これを正しくする事は、大事業の基礎となる
 *偽りを削り実を定めて、後世に伝えたいと考えた
 ☆諸家に伝わる帝紀と本辞にも、祭事等に欠かせない猿女君
 *朝廷ばかりでなく、他の諸豪族も抱えていた
 ☆猿女君の巫女の役割
 *神楽を舞うほか、多種多様の物語歌をうたい
 *主たる者は、憑依状態になり、神の託宣を伝えることも業とした
 ☆天武天皇『日本書紀』の編纂での「帝紀及上古諸事」の言葉
 *『古事記』の序文では「帝紀及本辞(=旧辞)」に変わっている
 *本居宣長はこの「辞」という字に注目した
 *宣長は、言語を事実や意思を伝達するための手段ではなく
 *言語を人間生活の中心をなす最も重要な精神の活動として捉えた
 ☆皇国史観の狂信を招いたりもした宣長の極論
 *物の見方も考え方も完全に古代人と一体化したところから生じた

『古事記』は「作家」の作品である
 ☆『古事記』は、神代史は皇室の尊厳を明らかにするために
 *或る時代に、或る人が思いを構えて作った物語である
 ☆日本書紀の神代の巻に相当するものは
 *古事記では、神話体系を構成しており、構成は立体的である
 *イザナキ・イザナミの男女二神の結婚による大八島国の生成
 *次いで天照大神を主宰者とする天上国家の成立
 *天上国家の地上への移行
 ☆天つ神の御子の降臨による日本国家の創建の事柄
 *極めて有機的に結びつけられており
 *「建国の由来」が見事に立体的に物語られている
 *局部的の神話や神統や歌謡等は、これを支えている
 *この事は「作家」の脳裡にしか起こり得ない
 ☆『古事記』と『日本書紀』の、最大の違いはここにある
 *『日本書紀』が極言すれば「史料集」である
 *『古事記』は一人の作家の、脳裡の構想で書かれた「作品」である

 *大和朝廷に伝わるはずのない出雲系の神話や歌謡
 *稗田阿礼が取材し蒐集してきたものを聞かなければ、知る由もなかった

「古事記」は、天武天皇と稗田阿礼は合作の作品である
 ☆諸家の巫女から集めた口承の伝説や歌謡の切片を
 *探っては嵌め込んで行く知的なジグソーパズルに
 *二人だけで熱中していたのでは……と想像される
 ☆天皇にたえず近侍するために、阿礼は男装の舎人で登用された
 *天武天皇は、自分の最大の遺産となるはずの『古事記』の完成
 *夢に見つつ、志半ばにしてこの世に遺して逝った
 ☆巫女はときに憑依状態になって神の言葉を告げる
 *稗田阿礼にとって天武天皇は神である
 *阿礼が天武天皇にに成り代わって
 *方針と制作の意義を反劉しながら
 *上代の神神と人人の「意」と「事」と「言」をめぐって
 *25年のあいだ来る日も来る夜も熟考に熟考を重ねつづけた
 ☆筆者は『古事記』を、天武天皇と稗田阿礼の共作と想定する
                      (敬称略)
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「古事記=作品」「日本書記=史料集」「阿礼=女性」
(ネットより画像引用)
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「金丸信」「佐川急便事件」「皇民党事件」最終回

2024年03月19日 | 歴史
🌸首相を操ったキングメーカー金丸信

⛳金丸信、陰から首相を動かす
 ☆所得税法違反の容疑で国会議員の金丸信が逮捕された
 *金丸は″政界のドン”と呼ばれるほどの大物だった
 *彼は昭和のキングメーカーして知られている

 ☆首相にこそならなかったものの
 *政界全体に呪みをきかせていた人物なのだ
 ☆金丸は調整能力に長けており、面倒見が良かった
 *野党議員からも慕われていた
 ☆党派を越えた強力な人脈を築いた
 *「金丸がいなければ政治は動かない」とまでいわれた
 ☆その権勢も逮捕の前年から翳りを見せ始める
 ☆金丸が逮捕の原因となったのは「佐川急便事件」である

金丸、佐川急便事件で追い詰められる
 ☆東京佐川急使の元社長が特別背任の容疑で逮捕された
 *不正に持ち出された金は投資などにも使われたが
 *かなりの額が政治家へも渡っていた
 ☆″政界のタニマチ″と噂された社長
 *政治家と深いつながりを持っていた
 ☆東京地検特捜部の調べによれば
 *自民党幹部も多数含まれていた
 ☆最大の大物は金丸
 *金丸が5億円もの金を受け取っていた
 ☆政治資金規正法で、定められた範囲内で政治献金は認められていた
 *5億円だと、最大で5年以下の懲役もありうる事態
 *金丸は断国として特捜部の事情聴取に応じないと突っぱねた
 *20万円の罰金を払うだけで済ませてしまった

金丸の暴力団との癒着疑惑と脱税事件
 ☆佐川急使事件の発覚は、皇民党事件という問題も引き起こした
 ☆金丸は竹下登を首相に担ぎ上げた立役者
 *竹下が、自民党総裁選に出馬しようとする直前
 *皇民党という団体が街宣車で街中を回り竹下を褒めまくった
 *しかし、大音声でがなり立てられては逆効果にしかならない
 ☆金丸が佐川急便社長に相談したところ
 *暴力団会長が仲介に入って収めてくれた
 *竹下も金丸も認める発言はしていないため真相は定かではない
 ☆佐川急使事件の発覚で自民党副総裁の座は退いたが
 *罰金刑で済ませてしまった金丸に世間からの批判の声は高まった
 ☆特捜部の成信をかけた調査によって巨額の脱税が発覚
 *逮捕されてしまい、不正な蓄財は数十億円にものぼった
 *その規模はケタ違いの大きさだった
                       (敬称略)
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の黒幕』


「金丸信」「佐川急便事件」「皇民党事件」最終回
(『日本史の黒幕』記事より画像引用)
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「田中角栄」「ロッキード事件」「昭和の院政」

2024年03月18日 | 歴史
🌸田中角栄、独特の魅力を持った男

光と闇を持った政治家田中角栄
 ☆田中角栄は、良くも悪くも昭和を代表する首相の一人
 *高等小学校しか出ていないが、首相の座にまで上り詰めた
 *サクセスストーリーを地で行った人物である
 ☆彼は国民から絶大な人気を集めた
 *「今太閤」「庶民宰相」などともてはやされた

 *田中は、一度も落選することなく約43年国会議員だった
 ☆田中ブームに沸いた就任当初とは違い
 *後年はダーティなイメージがつきまとう
 *巨額の金と強力な人脈を利用して、長い間日本の政治を操っていた

田中角栄、ロッキード事件で失脚する
 ☆田中に関する金銭問題は数々ある
 *最も注目を集めたのは「ロッキード事件」
 *戦後最大ともいわれる疑獄事件
 *事件の第一報はアメリカからもたらされた
 ☆ロッキード社のコーチャン副会長の証言によれば
 *多くの資金は、政府高官ヘの政治献金として使われた
 *政財界に影響力を持っていた政商の小佐野賢治
 *小佐野は田中の親友で、田中をバックアップしていた男
 ☆東京地検特捜部は田中の関与が濃厚だと見て捜査に乗り出した
 *全日空に働きかけを行い5億円の賄賂 を受け取つたとされた田中
 *前首相の逮捕という前代未聞の事態を招いた

田中角栄、事件の後も力をふるい続ける
 ☆どれほど大きなスキャングルにまみれても
 *つぶれないところが彼のしぶとさだ
 *権力への執着はさらに強くなったといえるかもしれない
 ☆彼自身は事件発覚後に自民党を離党していたものの
 *党内ではその後も田中派が大きく幅をきかせていた
 ☆田中はもう一度トップに返り咲くという野望を胸に秘め
 *彼らを裏から操り始めた
 *大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と息がかかつた人物を
 *次々と首相に就かせた
 ☆田中のやり口はまさに昭和の院政ともいえる
 *地元の新潟県では事件後も根強い人気があり
 *晩年、病に倒れてからもトップで当選していた
                       (敬称略)
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「田中角栄」「ロッキード事件」「昭和の院政」
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