2008年6月15日(日) 午後2時開演 大阪ビジネスパーク円形ホールにて
今回の作品を観終えた後、前作とどう変わったのかを改めて考えてみた。
一番感じたことは、焦燥感、かな。
その解説を行う前に、この物語を知らない方もいると思うので、
以下に概要をまとめよう。
主人公さと子は80歳。
幼児退行しており、自分のことを10歳だと思っている。
さと子を介護するヘルパー達は、さと子の気持ちに沿うカウンセリングを
しながらも、なんとか彼女に現実世界に戻っていてもらいたいと、
今日も悪戦苦闘している。
そうした、ヘルパー達による過去の追体験を受けることで、
やがて80歳の自分を受け入れることが出来たさと子は、
今日の先の明日に向かって歩き出すことを始めた…。
話は基本的に、20余年前の初演時と変わっていない。
ただ、役者の入れ替わりが多少あることと、もっとも大きなことは、
主人公さと子の娘とよ子が10歳で亡くなったという事実が作品中で
明示されたことである。
これらの変更が作品にもたらした影響なのだろうか?
冒頭で述べた焦燥感というキーワードは、同じ台詞、同じ動きを
しているのに、今回の方がより切羽詰った感覚を、終始一貫して
受けたためのものである。
こうした印象を持つこととなった要因としては、
① 演出が、前回の一堂令から芹川藍となったことによるもの。
⇒つまりは、芹川演出により、そうしたテイストが付加された
と考えるもの。
② さと子の幼児退行の原因(少なくともそう推察されるもの)
として、娘とよ子が10歳で亡くなったという事象が物語りに
加わったことによるもの。
⇒前作では、そうした理由は一切明かされなかった。
今回、この筋立てが加わったことで、幼児退行がより切ない、
遣り切れないものとなったということはある。
③ 演じる役者の個性によるもの。
⇒前作は、伊澤磨紀さんが、今回は森本恵美さんが、それぞれ
主役を演じている。
今回、伊澤さんは、10歳の"娘"とよ子として、空襲の最中に
機銃掃射を受けて、さと子の眼前で死亡する。
この入れ子構造は興味をそそる。
が、子供を演じさせたら日本一(と、僕は思っている)伊澤さんが、
幼児退行した主人公を演じていた前作のシーンでは、本当に純粋に
楽しい空気が醸し出されていた。
今回は、①や②の関係もあるだろうが、同じシーンの中にも、
どこか余裕の無い、張り詰めた感覚の残滓が残っている気がして
いた。
そのことの是非はともかくとして、青い鳥の芝居の真骨頂である
心から笑え、心から泣けるという魂のメトロノームをMAXに
振り切らせてくれる感覚が、この作品では少しロストされた感が
あった。
といった点が、挙げられる。
人により、好みが出るところだが、僕にとっては、やはり前作に軍配を
上げてしまう。
それは、先ほども述べた心の振幅の問題もあるが、何より②の変更点に
その理由がある。
再述となるが、前作ではとよ子が現実を受け入れられない理由は、一切
明らかにされていなかった。
それが故、とよ子の幼児退行は、見るものすべてに誰にでも起こりうる
こと、モット言えば、本当は誰でも幸せだったあの頃に戻りたいのでは
ないの?という質問の刃を突きつけていたような気がする。
勿論、その場に足踏みしても、現実は何も変わらないから、如何に
そこが居心地が良くても、やがては自分の足で歩き出さないといけないと、
皆分かっているのだけれど。
今回の公演のパンフレットで、スタッフの長井さんが、②の組み込みに
より、テーマがより普遍的なものとなった、と語られていたが、僕にとっては
逆の印象を受けた次第である。
勿論、どうした切り口からどう解釈していくかは、個々人それぞれであり、
僕の感覚ではそうした印象を受けた、というだけで、それを他の方に押し付ける
気は毛頭無い。
ただ、単に伊澤さんのファンだから(笑)という理由だけではなく、一応
僕なりの思いがあって、前作の方が良かったのでは、と考えたことを整理して
みたく、この稿を起こした次第である。
今回、改めてこの作品と向き合うことが出来た。
20余年前の舞台全てが煌く様な感覚は、残念ながら僕の中に再臨はしな
かったが、これからも青い鳥を追いかけていくことはしたい。
僕にとっての幸せはどこなのだ?と探しながら。
(この稿、了)
今回の作品を観終えた後、前作とどう変わったのかを改めて考えてみた。
一番感じたことは、焦燥感、かな。
その解説を行う前に、この物語を知らない方もいると思うので、
以下に概要をまとめよう。
主人公さと子は80歳。
幼児退行しており、自分のことを10歳だと思っている。
さと子を介護するヘルパー達は、さと子の気持ちに沿うカウンセリングを
しながらも、なんとか彼女に現実世界に戻っていてもらいたいと、
今日も悪戦苦闘している。
そうした、ヘルパー達による過去の追体験を受けることで、
やがて80歳の自分を受け入れることが出来たさと子は、
今日の先の明日に向かって歩き出すことを始めた…。
話は基本的に、20余年前の初演時と変わっていない。
ただ、役者の入れ替わりが多少あることと、もっとも大きなことは、
主人公さと子の娘とよ子が10歳で亡くなったという事実が作品中で
明示されたことである。
これらの変更が作品にもたらした影響なのだろうか?
冒頭で述べた焦燥感というキーワードは、同じ台詞、同じ動きを
しているのに、今回の方がより切羽詰った感覚を、終始一貫して
受けたためのものである。
こうした印象を持つこととなった要因としては、
① 演出が、前回の一堂令から芹川藍となったことによるもの。
⇒つまりは、芹川演出により、そうしたテイストが付加された
と考えるもの。
② さと子の幼児退行の原因(少なくともそう推察されるもの)
として、娘とよ子が10歳で亡くなったという事象が物語りに
加わったことによるもの。
⇒前作では、そうした理由は一切明かされなかった。
今回、この筋立てが加わったことで、幼児退行がより切ない、
遣り切れないものとなったということはある。
③ 演じる役者の個性によるもの。
⇒前作は、伊澤磨紀さんが、今回は森本恵美さんが、それぞれ
主役を演じている。
今回、伊澤さんは、10歳の"娘"とよ子として、空襲の最中に
機銃掃射を受けて、さと子の眼前で死亡する。
この入れ子構造は興味をそそる。
が、子供を演じさせたら日本一(と、僕は思っている)伊澤さんが、
幼児退行した主人公を演じていた前作のシーンでは、本当に純粋に
楽しい空気が醸し出されていた。
今回は、①や②の関係もあるだろうが、同じシーンの中にも、
どこか余裕の無い、張り詰めた感覚の残滓が残っている気がして
いた。
そのことの是非はともかくとして、青い鳥の芝居の真骨頂である
心から笑え、心から泣けるという魂のメトロノームをMAXに
振り切らせてくれる感覚が、この作品では少しロストされた感が
あった。
といった点が、挙げられる。
人により、好みが出るところだが、僕にとっては、やはり前作に軍配を
上げてしまう。
それは、先ほども述べた心の振幅の問題もあるが、何より②の変更点に
その理由がある。
再述となるが、前作ではとよ子が現実を受け入れられない理由は、一切
明らかにされていなかった。
それが故、とよ子の幼児退行は、見るものすべてに誰にでも起こりうる
こと、モット言えば、本当は誰でも幸せだったあの頃に戻りたいのでは
ないの?という質問の刃を突きつけていたような気がする。
勿論、その場に足踏みしても、現実は何も変わらないから、如何に
そこが居心地が良くても、やがては自分の足で歩き出さないといけないと、
皆分かっているのだけれど。
今回の公演のパンフレットで、スタッフの長井さんが、②の組み込みに
より、テーマがより普遍的なものとなった、と語られていたが、僕にとっては
逆の印象を受けた次第である。
勿論、どうした切り口からどう解釈していくかは、個々人それぞれであり、
僕の感覚ではそうした印象を受けた、というだけで、それを他の方に押し付ける
気は毛頭無い。
ただ、単に伊澤さんのファンだから(笑)という理由だけではなく、一応
僕なりの思いがあって、前作の方が良かったのでは、と考えたことを整理して
みたく、この稿を起こした次第である。
今回、改めてこの作品と向き合うことが出来た。
20余年前の舞台全てが煌く様な感覚は、残念ながら僕の中に再臨はしな
かったが、これからも青い鳥を追いかけていくことはしたい。
僕にとっての幸せはどこなのだ?と探しながら。
(この稿、了)