花守や白き頭をつき合せ 去 来
『去来抄』によれば、野明(やめい)が、「句のさびはいかなる物にや」と問うたのに対して、去来は、「さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繡をかざり御宴に侍りても、老の姿有るが如し。賑やかなる句にも、静かなる句にも有るものなり」と答えて、この句を示したところ、芭蕉はこれに対し、「さび色よくあらはれたり」と賞したという。
この句は、満開の桜の下で、花の番人の老人が、白髪頭をつき合わせて何か話している、という情景をうたったものであろう。
淡紅色の桜の花と、老人の有する老いさびた雰囲気との対照によって、作り上げられた清楚な世界が、「さび」だというのである。
華麗と沈静と融合された世界に、「さび」の境を見出そうとするのであるが、それはまた、作者の心にあって、自然と外に匂い出るものでなくてはならない。趣向や言葉だけによって現われ出るものではない。
芭蕉が、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と説いているように、初心に立ち返って、対照を内面的に観照するところから生まれる世界ということであろう。
夕星の谷中陸橋 花の冷え 季 己
『去来抄』によれば、野明(やめい)が、「句のさびはいかなる物にや」と問うたのに対して、去来は、「さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず。たとへば、老人の甲冑を帯し戦場に働き、錦繡をかざり御宴に侍りても、老の姿有るが如し。賑やかなる句にも、静かなる句にも有るものなり」と答えて、この句を示したところ、芭蕉はこれに対し、「さび色よくあらはれたり」と賞したという。
この句は、満開の桜の下で、花の番人の老人が、白髪頭をつき合わせて何か話している、という情景をうたったものであろう。
淡紅色の桜の花と、老人の有する老いさびた雰囲気との対照によって、作り上げられた清楚な世界が、「さび」だというのである。
華麗と沈静と融合された世界に、「さび」の境を見出そうとするのであるが、それはまた、作者の心にあって、自然と外に匂い出るものでなくてはならない。趣向や言葉だけによって現われ出るものではない。
芭蕉が、「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と説いているように、初心に立ち返って、対照を内面的に観照するところから生まれる世界ということであろう。
夕星の谷中陸橋 花の冷え 季 己