切られたる夢はまことか蚤のあと 其 角
――『去来抄』原文には、句読点やカギ括弧など、もちろん無い。したがって、読み手によってそれらが若干、時には大きく違う場合がある。この一条が、まさにそれである。
芭蕉の言葉がどこまでなのか、また、芭蕉の其角に対する評価はどうなのか、この二点が問題となろう。
其角は、十四、五歳で桃青(後の芭蕉)の門に入り、蕉門の中でも抜きん出た存在であった。去来・凡兆が編集した『猿蓑』の序を書いたのが其角。去来・凡兆にとっては、大先輩なのである。
さて、掲句、「夢を見ていて、一太刀浴びたと思って、はっと目を覚まし、まことかと確かめたら、蚤の食ったあとがぽつんとあった」というほどの意であろう。
たわいもないことを、ことごとしく言って、巧みに落ちをつけた面白い句である。
これについて去来が、「其角先輩は、実に巧みな作者ですね……」と感心して言った。すると芭蕉先生は、「その通りだ。あいつは歌人でいえば定家卿のような作者である」と言ったそうだ。
さて、去来の絶賛に対して、芭蕉先生の反応は意外に冷ややかと思うが、どうであろう。
「その通りだ」と肯定しているように見えるが、これは皮肉ではなかろうか。芭蕉が肯定しているのは、架空の世界に飄然と遊び得る異色の才であって、こういう句がよいと言っているのではないのだ。むしろ芭蕉は、こうした句の作り方に疑問を持っていた。
それでは、芭蕉が「かれは定家の卿なり」と評した真意はどこにあったのであろうか。
「定家卿の論に曰く、家隆は歌よみ、我は歌作り、寂蓮は逸物なりといへり」(『青根が峰』・許六)とあるように、其角は定家流の知的構成を好んでいたのだ。
芭蕉の目指すところはいわば「歌よみ」、しかし、其角は「歌作り」を目指していたのだ。
定家は、生来の達吟で、わずかな素材でも巧みにこれを一首に仕上げる名人であった。その反面、定家にもそのまごころにおいて欠けるところがあった。
其角にも、詩情よりもむしろ表現に達者すぎるところがあったのを皮肉ったのである。
俳句は作るものものではなく、「こころのつぶやき」なのである。
代受苦か腕輪失せたる年の暮 季 己
――『去来抄』原文には、句読点やカギ括弧など、もちろん無い。したがって、読み手によってそれらが若干、時には大きく違う場合がある。この一条が、まさにそれである。
芭蕉の言葉がどこまでなのか、また、芭蕉の其角に対する評価はどうなのか、この二点が問題となろう。
其角は、十四、五歳で桃青(後の芭蕉)の門に入り、蕉門の中でも抜きん出た存在であった。去来・凡兆が編集した『猿蓑』の序を書いたのが其角。去来・凡兆にとっては、大先輩なのである。
さて、掲句、「夢を見ていて、一太刀浴びたと思って、はっと目を覚まし、まことかと確かめたら、蚤の食ったあとがぽつんとあった」というほどの意であろう。
たわいもないことを、ことごとしく言って、巧みに落ちをつけた面白い句である。
これについて去来が、「其角先輩は、実に巧みな作者ですね……」と感心して言った。すると芭蕉先生は、「その通りだ。あいつは歌人でいえば定家卿のような作者である」と言ったそうだ。
さて、去来の絶賛に対して、芭蕉先生の反応は意外に冷ややかと思うが、どうであろう。
「その通りだ」と肯定しているように見えるが、これは皮肉ではなかろうか。芭蕉が肯定しているのは、架空の世界に飄然と遊び得る異色の才であって、こういう句がよいと言っているのではないのだ。むしろ芭蕉は、こうした句の作り方に疑問を持っていた。
それでは、芭蕉が「かれは定家の卿なり」と評した真意はどこにあったのであろうか。
「定家卿の論に曰く、家隆は歌よみ、我は歌作り、寂蓮は逸物なりといへり」(『青根が峰』・許六)とあるように、其角は定家流の知的構成を好んでいたのだ。
芭蕉の目指すところはいわば「歌よみ」、しかし、其角は「歌作り」を目指していたのだ。
定家は、生来の達吟で、わずかな素材でも巧みにこれを一首に仕上げる名人であった。その反面、定家にもそのまごころにおいて欠けるところがあった。
其角にも、詩情よりもむしろ表現に達者すぎるところがあったのを皮肉ったのである。
俳句は作るものものではなく、「こころのつぶやき」なのである。
代受苦か腕輪失せたる年の暮 季 己