江戸の退屈御家人

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シチリア島 その3 シラク―ザ攻防戦

2014年11月24日 19時53分18秒 | Weblog

今回のイタリア南部旅行の最大の目的は、シラクサ=シラクーザの地を見るためであった。

シラクサはオルテージャ島という東はイオニア海、南は地中海に面する要衝の地で南北1・5km、東西0.5kmの島。この島をめぐって、何代もの歴史の王朝、支配勢力が軍事要地として政権をかけて争い、その結果、何重にも歴史=軍事衝突=征服・敗戦・被支配という形を残し、それぞれの時代に栄えた街。歴史に興味のある人には見逃せない地。塩野七海のローマ後の地中海によく書いてある。

BC740年ごろギリシャ人が植民都市として入植 アポロ神殿などを建設。オルチージャ島の真ん中にアポロン神殿を建築   この遺構が島の真ん中に残っている。

アテナ神殿のあとは、7世紀の現在のドウオーモに改築され現在へつづく

ギリシャ劇場が白い大理石をそのままくりぬいた形で残っている。ギリシャ劇場はアテネ・アレクサンドリア・シラク―ザが3大劇場とか。

BC 212年 ローマ軍の攻撃に会い、シラク―ザ陥落。この時、あのアルキメデスが(この地出身)がその知識を最大限生かし武器で、ローマ軍に抵抗。ローマ司令官はその能力を評価し、決して殺すなと命令を発していたが、シラクーザ陥落時の混戦のなかで、アルキメデスも一老人兵士として刺殺されたとか。

その後、シチリアでの第1次奴隷反乱、第2次奴隷反乱があり、ローマ本土ではBC73-71年と剣闘士スパルタクの反乱。その後ローマの最盛期、幸福な5賢帝の時代という最盛期を終えて、

AD 150年頃から、ゴート族の南下、蛮族のローマ帝国内への居住。以後ゲルマンのガリア・イタリア侵攻が続く。

AD 374年 フン族の東ゴート遍の侵入。ゲルマン民族大移動へ。

AD 378年 アドリアノープルの戦い ローマ皇帝ヴァレンス戦死

AD 395年 ローマ帝国東西分裂・テオドシウスの分割

このころから、ヴァンダル族のシチリア支配。 AD 476年 西ローマ帝国消滅

AD 535年 東ローマ帝国のシチリア支配

AD 570年 マホメッド誕生。 635年 ダマスカスを首都に。600年ごろから急速度で膨張

AD 670年 チュニジアのカイラワンをアフリカ支配の首都とし、AD 710年 ジブラルタルを渡りピレネーまで至る。

シチリアへは、

AD 877年、歩兵1万、騎兵700、軍舟100 隻で、ビザンチン帝国領シラクーザを攻撃。現地守備隊は

ビザンチンの応援を得られぬまま、応戦壊滅。

以後200年にわたり、サラセン領となり、パレルモを首都とする。

AD 1085年 ノルマンのシチリア攻撃でシラクーザ陥落。    英国のノーマンコンケストと同じころに、東はシチリア島でもノーマンコンケスト がおこなわれたのだ。

 AD 1239年 ノルマンの遺産相続者 ホフェンシュタイフェン家のフェデリーコ2世が、シチリア島の最南端に城塞を作り、これが現在に至る。

フェデリーコ2世の前はどんな要塞だったか。

1000年も前のの防塞要壁の一部が現在も使われているようだ。

確かに、海側から直接上陸攻撃は犠牲が大きいだろう。後背地から陸伝いで攻撃するのが順等だろう。

この激戦地、オルチージャ島を是非とも、この目で見たい。そして 着た、見た。過去の激戦地も今は平和な、イオニア海・地中海で、平和なヨット競技の緩やかな青い海である。   

     往時茫々


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