江戸の退屈御家人

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分倍河原の戦い

2012年06月09日 23時44分46秒 | 歴史を旅する









分倍河原の合戦             JR南武線・京王線分倍河原駅から歩20分


1333年元弘3年、新田義貞は上野国生品神社で鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。鎌倉街道を利根川に沿って南下。挙兵時百五十騎余だったが、途中、甲斐源氏、足利高氏の嫡男千寿王(のちの義詮)らが続々合流し、20万余りもの大軍勢となった。
新田軍は鎌倉幕府方の長崎高重、桜田貞国らと、小手指原の戦い、久米川の戦いで撃破して進軍。幕府軍も態勢を立て直し、鎌倉からは執権北条高時の弟北条泰家を総大将とする10万の軍勢も合流して、この分倍河原で陣を敷いたという。
新田軍は分倍河原に向かって、正面から激突。まずは幕府軍が奮戦して新田軍を撃破し、新田軍は狭山市堀兼まで敗走。しかし、翌未明には態勢を立て直し、幕府軍を奇襲。これにより北条軍は壊滅状態となり、鎌倉を直接守るべく敗走した。それを追走して、鎌倉での包囲戦の後、東勝寺に立てこもった執権北条高時ら一族600名は東勝寺にて、自害。鎌倉幕府が滅亡する。

 なぜ鎌倉幕府があっけなく滅亡したのか、いろいろ疑問がある。関東各地の大小の武士団が、自己の存立と繁栄をかけて新田軍に雪崩を打って参加したのだろうが、その動機と理由は何だろうか。後醍醐天皇等の綸旨等での要請・教唆は当然あっただろうが、関東の個々独立の武士団を突き動かしたものが何であったか、どうもよくわからない。
 北条得宗家の横暴・富・地位・権力集中は多分その通りだろうが、それなりに長年の秩序が維持されてきたのだろう。執権北条高時が犬追物にふけって政務放棄していたとかいうのは理由にならない。
 京都では、後醍醐天皇など朝廷方謀反=幕府転覆活動を鎮圧するために派遣されたはずの鎌倉幕府軍最高実力者足利高氏が、何らかの理由で、寝返った。そして鎌倉幕府の京都支配の根拠地南北京都探題を急襲、これを滅ぼした。これが最大の要因か思うが、北探題の責任者、北条仲時は破れて鎌倉へ帰還のを図るが、近江番場宿の蓮花寺で333名全員が腹を切って自害。本来の京都治安防衛勢力が、自らそのプレゼンスを消滅させてしまうなんて、現代的感覚では理解ができない。

 いずれにせよ、歴史の代わり目を作るものとは、何と何と何と がその原因なのだ、と言えるものがほしい。
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1455年享徳4年1月、足利成氏鎌倉公方勢と上杉関東管領勢が、同じこの分倍河原の地で戦っている。享徳の乱といわれ、関東の応仁の乱に相当するような騒乱=戦国時代の開始=は、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことに始まる足利氏と上杉氏が対立。
足利グル―プは500騎でここ分倍河原で上杉グループに奇襲、一進一退のところ、扇谷上杉家当主上杉顕房が戦死。
以後、鎌倉公方グループが優勢に上杉関東管領グループを追撃するが、室町幕府の援軍や上杉一族の援軍等で盛り返し、戦線は膠着状態となる。

そうすると上杉関東管領グループに押さえられている鎌倉には、鎌倉公方足利成氏が帰還することはできず、利根川の東、下総の国の北部の古河に住み着いて、以後130年近く古河公方と称する地方政権となる。
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鎌倉幕府の終焉、関東での長期間の戦国混乱の時代の開始という、日本史上の二大合戦の舞台で極めて有名な分倍河原だが、今は現代化した都市の街並みにうずもれ、往時を想像するものは何もない。分倍河原駅前に、新田義貞の騎馬像があり、旧鎌倉街道沿いに、「分倍河原古戦場碑」があるのみだが、周辺は分梅町として名を残している。
室町時代の享徳の乱はその後、多くの地で、大小多くの戦があり、分倍河原の戦いはあまり印象が強くなさそうで、分倍河原と言えば、新田義貞が独占しているようだ。
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