江戸の退屈御家人

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玉縄城 探訪

2012年10月12日 17時14分15秒 | 歴史を旅する
玉縄城は1513年永正10年北条早雲によって鎌倉の北西、現在の大船駅の西部に築かれたとされる。

城の外堀が柏尾川に接し、相模湾まで通じていたから水軍などの重要拠点となった。更に鎌倉に近いことから鎌倉の防衛という面もある。

 この当時の鎌倉は、鎌倉公方も関東管領も滞在せず、いわば権力の空白地点みたいだが、鎌倉八幡宮を中心に源氏・北条と続く鎌倉幕府の精神的本拠地として、北条早雲一族が関東の支配者として、後「北条氏」を名乗ったのと同じ心理的理由から「鎌倉」を守ろうとしたのかもしれない。

 小田原城の大森氏を追いを奪い、相模に進出した北条早雲は三浦半島の先端の三浦氏と敵対する。三浦方はその親せき筋の扇谷上杉方と連携して早雲方をはさみうちにしうる地政学上の理由からも、三浦半島の付け根に当たる現在の大船の地に玉縄城を築いたものと思われる。

玉縄城は、北条一門の重要人物が城主として置かれた。
 初代城主は早雲の実子氏時、2代城主は早雲長男小田原城主氏綱の実子為昌、3代は氏綱の娘婿の綱成、4代は綱成の子氏氏繁、5代は長男氏舜、6代はその二男氏勝と安定して地位を継承している。

戦国の時代にあって、この一族の団結と役割分担のうまさは後北条氏の特徴といえようか。

 1526年大永6年、古河公方に反旗を翻した公方の弟であり、小弓公方と呼ばれ現在の千葉市内の小弓の地に立ちあがったたに足利義明があり、この小弓公方に呼応して鎌倉占拠を狙った安房の里見氏軍勢を玉縄城で撃退した。この時の戦死者の供養として、首塚が柏尾川近くに残っている。

また上杉謙信、武田信玄が相模へ乱入した際も攻略をあきらめたほどの堅城である。
1590年天正18年、豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、徳川家康方の攻撃を受け、守将北条氏勝は降伏・開城。以後徳川の支配に入る。

現在の玉縄城は、
昭和38年に清泉女学院中・高が城跡に移転して以降、その多くが破却された。
 多くの小山と 谷(やつ)を利用した中世の城跡だから、ほとんどなにもまない。
七曲という城の大手門に進む道跡がわずか、補修されている。清泉女子高の裏門あたりが、玉縄城の大手門のようである。