江戸の退屈御家人

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平山城址公園

2012年10月05日 13時51分37秒 | 歴史を旅する
平山城址公園               京王線平山城址公園駅から徒歩15分

 平山城址となっているが、現実に城跡があるわけでない。古代から中世の初めに当たる時期は、
戦国時代のような石垣を伴う山城という戦争形態でないが、空堀もないところから、平山城址公園は
どうも意味合いの少ない遺跡かも。

 いずれにせよ平山季重という人は、鎌倉幕府につかえる武蔵武士団の有力者の一人であった。特に
平家追討に際して源義経に従って、かなりの活躍をしたことになっている。
その平山氏の所領あとが城址公園の近辺であるようだ。

 平山氏は、日野市に土着した武蔵の国司の末裔で、府中の大国魂神社に位置し武蔵の国の国府に近く、多摩川をはさんだ西側に領地を構えその祖は日奉宗頼(ひのむねより)といい、日野市の名前のもとになったという説がある。

武蔵七党とは平安時代末期、武蔵国に発生した小武士団で、横山、西、村山、児玉、丹、猪俣氏らの総称。

日奉宗頼は武蔵守として武蔵の国府に赴任した後、任期が過ぎても京都に帰らず現地に土着した。

この例ように武蔵七党の先祖の多くは、京都から下向した国司等をその先祖と称しているが、
一方では、在地の豪族たちが自らの家系を京都の下級貴族の貴種に結びつけたものだとする説には、妙に納得させられる。

 多摩川の西岸側を本拠とした西党=日奉氏は、当時の武蔵の国の常で、 由井の牧、小川の牧等の官の馬の生産を扱い、浅川一円に勢力を拡大していった。そして、西氏を宗家として平山・立川・二宮・由井・小宮氏などを分出し、浅川、多摩川・秋川流域に繁栄したと言われている。。

日奉宗頼の4世の子孫直季は、武蔵国多西郡平山に居館を構え平山氏を称した。この直季の子が源頼朝の時代、頼朝から厚い信頼を受けた平山季重である。

 平山氏はこの季重の活躍を歴史に残す。によって季重は平山武者所と呼ばれるが、これは大番として京都に上り、上皇を守る衛士(武者所)を努めたことに由来している。武蔵七党の武士たちは、源氏が東国に勢力を振るうようになると、自らの生き残るためにもそれに従うようになった。

 武士が台頭するきっかけとなった保元・平治の乱に際しては、平山季重ら武蔵武士の多くは源氏方として活躍したが、源義朝方の敗北に終わり結局武蔵の武士たちは東国に帰っていった。
 やがて、伊豆に流されていた源頼朝が平家打倒の旗揚げをすると、武蔵七党の武士たちは頼朝のもとに参じ、鎌倉幕府創立に大きく貢献。

 平山季重は平氏討伐戦の 富士川の戦い、金砂城攻めなどで活躍、さらに熊谷次郎直実とともに、源義経の配下となって京 へと向う。平山季重は、宇治川の戦いで先陣を切り、ついで、屋島、壇の浦の戦いにも出陣して勇名を上げた。これは『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語に描かれている。

 平家が滅亡後、源義経の勲功に関して朝廷から季重のほかに梶原景時らも叙官した。頼朝はかれらが勝手に叙官したことを叱責、季重らはおおいに狼狽したといわれている。

この叙官のとき、頼朝に対し弟義経がとった行動がのちに義経の失脚、滅亡となる。

 文治五年(1189)、頼朝は義経を匿った奥州藤原氏攻めた。季重も嫡子平山重村と参戦、義経を討つ功をあげた。その功績により「驍勇無双の勇士」と賞賛され、鎌倉幕府の幕府の元老格に取り上げられた。3代将軍源実朝の名付け親も果たしている。











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