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伏見歴史散策~大黒寺(京都散策)

2019-05-27 06:10:08 | 取材・旅行

昨日は、伏見歴史散策~大黒寺法要へ行ってきました。

スタートは京阪電車・中書島駅


北へ向かう通り。


ここは安土桃山時代から昭和30年代まで続いた遊郭跡で、昨日紹介した「レトロな風景を訪ねて」にも出てきます。

 https://retro.useless-landscape.com/archives/1911

現役の銭湯新地湯


煙突にも名前が・・・。
当時、仕事を終えた娼妓(しょうぎ)が汗を流したのでしょうか。


夜の店が並びます。




至るところに街案内。


当時の面影が残る遊郭跡ふじわら
今は居酒屋です。

中書島遊郭の一番のお客さんは、16師団の軍人さんだったらしい。


龍馬とお龍 愛の旅路像






寺田屋事件で負傷し、薩摩藩邸で療養していた龍馬が、この港から、お龍と鹿児島へ向かいました。日本で初めてのハネムーンと言われています。
西郷隆盛の提案です。


伏見長州藩邸跡
物流の拠点であった伏見は、各藩の藩邸がおかれました。




伏見口の戦いの激戦地跡。
1868年の鳥羽伏見の激戦地で、会津や新撰組がここから上陸し、薩長軍と戦闘になりました。
御香宮に陣を置いた薩長軍の砲撃で、この辺りの民家や寺田屋も焼失したそうです。


寺田屋




日本の歴史上、有名な事件が二つも起きたところです。

文久2年(1862)尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の宿屋寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、説得も及ばず、殺害した事件。寺田屋騒動とも言われます。

詳しくは
 薩摩の惨劇・寺田屋事件(騒動)とは?1862年島津久光が有馬新七らに下した非情な決断
 https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2018/03/06/110811

寺田屋事件・薩摩編(下) 刀で2人を串刺し、顔から飛び出す眼球…「上意」の叫びで始まった同士討ちは凄惨を極めた
 https://www.sankei.com/west/news/141209/wst1412090004-n1.html

もう一つは、坂本龍馬襲撃事件
Wikipediay地一部引用します。

慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩藩士として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。「寺田屋遭難」とも言う。

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。捕り方は「肥後守(奉行)よりの上意」であるとして迫り、踏み込まれた龍馬らは「(奉行の権限の及ばない)薩摩藩士である」との嘘を主張したが、簡単に見破られた。龍馬は高杉晋作からもらった拳銃[注釈 7]で、三吉は手槍を用いて防戦して、捕り方2名を射殺、数名を殺傷させた。しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし[5]、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。三吉は切腹しようとしたが龍馬に止められて、伏見薩摩藩邸に救援を求めに行くように依頼された。薩摩藩邸にいた留守居役大山彦八は藩士3名をつれて川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができた。すぐに京都の西郷隆盛のもとに報告が行き、吉井幸輔が早馬で伏見に来て事情を調べ、西郷は軍医を派遣して治療に当たらせると共に藩邸で警護させた。


材木屋跡伏見薩摩藩邸跡も残っています。

龍馬通り

寺田屋から逃げた龍馬が通った道が龍馬通り。






 詳しくは
 幕末の志士も駆け抜けた?レトロな魅力たっぷりの伏見・竜馬通り商店街を巡る
  https://matcha-jp.com/jp/556

黄桜カッパカントリー
 
 詳しくはここ http://kizakura.co.jp/restaurant/country/index.html

西岸寺(油掛地蔵)


芭蕉の句碑

 詳しくは https://kyotofukoh.jp/report956.html
 
 京都には、あと2カ所の油掛地蔵があります。

伏見駿河屋本店


 電車発祥の地

 伏見駿河屋本店の前に碑がありました。
 明治28年、京都駅からここまで営業運転を開始しました。

 京都では、琵琶湖からひかれる疏水の有効的な利用法として日本最初の水力発電がはじまり、明治24年に電力供給が開始されました。
 さらに明治28年の第4回内国勧業博覧会の開催地が京都に決定したことも重なり、京都電気鉄道が設立され本格的にその敷設へ向けて動き出しました。
 そして明治26年に電気鉄道敷設許可がおり、明治28年伏見線が開業したのです。
 現在は、明治村で動体展示されています。

伏見大手筋商店街
 伏見城築大手門へ出入りする通りです。
 ソーラ発電のアーケードがあります。




伏見区の水道局


区役所です。


大黒寺
真言宗東寺派の寺院で、通称は薩摩寺(さつまでら)。




毎年、5月第4日曜日には、法要が行われています。

その法要を行っているのが斎藤さん。


詳しくは、別の記事で紹介します。

 伏見の大黒寺〔『西郷どん』ゆかりの寺③〕(30年京都冬の旅⑨)
 https://wheatbaku.exblog.jp/29404304/
 金運の水が沸く伏見の大黒寺
 https://kaiun.sseikatsu.net/daikokuji/

 西郷隆盛と大久保利通が会談した伏見の薩摩寺「大黒寺」
  https://bakulab.blogspot.com/2018/02/blog-post.html

ここが、実際に会談した間です。




伏見で最も古い神社のひとつで金札宮

 HPはここ http://www.kinsatsugu.jp/













ダービーでの勝利をお願いしましたが・・・・

会津藩駐屯地跡




現在は幼児園になっていました。

次のように説明されていました。
会津藩駐屯地跡(伏見御堂)
伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正4(1915)年に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。

幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣としました。翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18(1883)年に南向きに縮小して建て替えられました。平成2(1990)年に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されています。


鳥せい本店


尽心塾 懇親会

 濃い人たちの集まりでした。


京都散策

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