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美濃 見てある記 -9-

2019-10-22 05:59:56 | 取材・旅行
10月13日、社会科仲間と美濃、なかでも濃尾平野の縁をまわってきました。
その様子をしばらく報告します。

名づけて美濃 見てある記

今回は、行基寺

まずは衛星写真から

地図中の黄色い○が行基寺。
青い○が、高須藩の藩庁・高須陣屋があったところ。
赤い○が尾張徳川家(名古屋城)です。

少しアップしてみましょう。

地図中の黄色い○が行基寺。
青い○が、高須藩の藩庁・高須陣屋があったところ。現在は県立海津明誠高校です。
高須藩全域を見渡すことができます。

さらにアップしてみましょう。
坂道を上ります。


そして行基寺全体です。


行基寺は、岐阜県海津市にある浄土宗の寺院です。

別名「月見寺」、「隠れ城」、「お月見の寺」。行基入定の地の伝承があります。美濃高須藩藩主松平氏菩提寺です。
浄土宗なので、本尊は阿弥陀如来。

ご存じの通り、徳川家の菩提寺は、芝の浄土宗大本山増上寺、そしてもう一つ、天台宗東叡山寛永寺です。
なぜ天台宗? 南光坊天海が家康に取り入ったからです。

増上寺には二代・秀忠、六代・家宣、七代・家継、九代・家重、十二代・家慶、十四代・家茂
寛永寺には、四代・家綱、五代・綱吉、八代・吉宗、十代・家治、十一代・家斉、十三代・家定 の廟があります。
家康と家光は日光東照宮、慶喜は谷中霊園です。

日光は明治元年の神仏分離により、神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立しました。輪王寺は天台宗です。南光坊天海の力がわかります。

ちなみに、尾張徳川家の菩提寺 建中寺は浄土宗です。
紀州藩主紀州徳川家歴代の墓所である長保寺は天台です。
水戸徳川家墓所では、仏教ではなく、瑞龍山に儒教形式で埋葬されています。

御三家の仲がよくない理由がわかりますね。

話がそれました。

行基寺と徳川家の関係は、行基寺のHPに詳しく書かれています。

 ここから http://www.gyokiji.org/takasuhan1.html

文章部分です。
尾張徳川家との関わり 美濃高須藩松平家について
 美濃、尾張、伊勢(桑名)の境が美濃高須藩のあった処になります。廃藩までは、尾張藩分家として三万石の小藩ではありましたが、徳川家康の曾孫松平義行公に始まり、御三家を除けば将軍家筆頭家門というべき家柄で、江戸城における格式も甚だ高く大大名と同格でした。

高須藩松平家は、尾張徳川家の分家、支藩になりますが、尾張藩主に後継者が絶えた場合に相続人を出すべき役割がありました。両家の関係は密接で、江戸時代尾張六十二万石の17代藩主のうち4代が高須藩松平家の出身でした。

 幕末から明治維新にかけて大きな役割を担い歴史に名を残した、尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、徳川茂徳(もちなが)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)公は美濃高須藩松平家出身の四兄弟です。


そうなんです。高須藩の松平家は、御三家をのぞく、親藩のトップなのです。
車で山を上りました。


寺というより、緊急の時には城になるような石垣です。


行基寺の標高は約128m
名古屋城はせいぜい14,5mぐらい。尾張徳川藩を見下ろす場所にあるのです。

木曽三川公園、

名古屋駅

ツインアーチも見ることができました。




揖斐川が見えます。


山門には葵の紋




本堂です。



お地蔵さんが

寝ています。


案内板




中に入ると






阿弥陀如来様


庭が見えました。


見事に苔むしています。


ふすまにも三つ葉葵



やはり石灰岩が主です。


月見の庭園です。



藩主の間


四神は、中国の神話、天の四方の方角を司る霊獣で、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武
方角を表します。

 
トイレです。


地層を生かした石垣です。



時計があります。


観音菩薩。


すごい穴場です。

続きます。次回は最終回その他の史跡です。

今回のシリーズは・・・
美濃 見てある記 -1-
美濃 見てある記 -2-
美濃 見てある記 -3-
美濃 見てある記 -4-
美濃 見てある記 -5-
美濃 見てある記 -6-
美濃 見てある記 -7-
美濃 見てある記 -8-
美濃 見てある記 -9-
美濃 見てある記 -10-

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