10月13日、社会科仲間と美濃、なかでも濃尾平野の縁をまわってきました。
その様子をしばらく報告します。
名づけて美濃 見てある記
今回は、美濃国分寺跡・美濃国分寺資料館
まずは衛星写真から
黄色の矢印が中山道。
国分寺跡の北に現在の国分寺があります。
右端には、青墓
平治の乱に敗れて東国をめざす父義朝らとともに、吹山麓の道を歩くうちにはぐれ、青墓に到着した頼朝は、義朝の妾、の長者屋敷に隠れ住んでいました。青墓宿は、当時の美濃の中心地だったのです。
江戸時代には赤坂宿、垂井宿が宿場になっています。
国分寺跡です。
模型と比べてみてください。
聖武天皇の詔で創建された古代の美濃国分寺は、仁和3年(887年)に焼失、その後の再建を経て12世紀末頃には衰退したとされています。
築地跡です。埋め立てたり盛り土をしたりしたところです。
周囲は堀になっています。堀の土を盛って築地とし、回廊を建てたのでしょう。
本堂の跡です。礎石が残っています。
七重の塔の礎石です。
中門(手前)、南大門の跡です。
鐘楼や経蔵がありました。
南宮山が見えます。
関ヶ原の戦いの時には、毛利軍が陣を構えました。
大垣市歴史民俗資料館
民俗資料も豊富です。
このあたりは古くからの交通の要所で、美濃の中心地でした。
いろいろな史跡があります。
続きます。次回は昼飯大塚古墳です。
今回のシリーズは・・・
美濃 見てある記 -1-
美濃 見てある記 -2-
美濃 見てある記 -3-
美濃 見てある記 -4-
美濃 見てある記 -5-
美濃 見てある記 -6-
美濃 見てある記 -7-
美濃 見てある記 -8-
美濃 見てある記 -9-
美濃 見てある記 -10-
その様子をしばらく報告します。
名づけて美濃 見てある記
今回は、美濃国分寺跡・美濃国分寺資料館
まずは衛星写真から
黄色の矢印が中山道。
国分寺跡の北に現在の国分寺があります。
右端には、青墓
平治の乱に敗れて東国をめざす父義朝らとともに、吹山麓の道を歩くうちにはぐれ、青墓に到着した頼朝は、義朝の妾、の長者屋敷に隠れ住んでいました。青墓宿は、当時の美濃の中心地だったのです。
江戸時代には赤坂宿、垂井宿が宿場になっています。
国分寺跡です。
模型と比べてみてください。
聖武天皇の詔で創建された古代の美濃国分寺は、仁和3年(887年)に焼失、その後の再建を経て12世紀末頃には衰退したとされています。
築地跡です。埋め立てたり盛り土をしたりしたところです。
周囲は堀になっています。堀の土を盛って築地とし、回廊を建てたのでしょう。
本堂の跡です。礎石が残っています。
七重の塔の礎石です。
中門(手前)、南大門の跡です。
鐘楼や経蔵がありました。
南宮山が見えます。
関ヶ原の戦いの時には、毛利軍が陣を構えました。
大垣市歴史民俗資料館
民俗資料も豊富です。
このあたりは古くからの交通の要所で、美濃の中心地でした。
いろいろな史跡があります。
続きます。次回は昼飯大塚古墳です。
今回のシリーズは・・・
美濃 見てある記 -1-
美濃 見てある記 -2-
美濃 見てある記 -3-
美濃 見てある記 -4-
美濃 見てある記 -5-
美濃 見てある記 -6-
美濃 見てある記 -7-
美濃 見てある記 -8-
美濃 見てある記 -9-
美濃 見てある記 -10-