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恵那巡り -7-

2025-05-25 07:22:10 | 取材・旅行

恵那巡り -7-

令和7年5月17日、いつものメンバー(積知積徳会)で、恵那市を巡ってきました。その様子を数回にわたってお知らせします。

右下の、旧三宅家・大正村資料館 の場所を確認してください。

今日は 明知城Ⅰです。

明知城(あけちじょう)は、美濃国明知(岐阜県恵那市明智町)にある戦国時代の日本の城(山城)で、別名白鷹城(しらたかじょう)といいます。

可児四城巡り -5- で紹介したのが明智城(長山城)。今回が明知城(白鷹城)。「智」と「知」で区別してください。

訪問前にまとめておきます。

恵那・明知城の歴史的意義 -戦国時代の要衝としての役割-

明知城は美濃国東濃地方に位置し、信濃・三河との国境に近く、交通の要衝として戦略的に重要な山城でした。北には岩村・中山道、東は飯田、南は猿投、足助、岡崎(東海道)、西は土岐と、重要な街道の交差点です。

織田氏と武田氏の勢力争いの舞台となり、戦国大名たちの攻防の中で重要な役割を果たしました。実際に、天正2年正月、明知城を巡っての争奪戦では、諏訪ヶ峯陣城には織田、杉野一夜城跡には武田が布陣しています。上の航空写真をご覧ください。

その具体は、久太郎の戦国城めぐり をご覧ください。おすすめのサイトです。

美濃 杉野一夜城

http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-445.html

美濃 鶴岡山砦(諏訪ヶ峯陣城)

http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-446.html


遠山明知氏の居城としての歴史

鎌倉時代に遠山景重が築城し、以後、遠山氏の居城として地域支配の拠点となりました。戦国時代の後期には、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていました。特に「岩村遠山氏」と「苗木遠山氏」そしてこの「明知遠山氏」遠山三頭ともいい、美濃国東濃地方の中心の一つでした。

1570年から1600年までは、武田氏の攻撃で落城、奪回を繰り返し(後ほど紹介します)まさに激動長篠の戦小牧長久手の戦いとも関連し、まさに戦国時代を象徴するの一つの舞台となりました。

関ヶ原の戦い(1600年)後、遠山氏が復帰し、本丸を大改修して御殿を建て、居住していたことが判明しています。

1615年の一国一城令により廃城となり、山麓に陣屋を移して以降も、遠山氏がこの地を治め続けました。遠山の金さんはその子孫です。

明知城は、戦国から江戸初期にかけての地域支配や領主権力の変遷、防御拠点から居住空間への転換を示す遺跡で、東美濃地方の歴史を語る貴重な存在なのです。


この絵は、故・香川元太郎さんの絵です。画像出典 https://www.city.ena.lg.jp/ena_diary/2021/2021_1/7676.html

山中のいろいろな所で見ました。

次の図(現地の縄張り図)と比べて見てください。方角が逆になっています。

搦め手口から入ります。

恵那の城も可児同様、おもてなしはバッチリです。

この図が本当にありがたい。

説明です。図に東西南北の記載があると、さらに助かります。山城探索には、方位磁針(アプリ)が必要ですね。

竪堀の底を登っていきます。

貯水池がありました。何度も言っていますが、山城は水源が命の綱です。この貯水池は、かなりの大きさです。三浦先生は、最大級と言っていました。

図では、青で着色されているので分かりやすいですね。航空写真では全くわかりません。

樋で1km運び、この池で濾過したそうです。素晴らしい技術です。

この濾過のしくみを考えた人が戦国時代にいたのです。何という知恵!

手前と奥の二つの池(窪み)があります。

腰曲輪です。

ということは、切り岸があります。腰曲輪と切岸はセットです。


虎口です。二の丸への出入り口です。曲げてつくられ、見張り台や門があったと思われます。

二の丸です。

周囲の切岸はかなりの高さです。

本丸への入り口です。

本丸です。図の赤い○です。

やはりこの説明がありがたい。

雨で見にくくなっています。

起こしてみましょう。


本丸
戦国時代の末期、 東濃地域では、織田信長と武田勝頼による争奪戦が繰り広げられました。 明知遠山氏と明知城(白鷹城)がクローズアップされるのはこの時代のことです。
天正2年(1574年) 2月、 勝頼は岩村城から出兵して明知城を包囲しました。 信長が救援に赴く中、 明知城内では飯羽間(いいばま)城主であった遠山友信(とものぶ)が謀反をおこし、 明知城は落城します。この時、城主遠山一行(かずゆき)は、脱出したと伝えられています。
翌年の天正3年(1575年)5月、 勝頼が長篠の戦いで敗れると、武田氏の勢力は東濃から後退し、 遠山一行が城主に復帰しました。
天正10年(1582年)の本能寺の変後、東濃地域は美濃金山城主森長可(ながよし)の勢力下に置かれることになり、翌11年(1583年)には、一行と叔父の利景(としかげ)は徳川家康を頼り、三河に落ち延びています。
天正12年(1584年) 小牧・長久手の合戦では、一行は、家康の命を受け、舅(しゅうと)の延友佐渡守(のべともさどのかみ)とともに緒戦で明知城を落城させました。 しかし、 合戦後、 東濃は森領とされ、 明知城も森氏に明け渡されました。
慶長5年(1600年) 関ヶ原の合戦の際、 明知城は岩村城主田丸直昌(たまるなおまさ)の支城となっており、家康の命を受けた遠山利景・方景(かたかげ)親子は直昌家臣の山川佐之助(やまかわさのすけ)・原土佐守(はらとさのかみ)が守る明知城を攻略、さらに岩村城も落城させました。 この戦功により、関ヶ原の合戦後に利景は明知城に復帰しました。
明知城は、元和元年(1615年)頃に廃城になったと伝えられています。

明知城年表
・宝治元年(1247年) 遠山景重、 明知城築城と伝えられる
・天正2年(1574年) 武田勝頼、東濃に侵攻、 明知城落城
・天正3年(1575年) 遠山一行、武田軍と戦う 利景、旧領を回復
・天正11年(1583年) 森長可、 苗木城を攻略し、この年東濃を勢力下にする
         この秋、長可の圧力のため、 遠山一行 利景、 明知城を退去し、徳川家康の助けを受ける
・天正12年(1584年) 小牧・長久手の戦い 遠山一行、 明知城を奪還。合戦終結後、 東美濃ば森領とされ、一行は退去する
・慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦い 遠山利景・ 方景親子は、田丸直昌より明知城を奪還
慶長6年(1601年) 明知城に遠山利景が入城する
・慶長8年(1603年)遠山利景、 明知6500余石、 40ヶ村の朱印状を与えられる
・元和元年(1615年) 遠山方景、江戸にて屋敷を与えられる。 この頃、 明知城は廃城となったと考えられる。

本丸は、 明知城の主郭で東西50m、南北15m、江戸時代には 「北本城」と呼ばれていました。東端は一段低く、下段の二の丸からの通路が取り付いており、虎口空間となっています。 眺望は良く、周辺の仲深山砦、落合砦、一夜城、 諏訪ヶ根の砦を一望することができます。


この日はあいにくの眺望でした。

東西に細長い曲輪です。

動画です。

【城めぐり】明知遠山氏の居城 明知城 岐阜県【攻略ルート】

次回に続きます。明日は、明知城Ⅱ です。

恵那巡り -1-   -2- -3- -4- -5- -6- -7- -8- -9- -10-


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