
小桜神社の猫(神奈川県三浦市)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
抽象的な話になってしまってごめんなさい。
世の中、依存心や執着心に苦しめられた経験のある人は、
とても多いと思います。
なぜなら、「執着」について扱った本やコラムはよく目にするし、
そんな相談や話も、よく耳にするからです。
では、なぜ「執着」は苦しいのでしょうか。
私が思うに、「執着」の「幸せの形を限定してしまっている」」という点が、
人を苦しめるのではないかと見えるのです。
特定の対象からしか幸せを得られないのだとすれば、
自分の全てはそこに振り回され、挙げ句の果てに執着心に自分をハイジャックされてしまう、
こんなおぞましい構図がそこに出来上がってしまうのです。
これはもはや、本人にいくら幸せを願い、求める心があったところで、
実は「幸せ」と呼ぶにはほど遠い情景ですよね。
なぜ、幸せの対象を限定してしまうのでしょうか!?
なぜ、幸せの対象が10%でも実現できれば幸せなハズなのに、
そこに不幸を見出だしてしまうのでしょうか!?
もちろん、夢や理想は魅力的だからこそ「夢」や「理想」たり得るわけです。
だから、そんな魅力的なものからおいそれと手を放せるものではないかもしれない。
でも、1つや2つの魅力的なものを失ったところで、
新しい夢や理想を描き直せないなら、
それはたとえ理想を手に入れたとしても幸せにはなれないと思うんです。
なぜなら、夢や理想は膨らむもの、
そして、自分に与えられた幸せは小さく見えるものだからです。
「執着」は、執着しているものを手に入れることではなく、
もっと別な形、別な対象に幸せを求めることでしか、
結局は解消できないのです。
「あきらめない」と言うと、
「どんな手を使ってでも、執着しているものを強引に手に入れる」ことと思いがちです。
しかし、私が思う「あきらめない」というのは、
「幸せになるのをあきらめない」ということ。
残念なことがあっても、至らなさを反省し、幸せを描き直せるなら、
1mmでも実現できたそこある理想に、きっと感謝が出来ると思うんです。
自分がとことんまでに幸せになり、
それが利己的なものではない、純粋に他人にもよい影響を与えられるようなエネルギーの状態だとするならば、
いちいち浮気性だとか、そんなに後ろ指を指されることはないと思うのです。
幸せの形はいくつあってもいい。
幸せの形がなければ、自分で作っていけばいい。
そんな姿勢でいれば、
執着心に囚われることもなくなるのではないでしょうか。