青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

私の甲斐性。

2010年09月17日 20時01分36秒 | 雑感、雑記
小石川(静岡県焼津市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 あくまで私の独り言なのですが、
 共感して下さる方がいらっしゃればと思って。

 私は恋人には誠実でありたいです。
 だからこそ、人並み程度であっても優しくありたいし、
 力になれることがあれば、すすんで力を出したいと思っているわけです。

 しかし、私は甲斐性がありません。
 自分をどこか危なっかしいと思っていて、
 それを克服しない限り、相手を道連れにしてしまいます。
 断固としてそれが嫌なのです。
 それがためか、私には「甲斐性なき男は恋愛するべからず」という信念があります。
 以前、甲斐性というものについて私がこのブログでお話しした時に、
 「甲斐性なんてなくたって、精一杯ならいいんじゃない!?」と書いたわけですが、
 対自身の場合、甲斐性なしなんて絶対に許せないんです。

 頼り甲斐がないなんて、なんのために付き合ってるんだという話です。
 安心してもらう、
 甘えたいと思ってもらう、
 苦しい思いをしないでもらう、
 こんな気持ちを持ってもらえないなんて、
 自分の価値がないも同然に思うんですよ。
 優しさなりなんなりって言いますが、
 じゃあ優しさだけで安心できますか、
 ご飯が食べられますか、
 逆に面倒を見てあげるめんどくさい関係になってもいいんですか、
 こんな議論なんて馬鹿らしくてしたくないのです。
 いくら魅力的だとか言われたって、
 「甲斐性なし」という一点で、全ては無にかえります。
 申し訳ないけど自分が情けないから、「お誘い」とかも全部お断りしているし、
 相手の気持ちがなんだろうと自分に嘘をつきたくないので、
 自分に甲斐性が付いたらそこで考えます、ってスタンスでいます。
 まず甲斐性があって、
 その先に優しさなりなんなりがあるんだろうというのが私の考えです。
 甲斐性もないのにたぶらかすなんてありえません。


 女性の側からはあからさまに「甲斐性」なんてさすがに求められないでしょうが、
 だからこそ男性の側で、自分の甲斐性を査定する必要があるわけです。


 もちろん、甲斐性があったらあったら強引になるわ、押し付けがましくなるわ、
 はたまたそれはそれでめんどくさくなることぐらい、
 私もわかっています。
 だいたい、甲斐性をアピールする行為そのものが営業くさくなって嫌われることもわかっています。
 それも含めて、甲斐性のあるめんどくさくない誠実な人でありたいわけです。



 要するに、誠実に向き合おうとすればするほど、
 甲斐性なしの自分とそのまま付き合ってもらうするなんて選択肢がなくなるわけです。
 甲斐性もないのに営業をかけて、不幸に巻き込みたくない、悲しい思いをさせたくない、
 だからこそ恋愛に積極的になればなるほど、
 自分を抑えたくなるわけです。
 誤解なきように言っておきますが、
 この人のためならと「全力」を出したことはありますよ。
 けど、甲斐性なしの私じゃあ命と引き換えになっちゃいます。


 なんだろう、もう恋愛とか無理かもしれない。
 もう慰めなんかいらない。
 自分と戦うしかないです。

浴衣姿もあと少し!

2010年09月17日 19時30分20秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 部屋で浴衣でくつろいでますが…、
 粋で好きなんですが、
 あとちょっとで、浴衣で大丈夫な気温じゃなくなっちゃうんですよね。

 袴とか欲しいんですけど…(笑)
 袴着て、今年東京大神宮でお祓いしたように、
 またどっかでお祓いとかやってもらえたらなあ。

「自信」論。

2010年09月17日 18時32分27秒 | 青裸々日記。
一面の水田(千葉県四街道市)

 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 自信というものは、得てして厄介なものです。
 では、なぜ厄介なのか。
 それは、自信とは「決まった正解がないもの」だからです。

 自信とは、「自分を信じる」と書きます。
 だから自分をしっかりさせましょう、
 成果をあげましょう、
 人に気配りをしましょう
 …という話で済むものではないのです。

 「信じる」ということがいかに難しいかわかっていれば、
 たちどころに「自信」について軽々しく口を叩けなくなるハズです。
 「信じる」というのは、
 不確定のものに対して、希望や予測の通りになることを期待することを言います。
 つまり、目隠しをされても、たとえ手から放しても、
 「そこにある」と思えることこそが、
 「信じる」ということなのです


 そう思えばこそ、自信というものがいかに厄介かが理解できるのではないでしょうか。
 先の話を当てはめれば、
 「自信」とは、自分の価値や性質、長所が「そこにある」と思えることになります。
 しかし悲しいかな、自信というのはたまに人を裏切るものです。
 どんなに「そこにある」と思っていた長所や力があるにせよ、
 いつも必ず絶対に発揮できるとは限らないわけです。
 言い換えれば、誰だって失敗はするし、
 自分の力が十分に生きないことだって、
 いくらでも経験するわけです。
 「自分を勘違いする」というやつです。
 こうして自分に裏切られることで、
 人間は自信を失い、人格が萎縮していくわけです。


 しかし、どうでしょう。

 100%の自信なんて、もはや「自信」と呼べないのではないでしょうか。
 不確定な自分に対して信頼を向けるのが「自信」なのであれば、
 必ずやり遂げるとわかりきっていれば、
 わざわざ「自分を信じる」必要というか、余地はないわけです。

 誰だって裏切られ続ければ、その人を信じるなんて出来ません。
 それは自分であっても同じです。
 しかし、裏切られた人をもう一度信じられた時、
 それは大きな絆になると思うのです

 裏切った相手が自分自身だとしても、です


 どうせ失敗が避けられないのだとすれば、
 「自信は失うもの」だと知っておくことです。
 そもそも、自信がなくなるというのは本当は健全なこと。
 「そこにある」と思ってものがないとわかればこそ、
 修正し、やり直すことが出来るのです。
 「自信を失う」と言うと一見とてもネガティブなことに思えますが、
 なんのことはない、自信を失うのは間違えた方向に進まないための、いわば安全装置のようなものなのです
 そうやって少しずつ信じられる自分、
 自分が見張っていなくてもちゃんと価値や力を発揮してくれる自分を作っていくことこそが、
 「自信を育む」ということになるのではないでしょうか。


 ちなみに。

 過保護の時代、と言われています。
 両親になんでもしてもらえたり、
 挫折を避けるような環境にいると、
 自信は育ちません。
 自分を見失って、生身の自分のどうしようもなさを思い知って、
 そして「自分の力で」獲得するのが自信だからです。
 誰かの庇護があるうちは、自分と向き合うこともありません。
 ゆえに、いつまでも「そこにありますよ」と人に言ってもらっているうちに、
 信じる力が弱くなってしまうのです。
 自分を勘違いし、それが勘違いだったと知り、
 そこからどれだけ自分一人で力を出せるかがわかってこそ、
 「自信」になるのです。
 そこをわかっていない人を見ると、
 どこか危うさを感じてしまうのです。


 いずれにしても。

 絶対の自信というものがない以上、
 自信というものについて考えるには限界があります。
 「自信は時に裏切る」と知っていればこそ、
 安心して自信を持てることもあるのではないでしょうか。

アイ・リンクタウン展望施設

2010年09月17日 07時12分40秒 | 雑感、雑記
 こんにちは。
 今日もありがとうございます。



 昨日、実はお夜景(←最近こんな言い方が好き)を見に行ってました。
 行った先は、市川にある「アイ・リンクタウン」の46階。
 無料で入れる、ステキな展望施設です。

 ただ、展望施設と言えど、やはり高所かつ公共の場所なので、
 つねに警備員がいます。
 ムーディーではありますが、人目につくことは考えておいたほうがいいかも…!?
 ともあれ、本当にステキな景色に、
 言葉も出ませんでした。
 実は、嫌な気持ちを抱えていたんですが、
 それがどこか和らいでいくのがわかりました。


 ただし、写真撮影には向かないかもしれません。
 全面ガラス張りですから、
 つまり写り込み対策をしないといけない、ということになります。
 それが大変なんですねえ。



 それはともかくとして。

 雨とは言えど、
 こんな景色を独り占めできるなんてバチ当たりなので、
 皆さんにご紹介させていただきました。
 ぜひ行ってみて下さい。
 ちなみに場所は市川駅の南口から歩いて2分。
 電車からもあからさまに高いビルがあるが見えるので、
 すぐにわかると思います。

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