ヤマノミ(東京都品川区)
こんにちは。
今日もありがとうございます。
皆さんは、人を愛おしく思ったことはあるでしょうか。
…別に変な意味ではありません。
恋人はもちろん、家族、友達、お世話になった恩人、
こんな人を思うほどに、
「生きている」
「そこにいる」
これだけで幸せになるんですよね。
人間、生きている時の一挙手一投足や、
あるいは、どんな小さな思考も、
それだけで素敵なものなんですよね。
生きているだけで愛おしい。
自分に命があって、息をして、歩いて、物事を考え、
こんなものが当たり前に思ってしまいがちです。
でも、愛おしく思う人が生きていること自体が素晴らしいというなら、
もう少し視野を広げれば、命を持っている生けとし生きているものは全て素晴らしい、ステキだと言えるのではないでしょうか。
恥ずかしい話ですが、
突き詰めて考えれば、人間は「自分自身が生きていること」にどれだけの価値を感じ、
健全な意味で自分を愛おしいと思えればこそ、
他人の中にもそれを見出だせて、幸せを感じられる生き物なのだと思います。
私たちは目まぐるしい毎日に翻弄され、
どうしたって、放っておくと生きている価値を見失ってしまいます。
恋愛がいい例でしょう。
付き合い始めは会えるだけで、一緒にいるだけで幸せなもの。
でも、恋人と言えど元は他人です。
だんだんとケチがついてきて、
ついには「惚れた理由」すら、息苦しくなる原因になったりする場合があります。
でも、最初は無条件に好きだった相手にそんな酷い視線を投げかけてしまうのは、
やはり自分自身も「生きている」ことの価値を見失っている、という側面があるからではないでしょうか。
自分自身に対しても同じです。
隣に自分がいるとして、その息吹を感じられたら、
それに対してどう思うでしょうか。
どんなにダメ人間を自認する人でも、
他人から見れば、その一生懸命に生きる姿が美しく映るのです。
あるいは、捨て鉢で腐っている人だって、
生きている喜びを忘れてしまっただけなのではないかと、私は思うわけです。
どうしようもない現実に心を踏みにじられ、当たり前に思えることに感じられることに、価値を見れなくなってしまうからではないかと。
だから捨て鉢になった人ほど、他人に対しても心を閉ざしてしまうのだと思うのです。
「そのままで価値がある」
「そのままで愛される」
こう言うとなんだかクサいとか、甘やかしだとか、
はたまたそれで安心し切ってしまう人がいます。
皆さんは100万円があったら、
それは大事に有効に使おうとしますよね。
しかし、「生きている」価値を知ればこそ、
それをどう使えばのか、どうしたら生き生きと使い切れるのかを考えたくなると思いませんか。
お金やブランド品、あるいは肩書などステータスは可視化できるものだから、
誰だって魅力を感じやすいのは事実でしょう。
一方で「生命」や「愛情」、「性格」などは、
その人の中にあるうちは絶対に見えない上に、
価値基準、価値観覚が違うだけに、粗雑に扱われがちです。
しかし。
「生きている」
「命をいただいている」
これはみんな一緒。
現実への対処で手一杯なものです。
でも、この価値を噛み締められる人が増えれば、
世の中はどんなに幸せで、前向きに自分自身を伸ばし、磨いていく人も、
それに比例して増えるのだと思いませんか。
こんにちは。
今日もありがとうございます。
皆さんは、人を愛おしく思ったことはあるでしょうか。
…別に変な意味ではありません。
恋人はもちろん、家族、友達、お世話になった恩人、
こんな人を思うほどに、
「生きている」
「そこにいる」
これだけで幸せになるんですよね。
人間、生きている時の一挙手一投足や、
あるいは、どんな小さな思考も、
それだけで素敵なものなんですよね。
生きているだけで愛おしい。
自分に命があって、息をして、歩いて、物事を考え、
こんなものが当たり前に思ってしまいがちです。
でも、愛おしく思う人が生きていること自体が素晴らしいというなら、
もう少し視野を広げれば、命を持っている生けとし生きているものは全て素晴らしい、ステキだと言えるのではないでしょうか。
恥ずかしい話ですが、
突き詰めて考えれば、人間は「自分自身が生きていること」にどれだけの価値を感じ、
健全な意味で自分を愛おしいと思えればこそ、
他人の中にもそれを見出だせて、幸せを感じられる生き物なのだと思います。
私たちは目まぐるしい毎日に翻弄され、
どうしたって、放っておくと生きている価値を見失ってしまいます。
恋愛がいい例でしょう。
付き合い始めは会えるだけで、一緒にいるだけで幸せなもの。
でも、恋人と言えど元は他人です。
だんだんとケチがついてきて、
ついには「惚れた理由」すら、息苦しくなる原因になったりする場合があります。
でも、最初は無条件に好きだった相手にそんな酷い視線を投げかけてしまうのは、
やはり自分自身も「生きている」ことの価値を見失っている、という側面があるからではないでしょうか。
自分自身に対しても同じです。
隣に自分がいるとして、その息吹を感じられたら、
それに対してどう思うでしょうか。
どんなにダメ人間を自認する人でも、
他人から見れば、その一生懸命に生きる姿が美しく映るのです。
あるいは、捨て鉢で腐っている人だって、
生きている喜びを忘れてしまっただけなのではないかと、私は思うわけです。
どうしようもない現実に心を踏みにじられ、当たり前に思えることに感じられることに、価値を見れなくなってしまうからではないかと。
だから捨て鉢になった人ほど、他人に対しても心を閉ざしてしまうのだと思うのです。
「そのままで価値がある」
「そのままで愛される」
こう言うとなんだかクサいとか、甘やかしだとか、
はたまたそれで安心し切ってしまう人がいます。
皆さんは100万円があったら、
それは大事に有効に使おうとしますよね。
しかし、「生きている」価値を知ればこそ、
それをどう使えばのか、どうしたら生き生きと使い切れるのかを考えたくなると思いませんか。
お金やブランド品、あるいは肩書などステータスは可視化できるものだから、
誰だって魅力を感じやすいのは事実でしょう。
一方で「生命」や「愛情」、「性格」などは、
その人の中にあるうちは絶対に見えない上に、
価値基準、価値観覚が違うだけに、粗雑に扱われがちです。
しかし。
「生きている」
「命をいただいている」
これはみんな一緒。
現実への対処で手一杯なものです。
でも、この価値を噛み締められる人が増えれば、
世の中はどんなに幸せで、前向きに自分自身を伸ばし、磨いていく人も、
それに比例して増えるのだと思いませんか。
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