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青裸々日記 Aorara Diary

真面目で一生懸命な人に寄り添うブログです(^^/
あったかい未来が、きっと待っています。

さて、垢抜けしよう(笑)

2011年07月15日 22時56分48秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 サッパリしよう!と思い立ち、垢すりクリームを買ってきました。
 角質や老廃物は、ないに越したことはないですからね。
 気分よく明日を過ごそうかと思います。


 ちなみにパソコンの復旧にはもう少し時間がかかりそうです。
 とりあえずマンガ喫茶に行ってでも…!!

「人を幸せにしたい」。

2011年07月15日 19時21分14秒 | 青裸々日記。
ざくろの花(東京都江東区)

 こんにちは。
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 「私は日頃から、人を幸せにしたいと思っています」。
 こういうことを言っている人を見ると、無条件に「ああ、いい人だなあ」と思ってしまいがちです。
 不幸を願っているよりかは幸せを願うほうが素晴らしいことですから、
 そんな人にもし問題があるとは考えもしない。
 ところが、「人の幸せを願う」というのは、私に言わせれば考え方としては「あと一歩」なんですね。


 ちょっと想像してみて下さい。
 「人を幸せにする」ためには、「相手が不幸」であることが大前提ですよね。
 ところが、人には個性や好みがあります。
 そうであれば、幸せは他人の物差しで簡単に計れるものではありません。
 これらを纏めると、実はとんでもなく傲慢な話にもなりかねない。

 たとえば、味はいまひとつでも友達が一生懸命に作った料理を食べたい人がいるとします。
 そこへ、「大間の鮪(まぐろ)の素晴らしさを味わってもらおう」と、友達の料理を差し置いて食べさせるような人がいたら、どうでしょう。
 まるで「友達の料理を食べることで満足なのに、そんな幸せを否定したりのけ者にする」かのようにも映ってしまいますよね。
 あるいは、自分が好きで描いている絵に、頼まれもしないのに「ここはこれこれこうして書けば、もっと上手くなるよ」と言われたら、
 自分なりのペースやアイデアでやっていく楽しみ、つまり絵を描く幸せそのものだってなくしてしまいかねません。


 おわかりになったでしょうか!?
 「幸せにしたい」という考え方は、独断で「相手が不幸かどうか」を判断して、
 しかも、不幸だと決め付けた相手に、自分の存在を押し売りしてしまう危険があるんです。
 もっと言うと、人が不幸じゃないと自分の存在意義が見いだせない、
 こういったとんでもない構図にも通じてしまいます
 「幸せにしたい」だけで手放しに称賛していると、「人が満足する邪魔をする人」も含まれてしまうのです。

 もちろん、お医者さんとかそういう職業の人なら、それで人が本当に幸せになるし良いかもしれません。
 しかし、あくまで仕事だからこそ問題がないわけで、
 「幸せにしたい」という考えが全ての基本になってしまうと、それと同時にかえって人の不幸や不完全さにスポットを当ててしまうことにもなる。
 不必要に人の不幸を増やしてしまうのです。


 さて、「あと一歩」という書き方をしました。
 同じ「幸せ」なら、「幸せにする」というのではなく、
 「幸せを与える」という考え方でいれば、
 自分を押し売りすることもなくなる
気がします。
 「幸せにする」のなら傲慢ですが、「幸せを与える」なら「要りません」という人がいても、スッと引っ込みが付きます。
 また、人を「不幸かどうか」という目でみることもなくなります
 相手の幸せを喜ぶには、突き詰めると「幸せを与えたい」という目で見ることが絶対なのです。
 間違えても「幸せにしたい」という見方ではありません。


 せっかくの素晴らしい意志も、ちょっとした違いで展開が変わってしまうのです。
 人を立てることが、幸せの基本なのです。

烏森神社

2011年07月15日 06時58分19秒 | 雑感、雑記
 こんにちは
 今日も皆さん、ありがとうございます。



 新橋を歩いていてふと路地を覗いてみると、こんな神社が。
 「烏森神社」という名前で、「烏森」というのはSLが開業した頃には既にあった地名です。
 なるほど御由緒を読んでみるに、歴史ある神社のようでした。


 ちなみにパソコンに不具合が出る前に画像を多めにアップロードしといたんですが、
 これもご利益でしょうか。

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