
『証言 宮澤賢治先生』(佐藤 成著、農文協)によれば
6 岩手山登山
大正十一年から岩手山登山が始まりました。夏休みになると、必ず行くのです。希望者を募って、みんなわらじばきにさせます。花巻から汽車で滝沢に下車、そこから山麓の柳沢に歩き、夜にかけて登ります。天気のよいときは、網張温泉から小岩井農場に下って小岩井駅から汽車で花巻に帰ります。・・・(以下略)・・・(堀籠文之進)
というわけで、賢治は天気のよいときは”鬼ヶ城コース”なのか”お花畑コース”なのかどちらかは判らないが(たぶん、下りることを考えればお花畑コースだとは思うが)、網張側に下りることもあったのだろう。
実際、『宮沢賢治全集 第一巻 月報10』(筑摩書房)には次のような賢治の健脚ぶりが紹介されていて
それにして、もふしぎでならなかつたのは、あの初登山の際における賢治のさつそうたる健脚ぶりであつた。ふだんは、色のなまつ白い、へなへなの坊ちやんで、體操の時間などは、クラス中で一番の劣等者だつた彼が、一度山に組つくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であつたのである。三合目邉りでへばつてしまつた私を後にのこして、「おれは先にゆくから、ゆつくりこいよ」と言い捨てたまま、石ころの急坂をましらの如く登つていく彼の雄々しい後姿を、私は恨めしそうに見送っていた。賢治のへなへなな身體の、一體どこからあんなしぶとい力が湧いてくるのか、私には全く謎であった。
序でながら、私が賢治と岩手山に登った記憶は、もう一つある。それは、同じ年の秋、四、五人の同士が矢繼早に行つた第二囘登山で、この二囘目は、すでに山になじみのできていた私共にとつては、たいへん心易い、樂しい旅であった。私もこれで初めて足に自信がついたのだが、今度の歸路は、山の裏側に下りて、紅葉の岩手山を滿喫し、網張温泉へ一泊して、小岩井農場を廻って歸るという、すこぶる大規模なものであつた。網張へ下る途中で通り過ぎる、何とかという小さな湖水の底知れぬ青さにみせられた感激的印象など、私共はその後何度も何度も、目を輝かせながら、語り合って倦まなかった。
この紹介は、この初登山の際にへばったしまって次の短歌において
這ひ松の
なだらを行きて
息はける
阿部のたかしは
がま仙に肖る
と賢治によって詠まれた、かつての高知大学学長阿部孝による紹介である。
このような詠まれ方をした阿部氏は可哀相な気がするし、阿部氏のエピソードの紹介の仕方はそのような思いが行間から感じ取れる。それはさておいて、第2回目の岩手山登山(明治43年9月23~25日)におけるこの二つの火口湖の神秘的美しさには賢治もいたく感動したらしく次のような短歌を詠んでいて(以前に投稿済み)
石投げなば雨降るといふうみの面はあまりに青くかなしかけりけり。
泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんうみの青のみるにたえねば。
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむあおきものあり。
ということで、このときは網張コースを下山している。
では、網張スキー場からリフトを使って登り、鬼ヶ城を通って不動平に行き、帰りはお花畑へ下るという山行報告をしたい。
網張のリフト乗り場付近には
《1 センブリ》(平成16年9月18日撮影)

《1 ウメバチソウ》(平成16年9月18日撮影)

網張温泉からはリフトに乗って犬倉まで手抜きで登る。姥倉分岐を過ぎた尾根筋の
《1 オオバギボウシ群落》(平成16年7月25日撮影)

《2 エゾニュウ?》(平成16年7月25日撮影)

《3 ミヤマコウゾリナ》(平成16年7月25日撮影)

《4 ヒヨドリバナ》(平成16年7月25日撮影)

《5 〃 》(平成16年7月25日撮影)

《6 ガンジュアザミ》(平成16年7月25日撮影)

《8 ヤマハハコ》(平成16年7月25日撮影)

《9 モミジカラマツ》(平成16年7月25日撮影)

《10 黒倉岳》(平成16年7月25日撮影)

大地獄分岐では大地獄には下りずにそのまま鬼ヶ城コースをとる。しばらくは林の中を通る。
《11 シロバナトウウチソウ》(平成16年7月25日撮影)

《12 エゾオヤマリンドウ》(平成16年7月25日撮影)

《13 クルマユリ》(平成16年7月25日撮影)

《14 マルバシモツケ》(平成16年7月25日撮影)

やがて林を抜け、痩せ尾根と岩場の道となる。
《15 キンコウカ》(平成16年7月25日撮影)

《16 ニッコウキスゲ》(平成16年7月25日撮影)

《17 〃 》(平成16年7月25日撮影)

展望が開け
《18 八目湿原・御苗代湖》(平成16年7月25日撮影)

を見下ろすことができる。
《19イチヤクソウ》(平成16年7月25日撮影)

《20 キレットからの屏風尾根》(平成16年7月25日撮影)

《21 鬼ヶ城稜線》(平成16年7月25日撮影)

鬼ヶ城の稜線には
《22 イワギキョウ》(平成16年7月25日撮影)

《23 〃 》(平成16年7月25日撮影)

鬼ヶ城の南側斜面には
《24 エゾツツジ群生》(平成16年7月25日撮影)

《25 エゾツツジの花》(平成16年7月25日撮影)

《26 〃 》(平成16年7月25日撮影)

いつ見てもエゾツツジの花は気品がある。
《27 チングルマの綿毛》(平成16年7月25日撮影)

もある。南側斜面には今度は
《28 コバイケイソウ群落》(平成16年7月25日撮影)

登山路はこんな
《29 お花畑》(平成16年7月25日撮影)

の中を通ることもあり
《30 ウサギギク》(平成16年7月25日撮影)

が咲き、灌木もあって
《31 ハクサンシャクナゲ》(平成16年7月25日撮影)

が咲いていたり
《32 ミネウスユキソウ》(平成16年7月25日撮影)

も咲いている。
やがて鬼ヶ城は御神坂コースと合流、その付近には
《33 コマクサ》(平成16年7月25日撮影)

が咲いている。
ここからは不動平に下る。そのあたりには
《34 ヨツバシオガマ》(平成16年7月25日撮影)

や
《35 ミヤマカラマツ》(平成16年7月25日撮影)

が咲き
《36 不動岩》(平成16年7月25日撮影)

はすぐそこ。
やがて、不動平に到着する。周りは一面のトウゲブキである。
《37 不動平からの岩手山》(平成16年7月25日撮影)

ここから頂上までの報告は他と重複するので割愛する。
不動平を
《38 千俵岩》(平成16年7月25日撮影)

を眺めながら進む。直に、結構な急斜面を下りることになる。道沿いの
《39 カラマツソウ》(平成16年7月25日撮影)

そして、やっとこさついた”お花畑(八ツ目湿原)”だが、あまり目立つものはなく
《40 トキソウ》(平成16年7月25日撮影)

が見つかったくらいであった。
ここからは大地獄を経て鬼ヶ城分岐へ登り、後は往路を引き返した。
最後に、賢治に関する2、3のエピソードを紹介して「経埋ムベキ山」岩手山の報告を終わりたい。
森荘已一は『ふれあいの人々 宮沢賢治』(熊谷印刷出版部)の「松の木の下で二人野宿」の中で、大正14年5月10日の岩手山麓での賢治と一緒にした野宿について次のように語っている。
「月のない夜だった。あたりは、ほのかに、あかるいので。星あかりというものらしかった。そこらは、岩手山ろく一帯の松林だが、高さは二、三メートルぐらいの松林で、ハツタケとりに来たところだった。手ごろな松を二本えらんで、「ここに寝ましょう」と、賢治は言った。私は驚いた。この人と歩いていると、いつもびっくりさせられていた。驚いている自分がおかしかった。「野宿」は生まれてからいっぺんもしたことがなかった。岩手山の頂上にも、山小屋があって、泊まったことがあった。そのふもとの野原の真ん中で、「ここで寝ましょう」といわれたのだ。「どうてん、びっくり」と、私は、子供のとき、言ったのを思いだした。「あなたのはそれ、私のはこれにしますか」と、賢治がきめた。松の木の下にもぐり込むとき、下枝が、土の上までのびていた。まず水平に寝ころんでから、もぐりこんだ。二本の松が、少ししか離れていないので、二人で、いろいろ話しはじめた。「岩手山ろく、無料木賃ホテルですナ」に、私は笑わされ、いっぺんに楽しくなった。私は盛岡中学校の生徒だから、花巻農学校の賢治の教え子と全く同年配だった。「私たちの身のまわりを、私たちが眠ってしまってから、キツネの家族が幾組もやって来て、『何だかおかしな人間が、眠っているが、まさか猟師ではあるまいな。鉄砲を持っていないからナ』などと話しているかも知れませんよ」などと、童話そっくりな話をして私を笑わせた」
と。
ちょっと変だけど、自然と一体化し、天真爛漫に行動する天才賢治に親近感を覚えてしまう。
次は、『宮沢賢治との旅』(宮城一男著、津軽書房)によれば、賢治には次のようなこともあったという。
同氏(加藤謙次郎のこと)は、賢治との思い出をつぎのように語られた。
「いやあ、賢治と一緒に岩手山に登った(明治43年9月23~15のときのこと)ときは、たしかわしは盛岡中学の五年のときでしたな。賢治は下級生だったわけだ。それに、岩手山ばかりじゃない。私が東北大の地質の学生だったとき、雫石に化石採集にいった。その途中、盛岡でバッタリ賢治に会いましたな。そのまま、学校を休んで、わしの化石とりについてきましたよ。わしは、賢治がそんなに地質学ができたとは思わんが、山歩きは好きだったようですな」
学校をサボることが良いとは言わないが、その当時の盛岡中学にはそれを黙認するくらいの余裕があった、ということか。
最後は、『今日の賢治先生』(佐藤司著 永大印刷)によれば、
1916年6月10日(土)(賢治19歳)
岩手山登山。
保阪嘉内の日記「曇、夕立、同行八人岩手山に向かふ、麓小舎に野宿火を焚きにけり」とあり、萩原弥六の「賢治さんの思い出」で八人の中に賢治もいたと述べている。
1916年6月11日(日)(賢治19歳)
昨日に引き続き岩手山登山中。
保阪嘉内の日記「曇大雨、午前二時半麓発頂上六時着、雪を食ひ木とりて石をとりて裾野を経てかへる」と記されている。
萩原弥六の「賢治さんの思い出」、「俄雨でずぶぬれになり、山小屋で御馳走になったアザミの味噌汁旨かった」とある。
おそらく、このときは柳沢コースを悪天候の下で登ったものと推測されるが、この時期であればこのコースは残雪は多いはず、賢治達の登山には冷や冷やさせられる。
なお、岩手山(2038.2m)が「経埋ムベキ山」に選ばれていることは誰も異存のないことであろう。賢治を山好きにさせたのは他でもないこの岩手山だからである。
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6 岩手山登山
大正十一年から岩手山登山が始まりました。夏休みになると、必ず行くのです。希望者を募って、みんなわらじばきにさせます。花巻から汽車で滝沢に下車、そこから山麓の柳沢に歩き、夜にかけて登ります。天気のよいときは、網張温泉から小岩井農場に下って小岩井駅から汽車で花巻に帰ります。・・・(以下略)・・・(堀籠文之進)
というわけで、賢治は天気のよいときは”鬼ヶ城コース”なのか”お花畑コース”なのかどちらかは判らないが(たぶん、下りることを考えればお花畑コースだとは思うが)、網張側に下りることもあったのだろう。
実際、『宮沢賢治全集 第一巻 月報10』(筑摩書房)には次のような賢治の健脚ぶりが紹介されていて
それにして、もふしぎでならなかつたのは、あの初登山の際における賢治のさつそうたる健脚ぶりであつた。ふだんは、色のなまつ白い、へなへなの坊ちやんで、體操の時間などは、クラス中で一番の劣等者だつた彼が、一度山に組つくと、まるで別人のような勇者であり、英雄であつたのである。三合目邉りでへばつてしまつた私を後にのこして、「おれは先にゆくから、ゆつくりこいよ」と言い捨てたまま、石ころの急坂をましらの如く登つていく彼の雄々しい後姿を、私は恨めしそうに見送っていた。賢治のへなへなな身體の、一體どこからあんなしぶとい力が湧いてくるのか、私には全く謎であった。
序でながら、私が賢治と岩手山に登った記憶は、もう一つある。それは、同じ年の秋、四、五人の同士が矢繼早に行つた第二囘登山で、この二囘目は、すでに山になじみのできていた私共にとつては、たいへん心易い、樂しい旅であった。私もこれで初めて足に自信がついたのだが、今度の歸路は、山の裏側に下りて、紅葉の岩手山を滿喫し、網張温泉へ一泊して、小岩井農場を廻って歸るという、すこぶる大規模なものであつた。網張へ下る途中で通り過ぎる、何とかという小さな湖水の底知れぬ青さにみせられた感激的印象など、私共はその後何度も何度も、目を輝かせながら、語り合って倦まなかった。
この紹介は、この初登山の際にへばったしまって次の短歌において
這ひ松の
なだらを行きて
息はける
阿部のたかしは
がま仙に肖る
と賢治によって詠まれた、かつての高知大学学長阿部孝による紹介である。
このような詠まれ方をした阿部氏は可哀相な気がするし、阿部氏のエピソードの紹介の仕方はそのような思いが行間から感じ取れる。それはさておいて、第2回目の岩手山登山(明治43年9月23~25日)におけるこの二つの火口湖の神秘的美しさには賢治もいたく感動したらしく次のような短歌を詠んでいて(以前に投稿済み)
石投げなば雨降るといふうみの面はあまりに青くかなしかけりけり。
泡つぶやく声こそかなしいざ逃げんうみの青のみるにたえねば。
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむあおきものあり。
ということで、このときは網張コースを下山している。
では、網張スキー場からリフトを使って登り、鬼ヶ城を通って不動平に行き、帰りはお花畑へ下るという山行報告をしたい。
網張のリフト乗り場付近には
《1 センブリ》(平成16年9月18日撮影)

《1 ウメバチソウ》(平成16年9月18日撮影)

網張温泉からはリフトに乗って犬倉まで手抜きで登る。姥倉分岐を過ぎた尾根筋の
《1 オオバギボウシ群落》(平成16年7月25日撮影)

《2 エゾニュウ?》(平成16年7月25日撮影)

《3 ミヤマコウゾリナ》(平成16年7月25日撮影)

《4 ヒヨドリバナ》(平成16年7月25日撮影)

《5 〃 》(平成16年7月25日撮影)

《6 ガンジュアザミ》(平成16年7月25日撮影)

《8 ヤマハハコ》(平成16年7月25日撮影)

《9 モミジカラマツ》(平成16年7月25日撮影)

《10 黒倉岳》(平成16年7月25日撮影)

大地獄分岐では大地獄には下りずにそのまま鬼ヶ城コースをとる。しばらくは林の中を通る。
《11 シロバナトウウチソウ》(平成16年7月25日撮影)

《12 エゾオヤマリンドウ》(平成16年7月25日撮影)

《13 クルマユリ》(平成16年7月25日撮影)

《14 マルバシモツケ》(平成16年7月25日撮影)

やがて林を抜け、痩せ尾根と岩場の道となる。
《15 キンコウカ》(平成16年7月25日撮影)

《16 ニッコウキスゲ》(平成16年7月25日撮影)

《17 〃 》(平成16年7月25日撮影)

展望が開け
《18 八目湿原・御苗代湖》(平成16年7月25日撮影)

を見下ろすことができる。
《19イチヤクソウ》(平成16年7月25日撮影)

《20 キレットからの屏風尾根》(平成16年7月25日撮影)

《21 鬼ヶ城稜線》(平成16年7月25日撮影)

鬼ヶ城の稜線には
《22 イワギキョウ》(平成16年7月25日撮影)

《23 〃 》(平成16年7月25日撮影)

鬼ヶ城の南側斜面には
《24 エゾツツジ群生》(平成16年7月25日撮影)

《25 エゾツツジの花》(平成16年7月25日撮影)

《26 〃 》(平成16年7月25日撮影)

いつ見てもエゾツツジの花は気品がある。
《27 チングルマの綿毛》(平成16年7月25日撮影)

もある。南側斜面には今度は
《28 コバイケイソウ群落》(平成16年7月25日撮影)

登山路はこんな
《29 お花畑》(平成16年7月25日撮影)

の中を通ることもあり
《30 ウサギギク》(平成16年7月25日撮影)

が咲き、灌木もあって
《31 ハクサンシャクナゲ》(平成16年7月25日撮影)

が咲いていたり
《32 ミネウスユキソウ》(平成16年7月25日撮影)

も咲いている。
やがて鬼ヶ城は御神坂コースと合流、その付近には
《33 コマクサ》(平成16年7月25日撮影)

が咲いている。
ここからは不動平に下る。そのあたりには
《34 ヨツバシオガマ》(平成16年7月25日撮影)

や
《35 ミヤマカラマツ》(平成16年7月25日撮影)

が咲き
《36 不動岩》(平成16年7月25日撮影)

はすぐそこ。
やがて、不動平に到着する。周りは一面のトウゲブキである。
《37 不動平からの岩手山》(平成16年7月25日撮影)

ここから頂上までの報告は他と重複するので割愛する。
不動平を
《38 千俵岩》(平成16年7月25日撮影)

を眺めながら進む。直に、結構な急斜面を下りることになる。道沿いの
《39 カラマツソウ》(平成16年7月25日撮影)

そして、やっとこさついた”お花畑(八ツ目湿原)”だが、あまり目立つものはなく
《40 トキソウ》(平成16年7月25日撮影)

が見つかったくらいであった。
ここからは大地獄を経て鬼ヶ城分岐へ登り、後は往路を引き返した。
最後に、賢治に関する2、3のエピソードを紹介して「経埋ムベキ山」岩手山の報告を終わりたい。
森荘已一は『ふれあいの人々 宮沢賢治』(熊谷印刷出版部)の「松の木の下で二人野宿」の中で、大正14年5月10日の岩手山麓での賢治と一緒にした野宿について次のように語っている。
「月のない夜だった。あたりは、ほのかに、あかるいので。星あかりというものらしかった。そこらは、岩手山ろく一帯の松林だが、高さは二、三メートルぐらいの松林で、ハツタケとりに来たところだった。手ごろな松を二本えらんで、「ここに寝ましょう」と、賢治は言った。私は驚いた。この人と歩いていると、いつもびっくりさせられていた。驚いている自分がおかしかった。「野宿」は生まれてからいっぺんもしたことがなかった。岩手山の頂上にも、山小屋があって、泊まったことがあった。そのふもとの野原の真ん中で、「ここで寝ましょう」といわれたのだ。「どうてん、びっくり」と、私は、子供のとき、言ったのを思いだした。「あなたのはそれ、私のはこれにしますか」と、賢治がきめた。松の木の下にもぐり込むとき、下枝が、土の上までのびていた。まず水平に寝ころんでから、もぐりこんだ。二本の松が、少ししか離れていないので、二人で、いろいろ話しはじめた。「岩手山ろく、無料木賃ホテルですナ」に、私は笑わされ、いっぺんに楽しくなった。私は盛岡中学校の生徒だから、花巻農学校の賢治の教え子と全く同年配だった。「私たちの身のまわりを、私たちが眠ってしまってから、キツネの家族が幾組もやって来て、『何だかおかしな人間が、眠っているが、まさか猟師ではあるまいな。鉄砲を持っていないからナ』などと話しているかも知れませんよ」などと、童話そっくりな話をして私を笑わせた」
と。
ちょっと変だけど、自然と一体化し、天真爛漫に行動する天才賢治に親近感を覚えてしまう。
次は、『宮沢賢治との旅』(宮城一男著、津軽書房)によれば、賢治には次のようなこともあったという。
同氏(加藤謙次郎のこと)は、賢治との思い出をつぎのように語られた。
「いやあ、賢治と一緒に岩手山に登った(明治43年9月23~15のときのこと)ときは、たしかわしは盛岡中学の五年のときでしたな。賢治は下級生だったわけだ。それに、岩手山ばかりじゃない。私が東北大の地質の学生だったとき、雫石に化石採集にいった。その途中、盛岡でバッタリ賢治に会いましたな。そのまま、学校を休んで、わしの化石とりについてきましたよ。わしは、賢治がそんなに地質学ができたとは思わんが、山歩きは好きだったようですな」
学校をサボることが良いとは言わないが、その当時の盛岡中学にはそれを黙認するくらいの余裕があった、ということか。
最後は、『今日の賢治先生』(佐藤司著 永大印刷)によれば、
1916年6月10日(土)(賢治19歳)
岩手山登山。
保阪嘉内の日記「曇、夕立、同行八人岩手山に向かふ、麓小舎に野宿火を焚きにけり」とあり、萩原弥六の「賢治さんの思い出」で八人の中に賢治もいたと述べている。
1916年6月11日(日)(賢治19歳)
昨日に引き続き岩手山登山中。
保阪嘉内の日記「曇大雨、午前二時半麓発頂上六時着、雪を食ひ木とりて石をとりて裾野を経てかへる」と記されている。
萩原弥六の「賢治さんの思い出」、「俄雨でずぶぬれになり、山小屋で御馳走になったアザミの味噌汁旨かった」とある。
おそらく、このときは柳沢コースを悪天候の下で登ったものと推測されるが、この時期であればこのコースは残雪は多いはず、賢治達の登山には冷や冷やさせられる。
なお、岩手山(2038.2m)が「経埋ムベキ山」に選ばれていることは誰も異存のないことであろう。賢治を山好きにさせたのは他でもないこの岩手山だからである。
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