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295 三日でチェロを覚えようとした賢治

     <↑『賢治愛用のチェロ』(「サライ2010年7月号」(小学館)より)>

1.大正15年末の滞京
 大正15年12月2日、澤里武治にひとり見送られながら宮澤賢治はチェロを持って花巻駅から東京に向かったという。この上京に関わって、以前触れたように
 千葉恭が蓄音器を売ったその代金三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。
と千葉恭は証言しているわけである。
 そして上京した賢治は神田錦町上州屋に12月29日まで寄宿した。その滞京中の様子は次の政次郎宛書簡
 御葉書拝見いたしました。小林様は十七日辺り花巻へ行かれると存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうにおねがひいたします。
図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積もりで日程を組み間代授業料回数券等などみなさうなって居りましていま帰ってはみんな半端で大へん損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時頃まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰ってきて次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。

   <『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房) 12月15日付宮澤政次郎宛書簡より>
から窺えるように、一日ぎっしり詰まった日課に一生懸命だった上に、さらには観劇、チェロの特訓もしたということになろう。

 なお、この手紙の中の”訪問”の例として挙げられるのが大正15年12月18日または20日の高村光太郎宅訪問であろう。千葉恭の言によれば、同年7月25日には「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから」という理由で一旦白鳥省吾と会う約束をしながら人を介して断ったのだったが、同年12月になるとどうして都會詩人の高村光太郎のところにはわざわざ訪ねて行ったのか気になるところだ。心境の変化があったのであろうか、はたまたそれとも賢治の「考え」が完成したのだろうか。どちらかというと羅須地人協会時代の賢治の思想や規範は光太郎のそれよりは白鳥のそれの方にはるかに近いはずなのに、この対応の違いは何故なのだろう。

2.三日でセロ
 さて、賢治はチェロを持って上京したということだが、交響楽協会でそれを習ったわけではなくてそこで習ったのはオルガンだったという。では、チェロはどこでどのようにして習ったのだろうか。それを教えてくれるのが角川書店の『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』の月報(『昭和文学全集 月報第十四號』)である。
 そこには次のように書かれている。
  三日でセロを覺えようとした人
                                 大 津 三 郎

 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたかはつきりしない。
  …(略)…
 ある日、歸り際に塚本氏に呼びとめられて「三日間でセロの手ほどきをして貰いたいと言う人が來ているが、どの先生も出來ない相談だと言つて、とりあつてくれない。岩手縣の農學校の先生とかで、とても眞面目そうな年ですがね。無理なことだと言つても中々熱心で、しまいには楽器の持ち方だけでもよいと言うのですよ。何とか三日間だけ見てあげて下さいよ。」と口説かれた。
  …(略)…
 塚本氏の熱心さに負けて遂に口説落された私が紹介されたのは三十歳位の五分刈りで薄茶色の背廣の年で、塚本氏が「やつと承知して貰いました大津先生です。」と言うと「宮澤と申します。大層無理なことをお願いいたしまして……」と柔和そうな微笑をする。「どうも見當もつかない事ですがね、やつて見ましょう」と微苦笑で答えて、扨、二人の相談で出來上つたレッスンの豫定は毎朝六時半から八時半迄のに時間ずつ計六時間という型破りであつた。
  …(略)…
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
 三日目には、それでも三十分早くやめてたつた三日間の師弟ではあつたが、お別れの茶話會をやつた。その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので……」とのことであつた。…(略)…
 ウエルナーの教則本の第一と信時先生編のセロ名曲集一巻を進呈して別れたのだったが…(以下略)

     <『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>
 となれば、この体験は『セロ弾きのゴーシュ』などに十分に生かされてはいるのだろうが、賢治のチェロの腕前はそれほどではなかったかも知れない。
 考えてみるに、賢治は思いついたら直ぐに実行する傾向が見られるが、諦めるのも案外早いような気もする。オルガンといいチェロといいその傾向が垣間見られる。それとも賢治にはそもそも器楽演奏の才が乏しかったのだろうか。

 この月報には草野心平の「會へざりしの記」もあり、結構興味深いもののようなで次回はその報告をしたい。
 
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