宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

296 賢治と心平と森荘已池 

2011年02月24日 | Weblog
         <↑『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)表紙>

 では前回に引き続き、『昭和文学全集第十四巻 宮澤賢治集』(角川書店)の『昭和文学全集 月報第十四號』の中より。

1.大農場形経営者?賢治
 宮澤賢治の作品にいち早く注目し、最もよき理解者となり、その支持者となったのが草野心平といわれているようだが、無名の宮澤賢治をいち早く世に知らしめるにあたり、心平の存在が如何に大きかったかということは衆目の一致するところだろう。
 その心平には
 ・「コメ一ピョウタノム」と賢治に電報を打ったことがある。
とか
 ・賢治はアメリカ式の農場を経営していると思い、そこで働かせてもらおう思って赤羽駅から列車に乗ったがそれは新潟行きだったので頓挫した。
というエピソードがあったということを仄聞はしていたが、この後者のエピソードがこの月報に(初出か否かは知らないが)書いてあった。
 それは下記のようなものだった。
  會へざりしの記
                            草野心平

 多分それは大正十五年ではなかつたかと思ふ。もしさうだとすれば賢治が三十歳、私が二十三歳の時だつた。賢治から手紙がきて、北小路幻を「銅鑼」の同人に推薦したいのだがどうだらうかといつてきた。私は北小路というひとを皆目知らなかつたが、敬愛する賢治の推薦なので、私はその人がゐるという本郷の下宿を訪ねていつた。會ふうとそれは、顔のまんまるい二十歳位の年だつた。受驗勉強でもしてゐたのだらうか、絣のつつつぽを着てゐた。その年は後に直木賞をもらつた森荘已池君だつた。
 「銅鑼」といふのは大正十四年、廣東嶺南大學を発行所として創刊された騰冩版刷りの詩の同人雑誌で、私が編輯に當り、賢治はその第三號から同人になつた。同年五・三〇事件で私は日本に歸り、たしかにその翌年だつたらうと思ふ、私が北小路年をその下宿にたづねたのは。
 私はその時はじめて賢治といふ人が不思議な人物だといふことを知つた。今考へてみると滑稽だが、當時はその通りに思つてゐた。森君の話で私は、宮澤といふ人はべートウベンの音楽をきき、作曲もし、お經をよみ、そして農場を自ら經営している、といふ風にのみこんでしまつた。森君の話が少し大ゲサだつたのか、私が勝手に想像してしまつたのか、兎も角そのやうに賢治が他界するまで思ひ込んでゐた。農場といふのは羅須地人協會のことになるのだらうが、當時の私にとつてその農場はトラクターを使用してゐるやうな大きなものに思へてゐた。それは母校の農場がアメリカ式の規模でやつてゐたことのイメエヂが私の脳裡にあつたからなのかもしれない。その宮澤農場が異常な牽引力をもつて、その後私の内部に働きかけてきた。
 森君に會つた翌年、私は父とのいさかひから突如東京を去ることになつた。母にだけ東京からゐなくなることを知らして、私はあたふたと大森の家を出た。途中、矢張り銅鑼の同人だつた竹内てるよがカリエスで死にさうだつたので北澤にゐた彼女を見舞つた。すると彼女はびつこをひきながら逆に赤羽までおくつてくれた。「宮沢賢治追悼」(昭和九年頃版)のなかの「午後八時半の透明」といふ一文をよむと、私が赤羽のホームで賢治の詩を彼女にきかせる場面が出てくる。実はそのこと自體は忘れたが宮澤農場に行つて頼んでそこで働かしてもらふといふ氣持ちだけは決つてゐた。けれどもその時の状態は非常に時間をいそいでゐた。東京を離れることの時間を。そこで私はとりあへず、一番早く出る赤羽發の列車にのることにして時間表をみるとそれは新潟行きだつた。私は佐渡までのして、それから花巻にまはらふとしてゐた。そこへ佐渡の宿屋へ、新潟の「新年」同人から電報がきて、急ぎ東京へかへられたしといふ。そこで私は一と先づ東京にまひもどつた。何れは宮澤農場に行くことを心のおくに秘めながら。
  …(中略)…
 郷里にかへつて(当時は既に妻子があつたので、突如宮澤農場を襲ふ勇氣はなかつた)百姓をやりながら詩もやつてゆく積り……といふ意の手紙を出すと、直ぐ返事がきて、詩とはちがつて農の設計には相当の自信がある積りだから、必要とあれば直ぐにでもとんでつて手傳ふ、といふ意の返事をもらつた。私は躍りたいほどよろこんだ。けれどもこの感謝の氣持ちも泡だつた。
  …(中略)…
 遠くからきてもらつたりしては恐縮だし結果は應援をたのむまでに至らなかつた方がよかつたのだが、その時たのめば病躯でもきてくれたのではないかと今でも思ふ。翌年には電氣ブランの製法などを手紙で詳しく教へてくれた程だから。
 つひに二度の機會もふいになつて、私が始めて賢治の風貌に接したのは、その初七日あたりの佛前に於てであつた。(一九五三・三・一二)

      <『昭和文学全集 月報 第十四號』(角川書店)より>

というものであった。たしかに後者のエピソードは本当であり、また生前結局心平と賢治は相まみえることはなかったということだったのだ。心平はなんと、賢治はアメリカ式大農場〝宮澤農場〟を経営していると勝手に思い込んでいたということのようだ。

 それにつけても心平って人は案外直情径行なところがあったのかなと思うと共に、”森君の話が少し大ゲサだつたのか”と心平が語っていることから、そのとおり森はもしかするとやや針小棒大に語る傾向があったのかなとつい勝手に決め付けてしまいそうだった。

2.森荘已池
 さて、その森 荘已池(もりそういち、本名森佐一(もりさいち))とはどのような人物だったのだろうか。以前にも本ブログにおいて何度かその著書を参考にした『ふれあいの人々 宮澤賢治』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)等によれば以下のとおりである。
 明治40年5月 盛岡に生まれる。
 大正14年2月 盛岡中学4年生のとき宮澤賢治の訪問を受ける。
 大正15年3月 東京外国語大学ロシア語科入学、草野心平、高村光太郎と会う。
 昭和3年3月 病気のため大学退学。
         療養後岩手日報社入社。
 昭和14年6月 学芸部長在職中に退社。
          十字屋書店版『宮澤賢治全集』の編集に従事。
 昭和19年3月 「蛾と笹舟」「山畠」で直木賞受賞。
 平成11年3月 91歳にて没。

 森は盛岡中学4年生の頃、畑幻人、北小路幻はたまた鈴木清三などというペンネームを駆使して岩手日報文芸欄に(時に辛辣な)評論等を投書していた。森が賢治に同人誌「貌」への投稿を依頼したことが切っ掛けとなり二人の親交が始まったという。
 大正14年5月?、盛中5年生の森は賢治に連れられて岩手山麓を彷徨して松の木の下で野宿をしたり、あるときは洋食をご馳走になったり、さらには賢治は森の家に泊まったりもしたという。花巻農学校教師の賢治は10歳ほど年下の盛中生森佐一と親しく交わっていたことになる。
 因みにその頃の
《森荘已池(左)(『年表作家読本 宮沢賢治』(山内治編著、河出書房新社)より)》

である。
 そういえば岩手日報には賢治に関わる記事が生前も没後も多かったと思うが、それは森が岩手日報社の記者であったことによるという推測ができる。二人の親交は賢治の生涯にわたって続き、さらに賢治没後からは彼の作品の紹介に尽力し、賢治作品や賢治に関する文章を多く残しているともいう。

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