宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

207 甚次郎の墓と評価

2009年11月28日 | Weblog
 では、今回は松田甚次郎の実家と墓などについて報告する。

1 松田甚次郎の墓など
【Fig.1 鳥越八幡宮付近の地図】

   <『新庄市報H4,7,7号”土を愛し、土に叫んだ人”』より>
上図の”f”が松田甚次郎の実家で、”g”が松田甚次郎の墓地である。

 では、前に報告した野菜無人販売所のところに戻り、
《1 南方向を見る》(平成21年11月10日撮影)

と道路左手に
《2 植込み》(平成21年11月10日撮影)

が見えるが、そこが
【Fig.2 松田甚次郎の実家】

   <『新庄市報H4,7,7号”土を愛し、土に叫んだ人”』より>
である。この実家には松田甚次郎の姪子さんが住んでいるという。多少お話をお聞きしようと思って訪ねてみたのだが、残念ながら留守中だった。

 そこで、次は松田甚次郎の墓を訪ねようと思い、
《3 道路を挟んで実家と反対側の道”ここ→”》(平成21年11月10日撮影)

から狭い舗装道路を進んで行くと左側
《4 T字路の先に墓地》(平成21年11月10日撮影)

が見える。
《5 墓地は小さな丘の斜面にあり》(平成21年11月10日撮影)

”松田家之墓”というものが幾つかあるが
《6 その墓地の右手最上段》(平成21年11月10日撮影)

に数基の墓石が建っている、この墓地の中では一番広いと思われる墓所がある。
《7 その右側の墓石に”共働”という文字発見》(平成21年11月10日撮影)

《8 松田甚次郎の墓》(平成21年11月10日撮影)

であった。たしかに『鳳祥院円通共働居士』と彫られてあるからである。もちろん、左側に刻まれている戒名は甚次郎の妻・睦子のものである。
 なお、この甚次郎の墓の右下手方向に
《9 刈谷伊兵衛墓(左側)》(平成21年11月10日撮影)

を見つけることが出来た。『土に叫ぶ』の中に
 義民刈谷翁 どこのにもその成立発展に多くの犠牲が土台となってゐるが、この鳥越にもさうした事実が幾つもあつて、今に尚その墓があり、盆と正月にはの人々は焼香し、参拝して居る。その名は刈谷伊兵衛翁で、墓は大きな天然石に「刈谷伊兵衛翁之墓」と刻まれ、村を東に眺めて墓地の一番高いところに村の守護として、永久に祀られてゐる。
   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
と述べられている墓である。その墓の前の落ち葉の中には
《10 墓守?》(平成21年11月10日撮影)

がいた。

 なお、【Fig.1 鳥越八幡宮付近の地図】の中の”h”は以前『土に叫ぶの碑』が建っていた場所だが、既に触れたように今はそこにはないというので行かなかった。また、同図の”i”は
【Fig.3 転坂(うとざか)堤】

   <『新庄市報H4,7,7号”土を愛し、土に叫んだ人”』より>
のある場所なのだが、その近くは道があまり良くないので行くのは大変だといわれたので訪ねるのは諦めた。
 もちろん、この堤は第1回目(昭和2年)に上演された農村劇『水涸れ』が切っ掛けでその約10年後、昭和13年5月に二萬余を懸けて築造した貯水池である。 
 因みに、『水涸れ』の第4幕については
 村の重立つた人の対策協議会だ。川原だ、盛んに議論が出るが、次第に協調へと話がはずんで行く。結論は――お互に水盗みをやり、水番をやり、喧嘩をやる力と時間で、水源近くに貯水池を築造して、春先の雪融け水を貯へておいて、水涸れの季節に流せば問題はない。要は、お互が利己主義で相殺するか、協同で互助するかの精神問題である。お互に幸福をのぞむ以上は、互助協同の旗の下に、貯水池築造に邁進すべきだ――これで最後の幕が静かに下りる。
   <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
というものであったと甚次郎は語っている。これが約10年後正夢になったわけである。

2 新庄ふるさと歴史センター
 ところで実は、今回新庄を訪れた大きな理由は松田甚次郎の足跡そのものを訪ねたかったことが先ずあったのだがもう一つの理由があった。

 というのは、『「賢治精神」の実践』の中に
 『土に叫ぶ』の評価をめぐって
 著書の出版によって一躍有名になった松田に対して、地元の一部の人の中には、松田はジャーナリズムにのった有名人となり、もはやや地域には遊離する存在となってしまった。と批判的な人もいた。
 また松田とともに「山形賢治の会」の創立や運営をともにした同志的な人々の中にも、彼松田を、思いあがりとか、時流にのり、国策におもね虚名を流したなどという人もいた。

  <『「賢治精神」の実践』(安藤 玉治著、農文協)より>
という部分があり、このことがず~っと気に掛かっていた。

 さらには、『修羅の渚』の中に次のような真壁 仁の文章があることを最近知った。
 昭和十三年か十四年に、盛岡の菊池暁輝と鳥越(現新庄市)最上共働村塾の松田甚次郎がやって来て、山形市に賢治研究会をつくる相談をした。相談にのってくれたのは当時山形師範学校教授で日蓮の研究者である相葉伸(現群馬大学教育学部長)と、小学校教師の新関三良(現福島県史編纂委員)らであった。松田君は毎月出て来て研究会に協力してくれたが、賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった。村塾の経営とその自給自足主義や農民劇は賢治の教えの実践とみられるが、しかし時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した。これは賢治には全く見られぬものであった。
   <『修羅の渚』(真壁仁著、法政大学出版局より>
 ああそういことだったのかと得心した。たしか、真壁と甚次郎は一緒に「山形賢治の会」をつくった間柄なはずなのに、この文章からは、真壁は甚次郎のことを”賢治の作品はあまり勉強していると思えなかった”と嘲弄気味に突き放し、一方では”虚名を流した”と蔑んでいるように私には思えた。

 ところが、同著の「あとがき」で川田信夫氏は次のように述べている。
 松田の呼びかけによって、戦前の山形に二つの「賢治の会」ができた。一つは「山形賢治の会」で、もうひとつは「荘内賢治の会」である。「山形賢治の会」の中心になったのが真壁で、一九三九年二月から九月まで、月一回の例会を持っている。賢治の外郭的紹介や芸術の概念的展開は終えたとして、翌年一月に純粋な研究をめざして再興賢治の会を発足させた。その時「宮澤賢治とユートピア思想」と題する研究発表を行っているが、翌二月に治安維持法違反の嫌疑で彼が検挙された後、会は再び開かれたことはなかった。しかし半ば時流に乗せられて賢治の実像から離れていった松田と、(マルキシズムからの転向があったにせよ)本格的に賢治の実像を学ぼうとした真壁らとの決別といった要素を含みながらも、賢治の精神を継承する灯がともしつづけられていたことは、現在の時点で賢治を読む私たちにとっては大きな励ましである。
   <『修羅の渚』(真壁 仁著、法政大学出版局)
 したがって川田氏のこの文章からは、真壁は昭和15(1940)年に検挙されてその後転向、甚次郎は時流に乗せられて賢治の実像から離れてしまい二人は決別していった、ということになろうか。そして真壁は昭和59年に癌と戦いながら、甚次郎は昭和18年疲労困憊の果てに亡くなったということになろう。

 そこで、かくの如き松田甚次郎への評価などが記してある原資料が新庄ならばあるのではなかろうか、それらを見てみたいというのが今回の新庄行きのもう一つの理由であったのだ。

 ついては、新庄ではまず「新庄ふるさと歴史センター」に行ってみた。そこには松田甚次郎に関する資料などの展示があるだろうと思ったからである。
 たしかに、その建物の2階が『新庄市民俗資料館』になっていてそのフロアーに「郷土人物館」というコーナーがあり、そこに松田甚次郎に関する展示(このブログの先頭の写真参照)があった。ガラスケースの中には松田甚次郎の日誌の展示もあって興味深かった(もちろん閲覧は出来なかった)のだが、正直言って思ったよりはその展示資料の量・内容はあまり豊富でなかった。甚次郎は戦意昂揚に協力したと見なされてあまり評価されていないせいなのだろうか。はたまた、(ここ新庄においてさえも)松田甚次郎に関する評価が未だ定まっていないせいなのだろうか。
 そしてこのセンターには期待していた資料は見つからなかったので、次は新庄市立図書館を訪ねてみた。その図書館は、このセンターの近くにあったからでもある。

3 新庄市立図書館
 新庄市立図書館を訪ねてみると、松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあった。

 その一つは、斎藤 たきちの『賢治の心で山形の地を生きて』という随筆であった。その中には
 私は今、甚次郎の生涯の一面を振り返ってみた。それは賢治の思想を原母にして燃え尽くしたひとつの生き方だった、と言うことがいえよう。晩年、日中戦争が深まるなかで国策に協力、戦争賛美者となっていく過去を持つにしても、当時左翼の人々が相ついで転向し国全体の流れが戦争体制へのめりこんでいった時代相を考えるとき、ひとり甚次郎のみを犯罪者と呼ぶことはできない。しかし、賢治のしんの思想を引き継げなかった負の行為もそこに視る。いや、亡き賢治の思想を時代相に接続する苦闘にもまして、周囲にいた小野武夫や加藤完治の行動に影響されて賛同者のなっていたと見るべきだろう。これらの汚れた経歴を抹殺することはできないにしても、賢治と出会い、師として生涯信じつつ生を閉じたその生き方は、今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ、というのが私の甚次郎観なのである。
   <『月刊 素晴らしい山形』1991,12号より>
ということが書いてあった。
 この文章の前半は、私も以前”戦争協力に関して”で述べたような想いと同じであったので少しほっとした。しかし、後半の特に”これらの汚れた経歴”という表現からは、そうか松田甚次郎はこのようにも見られてもいたのだいうことをやはり認識すべきなのだと思い知らされた。最後の”今なお掘り尽くせぬ鉱脈のひとつだ”という甚次郎に対する冷静な見方から判断して、斎藤の捉え方はほぼ妥当なのものなだろうと思えたからである。

 そしてその2つめが『甚次郎とその時代』という、同じく斎藤 たきちの覚書である。
 その中に、結城哀草果の松田甚次郎に関する次のような批判
 「農村の或者がおもいあがって、たまたま農民道場めいたことをはじめると、世人がそれをはやしたててすぐ有名になってしまう。地元の村人は一向関心をもたず、迷惑にさえおもっているうちに、若年の道場主がどんどん名高くなって、恰も救世主のような面をして講演をして歩くようになる。ところが、かかる級の人物は世間に掃くほどおっても、農村におる者が特に目につく、鳥なき里の蝙蝠であるのと、本当に偉い農村人物を見出す目を世人が持っておらぬからである。国の宝となる農民は黙々として働き、村と国を治めてめったに声を大きくしない。三十そこそこの若年者が、生意気に農民道場主とはいったい何事ぞやと、罵りたいことが往々にしてある。かかる事業は、国か県の事業に合流して成績をあげるべき時代になった。」(昭和十四年・アララギ)
  <『地下水19号』より>
をまず載せている。思い起こせば、この結城哀草果という人物は以前”南城振興共働村塾”で登場してきた人物でる。そこでは甚次郎は哀草果に対して一目置いていることが解るが、その哀草果は甚次郎に対して敵愾心すら燃やし、苦々しく思っていたのだということがこの文章から窺える。

 そして斎藤 たきちは続けて次のように
 「農民道場」というテーマで右のエッセイを書いたのは、歌人の結城哀草果であった。たしかに松田の実践は、彼の独創に根ざした思考、実践の産物というよりも、当時、ジャーナリズムの寵児となった、「農民道場」運動の亜流であったように思われるフシがある。しかし何故に農民道場運動がひろがり、その門をたゝく若き農民の多くがいたかは、又別の問題でもあろう。身銭を切って入塾し、汗を流して働きながら、一片の社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらすことは、現実変革の意識と、未来の生活をきりひらくひとつの期待と可能性をそこに賭け、内発的な燃焼の場として位置づけたからに他ならないと思う。
 わたしはそうした意味で、哀草果の言葉に抵抗を感じる。たとえその行為が、稔り少ないものであったにしても、それに青春の情熱をかけた生きざまからわたしは学びたいと思う。

   <『地下水19号』より>
と述べている。斎藤は哀草果の見方を一部認めながらも、その歴史的背景を踏まえなければならないし、迸る若者の想いと情熱を理解してやらねばならぬと哀草果を戒めているようにも思える。

 さらに、斎藤はこの覚書の最後の方で
 「明治、大正を通じて教育方針を仔細に検討すれば、その重大影響に驚くであろう。東北に職を報ずる教師自身が少しく才智の優れたる者と見れば「東北を捨てて都に出でよ、東北にありては絶対に成功の機会は到来せず」と、誰憚らず教えたのである。」という教育が、一般的であった。この現実の実感は、公教育批判から不信へとつながってゆき、「村塾」や「道場」運動創出の下地となっていったことは推察される。
と斎藤の見方を述べている。
 当時の少なからぬ若者が身銭を切ってこの村塾に入塾し、社会的資格の証書すら与えられない場に青春の生き方をさらした背景には、このような教育の本質にも悖る公教育がはびこり、そのことに対する不信感があったためなのだと私は悟らされた。

 なお、この図書館の松田甚次郎のコーナーに次のような画用紙に墨書されたものもあった。
【Fig.4 水五則】

ついうっかりして、その謂れは訊かないままに図書館をお暇してしまった。
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 平成21年は松田甚次郎生誕100年だが、今回の新庄訪問においてその関連行事の名残などは垣間見られなかったし、その行事そのものが公な形で行われた節もなかった。新庄ふるさと歴史センターの職員の方にお尋ねしたところ、甚次郎の評価は未だ固まっては居ないというような話であった。そのせいであろうか。『甚次郎は時流に阿た』というという誹りが未だ残っているせいなのだろうか。しかしはたしてこれでいいのだろうか、甚次郎は再評価されてもいいのではなかろうかという想いにとらわれながら新庄を後にした。

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