下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
誤認「昭和二年は非常な寒い氣候、ひどい凶作」
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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
誤認「昭和二年は非常な寒い氣候、ひどい凶作」
不思議なことに、昭和2年の賢治と稲作に関しての論考等において、多くの賢治研究家等がその典拠等も明示さずに次のようなことを断定表現を用いて述べている。
(1) これまた賢治が全く予期しなかったその年(昭和2年)の冷夏が、東北地方に大きな被害を与えた。
<『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、
翰林書房)、152p>
私たちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏…(略)…で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
<同、173p>
(2) 昭和二年は、五月に旱魃や低温が続き、六月は日照不足や大雨に祟られ未曾有の大凶作となった。この悲惨を目の当たりにした賢治は、草花のことなど忘れたかのように水田の肥料設計を指導するため農村巡りを始める。
<『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)、79p>
(3) 一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった。
<『宮沢賢治 第6号』(洋々社、1986年)、78p >
(4) 五月から肥料設計・稲作指導。夏は天候不順のため東奔西走する。
<『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)の年譜より>
(5) 田植えの頃から、天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた。
<『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)、77p>
(6) 昭和二年(1927 年)は未曽有((ママ))の凶作に見舞われた。詩「ダリア品評会席上」には「西暦一千九百二十七年に於る/当イーハトーボ地方の夏は/この世紀に入ってから曽つて見ないほどの/恐ろしい石竹いろと湿潤さとを示しました/為に当地方での主作物oryza sativa /稲、あの青い槍の穂は/常念に比し既に四割も徒長を来たし/そのあるものは既に倒れまた起きず/あるものは花なく白き空穂を得ました」とある。
<帝京平成大学薬学部准教授石井竹夫の論文〝宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に登場する光り輝くススキと絵画的風景(前編)〟>
(7) 一九二六年春、あれほど大きな意気込みで始めた農村改革運動だったが、その後彼に思いがけない障害が次々と彼を襲った。
中でも、一九二七・八年と続いた、天候不順による大きな稲の被害は、精神的にも経済的にも更にまた肉体的にも、彼を打ちのめした。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)、89p>
(8) 昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)、317p>
つまり、「昭和二年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」とか「未曾有の凶作だった」というような断定にしばしば遭遇する。
しかし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』によって当時の花巻の天気や気温を知ることができることに気付いた私は、これらの断定がおかしいと直感した(巻末の資料《「羅須地人協会時代」の花巻の全天候》参照)。さりながら、このような断定に限ってその典拠を明らかにしていない。それ故、私はその典拠を推測するしかないのだが、『新校本年譜』等を見てみると、
(昭和2年)七月一九日(火) 盛岡測候所福井規矩三へ礼状を出す(書簡231)。福井規矩三の「測候所と宮沢君」によると、次のようである。
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であった」
となっているし、たしかに福井は「測候所と宮澤君」において、
昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて來られていろいろと話しまた調べて歸られた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)、317p>
と述べているから、これがその典拠と言えるだろう(私が調べた限り、これ以外に前掲の断定の拠り所になるようなものは見当たらないからだ)。しかも、福井は当時盛岡測候所長だったから、このいわば証言を皆端から信じ切ってしまったのだろう。
ところが、先の『阿部晁の家政日誌』のみならず福井自身が発行した『岩手県気象年報』(〈註一〉)(岩手県盛岡・宮古測候所)や「稻作期間豐凶氣溫」(盛岡測候所、巻末資料《図表1 「稻作期間豐凶氣溫」》参照)そして、『岩手日報』の県米実収高の記事(〈註二〉)等によって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」という事実は全くないことを実証できる。つまり、同測候所長のこの証言は事実誤認だったのだ。
だからおそらく、常識的に考えて、『新校本年譜』等はこの福井の証言の裏付けを取っていなかったということになろう。また、おのずから、「一九二七(昭和二)年は、多雨冷温の天候不順の夏だった」わけでもなければ「昭和二年は未曾有の大凶作」だったわけでもなかったので、前掲の断定表現の引用文も同様に事実誤認だったということになるから、これらの論考等に於いてこの誤認を含む個所は当然論理が破綻してしまい、修正が迫られることになるのではなかろうか。
なお、この項については、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』において実証的に考察し、それを詳述してあるので参照されたい。
<註一> 福井規矩三発行の『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温と雨量を以下にグラフ化してみると、それぞれ次のような《図1 花巻の稲作期間気温》 《図2 花巻の稲作期間雨量》となるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えず、これは盛岡測候所長福井の誤認であったことが一目瞭然である。それは、その前後の年のデータを比べてみると、昭和2年の場合がその中では一番気温が高いからであり、しかも大
の年だったから「昭和二年は……非常な寒い氣候が續いて」ということはありえない。
言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いであったということを証明している。たしかに人情としては、かつて盛岡測候所の所長だった福井の追想だから信じたくもなるが、人間の記憶はあまり当てにならないということであろう。
<註二> 昭和2年の岩手県等の米の実収高については、昭和3年1月22日付『岩手日報』に載っていて、
本縣米實収高 平年作より八厘増
ということである。
そしてこの新聞報道によれば、昭和2年の岩手県米の実収高は次表【昭和2年岩手県米実収高】の通りであったという。
《図1 花巻の稲作期間気温》 《図2 花巻の稲作期間雨量》
【昭和2年岩手県米実収高】
作付面積 収穫高 反別収穫高
昭和2年 54,904町 1,061,578石 1.9335石
大正15年 53,804町 947,472石 1.7610石
5年平均 53,705町 1,053,120石 1.9609石
ここで、
1,061,578÷ 947,472=1.120
1,061,578÷1,053,120=1.008
となるから、
前年比収穫高は1割2分増
5年平均収穫高では8厘増
であり、たしかに新聞報道通り平年作より八厘増だ。
ただし、反別収穫高で比べると
1.9335÷1.9609=0.986 (作況指数は99となる)
となるので、
県全体としては平年作より0.8%の増収(ただし、実質的な収穫高は減であり、作況指数は99、作柄は平年作)であった。
と判断していいだろう。
そして、稗貫郡とその周辺の郡では
水稲第二回豫想 実収高(粳+糯) 比較増減
紫波 118,887 109,301+9,016=118,317 △570
稗貫 110,881 101,485+9,652=111,137 256
和賀 113,035 100,371+10,949=111,320 △1,715
となっているので、紫波郡や和賀郡は実収高が第二回豫想よりも減っているが、稗貫郡は逆に増えていることがわかった。
これで最終的にも、昭和2年の稗貫地方の水稲は天候等に恵まれていたであろうこと、作柄は前年を結構上回っていたというこがこれで明らかになった。具体的には、稗貫の水稲の前年収穫高は同年10月1日付『岩手日報』の報道から103,890石であることがわかるので、
実収高111,137―前年収穫高103,890=7,247
7,247÷103,890=0.0698
より、
昭和2年の稗貫地方の稲作は実収高で前年と比べて6.98%もの増収であった。
ということが確定できる。
したがって、この昭和2年の岩手県米実収高に基づけば、
岩手県はもちろんのこと、稗貫地方も、「昭和二年は……ひどい凶作であつた」というようなことは決してなかった。
ということがわかる。
***************************** 以上 ****************************
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〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守 電話 0198-24-9813☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』 ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著) ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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