会津八一&団塊のつぶやき

会津八一の歌の解説と団塊のつぶやき!

会津八一 1279

2016-12-14 20:15:42 | Weblog
会津八一に関するブログ 193

救世観音  2011・4・16(土)

 法隆寺夢殿の秘仏救世観音像(飛鳥時代)は聖徳太子等身と伝えられている。明治17年 、この絶対秘仏を開扉させたのがアメリカ人・フェノロサである。
 「もしこれを見なば仏罰たちどころに至り地震たちまち全寺を毀(こぼ)つであろうと抗(あらが)う寺僧を説き伏せて開扉せしめた話は有名である」(吉野秀雄)
 巻かれていた白布を取り除いた東洋美術史家のフェノロサは言う。「飛散する塵埃(じんあい)に窒息する危険を冒しつつ、凡そ五百ヤードの木綿を取り除きたりと思ふとき、最終の包皮落下し、此の驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現れたり」(有賀長雄訳)
 この秘仏が5月18日まで開帳されている。また、救世観音を詠んだ会津八一の歌碑が法隆寺近くの個人の家に建っている。夢殿を訪れこの歌碑に会いに行きたい。

 夢殿の救世観音に   解説

   あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき
          この さびしさ を きみ は ほほゑむ

   (天地にわれ一人ゐて立つごときこの寂しさを君はほほゑむ)


  この歌碑は現在法隆寺に移転されている。    

会津八一 1278

2016-12-13 19:53:54 | Weblog
会津八一に関するブログ 192
 
中宮寺・歌碑 2011・4・8(金)

 奈良に会津八一の17基目の歌碑が建ったのは中宮寺門跡・日比野光尊さんの熱い願いだった。中宮寺は「奈良の古寺と仏像―會津八一のうたにのせて―」新潟展へ本尊の菩薩半跏像の出展を断っていたが、たび重なる災害に苦しむ新潟県民のためにと門跡が許可し、また門跡自身が新潟展開催中に新潟市、佐渡市、長岡市の講演など精力的に活動した。
 そんな中、門跡は半跏像と共に飾られた八一の歌の軸装に惚れ、所望されたそうだが、これは会津八一記念館所蔵の大切なものだからもちろん断られた。それなら、この歌の歌碑を中宮寺に建てたいと願ったことが建立につながった。沢山の人が賛同、寄付し7月8日建立の会発足会議から5カ月弱、11月29日には除幕式が行われた。この除幕式に出席できなかったことは残念なので、早めに中宮寺には出かけたいと思っている。

 中宮寺にて    解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも
 
      (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )

会津八一 1277

2016-12-12 19:58:50 | Weblog
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春日野(八一と健吉の合同書画集) 2011・4・6(水)

 かけてあった薬師寺東塔の書画から久しぶりに若草山の書画に取り替えた。八一が初めて奈良を訪れた時の作だが、緑の若草山が眼に飛び込んでくるようだ。冬が終わり春が来ると自然に奈良に行きたくなる。まずは昨年、中宮寺に建立された八一の歌碑と半跏思惟像に会いに行きたい。

 東京にかへるとて      解説

  あをによし ならやま こえて さかる とも 
       ゆめ に し みえ こ わかくさ の やま

     (あをによし平城山越えて離るとも夢にし見えこ若草の山)

 中宮寺にて         解説

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
        あさ の ひかり の ともしきろ かも
 
     (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも )


会津八一 1276

2016-12-11 20:02:26 | Weblog
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喜光寺の親切 2010・12・20(月)

 先月紹介した喜光寺の会津八一の歌碑を今月3日に見学した。SUも鹿鳴人も建立に寄付しているので思い入れは強い。訪れた午後、強風と冷雨に見舞われ本堂に逃げ込むぐらいだった。歌碑見学後、南大門を出ようとすると受付のある狭い内部に外国人の画家が風雨を避けていた。「境内で写生していた人にあまりの雨と風だったので入っていただいたのですよ」と受付の人が言う。スケッチブックを見せてもらいながら、寺の暖かさを感じた。
 ところで午前中に見学した奈良県立美術館の受付で、いくばくかの質問をしたら学芸員が出張中でお答えできないと言われた。入館者がさほど多くなく忙しそうでもなかったので、「後日返事を」と言う対応でもいいのではないかと思った。努力を怠る公的美術館の末を心配する。
 その質問は新潟の八一記念館に電話で問い合わせて、調べてもらって解決したのだが。

会津八一 1275

2016-12-10 18:18:16 | Weblog
会津八一に関するブログ 189

春日野(八一と健吉の合同書画集) 2010・12・17(金)

 かけてあった十一面観音の書画から久しぶりに薬師寺東塔の書画に取り替えた。もうじきやってくる初春には向かない歌かもしれないが、寒風吹きすさぶ奈良の景色が脳裏に浮かんでくる。この歌や寺の薬師三尊や聖観音が「薬師寺においで!」と言っているようだ。

 薬師寺東塔     解説

  あらし ふく ふるき みやこ の なかぞら の 
        いりひ の くも に もゆる たふ かな  

    (嵐吹く古き都のなかぞらの入日の雲にもゆる塔かな)


会津八一 1274

2016-12-10 00:21:02 | Weblog
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会津八一の奈良 2010・12・13(月)

 初めて奈良を訪れたのは1908年(明治41年)、その時に詠んだ20首の中に「わぎもこ」の歌がある。この時のことを故植田重雄先生は著書「会津八一の生涯」でこう書いている。
「(新潟から大阪へ・・・)八月六日、大阪からただひとり汽車で奈良に向かった。酷暑の天気が久しぶりに崩れて雨が降っていた。奈良駅につくと、さっそく案内記を買い求め、昼の雨の町すじをたどりながら、東大寺転害門(てがい)の近くの對山褸に宿をとった。宿の二階の廊下で店を出している名物屋の女から、通俗的な名勝案内をもう一冊買った。宿の浴衣に着替え、宿の番傘をさして、この案内書をたよりに雨のけぶる猿沢池を散策した。

 猿沢の池にて    解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
        いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら


 天皇の寵を失って悲しみのあまり、この池に身を投じたという采女(うねめ)の伝説が、なぜか身につまされて悲しかったのである。春日野をさまよい、老松の中に鎮(しずま)る朱塗の春日大社をたずねてゆく。さらに、若草山にのぼる。久しぶりの雨に、古都はしっとりと濡れ潤っていた。・・・」
 この對山褸跡地に20年前に作られた天平倶楽部で食事をした。とても嬉しいことだった。

会津八一 1273

2016-12-09 10:39:37 | Weblog
会津八一に関するブログ 187

天平倶楽部 2010・12・12(日)

 奈良のレストラン天平倶楽部は、会津八一が初めて奈良を訪れた時の宿、 對山褸の跡地にできた和風レストランで、敷地内には「子規の庭」を持っている。興福寺国宝館を出て、境内の八一の歌碑を見た後、昼食をここで取った。

 興福寺をおもふ     解説

  はる きぬ と いま か もろびと ゆき かへり 
        ほとけ の には に はな さく らし も

      (春来ぬと今かもろ人行き帰り仏の庭に花咲くらしも)  

 八一は對山褸で粗末な奈良案内を手にする。その中の天皇の寵愛を失った采女の入水を読むとすぐに猿沢の池に出かけた。

 猿沢池にて     解説

  わぎもこ が きぬかけ やなぎ みまく ほり 
       いけ を めぐり ぬ かさ さし ながら         

     (吾妹子が衣掛け柳みまくほり池をめぐりぬ傘さしながら) 

 美味しい食事を食べながら、初めて奈良の地に来た八一の心境をこの歌を口ずさんで思い馳せた。

会津八一 1272

2016-12-07 20:09:01 | Weblog
会津八一に関するブログ 186

奈良・会津八一展 2010・12・5(日)

 東京三井記念美術館で夏に開催された「会津八一の歌にのせて」は仏像と八一作品のコラボレーションだったが、仏像が重点なので八一ファンには不満な所もあった。その点、奈良会場は真正面からの八一作品展示だったので深い味わいがあった。

 奈良博物館にて     解説

  くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
            かげ うごかして かぜ わたる みゆ  


 棟方志功板画や福岡隆聖画に書かれたこの名歌に間近に接することができ、さらにこの歌の歌碑の拓本が同時に見れると言う贅沢である。あれもこれもと食い入るように見つめ、時間の経つのを忘れた。
 この展示会は友人・鹿鳴人のブログに詳しい。ぜひ読んでいただきたいのと奈良に友人があることを心から感謝している。

会津八一 1271

2016-12-06 23:57:56 | Weblog
会津八一に関するブログ 185

会津八一の書 2010・12・2(木)

 初めて見るとびっくりするほど変わった書である。なぜなら、我々が幼いころから「習字」として学習してきた字からは大きくかけ離れているからだ。弟子・故安藤更生(早大教授)が「反抗の書」と言ったのは書道、書道界の常道を踏まなかったことからきている。だが、実際の八一の書は風格のある独創的なものだ。このことこそが彼の書が評価され、愛されてきた所以だろう。実際一作品が何十万円もすることからもわかる。
 この独創の書はどう作られたのか?
 字は伝達の道具であることを八一は強調しながら言う。「・・・字は要するに垂直線である。そうでないところは円の一部のようなものだから、弧のようなものと垂直線と水平線が書ければよろしい。もう一つ必要なことは一定の面積を等しい距離に分割したコンビネーションが一番人のわかる字になる・・・」これは新聞の明朝活字に通じると言う。しかし、書道の常識からは離れている。
 また、膨大な古今の書を収集し眺めながらも真似をしなかった。ある書を見ていてその書の影響を断ち切るために正反対の書を同時に見たと言う。独創はここから生まれた。
 我々が「書道」的に名筆とみなす視点から一度離れて、八一の書を見るとその良さが見えてくるように思う。

会津八一 1270

2016-12-05 20:02:59 | Weblog
会津八一に関するブログ 184

中宮寺 2010・11・29(月)

 今日、会津八一の奈良における17基目の歌碑が建立された。その様子を新潟日報が報じている。

  中宮寺にて   解説
 
  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
          あさ の ひかり の ともしきろ かも    


 この仏(半跏思惟像)の前では思わず正座して、その美しさに見とれ時間を忘れる。多くの言葉、沢山の写真で紹介されるとても有名な仏だ。後日訪れて歌碑の歌を味わいながら、仏を拝観したいと思っている。

会津八一 1269

2016-12-04 19:56:56 | Weblog
会津八一に関するブログ 183

喜光寺 2010・11・27(土)

 喜光寺に、會津八一の奈良16基目の歌碑が10月31日に建立された。大正時代に荒廃した喜光寺を訪れて詠んだ歌である。

 菅原の喜光寺にて    解説

   ひとり きて かなしむ てら の しろかべ に
         きしや の ひびき の ゆき かへり つつ 


 八一の南京新唱は奈良導きの歌集と言われるが、廃仏毀釈以降の荒廃した奈良に対峙しながら、古代への憧憬を詠ったものが多い。さらにその背景には失恋による感傷もある。寺が修理され、春に南大門が再建された現在ではとても当時を想像できないが、12月に友人たちと訪ねる時には大正時代に戻ってみたい。
 八一は自註鹿鳴集でこう言う。
作者が、この歌を詠みしは、この寺の屋根破れ、柱ゆがみて、荒廃の状目も当てかねし頃なり。住僧はありとも見えず。境内には所狹きまでに刈稻の束を掛け連ねて、その間に、昼も野鼠のすだくを聞けり。すなはち修繕後の現状とは全くその趣を異にしたりき。
 吉野秀雄は鹿鳴集歌解にこう書いている。
 『かすかな「きしやのひびき」にもほろほろと土をこぼしそうな、古びた崩れかけた白壁の白さの哀愁である。汽車を点出して、少しも不調和でなく、よく渾熟した詩美を醸している。

会津八一 1268

2016-12-03 20:32:32 | Weblog
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茶室「如庵」と八一の歌 2010・8・28(土)

 三井美術館内には国宝・茶室「如庵」が再現され、普段は茶道具を展示している。「如庵」は織田有楽斎(織田信長の実弟)が京都・建仁寺境内に建てた茶室で、現在は犬山市に移築されている。
 再現された茶室に八一の世界が作られていた。見事な書「学規」は眼前に、奥には歌書「みほとけの」の軸が掛かり、手前に貴重な初版本・南京新唱など歌集が並べられている。仏と八一の作品に囲まれて至福の時を過ごした。

 病閒(第14首) 解説
    また東大寺の海雲師はあさなあさなわがために二月堂の
    千手菩薩に祈誓をささげらるるといふに(第2首)

  みほとけ の あまねき みて の ひとつ さへ  
          わが まくらべ に たれさせ たまへ

   (み仏のあまねきみ手の一つさへわが枕辺にたれさせ給へ ) 

会津八一 1267

2016-12-02 19:30:35 | Weblog
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17基目の八一歌碑 2010・8・20(金)

 新潟で開催された「平城遷都1300年記念 奈良の古寺と仏像 會津八一のうたにのせて」は13万余人の来場者で成功裡に終わったそうだ。会場が八一の故郷であることもさりながら、有名な中宮寺の菩薩半跏像が展示されたことが大きい。
 中宮寺の日野西光尊門跡が新潟に延べ13日滞在し、精力的に活動したことが関係者によって伝えられている。さらに、特筆すべきは門跡が八一の歌碑建立(17基目)を熱望したことだ。その熱意に応えて、800万円の建立資金の募金活動が始まった。

 中宮寺にて     解説 

  みほとけ の あご と ひぢ とに あまでら の 
        あさ の ひかり の ともしきろ かも

     (み仏の顎と肘とに尼寺の朝の光のともしきろかも ) 

会津八一 1266

2016-12-01 19:13:57 | Weblog
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美女 2010・8・6(金)

 30年ほど前に刊行された文芸春秋のグラビア「日本の美女たち」の中に法華寺の十一面観音が載っている。ほとんどが人物の写真や絵であるのに仏像とは珍しい。
 今日、壁の書画を掛け替えた。「春日野(八一と健吉の合同書画集)」

  法華寺本尊十一面観音   解説

   ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に 
          あひ みる ごとく あかき くちびる

        (藤原の大き后をうつしみに相見るごとく赤き唇)