SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

イストワールの現在 その1

2010年01月01日 | Weblog
 去る12月12日の広尾なう、旧フランス大使館庁舎別館で藝大主催のシンポジウム『歴史=物語(イストワール)の現在』が開催された。これは取り壊し前の旧フランス大使館庁舎内で現在開催中の『No Man’s Land』展(1月31日まで)に付属された関連プログラムのひとつであり、もっとも批評的ミライ志向の高いイベントとして、そのネット筋に注目されていたものである。千葉雅也、池田剛介、黒瀬陽平、濱野智史という四人の現役ツイッターが、「歴史=物語(イストワール)の現在」というかくも大きなタイトルに挑んだのである。席に着いた四人の顔には、なにか「未来は僕たちが創る」といった決意のようなものが感じられた。

 シンポジウムの内容を超乱暴にまとめれば、いきなり「歴史イラネ」の濱野、「物語イラネ」の黒瀬、「記憶イラネ」の池田に対して、そうしたセカイ系のさらなる徹底を説く「精神分析イラネ」の千葉の大将が、いきおい「超セカイ系」の叙情を詠いあげて終わるという壮絶なものであった(**)。「ちょwww、超セカイ系ってwww」という黒瀬の困惑した表情が印象的だったが、千葉の大将がトム・コーエンの「気象変動の哲学」を引いてアツく語る「マテリアル・カタストロフィ」の話は、「芸術が終わった後のアート」の想像力について「精神分析イラネ」の超理論で正しく環境分析するためにも重要である。



 思い出すのは、ずっと前にハンブルグで観たダニエル・リヒターの絵画である。ダニエルの絵画(に限らずピーター・ドイグ等に代表される現在の絵画)を観たときに覚える、ある不思議な感覚はいったい何なのか。あるいはそれが千葉の大将の語る「叙情」だとして、それはいったいどこからやってきているのだろうか。

>このとき、コーエン氏がとりわけベンヤミン的な伝統を背景にして強調するのは、今日にあっては、メディア・テクノロジーを通じて増幅されたイメージの効果が、私達の世界の現実を映し出すとともに当の現実そのものを構成しているという根源的な亡霊化の経験である。イメージそのものによる内面化しえない出来事の唐突な侵入を、氏は、2005年のハリケーン・カトリーナが襲ったニューオリンズの水没した家屋のイメージを用いて説明していた。しかしながら、これは、たんに現実に生じた出来事だから重要というわけではなく、まさに「気候変動」による物質的な出来事が、人間の意味理解の外へ超え出る仮借なきイメージの経験--氏はこのイメージの外在化の作用を ex-scription(「外記」や「書き出し」とでも訳せるだろうか)と呼ぶ--として受けとめられるかぎりで、これは、私たちの記憶の下部構造を編成しているアーカイヴへの参照を必須にする、という意味で重要になるのである。(宮崎祐助氏による報告より抜粋)

(続く)